先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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アメリカメーデーの闘い1886年5月1日 (読書メモ)

2022年05月01日 08時21分13秒 | 先輩たちのたたかい

アメリカメーデーの闘い1886年5月1日  (読書メモ)
参照「ストライキ!」ジェレミー・ブレッヒャー  戸塚秀夫  櫻井弘子訳 (晶文社)

1871年にパリの労働者は暴動を起こし、武力で町を占領した後、有名なパリコミューンを樹立した。その15年後の1886年アメリカメーデーの闘い!

(1886年)
アメリカの1886年は激動の年であった。歴史家たちは「革命の年」「大騒擾」と呼んだ。
ストライキ件数と参加労働者数
1881年 471件  129,521名
1882年 454件  154,671名
1883年 478件  149,763名
1884年 443件  147,054名
1885年 645件  242,705名
1886年  1411件      499,489名

 1886年のストライキに決起した労働者数は、それまでの5年間の平均と比べて3倍である。1885年末ミシガン州サジノー・ヴァレーにおける材木工場らの労働者が10時間労働を求めてのストライキに突入した。労働者は一団となり、「労働者は仕事をやめろ」と訴えながら工場から工場へと行進し、蒸気を止め、火を消して、すべての材木工場を停止させた。ストは61の材木工場の他に14の屋根板工場、58の材木置場も含まれた。資本家共は、ストを止めるためには暗殺や人殺しも平気で行う、かの有名なピンカートン社の武装探偵員を50名以上も導入し、また、州軍の大部隊も介入のかまえを示したが、ストライキは2ヶ月にも及び、ついに勝利した。
 
 1886年3月6日ジェィ・グルドの南西鉄道系統の労働者1万4千名がこの闘いに続いた。ストライキが勃発した。彼らは訴えた。
『グルド南西系統の労働者がストライキ中であることを世間に知らせてください。われわれは、われわれ自身の各地の仲間への正義のためにストライキを行っています。参加者は1万4千人です。・・・私は、各地の鉄道労働者全員に向かって言いたいのです。減給なしの8時間労働を会社に対して要求しなさい。すべての労働者に日1・5ドルを要求しなさい。あなたとあなたの家族が1マイル1セントで全線乗車できるように要求しなさい。 あなたの不満をただちにひとまとめにして提出しなさい。そして、一人のこらずストライキをしなさい。あなたが完全に満足のゆく解決をみるまで、ストをつづけるのです。われわれの諸権利を要求し、搾取者にそれを認めさせましょう・・・』

 ミズーリ、カンザス、アーカンサス、ネブラスカ、インディアン地方の職工、保障夫、転轍夫、電信士、さらに炭坑夫までもストライキに決起した。ミズーリ州の農場労働者が、一ヶ月食事つき15ドルから20ドルに賃金を引き上げるように、雇用主に要求してきた。拒絶されたたため少なくても50名がストライキに入った。雇用主は仕方なく彼らの要求に譲歩した。たちまち、この要求と闘いが州全体に拡がった。
 大南西ストライキは、後の「座り込みストライキ」と同じ、職場占拠で始まった。資本家側の激しいスト破りに対してスト労働者側は、機関車の火を消し、水を落とし、接続部分を切り離し、線路をいじりなどで抵抗した。鉄道側は軍隊の出動を要請した。テキサス州では200名の武装部隊でストライキ労働者を一掃した。東部セントルイスでは4月9日、会社側が群衆に発砲し9名を死亡させた。怒った群衆はその仕返しとして作業場や構内を焼き討ちした。知事は700名の州兵を派遣し、東部セントルイスを軍法下に置いた。

