愛詩tel by shig

プロカメラマン、詩人、小説家
shig による
写真、詩、小説、エッセイ、料理、政治、経済etc..

風がささやく

2016年12月18日 16時02分33秒 | 小説

Seasun_2 


先ほどから海を見つめていた。 

正確には海の上にかかる、色づいてきつつある雲を見ていた。
日本海を行くフェリーのデッキで、東の空に昇る朝日をとらえようと、
CANON EOS1Dを構えていた。

やがて、雲の上に太陽が顔を出した。
太陽に合わせると、暗く写るので、周辺の雲に露出を合わせ、
シャッターを押し続けた。

太陽が雲の上に完全に姿を現すと、カメラを下し、ピアニシモに火を点けた。

「美しいわね」

後ろから声がした。
振り返ると、20代後半と見える女性が立っていた。
美しい人だった。

「うん、そうだね、いつ見ても船から見る朝日は素晴らしい」

「何度もこのフェリーに乗ってるの?」

「うん、写真家だから。夏の北海道は被写体にあふれてる。
車に写真機材を積み込んで、広大な大地を走る。君はライダー?」

「まさか、オートバイなんか乗れないわ。乗り物は2本の足だけよ。それと、列車」

「へえ、で、どこに行くの?」

「まだ決めていないわ。とりあえず、このフェリーが着く小樽を散策する予定。そのあとは未定」

「客室は何等?」

「2等よ。節約しないと」

「夕べはよく眠れた?2等だと大部屋だから落ち着かないんじゃない?」

「そうなの。人がごそごそして、ほとんど眠れなかった。たまらなくなってデッキに出たら、朝日の時間だったってわけ」

「だろうね。だから僕はいつも1等和室をひとりで取っている。プライバシーが保てるし。
寒くなってきたね。よければ僕の部屋でコーヒーでもどう?簡易ドリップだけど」

「え?いいの?じゃあ、頂こうかしら」

僕の部屋でモカを一口飲んだと同時に、彼女は大きく息をはいた。

「ほっとするわ。どうもありがとう。私、瞳です。高橋瞳」
「よろしく。僕は卜部俊兼」

「卜部?占い師の子孫かしら」

「よく知ってるね。平安時代に卜占(きぼく)という占いを朝廷でやっていた。先祖は島根県隠岐の島の出身だ」

「じゃあ、あなた占いができるの?」

「まさか。今は長崎県の対馬の神社で年に一度行うくらいだよ。
亀の甲羅に熱した木を押し付けて、出来たひびで占う。京都では鹿の骨も使ったらしい。
でも、僕はそんなことはできないし、写真を撮る人だから」

「今回はどこに撮影に行くの?」

「地平線の見える大牧場」

「地平線?どこで見れるの?」

「標茶町。釧路の少し南にある。展望台から360度地平線が見える。日本ではそんなところはほとんどない。すごい光景だよ」

「へえ、行ってみたい」

「一緒に行くかい?助手席は空いている」

「ワォ!でも、迷惑じゃないかしら」

「ロングドライブだから、だれか話し相手がいれば、居眠り運転しなくて済む。大歓迎だ。
じゃあ、まず小樽を見て、それから標茶へ行こう」

「楽しみだわ。とてもラッキー。デッキに出てきてよかったわ」

「僕もだ。こんな美しいナビゲーターと出会えるなんて」

「お上手ね。美しくなんかないわ」

「いや、美人だよ。それはそうと、小樽のホテルはどこ?」

「まだ予約してないわ。着いてから探そうと思って」

「夏の小樽はどこも満員だよ。それに高い。僕の予約してあるホテルは穴場なんだ。安くて清潔。
基本的には身体障害者のためのホテルなんだけど、一般客でも泊めてくれる。着いたらシングルに空きがあるか聞いてみよう」

「ありがとう。助かります」

「いいんだ、着くのは夜だ。少しここで眠ったら?」

「とても気がつく人なのね。実はとても眠いの」

彼女は横になった。すぐに寝息を立て始めた。
僕は彼女に毛布をかけ、可愛い寝顔を見ていた。
あてなく北海道をひとり旅しようとしていたこの人は、いったいどんな事情を抱えているのだろう?
などと考えながら・・

2.

