先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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1925年の朝鮮人労働者の運動(読書メモ)

2023年01月06日 08時00分00秒 | 1925年の労働運動

1925年の朝鮮人労働者の運動(読書メモ)
参照 在日朝鮮人運動史  朴慶植著(三一書房)
   日本労働年鑑第7集/1926年版 大原社研編

1、在日朝鮮人の生活
在日朝鮮人労働者の賃金は植民地民族として同一労働の差別賃金を強いられ、日本人労働者の約半額であった。1924年内務省調査によれば朝鮮人労働者の賃金は日本人労働者の40~50%低かった。この労働者の多くは道路・鉄道・河川・発電所などの土木工事や「不潔」な部門の仕事に従事した。その上、朝鮮人労働者は日本労働市場の産業予備軍として、常に不安定で、浮動的な生活を余儀なくされ、失業率も高かった。日本社会は朝鮮人に借家を貸すことさえ嫌がり、そのために川縁や劣悪な場所にバラックの掘っ立て小屋をたてたり、前近代的工事現場の飯場(たこべや)に住み込むしかない住宅環境を強いられた。

1922年新潟県信越水力発電所工事における大倉組の朝鮮人労働者への虐待・虐殺事件、1932年の岩手県大船渡鉄道工事飯場での有田組暴力団による虐殺事件などはその一例で、北海道・樺太などにおいては数知れず起きている。1930年三信鉄道工事における労働争議には300人以上の朝鮮人が検束され、死傷者もだしている。

2、「要視察朝鮮人」
日本政府官憲当局は、1910年以後、「排日思想を懐抱せるものにして集会、団体、新聞紙・・・直接もしくは間接に危険思想を鼓吹伝播に努める」朝鮮人を「要視察朝鮮人」として名簿を作成し、在日朝鮮人への監視と抑圧を強化した。「要視察朝鮮人」は、1925年には218人、26年には263人にのぼっている。

「要視察朝鮮人」と指定された朝鮮人の労働者、留学生、牧師・宗教家は常に尾行され、訪問先の用談内容、所要時間、宿泊先、電話回数、人相、特徴、資産、家族氏名等々こと細かく記録にとどめられたのである。

3、民族解放運動
1922年、東京朝鮮労働同盟会、大阪朝鮮労働同盟会ができ、この大阪での創立大会には日本労働総同盟関西労働同盟会の幹部大矢省三、西尾末広、野田律太らも出席した。1925年2月には全国の11の労働団体の中央組織としての在日朝鮮労働総同盟が結成された。1926年には25の加盟団体、9,900余名の全国組織となった。
「綱領
われわれは労働者階級と資本家階級が両立し得ざることを確信し、労働組合の実力をもって労働者階級の完全な解放と自由平等の新社会の建設を期す」

4、在日朝鮮人の労働争議
1920年の八幡製鉄所のストライキ闘争は、朝鮮人労働者金泳文が先頭に立ち妨害を排除しながらスト突入の合図の非常汽笛を高らかに鳴らしたことは有名な浅原健三『溶鉱炉の火は消えたり』に活き活きと叙述されている。1920年8月には全国坑夫組合夕張連合会朝鮮部が結成されている。日本の労働組合の中に朝鮮人部がつくられてのはこれがはじめてと言われている。
5月、福岡県日本特許瓦製造会社で朝鮮人労働者30人が待遇改善と賃上を要求し1日ストライキに突入したが、たちまち警官の出動で8人が検挙
6月、兵庫県大日本紡績明石工場で、日本人監督が一人の朝鮮人女性労働者を殴ったことから全朝鮮人労働者が一日スト
9月、山口県海軍燃炭所で朝鮮人労働者100人が賃下げ反対で2日間のスト
10月、神奈川県熱海線第三工区の佐藤組の朝鮮人労働者200人が賃金支払いの遅れでスト
12月、高知県幡多郡の南海水力電気工事場で監督の横暴に反対する闘争

1921年2月、兵庫県武庫郡大庄村で朝鮮人労働者40人が結束し、差別待遇に抗議のスト。6月京都市合資会社京都製紙所で朝鮮人20名が、差別待遇に抗議しスト。12月栃木県足利郡山保毛織会社で朝鮮人労働者26人の労働争議。

1922年信越水力電気会社発電所虐殺事件への調査活動を行い、また9月には「真相報告演説会」を1千名で開催し、朴烈らが激烈な糾弾演説を行ったが、官憲により8人が検挙され演説会は無理やり解散させられた。
朴烈は、「監獄部屋の不完全なることその待遇は非人道的なり、かくのごとき反人道的行為は常に親方連中の饗応を受けつつある三名の巡査により助長せられつつあるのである」と述べている。

この年の労働争議、
2月、京都製紙所朝鮮人労働者32名の待遇改善闘争
6月、福岡県貝島満之浦第二抗で朝鮮人約50名が闘い、警官の弾圧で30名が検挙
7月、大阪府岸和田紡績春木工場で朝鮮人女性労働者271人が日本人との差別待遇に抗議し、3日間のスト。兵庫県多木製肥工場で31人の待遇改善闘争
8月、北海道新夕張炭鉱で朝鮮人労働者58人が採掘運搬に関して値上を要求。福岡県新入炭坑で日本人労働者との乱闘
9月、兵庫県下で借家問題で乱闘がおき、死傷者まで出た。熱海線工事でも朝鮮・日本人間で反目事件。この年の東京メーデーにはじめて朝鮮人労働者約30名が参加し演説。聴衆は歓迎し演説に感銘した。