(8時間労働制を求める要求の声)
 8時間労働制を求めてゼネストを行うという主張は、多くの労働者の共感を呼んだ。労働騎士団の全米の各支部では「1886年5月1日を、8時間制を要求するストライキの日とする」という決議が各総会で続々と通過した。4月には8時間制を求めるかなりの数のストライキがすでにはじまっていた。全米の各地の労働争議での要求項目として8時間労働制実施は確立していった。大衆的デモが国中に行われた。
 シカゴ、ニューヨーク、シンシナッティ、 ボルティモア、ミルウォーキーといった主要工業都市に集中し、ボストン、ピッツバーグ、セントルイス、ワシントンにも、小規模ではあれひろまった。すでに5月1日以前に、全国で25万人ほどの労働者が、8時間運動にまきこまれていた。約3万人は、すでに8時間制ないしは労働時間短縮をかちとっていた。4月には、10万をくだらぬ労働者が、自分たちの要求を護得するために、ストライキに入る用意ができていると推定された。しかし、この運動は、実際のところ、予期されていたよりさらに大きな規模のものとなった。5月の第2週までに、約34万人の労働者がこの運動に参加しており、そのうち19万人は、ストライキ中に参加したのであった。ストライキに入った者の数は、シカゴで8万人、ニューヨーク4万5000人、シンシナッティ3万2000人、ボルティモア9000人、ミルウォーキー7000人、 ポストン4700人、ピッツバーグ4250人、デトロイト3000人、ワシントン1500人、他の諸都市で1万3000人、であった。全国で20万人近い労働者が、労働時間の短縮を勝ち取った。労働者の武装隊が多くの町で増えていった。行進では「労働者のマルセーズ」が唯一歌われた。全国で8時間同盟が組織された。

1886年5月1日
(全米各地)
 ミルウォーキーでは、5月1日が近づくにつれて、数千の職場・工場の労働者が、資本家どもに要求をつきつけた。4月29日、ジョン・プランキントン会社の包装出荷工場の労働者と、窓枠・ドア工場の数百名の労働者が、8時間ストに突入した。5月1日までに、3000名の醸造労働者、1500名の大工その他建設労働者、多数のパン製造工、葉巻製造労働者、煉瓦工場労働者、畜殺場労働者、人夫等がストライキに入り、その数は全体で8000名ほどにのぼった。5月2日、日曜日には2500名の労働者がミルウォーキーの下町界隈をいくつかの楽団に伴われて行進をし、ピクニックでその日の幕を閉じた。ストライキは月曜日にも拡大し、小規模な工場の労働者が作業を中止した。その日の終わるまでに1万4000名がストライキに入っており、勝利がみえはじめた。石工と煉瓦積み工の親方たちは、労働者に20パーセントの賃上げを与え、8時間でも10時間でも労働者が好きなようにすることを認めた。ファイラー・ストウェルの鋳造工場では、8時間制を認めた。ベスト・ブルーイング醸造工場は、労働者の賃金要求も労働時間要求ものんだが、労働者は全体の勝利がみえてきたことで、 ストライキ不参加の労働者を解雇しない限り職場には戻らないと言った。
 ストライキは、1877年のゼネストと同じパターンでひろがりはじめた。月曜朝、スト中の醸造労働者1000名が、ストに参加していない唯一の大醸造工場であるフォーク工場の前で列を組み、被用者が仕事につくのを妨害した。フォーク工場労働者は、労働騎士団の支部会がストライキをよびかけたとき、仕事をやめた。 その日の午後、罷業中の労働者数百名の一群が、西ミルウォーキー鉄道の工場従業員1400名に仕事を中止させようとした。が、警察に追い払われてしまったかれらは、まだ操業中であったアリス工 場に行進し、そこでも工場から放水をあびせられ、ちりぢりになってしまった。アリス工場は、さらに暴力が加えられるのを恐れ、工場閉鎖を決定したが、ただちに次のように告発している。「本日午後、 ポーランド人労働者の一団が西ミルウォーキー工場から・・私の工場に行進して、こん棒を振り回し、入口をこじあけようとした。暴徒たちは南側の位置にいた警察のすぐ目の前を行進したのであるが、警察は、かれらがやってくることも、その目的についてもわかっていたはずなのに、一人として暴徒の攻撃を止めようとする者はいなかった」。

