兵庫県高砂の三菱製紙1千名の固い結束、25日間の大ストライキ 1925年の労働争議 (読書メモ)
参照 協調会史料(三菱製紙株式会社1925年)
兵庫県高砂の三菱製紙株式会社、会長兼専務田原豊、工場長二國三樹三。職工総数1,168名(女性191名)。労働時間は昼勤午前6時から午後6時、夜勤は午後6時から朝6時の12時間制で、昼勤と夜勤を一週間づつ交代する。
(工友会結成)
労働者川田政造は、かつて1921年(大正10年)神戸川崎造船所大争議でクビにされた後、今は三菱製紙工場鉄工部で働いている。最近すぐ近くの日本毛織株式会社で大争議が起きた際、川田は総同盟清和会と知り合い、三菱製紙においても労働組合を作ろうと総同盟清話会の応援を得て、ひそかに活動をしていた。これを察知した三菱製紙は、川田政造に様々な圧迫を加えたが、川田は1924年9月1日ついに工友会なる組合を1千名で設立し、自ら工友会の会長に就任した。
会社は、1925年6月から役付け職工のみを分離した御用組織「大正会」を作ってきた。会社のねらいが工友会の弱体化であることは明らかであった。工友会の中で会社と御用組織大正会への批判が高まってきた。会社は工友会の会報に大正会攻撃の記載があるという理由で会報の配布を禁じ、8月20日には、工友会幹部山口千治と小林昇を職場からの無断外出などを理由に解雇してきた。
これに怒った職場の労働者は、8月22日、工友会会員に向けて「檄文」ビラを配布し、23日午前11時からの高砂町公会堂での工友会臨時大会へ結集を呼び掛けた。
(檄文ビラ)
『檄!!! 奮起!!! 奮起!!!
我らの同志が悲壮にも 生活の道を断れたり
八月二三日午前十時 臨時総会 於 公会堂
此の不運なる同志の為に 一片の涙をそそげ
我らの未来を計らん 日に日に強まる圧迫を
集まれ!!! 来たれ!!! 工友会』
(工友会臨時総会)
8月23日、高砂町公会堂に工友会員約1000名が押し寄せた。この場で以下の「嘆願書」を決め、会社が拒絶してきた場合は、ただちにストライキに突入することと、また裏切者には、徹底的に批判を加える事も全員一致で決定した。
嘆願書
一、解雇された山口千治と小林昇両名の復職
一、特別賞与金を本給に繰り入れること
一、定期賞与金を現在の倍額にすること
一、解雇手当を制定すること
一、退職手当を現在の倍額にすること
一、定期昇給を一ヵ年に付き、五銭とすること
一、日曜日、昼夜を休日にすること、但し日給一日分を支給すること
一、女工の夜勤を廃止すること
一、夜勤手当を一日に付き二分の分増すすること
一、残業代わ一時間に付き、二分の分増すること
一、12時間労働制を11時間制に短縮すること
一、社宅住居資格者にして住居不可能の場合は住宅費を支給すること
一、回答は3日以内にすること
大正十四年八月二十三日
右十三条をもって三菱製紙従業員にて組織する工友会一同より嘆願するものなり
三菱製紙株式会社高砂工場長 二國 三樹 殿
24日、工友会代表5名が嘆願書を会社に渡そうとしたが、会社は受け取りを拒絶したため、机の上に於いて帰った。
(町民も押し寄せた演説会)
25日、工友会代表5名が再び会社を訪れるが、会社は復職は絶対に認めないと強硬なる態度で対応した。争議団は、町民に向けて「◎親愛なる町民諸氏に訴ふ」(上の写真)のビラを配布し、午後7時より演説会を開催した。演説会には工友会1,000名(内女性50名)と町民500名の総計約1,500名が押し寄せた。演説会では、「会社は、役付けで組織した御用組織大正会を使い、工友会を差別的扱いをし機会があれば工友会の壊滅をねらっている」と厳しく会社を糾弾した。また、日本労働総同盟大阪聯合会は山口常次郎など9名の幹部を高砂町の民家に宿泊させ、争議に張り付けた。
(会社の逆襲28名不当解雇)
26日早朝7時より夜勤明け労働者の総会が開かれた。嘆願が拒否された場合は28日交代時よりストライキを決行することが再度確認された。午後3時、会社は工友会会長以下28名を「都合により本日限りで解雇する」と通告し、一方で軟派職工の切り崩しに腐心するなど強硬な態度を変えなかった。
(1千名総同盟に加盟)