瞳は船が小樽港に近づくまで眠り続けた。

「ボ~~!」

大きく汽笛が鳴った。その音で瞳は目を覚ました。

「もうすぐ着くよ。荷物を取っておいで」

「はい」

そういいながら、瞳は窓の障子を開け、小樽の灯を見つめていた。

その後ろ姿はなんだか哀しげだった。

僕は黙ってそれを見ていた。

 

車両甲板の出口にほど近い場所に、グリーンのオペル・アストラが停めてある。

トランクを開け、瞳の荷物を積み込んだ。

「わあ、これ、みんな写真機材なの?」

「うん、アナログの中型カメラも入っているからね。ポスター大に伸ばすには最適だ。

それに、銀塩写真はデジタルに比べて発色が違う。」

「私には理解できない言葉だわ。でも、プロだというのは分かった」

「あはは。あまり有名じゃないけどね。さあ、助手席に乗って」

フェリーが接岸する振動が伝わった。下船口が開き、バイクが先に飲み込まれていった。

スタッフが手招きしている。スターターを回し、サイドブレーキを下し、ギアをDに入れた。

小樽はすっかり夜だった。5分もかからずにホテルに着いた。

フロントでシングルの空きがないか尋ねると、フロントマンが答えた。

「ラッキーですね。さっきキャンセルが出たんです」

「お、ついてる。旅の始まりは上々のようだね。荷物を置いて車で集合だ。

夕食を食べにこう」

 

なじみの小さな鮨屋ののれんをくぐると、大将が顔をほころばせた。

「らっしゃい。また、1年ぶりだね。お、美人の奥さんをもらったね」

「違うよ。今日、フェリーで出会ったばかりだ」

大将はにこっとしただけで、鮨を握り始めた。

 

鮨屋を出るまで、瞳は無言だった。

「すごい。とても美味しかった。味に圧倒されて何も言えなかったわ。大阪とは大違い」

「え?君大阪なの?」

「そうよ。あなたもでしょう?」

「言ったっけ?」

「車のナンバーが、『なにわ』じゃない。わかるわよ」

「なるほど。降参だ。さて、運河でも歩くかい?」

「もちろん。小樽の目当てはそこだけだもの」

 

観光スポットになっている橋の付近は駐車できないので、少し北に走ったところで停めた。

「小樽も観光化されたから、昔の運河の風情はこの辺しか残っていない」

僕の言葉に頷きながら、瞳は運河に映った街灯の光と古い倉庫をぼんやり見ていた。

その間、僕は三脚を立て、レンズを交換しながら、何ショットかカメラに収めた。

撮影が終わっても、瞳はまだ運河を見たままだった。

「そろそろ行こうか?明日は早起きして、素敵なところへ案内するよ」

名残惜しそうに振り向いた瞳の目が濡れたように光っていた。

 

翌朝7時にホテルを出発した。僕は石原裕次郎記念館のパーキングにアストラを停めた。

いい具合に空は晴れ上がっていた。

「まだ、開いてないんじゃない?」

「うん。目当ては外にあるんだ」

僕は瞳を裕次郎のヨットが見上げることのできる場所に瞳を導いた。

そして、カメラを空に向け、シャッターを切った。

そして、撮ったばかりの写真をカメラ背面の液晶に呼び出し、瞳に見せた。

「わぁ・・・この写真、どうなってるの?まるで海の底のヨットから見上げてるみたい。

上の光は太陽よね。どうしてこんなふうに写るの?」

「いちおう、プロだから」

瞳は液晶と実際の空を何度も見比べていた。

「ヨットと太陽。青い空。旅立ちにふさわしいね」

「素晴らしい体験をありがとう。人生が変わりそうだわ」

「大げさだな。これからもっと素敵なシーンを見ることになる。さ、行こう」

Sail

 

3.

