与志枝さんが畳紙にくるまれたお父さんの絵を出してきました。光安は「親父の絵はない」と聞いていましたので大変驚きましたが、きっと母の冨美さんが絵に無頓着な正美さんより嫁の与志枝さんに管理をまかせたに違いないと思いました。
素描46点、油絵4点、それに坂本繁二郎が恩師である三美さんに出した絵入りの書簡が出揃いました。光安はこれは大事ではなかろうかと察し、画廊顧問の福田安敏先生や西日本新聞に連絡をとり作品に対する向合い方や解釈の仕方について所見や情報を集めました。
「櫨の国の画家たち」を著した、西日本新聞社の吉田浩さんは、
「森三美は名前ばかりが先行して、作品についてはあまり知られていない。これほどの作品が没後67年経ってあらわれるとは実に興味深い。作品は日本洋画の創世記を裏打ちする繊細で緻密な線、正確な把握力がある」
と評価します。
大宰府から駆けつけた谷口鉄雄元北九州市立美術館長は
「これだけの人がいたからこそ、繁二郎や青木繁など天才が生まれた」
と激賞します。
マルミツ画廊の人脈を総動員して、1980年5月11日、森三美素描展はオープンしました。西日本新聞社の吉田浩さんは、この展覧会を紹介する見開きの案内状を次のようにしたためました。
「筑後は、日本で最も画家密度の高い地域である。青木繁、坂本繁二郎や古賀春江、あるいは現存の田崎広助や藤田吉香など、日本の洋画檀史に欠かせない多くの画家を生んできた。現在も東京、地元で重要な位置を占める画家は数えきれなく、洋画の“筑後人脈”を形成している。この山脈の源が、青木、坂本に手ほどきし、大画家の道を切り開いた森三美である。・・・」
展覧会は画廊を通りすがりに立ち寄る人は少なく、遠くから馳せ参じる専門家、研究者の注目を集めました。
「明治中期に洋画を学び、美術教師としての真摯な姿勢がある」
「初期印象派の画風を学んでいる」
「才気溢れるというよりも、精密な線で克明に描かれており、日本洋画黎明期の一画家が、真剣に対象に立ち向かっている」
「若い青木繁が好んで用いた青紫が多い」
「"肥前田舎風景"は他の作風とは異なり、坂本繁二郎あるいは松田諦晶の風景を思わせるタッチと色彩だ」
いずれも見る眼が研究的です。おそらく筑後洋画山脈についていろんな仮説を立て、議論をふくらませるに違いありません。
展覧会はさらに波紋を広げ、先に行動を起した久留米市の石橋美術館がこの作品を移動して拡大展覧会を開きました。北九州市美術館は地元から発信したい気持ちから名誉挽回を図りましたが成功しませんでした。
光安は声を強めて
「この展覧会は面白かった」
と回顧しています。
素描46点、油絵4点、それに坂本繁二郎が恩師である三美さんに出した絵入りの書簡が出揃いました。光安はこれは大事ではなかろうかと察し、画廊顧問の福田安敏先生や西日本新聞に連絡をとり作品に対する向合い方や解釈の仕方について所見や情報を集めました。
「櫨の国の画家たち」を著した、西日本新聞社の吉田浩さんは、
「森三美は名前ばかりが先行して、作品についてはあまり知られていない。これほどの作品が没後67年経ってあらわれるとは実に興味深い。作品は日本洋画の創世記を裏打ちする繊細で緻密な線、正確な把握力がある」
と評価します。
大宰府から駆けつけた谷口鉄雄元北九州市立美術館長は
「これだけの人がいたからこそ、繁二郎や青木繁など天才が生まれた」
と激賞します。
マルミツ画廊の人脈を総動員して、1980年5月11日、森三美素描展はオープンしました。西日本新聞社の吉田浩さんは、この展覧会を紹介する見開きの案内状を次のようにしたためました。
「筑後は、日本で最も画家密度の高い地域である。青木繁、坂本繁二郎や古賀春江、あるいは現存の田崎広助や藤田吉香など、日本の洋画檀史に欠かせない多くの画家を生んできた。現在も東京、地元で重要な位置を占める画家は数えきれなく、洋画の“筑後人脈”を形成している。この山脈の源が、青木、坂本に手ほどきし、大画家の道を切り開いた森三美である。・・・」
展覧会は画廊を通りすがりに立ち寄る人は少なく、遠くから馳せ参じる専門家、研究者の注目を集めました。
「明治中期に洋画を学び、美術教師としての真摯な姿勢がある」
「初期印象派の画風を学んでいる」
「才気溢れるというよりも、精密な線で克明に描かれており、日本洋画黎明期の一画家が、真剣に対象に立ち向かっている」
「若い青木繁が好んで用いた青紫が多い」
「"肥前田舎風景"は他の作風とは異なり、坂本繁二郎あるいは松田諦晶の風景を思わせるタッチと色彩だ」
いずれも見る眼が研究的です。おそらく筑後洋画山脈についていろんな仮説を立て、議論をふくらませるに違いありません。
展覧会はさらに波紋を広げ、先に行動を起した久留米市の石橋美術館がこの作品を移動して拡大展覧会を開きました。北九州市美術館は地元から発信したい気持ちから名誉挽回を図りましたが成功しませんでした。
光安は声を強めて
「この展覧会は面白かった」
と回顧しています。