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自遊人の時間


毎日ブログを書くのもしんどいし、気が向いた時だけ書くことにしよう!

私の価値は四分の一に下がる

2006年05月12日 | 想い
先日、全労災から「契約更新のご案内」の小冊子が届く。
総合タイプから総合60歳移行タイプになるという事らしい。
それで保障内容がどのように変わったか、下記の通り。

(総合タイプ)
 ・交通事故で死亡、障害が残ったとき  1、200万円
 ・不慮の事故で死亡、障害が残ったとき   800万円
 ・病気等で死亡、障害が残ったとき      400万円
 ・交通事故で入院したとき   (日額)5、000円
 ・不慮の事故で入院したとき  (日額)3,000円
 ・病気等で入院したとき     (日額)1、500円

(総合60歳移行タイプ)
 ・交通事故で死亡、障害が残ったとき   300万円
 ・不慮の事故で死亡、障害が残ったとき  200万円
 ・病気等で死亡、障害が残ったとき     100万円
 ・交通事故で入院したとき     (日額)4、000円
 ・不慮の事故で入院したとき    (日額)3,000円
 ・病気等で入院したとき       (日額)1、500円

上の数字を見て分かるように、
死亡・重度の障害が残ったときの保障額が四分の一に大幅減額になっている。
歳を取るほどに死亡の確率は高くなるので、
保険の理屈からすれば当然といえば当然かも知れないが、
これを見て失望するやら唖然とするやら。
あなたの命はこれだけのものですよ、と宣言されたようなものだ。
益々生き難くなってはいるが、これじゃー迂闊に死ぬ事は出来ないやね。

介護、そして死

2006年05月07日 | 想い
これは人間の話ではない。犬の話だ。

GW三連休の快晴と打って変わって、昨日は午後から雨が降り出した。
少し長めの昼寝から目覚め、いつものクセでテレビのスイッチを入れる。
しばらくぼんやりテレビを見ていた。
そのうちNHKのテレビで老犬介護の話が出てきた。
番組名は「にんげんドキュメント 老犬クー太18歳」
中高年夫婦が、老いて身体が衰弱、自分自身ではどうにも出来ない老犬を懸命に介護し、
最後は死を見取る話。避けては通れない悲しい結末。

日本国中で似たような話が多いと思うが、この話は他人事の話ではない。
我が家にも介護を必要とする老犬ベスがいる。
右足に骨肉腫を患い、痛みからかビッコをひいて歩く。
骨も細くなり、筋肉も落ちているので骨折する可能性も大いにある。
骨折したらこの先どうしたらいいんだろうか、と思い悩む。

犬の介護も、人間の介護も同じ様なものだ。
本当に延命治療をする事がいいんだろうか、と何時も思う。
人間の満足心のために、犬は心身の苦痛を堪えなければならないのか。
何時まで経っても納得のいく結論は出ない。

私が家族に伝えておきたい事

2006年04月30日 | 想い
それは私の遺言みたいな事。
それは私がもう大分前から考えている事で、家族にぜひとも実行してもらいたい事だ。

私だけでなく、誰でも何時かは必ず死んでしまう。
ひょっとしたら明日かも知れない。意外に長生きするかも知れない。
そこで、私が死んだ時の話だが、家族に実行してもらいたい事が2点ある。
それは、通夜・葬式は一切しない事。
そして、よく知っている裏山の見晴らしのいいところに散骨してほしい事だ。

そのように思うようになったきっかけは下記の文章だった。
もう3年程前の朝日新聞に掲載されていた山折哲雄氏(国際日本文化研究センター所長)の文章の一節。

自分が死んだあとは、葬式をしない、墓はつくらない、遺骨は残さない、と心に決めている。
私の三無主義である。
もっともその通りに実現されるかどうかは、世の中はとかく無常(無情!)であるからわからない。
周辺の親しい何人かに、そうお願いしているだけである。
(略)
さて、粉末になった骨灰をどのようにして散布するのか。
知人たちが旅行に出るようなとき、一握りずつそれをもっていって、
適当な場所に撒いてくれれば、それが一番いい。一握り散骨である。

わがままに徹すること

2006年04月27日 | 想い
最近の私は、自分の考えや想いを正当化するための文句や文章を探しているフシが見受けられる。
自分の考え方や想いを、潜在的な部分も含めて的確に表現出来ない自己能力に見切りをつけて、
他人の力を安易に借りて自己主張、正当化しようとするキライが強い。
自分自身の語彙、文章力を持ち合わせていないのだから、どうあがいてみても仕方がない。