札樽自動車道までは10分もかからなかった。

札幌ジャンクションで道央道に乗ったところで、瞳に尋ねた。

「地平線の見える大牧場に行く前に、富良野に立ち寄る予定なんだけど。

構わないかな?」

「もちろん。まったく計画のない旅だから」

「よかった。それと、泊まりはファーム・インといって、農家が経営する宿なんだけど。

そこのコッテージを取ってある。寝室は2つあるから、一緒でいい?襲ったりしないよ」

「大丈夫。信用してるわ。卜部さん紳士だもの」

「紳士とまでは言えないけど、分別はあるほうだ」

そのとき、BMWのオープンカーが横につけた。

若い男で、走り屋って感じだ。ニッと不敵な笑いを見せて、急加速した。

「ねえ、ちょっとスピード上げるよ。挑戦されては黙っていられない」

「大丈夫。負けないで」

僕はシフトレバーの上にある、Sボタンを押した。

オペルに付いている、スポーツモードだ。押せばオートマでも加速性能が発揮される。

アクセルペダルを目いっぱい踏み込むと、背中がシートに強く押し付けられた。

アストラはぐんぐん加速し、遥か前方のBMWがあっという間に近づいた。

BMWを抜き去るとき、走り屋の男はびっくりしたような顔をしていた。

「すごいわ。これ、スポーツカーなの?」

「まさか。普通のセダンだ。ドイツではサルーンと呼ばれてるけど。

ただ、この車は特別に生産されたうちの1台で、高速で稲妻のように走る。

エンブレムの稲妻のマークは伊達じゃない」

1時間ほどで高速を降り、田舎道を通り越し、山間部を走る。

小さな滝で休憩し、やがて富良野市街に入った。

渋滞を避け、農道を走る。ほどなくファーム・インのコッテージが見えてきた。

コッテージの前にアストラを停め、エンジンを切った。

向いにある建物がオーナーの家だ。チャイムを鳴らした。

奥さんが出てきた。

「卜部さん、いらっしゃい。鍵は部屋にあります」

「どうも。それと、二人で泊まります。あと、夕食なんですが二人分用意お願いできますか?」

「はい、分かりました。いつものですね」

僕は頭を下げ、車に戻り、瞳をコッテージに案内した。ログハウスだ。

「わあ、カントリーハウスね。とても素敵だわ」

「ここはリビング。2階が君の部屋だ。荷物を置いたら外に出ておいで」

僕は瞳を裏の畑に案内した。瞳は息を呑んだ。

「わあ、ひまわり畑。圧巻ね」

僕はカメラを構え、ファインダーを覗くなり、すぐにソフトフォーカスレンズに交換し撮影した。

その間、瞳は一面に広がったひまわり畑に見入っていた。

瞳を畑から引き離してリビングに戻り、カメラをケーブルでテレビにつないだ。

そして、さっき撮ったばかりのひまわり畑を画面に映した。

瞳は「え?!」と声に出した。

「これ、さっきのひまわり畑?なんだかファンタジックに写ってる」

「うん、幾つか傷んだ花があったから、ソフトフォーカスレンズを使って分からないようにした」

「ふうん、これがプロの技なのね。納得」

「ひまわりって、日に向かう葵って書くよね。今の君にはそんなパワーが必要かもしれないね」
 

 

4.

「パワーが要る?どういう意味?」

「君に会ってからずっと、表情に翳りが見える。

事情があっての一人旅なんだろ?僕でよければ聞くよ」

「・・・そうね。卜部さんになら話してみたい気がする。愚痴でもいい?」

「もちろん」

「端的にいうと、何もかもが空しいの」

「仏教の考えによれば、空しさを知ることは一つの悟りだと思うけど」

「そんないいもんじゃないわ。わたし、子供の頃から勉強がよく出来た。神童とか呼ばれたこともある。

大阪大学に在学中に公認会計士の資格を取ったわ」

「すごいじゃない」

「でも、そこまでが私の黄金時代。卒業して大手の会計事務所に入ったとき、すべてが崩れた。

賢い娘だとちやほやされていた時代は終わり。

やる気はあったのよ。『みてろ』なんて。

ところが、会計事務所では私は劣等生。

同期も含めて周りは皆とても賢く、仕事ぶりもすごい。あっという間に自信喪失。

で、『バーン!!』

私の心の中で何かが壊れちゃった。

やってきたのは不安と不眠。1か月休んだ。

クリニックでくれた薬で眠れるようになって復帰したけど、同じこと。結局会社辞めたわ。

そんなとき、クライアントの一人が優しくしてくれて親しくなったの。

で、3ヶ月後に結婚。

私には仕事は向いてなくて、家庭でのんびりするのが幸せと信じた。

でもね、それは最初だけ。すぐに嫌になった。

私は家政婦じゃない。有能な人間なんだ。ここにいちゃいけないって。

結局、半年で離婚。彼には悪いとは思ったけど、限界だった。

ワンルーム借りて、税理士事務所で働いてた。でも、やっぱり仕事、つまらないのよね。

先週、退職願を提出したばかり。まだ席はあるけど、有給消化中。

で、今ここにいる。

私はね、きっといつも探しているんだわ。真の幸せを」

「君の気持ち、よく分かるよ。真の幸せか。ひょっとすると、この旅でそれが見付かるかもしれないね。

夕食の用意が出来たようだ。食べよう」

僕らはバルコニーテラスでバーベキューを楽しんだ。

 

翌朝6時半。僕らはアストラのシートにおさまっていた。

走りだして10分で、ファーム富田のパーキングに到着した。

そして、「彩りの丘」と呼ばれる場所まで歩いた。

 

開いて間もないラベンダーは濃く鮮やかで、他の花たちとのストライプ模様が美しかった。

僕が撮り終わるや、瞳は言った。

「なんて・・・まるで絵ハガキの中に舞い込んだみたい」

 Lavender

 

5.