 シカゴ、ミルウォーキー、セントポール鉄道工場同様に、暴力を回避するため職場を閉鎖した。
 その翌朝、一群の人々が、 メノモニー河の谷間に集まり、河沿いに行進して諸工場の閉鎖を試みた。75名の警官は、無力で、群衆を押えることができなかった。別の1500名の労働者の集団は、他の工場に押しかけ、労働者に仕事をやめストライキに加わるよう強制した。群衆は「8時間労働を!」と叫び続けた。
 
 ウィスコンシン州のラスク知事は、州軍を召集し、ベイ・ ヴューに派遣した。3部隊が列車で到着した。そして工場構内に向かって行進をはじめると、群衆から石が飛んだ。 350名ほどの州民兵は、一晩中工場内にとどまった。
 翌朝六時、1500名の群衆が、ベイ・ヴュー工場にもどろうとして、ふたたびセント・スタニスラス教会に集まった。暴徒たちとともに夜を過した『ミルウォーキー・ジャーナル』誌のレポーター は、このように伝えている。「かれらは、なんの組織も指導者ももたず、単にその時々の興奮で行動している」。人々は、レポーターたちに向かって、「われわれは、州民兵や会社の財産に対して攻撃を加えるつもりはなかった。ただ、州民兵がいてもおびえていないことを示したかっただけなのだ」と言った。かれらは、真中に8時間をさした時計を描かれている赤や白や青の旗を先頭に、秩序正しく工場に行進した。人々の手には、こん棒や鉄棒、壊れた草刈り鎌、石、数丁の銃が握られていた。・・・電話を受けたラスク知事は「群衆を銃で撃て!」との命令を下した。・・路上には6名の死者と多数の負傷者が倒れた。発砲は、同時にミルウォーキーなどの8時間制運動と成果をすべて押しつぶした。

 ニューヨークでも多くの工場が8時間制、9時間制の要求を勝ち取った。勝ち取った労働者の数は10万人近くに及んだ。15時間労働だったパン焼きなどの職場でも12ないし10時間に短縮させた。市街鉄道員は、労働時間を5時間も短縮させ、一日12時間にした。5月3日にはボルティモアでかつてなかったほど組織化された2万人労働者が、最も規模の大きいデモを敢行した。
 ピッツバーグでは、家具職人が、20パーセントの賃上げと10 時間から8時間への労働時間短縮を要求して、ストライキに入った。大工は、9時間労働と10パーセント賃上げを要求してスト入った。石切り工は、直ちに、9時間制を獲得した。ピッツバーグ とアルゲニーでは、パン焼き工たちが労働時間短縮を要求して、160店のパン屋のうち、120店を閉鎖した。ペンシルヴァニアインペリアルでは、坑夫たちが、1ブッシェルにつき0.5セント値上げするよう要求してスト入りした。石炭船の水夫たち1500名は賃上げに成功した。また、今後、土曜日に、午後4時には職場を離れることになったので、馬蹄工たちは大喜びしている」と、ある労働新聞は報じている。トロイでは2000名のストーブ製造工と建築など5000名がストライキをした。鉄道労働者もストに参加した。グランド・ラビッズでは、家具労働者数千名が8時間制を要求し集会を開きストに入った。デトロイトでも多くのストがあった。ミシガン車両工場にスト破りの警官60名が整列した。それぞれの工場にはスト労働者が群がり、スト破りの労働者に「恥知らず」「腰抜け」「出てこい」と罵声が浴びせた。こうした闘いが実って10分の9の労働者がストに参加した。セントルイスでも配管工、水道工事、大工らが8時間制を求めストライキをした。インディアナポリス、ケンタッキー州、ワシントンⅮ・Ⅽ、テキサス州、コネチカット州、メーン州などで8時間制を求めるストライキが行われた。

