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自遊人の時間


毎日ブログを書くのもしんどいし、気が向いた時だけ書くことにしよう!

晩年の魯山人は いと哀れなり

2006年06月29日 | 想い

図書館で、何かいい本がないかと探している時、
フト目に付いたのが阿井景子著の「おもかげ」という本だ。
この本の何に惹かれたかと言うと、北大路魯山人の話が出ていたからだ。
多少なりとも陶器に興味を持っている私は、魯山人という人に関心がある。
著者が口述筆記者、編集者として出入りし、そこで垣間見た人間:魯山人の姿が描かれている。

著者に言わせると、魯山人は一言で言うと“狂気”の人であったらしい。
不義の子魯山人は、生れ落ちたときから邪魔者で、まわりから過酷な扱いをうけている。
人を恋しながらも妻子を人を愛せなかったのは肉親の情愛を知らずに育ったからと著者は推察する。
結局、家庭に恵まれず、孤独で淋しい晩年であった。
妥協することが少なく、自己中心的で、無邪気で、純粋でもあった。
怒りを発散させてしまうせいか、持続力が欠落していた。
みごとなまでに人を差別し、無教養で気働きのない人間を嫌い、低く扱っていた。

使用人に恵まれぬ魯山人は、ここ数日、銀座のレストランから取り寄せたというタンシチューをあたため返しては食していた。洋間のテーブルを動かず、ビールを飲み、小さな肉片を咀嚼している魯山人は、団欒がないだけに哀れである。灯火が暗いせいもあるが、美味を楽しんでいるようには映らない。美味なものをより美味に味わいたいという、魯山人らしくなかった。私は、顔半分を翳にしている魯山人を、縁台のところから眺めながら、侘びしい気分になる。荒廃した邸内を知るだけに、魯山人の老いが痛ましかった。

いい人とは

2006年06月26日 | 想い

日常会話の中で「あの人はいい人だね」と言う言い方をする。
「いい人」ってどんな人なのか、とフト思ってしまう。
分かっているようで良くは分かっていない曖昧な表現だ。

何かのキッカケで好印象を持つケースが一般的であろう。
そしてお互いに好意を持ち、相性がいい関係で成り立つのだろうと思う。
「いい人」のイメージとしては、優しい人、穏やかな人、真面目な人、親切な人、
知的な人、バランス感覚のある人、信用出来る人、私利私欲の無い人、心配りの出来る人、
他人を思いやることの出来る人、義理人情に厚い人、まだまだあると思う。

だけど、全ての人に対して分け隔てなく出来る人がどれだけいるのだろうか。
たまたま自分に対してそのような対応をしてくれると「いい人」になるのではなかろうか。
自分にとっては「いい人」であっても、他の人は違った感じを持つケースが多いのではなかろうか。
要は、ほとんどの場合、自分に対して良ければその人は「いい人」になるんだと思う。

親子・孫関係にだってあると思う。「この子(あの子)はいい子だ」と耳にする事がある。
この子(あの子)自身にあるのではなく、父母・祖父母の側の受け取り方にあるような気がする。

私は60歳で死にたいと思っていた

2006年06月21日 | 想い
私は、10年前か15年前か定かで無いが、漠然と60歳で死にたいと思っていた。
その頃、生きていくのが苦しいとか悩みがあった訳ではなかったが、
単にダラダラと長生きしたくなかっただけの単純な考えだった様に思う。
考えると、何時の間にか死亡願望の60歳になっている。まだ死んではいない。
60歳が終わるまでにまだ半年あるので、60歳死亡は叶えられるかも知れない。
かと言って、その為に自殺などしようとはツユ思わないし、そんな勇気も無い。

今、邱 永漢氏の「私は77歳で死にたい」を読み始めたばかりだ。
その当のご本人も現在82歳で、死亡願望年齢を遥かに過ぎて現役バリバリで活躍されている。
著者は77歳で死ぬことを65歳の時に決めたらしい。
著者の言いたい事は、ダラダラと生きておられるだけ生きるのはやめて、
生きたいだけ生きたら、さっさとおさらばをする。(この辺は同じ感じ)
77歳と終着点を決めてしまうと、残り時間が決まってしまい、
その間にどうしてもやりたいことがあったら、計画は残り時間から逆算して立てなければならない。

要は、漠然と平均寿命まで生きられると思ったら(錯覚だが)、何もしないし何も出来はしない。
残り時間を計画的に有効に、精一杯生きなさいよ、と積極的な提言だと解釈している。
そこに著者と私との間には大きな意識の違いがあり、その後の生き方が違ってきている。

疑心暗鬼か? 被害妄想か?