そこで最近目に入った文章があったので、その本から無断で拝借する事にした。
その本は、野口三千三著の「原初生命体としての人間」
本のタイトルを見ると、何だコリャ!と言いそうな本のようだが、
中身を読んでみると意外に面白い事が色々と書いてある。
例えば、ヒトの乳房はなぜそこに二つあるのか、とか
大便の「香り」はほんとうに悪臭だろうか、とか色々。

横道に反れたので本題に戻そう。下記の文章が気に入った。

わがままに徹すること、それによってしか責任をもつことはできない。(略)
まるごと全体の自分が、ほんとうにどうしてもと感じるなら、
まったく自分勝手にやってみることだ。
そうするより他に自分が生きている実感・生きがいは生れてこない。
自分の感じている一番大事なものが、他人に通じようが通じまいがそれは二の次のことだ。
他に通じさせようとする一切の妥協、卑劣なおもねり、愚劣なサービス精神は、
みずからを損なうだけでなく、観客を侮辱し愚弄する以外の何ものでもない(略)
人類のために、国家社会のために、階級のために・・・・・。
そんなことはみんなうそっぱちだ。人のためにということが偽りなのだ。
自分自身のために・・・・それに徹することこそ、ほんとうの生き方だ。

情けは人のためならず

2006年04月24日 | 想い
このところずっと、私は我が家のマッサージ機を使っている。
少し前までは、私は肩凝りをほとんど感じたことは無かった。
まさかマッサージ機の世話になるとは思ってもいなかった。

私の肩凝りの原因は、愛犬ベスの散歩の介護。
右足を痛めているので、約26㎏の体重を支えてやらなければならない。
散歩中、身体を上の方に引っ張り上げるようにするので、どうしても肩や肘に負担がかかる。

今使っているマッサージ機は、昨年妻のために買ったものだ。
妻は常に肩が凝るらしく、一時はマッサージをしてもらいに行っていた事もあった。
それを見かねて、大金を叩いて、内心泣く泣く買ったマッサージ機だ。
それまで肩凝りなど感じたことの無い私は、運動不足からきている、とばかり思っていた。
血の巡りが悪いから凝るんであって、運動して血の巡りを良くすれば解決する、
というくらいにしか考えていなかった。

しかし、いざ自分が肩凝りになってみると、そのような考えは空論だったことが分かった。
自分で肩が凝って初めて、肩凝りの辛さが分かった。
現在、妻のために買ったマッサージ機が、多少なりとも自分から辛さを救ってくれている。

神や仏は存在するのか

2006年04月22日 | 想い
最近読み終えた遠藤周作著「わたしが・棄てた・女」の中の一場面。
場所は癩病院。主人公 森田ミツがスール(修道女)・山形にたずねた。

「あの人たち、いい人なのに、なぜ苦しむの。だってさ、こんなにいい人たちなのに、
なぜこれほど可哀想なめに会うのよ。」

「あたしも、その問題を毎晩、考えるわ。」
「眠れぬ夜に、考えるわ。世の中には心のやさしい人ほど辛い目に会ったり、苦しい病気にかかったりするのね。なんのために神さまはそんな試練を与えるのか、あたしもよく考えるわ。(略)
そんな時、わたしは自分が信仰している神さまのことまで、わからなくなる時もあるの。・・・・・でも、あとになって考えなおすのよ。この不幸や泪には決して意味がなくはないって、必ず大きな意味があるって・・・・」

こんな問い、疑問は、特別な場所だけでなく、普通に日常感じることだ。
特に最近の死亡事件とか死亡事故のことを考えると、
「なぜ?」「どうして?」ということが多過ぎる。
全く何の関係も無い善良な市民が殺されたり、亡くなったりしているケースが目に付く。
神や仏はどのように説明するのであろうか。

こんな時、必ず神は「沈黙」をする。仏もだろう。
神や仏は存在するのか、永遠のテーマかも知れない。

しかし、私は毎朝夕仏壇に拝み、毎月1回墓参りをする。




休みたいけど

2006年04月20日 | 想い
時によると、このブログで書きたい事が無くなる時がある。
そんな時、無理して書くこともなかろう、と言う自分がいる。
しかし一方で、今まで続けてきたのだから何とかしたら、と言う声も自分の中に聞こえてくる。
そんな時、先月読んだ幸田 文の「台所のおと」の一節を思い出す。
前後の話を省略するので、何のことか分からないかもしれない。

「それならなおのこと、言訳のきくきょう一日だけは休みたいけど」

「休んでみな。一日分は言訳があるが二日目はないぜ。
ところが一日休むと、二日目はもっと休みたくなるものなんだ。
今日までにおれは何度もおぼえがあるんだが、
神経がだんだんにしなびてきた時には 休んじゃだめなんだ。
二日目にはガタっと気後れがして、もう欲も得もなく愚図ついちまうんだ。
一日休めばらくになると思うところが、しろうとの浅墓だ。
でもまあ、たって休みたけりゃ休んでもいいさ」