(シカゴ)
 8時間運動の中核は、シカゴにあった。労働騎士団の地方支部、 労働組合主義者、無政府主義者たちはほぼ全員が、1986年5月1日のストライキを呼び掛ける8時間運動を支持した。4月には一連の大きい大衆デモが、それぞれ2万5000人以上の規模でおこなわれた。「ほとんど誰もが、この熱意の高まりとシカゴ労働者のすぐれた組織力で、運動が成功するにちがいないと確信していた」。
 他方の敵側でも、同様の準備がおこなわれた。警察は緊急事態にそなえていた。州軍は、街頭での混乱に即座に駆けつけられる態勢にあった。指導的な実業家たちは、シカゴ市民協会という委員会を設け、「情勢がなんらかの介入を要請した場合の行動計画について合意するために」ほぼ継続的な会合をもった。

 以前から新聞は、実業家たちが反ストライキ戦闘武装隊を編成していること、また州軍を拡大 していることを報じていた。「ひとつの大きな営業所だけで、150名の若者の反スト武装組織があった。かれらは、レミントンのライフルで武装し、規則的な訓練に従っていた・・・」。

 ストライキ前夜、『タイムズ』がシカゴから次のように伝えた。 「この48時間のうちに、2000ドル近い金が商業クラブの多くの会員によって寄付された。その金で、イリノイ州軍第一歩兵連隊のために機関銃を購入するようにと提案されている。このアイデアは、連隊の視察と訓練の折にもちだされ、暴動が発生した際にこうした銃が州兵の手元にあれば貴重な武器となろう、との意見が出て、ただちに採用されたのであった」。 
 メーデーまでに、シカゴにおける運動はすでに著しい成果を勝ちとっていた。1000名の醸造者は、今までの16時間を10時間に労働時間を短縮させた。また、それまで14時間ないし18時間働いていたパン焼職人1000名は、10時間労働にさせることができた。大部分の家具製造工は、時間当り賃金25パーセントの増加と8時間労働を勝ちとった。衣服裁断師1600名は、8時間労働に 対して10時間分の賃金を獲得した。タバコ、靴、ラード油、包装等のいくつかの会社でも、同じく労働時間を短縮した。しかしながら、他の大多数の労働者は、まだ勝利するためには必死に闘わねば ならなかった。煉瓦積み工・石工ら4000名、煉瓦製造工1500名、金属労働者1200名、肉屋、大工、桶屋、木り職人、靴屋、 家具職人、鋳造工等がそうであった。
 5月1日、『イリノイ・ステート・レジスター』紙はこのように報じた。「警察の最高幹部は、過去数週間にわたり、労働運動についての不安を鎮めようとしてきたが、それを中止した。かれらが今考えていることは、ただ・・・非常に困ったことになるだろうということだけだった」。5月1日のその日、材木切り出し人1万名、貨物運搬人2500名、 大工・木工細工人5000名を含めて、約3万名がストに入った。おそらく、その2倍の人々が、デモの周りにいたか、 デモに加わっていただろう。貨物運搬人たちは、落ちあって、鉄道貨物操車場を一巡し、2つを除く全鉄道の仲間をストに連れ出した。材木切り出し場に雇われている約1万名のボヘミア人、ポーランド人、ドイツ人らは、音楽と旗で、町中を行進した。その人数が圧倒的に多かったためであろうか、警察との激しい衝突はなかった。

 多くの労働者がストライキに参加していた。 『ジョン・スウィントン紙』のある通信員は、感激してこう伝えている。「まさに8時間ブームである。われわれは次から次へと勝利を手にしている。今日、ユニオン・ストック・ヤ ーズの包装工場は、すべて屈服した。・・・ 労働者は手にした大勝利に喜びの声をあげている」。 しかし、その日、警察は、マックコーマック工場でスト破りたちを攻撃した群衆に向かってピストルを発射し、4名を射殺、多数を重態に陥らせた。ここにいたって、事態は深刻化し、翌日、群衆と警察との間で激しい街頭闘争が繰りひろげられた。警察の無謀さに抗議するヘイマーケットの大会をはじめ、その夜多くの抗議集会が開かれた。