26日午後8時より工友会臨時総会が開催された。工友会千名の会員(うち女性100名)は、すでに開会前から殺気立ち、「同盟罷業を決行せよ」と口々に叫んだ。工友会臨時総会は、一人の反対もなく、工友会員全員約1,000名は日本労働総同盟への加盟を決め、嘆願書を要求書と改め、会社が要求を拒絶してきた場合は、予定通り8月27日午前6時からのストライキ突入を決め、総同盟本部に「貴組合に加盟す。罷業応援頼む」の緊急電報を打った。
(檄励電報が続々と届く)
「死すとも勝つまで戦え」日本労働総同盟本部
「大会を祝す勝利を得よ」日本労働総同盟関西
大阪機械工組合からの「シヌマデタタカエホネヒロウ(死ぬまで戦え骨拾う)」の電報が読み上げられた時は、会場全体が大きな感動で包まれた。
(スト突入)
27日、ストライキを察知した会社は、社前と工場内各所に職制などを総動員し配置した。労働者は午前5時に公会堂に集合し気勢を挙げた。午前10時、交渉員5名が会社で工場長らと会見し、28名の解雇理由を問い、解雇撤回を求めた。会社は即座に拒絶してきたため、ストライキに突入した。この日は、会社は、役付職工で組織している反動団体大正会員を使い、盛んに組合切り崩しを行ってきたが、この日出勤した労働者はわずかに228名でしかなかった。
(兵庫県特別高等課)
兵庫県特別高等課課長、特高労働主任を高砂署の争議対策指揮者とし、また兵庫県各署より応援巡査80名を動員し、高砂署に詰めさせた。
(買収と脅し)
27日、三菱製紙は、「本日よりの出勤者に、当分いつもの支給額の倍額の給料を支給する」と掲示して、買収でスト破りを勧めてきた。また、労働者全員に「呼出状」を送り、「出勤しない場合は、取り返しのつかぬこととなる」と脅し、揺さぶりをかけてきた。この日更に工友会幹部一人を解雇してきた。しかし、1千名労働者の結束はますます強まり、スト破りの出勤者はわずかな大正会員でしかなかった。
(ストライキ中の規律と家庭訪問)
8月28日、争議団は、「争議中の飲酒禁止」「保安部員」等を決定し、また、「訪問委員」を4人一組として、社宅の労働者宅訪問を決めた。会社のスト切り崩しに対抗し、またスト破りの裏切者の工場入場を阻止するため、3名から7名が一隊となり、工場周辺ので監視活動を続けた。日本農民組合にも応援を求めた。
高砂警察署は、夜の労働者宅訪問を禁止するなど弾圧を強めてきた。
また、戦線を東京に広げ、岩崎男爵と直接面会するための山口常次郎らの上京団を結成した。上京団は「我々は死んでも要求を通さねば帰りません。必ず徹してみせます。我々のこの意気を皆様もよく承知して結束を崩さぬようにしてください」と決意を述べた。
(海水浴)
8月29日早朝より結集した労働者は約1,000名(女性120名)は、午後1時より「日本労働総同盟工友会」と大書した縦旗を高々と掲げ高砂海水浴場に至り、海水浴を行って気勢を挙げた。
(高砂町議会)
28日の議会において、議員は、町長に対し、争議解決にむけて町長の尽力を果たすように強く迫った。
(出勤者・スト破り)
28日夜勤の出勤は、わずか28名で、29日昼勤の出勤も、男166名と女性31名でしかなかった。
(持久戦)
8月30日、争議団1千名は、尾上神社裏松林において大運動会を開催した。また、各30名から20名の第一班から第四班を組織し、社宅や労働者の家族を訪問し、会社の切り崩しの防止と保安を強めた。警察は家族訪問中の組合員一人を検束した。
(会社の嫌がらせ、風呂使用の禁止と社宅からの引き払い要求)
会社は争議団への嫌がらせとして、「当工場の解雇者とその家族は、入浴を禁ず」と社内の風呂の使用を禁止してきた。また解雇された者と家族の社宅からの引き払いも求めてきた。
(三菱工業学校教師からの切り崩しの手紙)
9月1日、午前中は雄弁大会、午後は高砂海水浴場で種々な催しを行った。9月2日、会社は、同工場が経営している三菱工業学校の教員を使った手紙をかっての生徒の争議団員に送りつけてきた。その内容は「君らは社恩を受けているから一旦暖急あらば義勇社に奉じる義務がある」から今すぐにストライキから離脱して職場に戻れという内容であった。
(白米供給を拒否と農民組合の連帯)