「台所のおと」は短編小説ではあるが、情感あふれたいい小説だと思う。
台所から発せられる様々な音を通し、小料理屋を営む夫婦の心の交流を描いている。

 

新しいデジカメは

2006年04月17日 | 想い
現在、デジタルカメラを2台持っている。いずれもコンパクトデジカメだ。
最初に買ったのは、キャノンのパワーショットA70(320万画素)で、15年12月に購入。
次に買ったのは、カシオのEX-S100(320万画素)で、17年1月に購入。
携帯性と液晶モニターの大きさ(A70は1.5型、S100は2型)で、
もっぱらS100の方ばかり使っている。(A70は箪笥に入ったまま)

ところが最近、この2台のデジカメに物足りなさを感じている。
別に大きく引き伸ばす訳ではないが、画質に物足りなさを感じている。
CCDが、A70では1/2.7型、S100では1/3.2型。
また、光学ズームがやはり物足りない。(両方とも3倍かな)
液晶モニターも、外の明るいところでは非常に見にくい。
それやこれやで、もうちょっとマシなデジカメが欲しいと思っている。

しかし、それじゃあ具体的に何にするかとなると非常に迷ってしまった。
画質的には一眼レフデジカメなら間違いないのだが、交換レンズなどを考えると躊躇してしまう。
予算的にもちょっと難しいが、日常の持ち運びの事を考えると、ウ~と考えてしまう。
かと言って、コンパクトデジカメには色々と限界が感じられて、もう一つ踏ん切りがつかない。

画質が良くて、携帯性に優れていて(ポケットに入るくらいの)、光学ズームが10倍程度あり、
液晶モニターが大きく(2.5型)明るくて、しかも価格が5万円くらいのは無いだろうか。
寝言は寝て言え!と言われそうな気がする。

下手でいい、下手がいい

2006年04月04日 | 想い
確かこの言葉は、今中高年の女性に人気の絵手紙のキャッチコピー。
いいキャッチコピーだと思う。
本当に下手な人でも、やってみようかな、続けてみようかな、とその気になってしまう。
初めから上手な人はいない。
それはよく分かってはいる。しかし、もうひとつヤル気になれない自分がいる。

絵だけでなく、芸術的なものは全て、一流な物を見てしまったらもうダメだ。
楽しみにやればいいじゃあないか、と思うが、
自分の作品と一流とが余りにもかけ離れ過ぎて、やる前に絶望感のほうが先に立つ。
それで気が殺がれてしまうのが今までのパターン。

昨夜からNHK教育テレビで趣味悠々「風景スケッチ」が始まった。
これまでも同じような番組を何度か見ていたが、自分でやるところまでには至っていない。
また同じパターンだと思いながらも、また昨夜見てしまった。
同じところに踏み止まって、一歩も踏み出さないでいる。
一歩踏み出しても何の損もないのに、また踏み出してダメなら止めればいいと思えばいいのに、
自分でも自分がよく分からない。

私は自慢じゃないが、道具だけはちゃんと買い揃える。
何時でも出来るような環境は出来ている。
私は道具を用意することだけでやった気分になって満足している。
そんな私を見て、家人は陰で冷ややかに呆れかえっている。

前向きな言葉

2006年04月03日 | 想い
前向きに生きている人、2人の言葉を紹介し、
現在後ろ向きになっている自分の戒めとしたい。
前向きに生きている人の考え方と言おうか、気持ちはさすがに違うな、と感心する。
折角こんな言葉に出会うのだから、ほんの少しでもいいから自分に受け入れたいものだ。

一人目はシンガー・ソングライター小椋 佳さん(62歳)

「老いがくると、どうしても下り坂を静かに歩いて行きたい気になってしまう。
でも、ただ下り坂を見ているのは寂しい。坂道は、向きを変えれば上り坂。
事実として体力的には下り坂だとしても、
意識的に上り坂であるという状況をつくり、創造的になることが大切です」
(朝日新聞 2006年3月31日付アスパラクラブ「上り坂を歩きたい」より)

二人目の人は、HPで戸田ゼミ通信を主催している戸田敦也さん(63歳)

「考えてみたら、未来はどうなるか予想するものではなく、どういうものにするか、
自分の意思をこめて創り出すものだと考えるべきものかもしれません。
見えない未来に対して、自分がどうありたいのかを描き、
それに向かって行動することで自分の未来が決まってくるのではないでしょうか」
(第231回 2006年4月2日付「自分の人生は自分で創り出すものです」より)
http://todaseminar.com/toda/