晴山雨読ときどき映画

“人生は森の中の一日”
山へ登ったり、本を読んだり映画を観るのは知らない世界を旅しているのと同じよ。
       

桜庭一樹著「赤朽葉家の伝説」

2008年07月13日 | 
桜庭さんは『私の男』で前回の直木賞を受賞しているが、父と娘の禁忌を描いた衝撃的な内容という触れ込みだったので、私はまったく手にする気がなかった。
でも『少女には向かない職業』を読んで、思春期の少女を描かせたら彼女の右に出る者はいないだろうと思ったのだ。彼女の生み出す女達には不思議な魅力が宿る。やはり女性は女の手で描いてこそ本物。男性作家が描く女性像には勝手な願望が入ってたりして嘘っぽいと感じてしまうのは私だけじゃないはず。

「赤朽葉家の伝説」も直木賞にノミネートされた作品らしい。
鳥取の旧家に生きる3代の女たち、そして彼女たちは不思議な一族の血脈を持っているという設定だ。「山の民」(サンカ)に置き去られた赤ん坊。この子は村の若夫婦に引き取られ、のちには製鉄業で財を成した旧家赤朽葉家に望まれて輿入れし、赤朽葉家の「千里眼奥様」と呼ばれることになる。これが、祖母である赤朽葉万葉だ。千里眼の祖母、漫画家の母、そしてニートのわたし。高度経済成長、バブル崩壊を経て平成の世に至る現代史を背景に、それぞれの時代に女達が果敢に生きる。

国家を信ぜず、家族をつくろうともしないそんな時代がやってくるような不吉な予感に万葉は震えた。

1部 1953年~1975年 最後の神話の時代    赤朽葉万葉
2部 1979年~1998年 巨と虚の時代      赤朽葉毛毬
3部 2000年~未来  殺人者         赤朽葉瞳子
 
            


桜庭一樹さんの言葉より

平和な時代でも、恵まれた世代でも、関係なく、生きてさえいれば苦悩は存在すると思います。だけどもわたしたちはいま、そのことを、世代のちがう相手に伝えあえないでいる気がする。父母の世代の、見えざる苦悩に思いを馳せ……、自分の世代を代弁せんと考えこみ……、もっと年若い人たちの息苦しさももちろん……、わたしは小説家としてなんとか表現したいと思いました。みんなが感じているけれど、いまだ言葉にされて「形」を与えられていない感情。それを「物語」にして提示するのが、小説家の大事な仕事の一つなのではないか、とも考えました。『私の男』は、言葉にされて「形」を与えられたことのない、しかし時代や世代に関係なく誰の心にも巣くっているはずのある「苦悩」、つまり異性の親や子に対する、人間のエゴイスティックな慕情について、提示せんとした作品です。わたしはこのテーマを描こうとしたとき、反道徳的であることや批判を恐れず、小説家が社会に対してできる仕事をしたい、と考えました。

受賞作『私の男』を読んでみようかな。

他の小説でもよく登場するサンカに以前から興味を持っている私だが、伯耆大山に登りたくなった。弔いのサンカの人々を呼ぶために焚く植物や、鉄砲薔薇は果たして存在するのだろうか?彼らにいつかどこかの山で出会えるかもしれない・・・。

『サンカ』とは
古代から変わることのない深い伯耆の森に今もまだいるのだろうか、あの人たちは。民族学者たちにサンカ、ノブセ、サンガイと呼ばれるあの人たち、山の人たちは。いるのかいないのか、誰にも分からない。国を支える労働者ではない。税金も納めない。社会をつくらない。ただ在る。国家から見ればまるで透明人間のような、流れていくだけの人間達。               
                               小説より


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