9月2日、同日は会社より白米給与の切符を渡す日であったが、会社はストライキ参加者は出勤日数が不足しているからと、白米給与の切符を受ける資格がないとしてきた。この攻撃をあらかじめ予想していた争議団は、農民組合とすでに交渉済みで、2日の朝には農民組合から白米200俵が搬入され、争議団本部入口に積み上げ、争議団家族に一升21銭で払い下げられた。
(高砂町町会議員)
高砂町町会は、議員24名中元老派・資本家階級側議員9名(うち一人は三菱製紙高砂工場庶務課長)、中立派5名、同志会・無産階級側議員9名である。同志会は積極的に三菱労働者を応援した。元老派は、争議団の公会堂使用を妨害するなど争議団に敵対した。
(高砂町町民と商店主)
高砂町町民と商店主の多くは争議団に同情し、また一日も早い争議の解決を希望していた。
(内務大臣と鈴木文治面会)
9月3日、総同盟本部鈴木会長と幹部全員が三菱製紙高砂工場争議について内務大臣と警保局長と面談した。
日本農民組合から白米15俵が寄贈された。
(検束2名)
9月5日、日本労働総同盟幹部から東京での状況報告の集会を開催した。総同盟幹部が、その場の臨席警察官の退席を要求したため、警察は「警官の退席を求めるのであれば、集会を中止させる」と告げたので、労働者側は「官憲の圧迫・横暴だ」と叫び、2名が検束された。
(農民組合応援デモ)
この日、農民組合員122名は、白米15俵を荷車に積んで「ワッショィワッショィ」と工友会本部に押しかけたところ、約30名の官憲により阻止され、2名が検束された。
(臨席警官100名の三菱糾弾大演説会)
9月5日の夜高砂町公会堂において、約1,600名が結集した三菱製紙糾弾大演説会が開催された。警察は、なんと臨席警官制服80名、私服約20名もの多数を動員し、警官は全員帽子とあごヒモと巻きゲートルという戦闘状態、兵庫県特高課長もいる大弾圧の体勢で臨んできた。司会者が「今回の争議中、警察官は資本家の走狗となった」とひとこと叫ぶやたちまち検束される有様であった。
(会社のスト切り崩し宣伝ビラ)
9月8日の会社のスト参加者への手紙
『・・・せっかく出勤したい心を持つならば何も恐れる事はありません。会社は罷業団の目的とする要求条件は解雇者の復職は元よりそのほか全部決して承諾しません。また罷業中の給料は決して支払いません。・・・会社へは日々新しい勇気ある出勤者が段々に増しています。・・・』
(野田関東醸造・野田醤油組合から激励電報)
9月9日野田関東醸造組合(野田醤油)からの激励電報が届く。
『長年の怨み晴らす時来たれり、よく戦え我らは組合を挙げて応援す』
(二國工場長の自宅抗議)
9月9日夜、解雇された労働者が、二國工場長の自宅を訪問し、工場長との面会を要求した。工場長は、門を閉め、なお電燈も消したため、解雇された18名の労働者たちは表門を叩きながら「我々解雇者は生活上大問題だ」と叫んだ。翌日10日も再び工場宅前で抗議し、解雇撤回を要求した。
(9月10日のスト破り・出勤者)
8月27日のスト一日目の出勤者は、日勤男183名、女14名。夜勤男59名。
9月10日の出勤者は、男227名、女40名。夜勤77名。
(争議団員相次ぐ検挙と検束)
9月11日、工友会員4名と応援の大阪合同労組員1名が、張り込み中の警官によって家庭訪問を理由に「強談圧迫」で検挙された。また、工友会員20余名もスト破りで出勤しようとする労働者宅に押し寄せ「強談圧迫」したと検束された。
(女性罷業団、工場長夫人に面会行動)
50余名の女性たちは、二國工場長工場次長庶務課長らの自宅を訪問し、それぞれの夫人と直接面会し、争議解決を強く求めた。
(新たな解雇攻撃)
9月12日、会社は新たに7名のスト参加者を解雇してきた。7名はいずれもスト中に検束あるいは拘留された者たちであった。
(労資協議)
9月13日、会社側二國工場長など4名と争議団側10名の協議が行われた。この夜高砂公会堂において、町議員同志会主催の三菱製紙糾弾大演説会が開催された。同志会は、労資双方に対し、「即刻争議解決」の決議文を提出した。
午後6時、特高課警部らの立ち合いのもとで、大阪聯合会幹部は会社重役と面会した。
(調停者)