Roll 

ファーム富田をあとにし、なだらかな丘陵地帯を西に向かって走っているとき、瞳が「あ、停めて」と言った。

「どうしたの?」

「ほら、左」

「ああ、富良野特有の景色だ。牧草ロールがあるね。降りるかい?」

「うん。いいかしら?」

「もちろん」

瞳が先に車から降りた。

僕はハザードボタンを押し、後方車に注意しながら降り、トランクからカメラを取りだした。

「雄大な景色ね」

「そうだね、富良野の景色の美しさは、自然と人間との共同作業と言える。

ここは昔はただの山だった。道さえ無い。

開拓民がここ富良野に来て、切り開いていったんだ。

重機のない時代、彼らは人力だけで木を倒し、根を掘り起こし、膨大にあった大きな石を運びだした。

すごいことだよね。頭が下がる思いだ。

昨日泊まったファーム・インの裏には、オーナーのおじいさんが掘り出した切り株が置いてある。

人の営みはどこかに刻み込まれる。それは、歴史と呼べるかもしれない。

君の今までの人生も何らかの形で残されているだろう。それは、誰かの心の中にあるかもしれないし、

忘れてしまっているだけで、どこかで今も君を待っている何かかもしれない。行こうか」

「はい」

 

ロングドライブが始まった。

シーズンだから交通量は少なくない。でも信号がほとんど無いので60km/h位で流れている。

単調なドライブだから、瞳が横にいてくれるお陰で眠くはならなかった。

今度は僕が自分のヒストリーを話す番だった。

僕はいじめられっ子だった子供時代から始まって、

今のフォトグラファーになるまでの40年間について、瞳に話した。

「ふうん。卜部さんも離婚経験者なんだ」

「まあ、皆それぞれの歴史を背負って生きているってことだよね。もう弟子屈(てしかが)に入った。

晩御飯はラーメンでいいかい?去年見つけたんだ」

「もちろん。そういえば北海道に来て、まだラーメンを食べていないわ」

瞳はしょうゆを、僕はみそラーメンを注文した。

「美味しいわ。さすが北海道」

「有名な店ほど美味しくない、という事実は哀しいね。

ここは店主が頑固で他に店を出さない。自分以外の人間が作れば味が落ちるって」

「そうよね。北海道の有名店が大阪にもあるけど、行くとがっかりしちゃう」

「さ、行こう。もうこんな時間。今日の泊まりはすぐ近くだ。昨日シングルを二つ予約しておいた」

 

弟子屈シティホテルは、小さいけれど、2年前にオープンした、小ぎれいなホテルだ。

フロントでルームキーを受け取って、エレベーターで4Fに上がった。

「ここが君の部屋。406号室。僕は隣の408。では、明日8時にノックする。

いよいよ、地平線の見える大牧場だ。ゆっくり休んでね。おやすみなさい」

「楽しみだわ。きっと素敵なところね。はい、おやすみなさい。」

 

6.

Chiheisen

6時30分。僕らは地平線の見える大牧場のパーキングにいた。

コンビニで買ったパンと牛乳を車内で食べたあと、なだらかな坂道を登っていった。

すぐに、木造りの展望台が見えてきた。

階段を昇る。

いつ来ても、一種特別な気持ちにさせられる。見渡す限り、360度の地平線。

瞳はゆっくりと、何度も立つ位置を変えながら、東西南北の地平線を見ていた。

やがて、展望台の手すりに体を預けながらつぶやいた。

「本当に日本なの?人工のものは何も見えないわ。信じられない」

風が吹いてきた。目をファインダーから外し、僕は言った。

「風は見えない。だから写真には写らない。でも、感じることはできる。

僕は風が何らかのメッセージを伝えてくると信じている。

自然の中で撮影していると、何かが聞こえるような気がするんだ。

下のレストハウスに行ってみよう。

レストハウスのレジの横には、CDが重ねて置いてある。隣には、

「『地平線の彼方に』大牧場ゆかりの方の作成したCDです。ご自由にお持ちください」とある。

「貰っていいのかしら?」

「もちろん」

「聞いてみたいわ」

「OK。車のオーディオで聞こう」

アストラに搭載したBOSEのパワーアンプとスピーカーから、優しく語りかけるような歌声が流れてきた。

 

もしかして 幸せに 出会えるかと
はるばると この丘を
目指して旅してきた
なのに今 地平線の見える丘に立ち
なくしてしまった もの達を想い出す
求めるものは そんな遠くに
あるんじゃないと 声がする
ほら そこ
君の足下を 見つめてごらん
風が 囁く 雲が 微笑む
丘が優しく包む