1923年の東京メーデーは「植民地解放」を決議し、大阪メーデーでは「日朝労働者団結せよ」のスローガンが揚げられた。官憲は東京メーデーで朝鮮人とみれば一人残らず検挙しようとし、場内は殺気がみなぎっていた。9月の関東大震災時の朝鮮人虐殺に対し、在日朝鮮人は「朝鮮人迫害事実調査会」をつくり、日本政府の責任を追及した。日本人においても布施辰治、山崎今朝治弁護士らと日本労働総同盟や吉野作造や何人かの議員が国会で追及したが、抗議運動までは立ち上がることはなかった。

1924年3月に開催された「関東大震災被虐殺日支朝労働者合同追悼会」には、芝浦労働組合らの日本人労働者約350人が参加した。この時、日本労働総同盟に日本政府への抗議の支援を申し入れたが、総同盟本部は消極的態度だった。この年のメーデー集会には朝鮮労働同盟会が正式に参加したが、「植民地解放」のスローガンは主催者側により否決された。

1924年の朝鮮人労働者の闘争としては、29件あり、
主な争議は、
1月、呉市水野組朝鮮人労働者300人が賃金値上を要求
2月、神奈川県茅ケ崎町相模川砂利会社で監督排斥運動がおき朝鮮人労働者19人がストに参加
3月、東京府下大崎町東洋建材工業所で賃上の争議、兵庫県増田製粉会社で待遇改善闘争に朝鮮人労働者が参加
4月、東京市外平塚村東洋建材会社で朝鮮人労働者60余名が、民族差別と賃上でスト
6月、兵庫県ダンロップ護謨会社争議に朝鮮人労働者も参加し、代表1名がアジプロ演説
8月、大分県直入郡玉来町の鉄道工事中の朝鮮人労働者が賃上げスト
11月、群馬県多野郡多胡村で朝鮮人労働者のスト
12月、岐阜県土岐町で中部電力会社の請負人による賃金未払いに怒った朝鮮人労働者の示威行動。東京府下玉南鉄道工事の朝鮮人労働者が賃金未払いに反対してスト。土浦土建業藤川組の60名の朝鮮人労働者が賃金遅配に怒り反対運動

1925年1月、大阪で民族差別糾弾大会が開催された。3月には、東京で3.1独立運動記念日闘争が計画された。屋内・屋外集会が行われたが、142人もの多数が検挙された。5月1日東京メーデーには在日本朝鮮人労働総同盟として120名が参加し代表が演説を行った。大阪メーデーには370名が参加した。堺では「日朝労働者団結せよ」「朝鮮労働者の賃金差別撤廃」「治安維持法撤廃」などを叫んだ。
この年、朝鮮本土では大水害があり、東京、大阪、堺で「朝鮮飢餓及水災」救済カンパ運動を起こした。日本人の水平社や関東労働組合会議も演説会やカンパ活動に取り組んだ。9月には震災三周年記念闘争として、(朝鮮人虐殺)追悼会を開いた。800名の参加のもと、演壇には「痛哭震災当時被虐殺同胞」と書いた白布が掲げられた。しかし、弁士23人中15人もが演説を中止させられ、6人が検挙された。

1925年の朝鮮人労働者の労働争議は、46件、参加人数1075人で前年の29件に比べ飛躍的に増加した。
主な争議は、
1月、八王子市外由木村玉南鉄道工事の賃金不払いで監督を殴打
3月、神奈川県国府津町で賃金不払いで親方宅に乱入
4月、八王子市外由木村玉南鉄道工事の賃金不払いで鉄道襲撃
11月、石川県鶴来町発電所賃金不払いで抗議行動
12月、東京向島区隅田川精鉄所で団結した日本人と朝鮮人の総数約80名が「罰金制度撤廃、賃上、朝鮮人の賃金を日本人と平等にせよ」と要求し闘争
等がある。

3、小樽高商軍教糾弾闘争
1925年10月15日、小樽高商の軍事教練野外演習は、「不逞鮮人が煽動した暴動」を想定し1923年の関東大震災時のテロを再演しようとするものであった。小樽在住の朝鮮人は怒り、激しい糾弾闘争を繰り広げた。この闘いには、小樽労働組合をはじめとする労働者や学生も多く参加した。また「日本無産階級に与ふ」という檄文が全国の労働組合、大学などに発せられた。この檄を受けて10月28日には、東京で在日本朝鮮労働総同盟などの主催、全日本学生社会科学連合会、自由法曹団、各労働組合などの後援で「(小樽)軍事教育糾弾演説会」を開催、約850名が参加し、「日本政府の軍事教育は階級的陰謀にして小樽高商の想定事件はその暴露なり」と激しく糾弾した。官憲はただちに解散命令をだした。東大、早大など各大学で抗議行動が展開され、横浜では横浜朝鮮合同労働組合、市電労働者、海員組合横浜支部なども決起した。大阪では日本労働組合評議会、全国水平社無産者同盟なども軍教反対声明をだした。



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