9月14日、15日、16日と県会議員や元町長や多木代議士が調停に乗り出し、会社と工友会幹部と接触した。会社が金6500圓を争議団に支給すると回答した。総同盟や争議団幹部はこれを受け入れた。
(大荒れの臨時総会)
17日、争議団臨時総会が開催された。総同盟大阪と工友会幹部が「会社が金6500圓を争議団に支給すると回答している。我々もひとまず休戦・復業して、捲土重来の時を待つことにしたい」と述べたとたんに場内は険悪な空気に満たされ、幹部攻撃の声が盛んに起きた。一旦は全員投票にて決着をつけようとしたが、議場はますます殺気立ち、如何とも手の付けようがなくなった。翌日あらためて臨時総会を開催し、
一、裏切者を解雇すること
一、工友会に対して今後絶対に圧迫を加えぬこと
一、工友会会員を理由に解雇しないこと
を決議したが、最終的には会社提案を受け入れることとなり、今後拘留者6名に対する救済方法と38名の解雇者への手当の配分を幹部に一任することを可決し、19日午前6時からの全員職場復職が決まった。最後に以下の「休戦宣言」を朗読した。
休戦宣言
『資本家階級の搾取のある限り労働階級の反逆は永久に絶えない。労働階級の生活不安より脱せんとする運動はいかなる弾圧の力をもってしても根絶することは出来ぬ。我らは去る八月二七日、三菱製紙会社の暴虐三菱製紙会社の暴虐なる挑戦に決起して、ここに二十有余日、この間敵は配給米を禁じする等卑劣なる手段をもって猛襲してきた。されど・・止むなく我らの刀を鞘に収めんとす。嗚呼大正十四年九月十八日我らの兵糧いまだ尽きず、我ら未だ折れずと・・・二度戦わん準備の為に、三度戦いに備えん為に、ここに涙を飲んで休戦を宣するものである。』
(調停再び失敗)
8月18日、三菱製紙は調停者の多木代議士や山田町長に対し、「まだ内輪の話であった金6500圓の支出を争議団に言明したことは、全く遺憾であり、そもそも会社としては無条件就業が争議解決の前提である。にもかかわらず工友会は『休戦状態』と言っている。これでは解決ではない。この際調停をお断りする」と表明し、多木代議士らの苦心も水泡に消えた。
(暴動寸前)
争議団は会社の態度に憤激した。夜9時多数の労働者が会社に押しかけようと、あわや暴動寸前であった。あわてた高砂警察署は、鶴田署長以下総動員で現場に駆け付け、なんとか八方なだめたり脅したりして労働者の行動を抑え込んだ。
(田原重役襲撃事件)
19日午前9時田原重役は、宿泊している旅館から出て、会社に向かおうと小谷書記を同伴させ、明石駅前神姫電鉄の待合室にいたところ、突然男性労働者2名(大阪聯合会の山口常次郎と八谷幸太郎)が、田原重役に向かって「こいつ、やっつけてやる」と叫びながら、ステッキと下駄等で田原重役の顔面と頭を乱打した。田原重役は鼻柱を打たれ出血し、頭部顔面に8カ所の傷を受け、急遽医師の治療を受けた。襲った2人はそのまま逃亡し、未だ検挙されていない。
(特高)
この間の調停の失敗で会社を快く思っていなかった兵庫県特高課労働主任富久警部は、19日、二國工場長を訪ね田原重役襲撃事件を報告し、「(会社のせいで)今後争議団はいかにも悪化するかもしれない。工場幹部連も充分注意されたい」と皮肉を込めて伝え、引き揚げた。驚愕した二國工場長は、すぐに田原重役の枕元に駆け付け、これ以上頑強に調停を拒み続けると、争議団ばかりではなく警察及び町民の反感を買い将来会社の立場を困難にさせる、ここで解決してはいかがと説得し、ついに田原重役も警察側に一任することとなった。二國工場長は、直ちに引き返し、富久警部に伝え、富久警部は町民有志と総同盟の西尾末広を高砂署に呼び寄せ、一日も早く解決せんことを説得した。西尾も承諾した。
(解決条件)
1925年9月20日午後1時、会社と争議団は以下の解決条件で争議を終結させた。
解決条件
一、会社は金6500圓を争議団に支給する
一、争議団は21日午前6時に罷業を打ち切り、無条件で工場に出勤する
一、解雇された者には、退職手当全部・予告手当14日分とその他2ヵ月分の給料を支払う
こうして、25日間に及んだ三菱製紙高砂工場の大ストライキは1千名の固い結束を維持したまま終結した。解雇された者の総数は38名、また姫路刑務所に入獄中の犠牲者は4名であった。