後悔なんか していない したくない
だからただ この丘を
目指して旅してきた
そして今 地平線の見える丘に立ち
別れてしまった あのひとを想い出す

求めるものは そんな遠くに
あるんじゃないと声がする
ほら そこ
君の目の前を 見つめてごらん
風が 囁く 雲が 微笑む
丘が優しく包む

ごらん今 陽が沈む
地平線の彼方に

ごらん今 陽が昇る
地平線の彼方に

 

瞳はCDを聞いているうちに、ハンカチを取り出し、目と鼻にあてた。

「どうしてなの?涙が止まらない。ねえ、もう一度展望台に行っていい?」

再び展望台に立った瞳は地平線を見つめ、足元を見つめ、そして僕を見た。

「大切なものって、失って初めて気づくっていうけど、本当にそうなのね。

私って、幻想を追っていたんだわ。だから、目の前の幸せに気付かなかった。

もう、過去には戻れない。失ったもの、自分から捨てたあの人・・」

瞳はまた大粒の涙を落した。今度は拭おうともしない。

「別れたご主人に連絡してみたら?」

「できないわ。再婚して、子供もいるのよ。それに、私はもっと素晴らしい人を見付けた」

「え?そうなんだ」

「あなたよ」

「・・・まさか」

「風がささやいたの。目の前を見つめてごらんって。そしたら、あなたがいた。

優しくて、この丘のように私を包んでくれる。私に真の幸せとは何かを教えてくれた。

今、確信してるの。卜部さん、私、あなたを愛しています」

僕は思わず瞳を抱きしめた。

360度、見渡す限りの広大な空間に、僕と瞳だけが一つになって存在している。

二人を丘が優しく包み、雲がほほ笑んでいた。

 

最終章

Defune

夜を徹して走った。小樽港をフェリーが離れるのは早朝だ。

瞳は「地平線の彼方に」のCDを何度も流させた。

気がつくと眠っていたので、ステアリングにあるスイッチでボリュームを落とした。

瞳の右手は僕の左ひざに置かれたままだ。

「鹿横断注意」の標識が見える。

注意深く安全スピードを保った。鹿をはねないように。

フェリーターミナルで、瞳は目を覚ますと言った。

「あ、小樽に着いたのね。乗船手続きは私にさせて」

僕は車検証と予約表を渡した。

にこにこ顔で戻ってきた瞳は、僕に乗船券を手渡した。

券面には「特等洋室」と表示してある。

「あれ?1等和室のはずだよ」

「いいの。これくらいプレゼントさせて。私も同室でいい?」

僕は微笑み、瞳はターミナルに戻っていった。

乗船時は安全のため、ドライバーと同乗者は別々に船に乗る。

案内が流れ、アストラは車両甲板に納まった。

カメラと荷物を持ち、フロントで客室番号を聞く。

特等室のドアを開くと、真っ白なワンピース姿の瞳が待っていた。

旅行中まとめていた髪を下し、綺麗にブラッシングしてあった。

流れるような黒髪はきらきらと光って、あらためて瞳の美しさに目を見張った。

「とても綺麗だ」

「ありがとう。お世辞でもうれしいわ」

瞳はそっと近づいてきて、僕の目の前10センチで止まり、目を閉じた。

僕は瞳の形のよい唇に、そっとキスをした。

時を忘れた幸福感を汽笛がさえぎった。

「出港だ。甲板に出よう」

デッキの空には無数のかもめが舞っていた。小樽の街が少しずつ遠ざかっていく。

「新たな旅立ちね。卜部さん、富良野で、この旅で答えが見付かるって言ったわよね。

真の幸せ、本当に見つかった。やはり、占い師の末裔ね。

もう幻想など持たない。雲を見るたびに、足元を見つめ、今、幸せであることを確認しながら生きていく。

でも、私のこと裏切ったら許さないわよ」

「誓うよ。一生君だけを大切にする」

風が瞳のワンピースのすそを揺らし、長く美しい黒髪をなびかせた。

とても眩しかった。

フェリーが速度を上げる。

海から吹いてくる風の中にささやき声を聞いた気がした。

「Bon Voyage !」

瞳が口を開く。

「ねえ、聞こえた?」

「何が?」

「風のささやき。Bon Voyage !って。私たちの二人の人生の航海を祝福しているんだわ」

僕は微笑んで瞳を見つめた。

二人はそれ以上何も語らず、風に吹かれながら、

ただ船が進む先の海を見続けていた。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 夏日 | トップ | 今日、61回目の(戸籍上は)... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

小説」カテゴリの最新記事