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「支那第二革命の概要」陸軍歩兵少佐 本庄繁(1913.11)

2019年06月17日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

   

 支那第二革命の概要
      陸軍歩兵少佐 本庄繁

 一 原因

 支那第一次革命の結果は専制の政体を共和に代へたるに止 とど まり、之に伴ふ思想の革新、政治の改善に至りては何等視るべきものなく、却て秩序なき放埒の気風を伝播せしめたると同時に、著しく中央部の威信を減損して施政の難渋 なんじゅう を喞 かこ つに至らしめたり、此時に当り純革命はを中心とし南方諸省を根拠とせる孫文、黄興派は、旧官吏派を中心として北方諸省を根拠とせる袁世凱派と絶対に相容れず、革命の首功に自負せるも其の実力の北方に如 し かざるを見れる南方派は政権の獲得に焦りて或は政党内閣を唱へ或は地方分権を叫びしが、之に対して北方派は現に政局にあるの機会を利用して其基礎を鞏固ならしめんが為に専ら中央集権を策し、逐次に反対派の勢力を減殺せんことに努力せり、此 か くて両派の間日一日党争の滋 しげ くして漸 ようや く第二次革命の避くべからざる気運に向ひしが、昨年秋恰も財政の窮迫、強隣の圧迫等内憂、外患交々 こもごも 迫るに遭ひ、国本の動揺に驚きて国家の統一を叫び一時秩序回復の徴 ちょう を呈し来りしに、本年三月二十一日国民党の領袖宋教仁の、南方選出議員を率ゐて北上の途上海停車場に於て刺客の為に暗殺せらるゝに及び、南方派は之を以て袁が使嗾 しそう に出づるものなりとなし俄に驚騒して如上南北両派の軋轢、此所 こゝ に曝発 ばくろ し、遂に彼我衝突の動機となり第二次革命直接の原因と為れり。

 二 発乱前に於ける南北両派の画策 〔省略〕

 三 戦乱の経過

  其一 黄興南京逃走前の戦況

 北京政府は予定の計画に基き北洋第六師及同第二師を陸続南下せしめ、逐次に江西省境を圧して六月上旬最早都督李烈鈞に反抗の余裕なきを認めたるものゝ如く、同九日断然李都督の職を免じ意思の鞏固ならざる師長歐陽武を挙げて之に代らしめ、又窃 ひそ かに北方に通ぜる九江衛●司令官陳廷訓を江西要塞総司令に任命せしが、之よりして南方一帯頓 とみ に活気を帯び、孫文、黄興、陳其美、汪兆銘、蔡元培等の領袖は上海の根拠地に在りて、日夜対袁策の密謀に余念なく、六月十五日参議院議長張継に俄かに南下して北京に於ける与党の形勢日々に非なるを告げ、●●逡巡せる孫、黄等の奮起を促すに及び、議は漸 ようや く武力解決に一決して孫文は自ら広東の独立並に軍資の調達を胸算しつゝ、同十七日急遽広東に向へり。
 之より先き、岑春●、章炳麟等の黎元洪を大総統に推して袁世凱を政局外に駆逐せんとする企図の黎に峻拒せられて失敗するや、旧湖北第八師長李雨霖は直に同志十数名と共に湖北に進入し、武漢軍隊の不平分子を糾合して六月二十五日夜武昌都督府を襲撃すべく奔走する所ありしが、期に先 さきだ つて陰謀曝露し、湖北の独立計画は悉く失敗に帰して孫黄一派の画策に一頓挫を来 きた せり。

 〔中略〕

     支那第二次革命戦経過概図 第一図 第二図

 斯 か くて上海附近の戦闘は、上述の如く漸く南軍に不利なるものありしと雖 いへども 、七月二十六、七日頃に至るまで戦乱の範囲は寧ろ逐次に各方面に発展して、大勢尚ほ俄に測 はか るべからざるの形勢にありき。 

  其ニ 黄興の南京逃走及其後の戦況

 各方面に於ける戦局の未だ必ずしも南軍に絶対に不利ならざりしは以上説述し来れるが如くなりしが、七月二十九日突如討袁軍総司令官黄興の南京逃走となりて俄に形勢の急変となれり、其原因少なからざるべしと雖、討袁軍の軍資正に枯渇し、弾薬亦欠乏し、加之 しかのみならず 上海は尚陥落せずして軍需品補充の途 みち、將に絶えんとし、将士漸く不安の念を催せるの時に当り、曩 さき に上海に逃れたる都督程徳全の七月二十六日、共和政治の擁護は必ずしも之を干戈 かんか に訴ふるを要せずとの要旨を打電して各地の反省を促すに及び、平和を羨望せる官民に著しき印象を與へ、又袁世凱より受領せりと称せらるる六十余万元の一半を散じて蘇州、鎮江其他各地の独立取消を勧誘するや、暗雲忽 たちま ち江蘇省内を鎖 とざ して南京屯在の軍隊亦漸く険悪の兆を帯び、時恰も信頼し得べき第八師の精鋭は悉く臨淮方面に出動し、黄が身辺、刻々危険の迫り来りしもの之れ彼が総司令部を脱逸せし所以の重なるものなるべし。
 此 か くて二十九日午後に至り、黄興退去の事実、南京城内に伝はると共に、南京各所討袁軍の白旗は悉 ことごとく 撤去せられて、其総司令部は● ここ に崩壊し、各方面の討袁軍は端なく其進退に迷ふに至れり、而して淮河の線にありし、南軍三個師団は八月一日頃より陸続退却に就き、北軍の主力は之を追ふて直路、南京に向ひ、張勳の部下約六、七千は運河に沿ふて南下せんとし、倪嗣沖の軍も亦鳳台附近に於て南軍を撃破し壽州に入れり。

 〔中略〕

 之を要するに意外なる南京総司令部の崩壊によりて急転直下せる時局は、南軍をして遂に之を挽回するに術 すべ なからしめ、各省風を望んで潰 つひ へ、其独立取消の迅速なること恰も各省の独立宣布と相比例し、南京の支持、重慶の独立等、一、ニの特例を除くの外、多くも半ヶ月を超ゆることなく、遺憾なく支那人の付和雷同の特性を発露して余薀 ようん なしと謂ふべきなり。
  
 四 南北勝敗に関する見所

 〔省略〕

 而して南北の勝敗が武力に決せずして金力に左右せられたりと唱へらるゝが如く、両派軍資の著しく懸隔が如上原因中の重要なるものにして、之に依りて南方屈指の領袖が軟化し多数の将士が買収せられたりと云ふに至りては支那人心の寔 まこと に利用せられ易 やす き弱点を遺憾なく表白すると共に、政府資金の枯渇に隨ひ紛擾の続出すべきを想はしむるものにして、単に第二革命の勝敗の跡に顧みて尚は且つ支那将来の容易に楽観すべからざるものあるを悲まざるを得ざるなり。

 上の文は、大正二年十一月一日発行の雑誌 『戦友』十一月号 (第三十七号) 発行所 帝国在郷軍人会本部 に掲載されたものである。



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