(ヘイマーケット事件)
 ヘイマーケット大会には、わずか1200名ほどが参加しただけだった。雨が降りはじめ多くの人は退散していった。最後の演説者が、ちょうど「終りにのぞんで・・・・」と言いかけたとき、驚いたことに、180名の警官隊が進入してきて解散せよ、と命令した。そして、演説者が壇からとびおりたとき、突然どこからかダイナマイトが飛んできて警官の群のなかで爆発し、1名が死亡、約70名が負傷した。警官は隊をたて直して群衆に発砲し、1名が死亡、多数が負傷した。

 この後、庶民はヒステリー状態に陥った。翌日、あるシカゴの弁護士が次のように書いている。「私は、人々がかたまって話している多くの群れの傍を通ったが・・・前夜の事件についてのかれらの興奮した会話を聞きもらさなかった。誰もが、集会での演説者や他の労働者扇動家たちが恐るべき犯罪の下手人である、と思いこんでいた。"まずやつらを吊るし首にしろ、裁判はそのあとだ・・・." というのが繰り返し聞いた文句だった。その雰囲気は、怒りと恐怖と憎しみに満ちていた」。国中の新聞がこぞってそのような感情をかきたてた。たとえば、『ニューヨーク・タイムズ』は、次のように書いている。「南北戦争以来アメリカ合衆国で起ったいかなる治安撹乱も、火曜夜のシカゴでのアナキストたちによる警官殺害ほど、国中の公衆の感情をかきたてるものではなかった。われわれは、この殺害という言葉の意味を十分に知りつくしたうえでつかっている。その犯罪を暴動として語るのは馬鹿げている。すべての証拠が、それがあらかじめ申し合わせたものであり慎重に計画され、冷酷に実行された殺害であることを示している」。

 爆弾によってひきおこされた庶民の興奮は、労働者一般に向けられた。当時、匿名のシカゴ市民が投稿して言っている。「新聞は、この騒ぎを利用して、社会主義者、アナキスト、罷業者を、その相互の区別なく、一括して取り扱っている。その結果、労働者の運動は損害を被ることになろう。しばらくは凪ぐかもしれない。が、そ のうち恐ろしい反動が起るであろう・・」。ジョン・スウィントン は、次のように述べた。「あの爆弾は、労働運動の敵方にとって、思いがけぬもうけものであった。かれらは、労働者が達成しようと しているすべての目標に対する爆発物として、また、資本家が維持しようとしているすべての悪を守るための爆発物として、その爆弾を利用したのである」。

 シカゴのカーター・ハリソン市長は声明書を出し、群衆や行進やその類のものは、現状況において「危険」であるから、その種のすべての集まりを解散させるように警察に命じたと宣言した。早速、警察の捜索網がはられた。2日以内に、50もの過激派の「巣窟」とおぼしき場所が手入れされ、少しでも過激派に関係あると思われる者は逮捕された。「主要な警察署は、アナキストたちと火曜夜に暴徒たちのなかから逮捕された人々で満員である。デスプレーン街の署だけで50名以上、州兵部隊本部に約75名、12番街の暑には25名ほどが拘留されている」と報道された。逮捕された者の大部分は正当な逮捕令状なしであり、しばらくの間、かれらに対してなんの特定の罪状もあげられなかった。当時、あるシカゴの社会主義者が、ウィリアム・モリスにこう 書き送っている。
 「一週間前まで、言論・報道の自由は、最も烈しい反社会主義者によっても問題にされることのない権利であった・・・.。今日、 すべては変った。社会主義者は狼のように狩りたてられて いる・・・。シカゴの新聞は、声を大にして、著名な社会主義者全員の身柄を求めつづけている。いま、シカゴでは、自分が社会主義者だと宣言すると、すぐに捕えられてしまう。すべての社会主義の新聞に所属する者も逮捕されており、新聞はつぶされてしまった。」
 捕えられたアナキストのうち7名は裁判にかけられ、死刑を宣告された。4名は結局絞殺されたが、事実上の爆弾事件に関与したという何の証拠もなかったのである。
 
 ヘイマーケットのヒステリー状態は、全国の法と秩序を守る勢力が行動に出るきっかけを与えた。オスカー・アメリンガーは、シンシナッティにおける8時間制ストライキへのその影響を、次のように述べている。当初、それは、「楽しいストライキ」だった。勝利は確実のように思われた。なぜなら「反対勢力が背後に退いていたからだ。ほとんど誰もが労働騎士団に入ったのではなかろうか」。しかし、士気は衰えはじめた。そして、ある日新聞の売り子が 「シカゴのヘイマーケットでアナキストたちが爆弾を投げ、100名の警官を殺したぞ―」と怒鳴ったのである。そのシカゴからの悪い報せは、ひどく冷たい毛布のように、われわれ罷業者のうえに覆いかぶさった」とアメリンガーは書いている。「われわれの以前の友だちやシンパにとって、それは、急速に運動が消滅してしまう合図の響きであった。弱体な騎士団のいくつかは落後していった・・・そして警官はさらに数を増し、ひどいやり方で臨むようになった」。

  州軍第一連隊は、シンシナッティ本部に駐留しており、コロンバとスプリングフィールドからの3連隊は、10マイル離れたカーセイジに野営していた。かれらは、必要とあらば、20分で町に運んでくれる特別列車を常にそばに用意していた。5月10日までたいていの職種では、8時間労働に対し9時間分の賃金を払うということで妥協が成立していた。ただ家具製造工たちだけがストライキを続けていた。が、それらの成果もストライキも次第に崩されていき、労働者たちは仕事にもどった。

 士気阻喪と妥協のパターンは、国中どこでも同じだった。
 1886年の大衆ストライキは、あらたな産業労働者階級が、その生活と労働の諸条件になんらかの統制を加えようとして自分たちの力を行使しようとした、ひとつの試みであった。南西ストライキは、鉄道の運営に直接二重権力をうちたてようとしたものであった。また、8時間ストライキは、労働者が人間であり、その生活は労役の中で消耗されつくしてはいけないと主張し、同時に最低の賃金で最大の労働を得るために、長時間労働と高い失業率を保持していこうとする意図的な政策に、打撃を与えたものであった。そのような運動は、ヘイマーケットのヒステリー状態を皮切りとして、かって南西ストライキに対抗して展開された諸技術を用いる、苛酷な反動の波に遇った。
 「労働組合の乱用を抑え、さらには粉砕しようとまでする雇用主協会の形成が、津波のように」発展していった。9月ごろ、ある指導的な労働ジャーナリストが次のように書いている。「5月1日以来、いくつもの会社と雇用主協会が、この2、3年にめざましく伸びてきた労働者組織の力をうち破るため、あらゆる手段を講じている」。
  数多くの中から、2つの例をここでとりあげておこう。 ニュージ ャージー州ジェイムズバーグのシャツ製造業主協会は、労働騎士団に加入しているとわかった労働者2000名をロックアウトした。 また、ニューヨーク、ブルックリン、プロヴィデンスの銀製品製造業主は、協会を設立し、同様の理由で、1200名の労働者を閉め出した。数千人が解雇されただけでなく、ブラックリストに載せられ、どこへいっても職が得られないようにされた。そして、決して労働者組職には加わらないと労働者に誓わせる「破りえぬ誓約」のちに「黄犬契約」として知られるようになったが、これが雇用されるための必要条件として全米の企業に広まっていった。

労働者の連帯と権力を求める運動は、こうしてつぶされてしまったのではあるが、しかしながら2年もたたないうちに、再び生起きする。

<再び決起!>
1888年アメリカ総同盟「再び決起!」を決議。
1890年5月1日全世界で第一回国際メーデー。スローガン【万国の労働者団結せよ!】
アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・・・・・「8時間労働制」要求して世界の幾百万の労働者が一斉にストライキに決起します。
(日本では1920年第一回メーデーが上野公園で5000名、15労組で開催)。



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