2006年06月20日 | 想い
毎日新聞のコラムに「しあわせのトンボ」というのがある。
近藤勝重氏が書いているコラムで、ユーモアがあり含蓄溢れるコラムだ。
6月14日付の「男と女の時間」を読んで、ウ~ンと考えさせられた。
要約すると次のような事だ。

30代らしき女同士の会話。
夜、マンションに男がやって来る。それは歓迎だが、なかなか帰ってくれない。
一人の女がボヤキ気味に話している。いくら彼氏でもずっと一緒だと疲れる。
いつもの気楽な時間がふとほしくなる。
(中略)
一方、亭主が定年を迎えるころの奥さんは、気楽な生活を楽しんでいる。
そこへ定年亭主である。こちらは「早く帰ってほしい」なんて言える相手ではない。

後半部分が私にはどうにも心の内に引っ掛ってしまう。
今は老犬の介護で妻と二人、毎日ベッタリと終日顔を合わせざるを得ない。
しかし、問題は介護が終わってからの話だ。
妻から内心「早く帰ってほしい」と言われても、私は帰る処はどこにも無い。

こんな事を書いたら、妻から即刻「私は一度だってそんな事を考えた事はありませんよ。大体、人聞きが悪いじゃありませんか。これじゃあ私がいかにも悪妻に聞こえるじゃあないですか!つまらない事を書かないで下さいよ!!」
と言われるのが耳の奥にビンビン響いて来そうな予感がする。

可愛いと言うのは

2006年06月14日 | 想い

私は、基本的には幼児・子供は好きではない。(もっと言えば大人もだ)
ガーガーうるさいし、自分の好き勝手に振舞うチビども多いからだ。
愛嬌のある子はいいが、人の顔を見ても無表情とか泣き出す子にはウンザリだ。
また、本当に可愛い子には素直に表現出来るけど、
可愛いくも無い子に「可愛いですね」と平然とウソを言う程の社交性は全く無い。
世の中には、どこを褒めようかという子だって結構いるものだ。

孫の両親は親バカだから論外として、わが孫はヒイキ目に見てもマズマズだと思う。
マズマズだから可愛いと思うのだろうか、という疑問がフト湧いてきた。
可愛いくない顔をした孫を目の前にして、私は笑顔で素直に抱きかえるだろうかと思う。
よく世間では「孫は可愛いよ」と言うけど、本当はどうなんだろうか。
屈折した考えを持つ私は、時にフトそんな事を考える。

幸いなことに、わが孫は今のところそんな気持を全く起こさせないでいるが、
悪ガキに成長したら、とありもしない先の事まで早々想像たくましくしている。

人生に迷いはつきものか

2006年06月12日 | 想い
大手精密機器メーカーのセイコーが、団塊の世代を対象に意識調査をし、
その調査結果の一部分が要約されて新聞に掲載されていた。

「これまでの人生の時の流れ方」を13の2字熟語から答えてもらったところ、
「迷走」が男性で24%、女性で18%を占めてともに最多。
2位は男性が「独歩」(17%)、女性が「伴走」(14%)だった。

この調査結果を見て、私は意外な感じを覚えた。
13の2字熟語がその外にどんなものがあったのか分からないが、
まさか「迷走」が男女ともにトップとは。
「迷走」という言葉は私にだけの言葉だと思っていただけに、ちょっとショックだ。
一口に「迷走」と言っても、人それぞれに想いの違いがあるはずだが、
結構多くの人が「迷いながら」生きているんだな、とシミジミ思った次第。

自分の人生は自分で決める

2006年06月11日 | 想い
一昨日、あるブログに書かれていたものだ。

壮絶な事実を聞き驚いた。
3年前に妻を亡くして1人暮しのご老人がいた。
彼はある日突然死ぬことを決めた。
その方法は、食事を一切摂らないこと。
一升瓶を置き清酒だけを飲む。
子供たちや関係者のあらゆる説得を一切聞き入れず半年後に亡くなったという。
「自分の人生は自分で決める」という凄すぎる人生である。

私も「自分の人生は自分で決める」と常々思っていたが、
とてもこれだけの思いと実行は自分には到底出来そうには無い。
その人の背景が全く分からないから理解のしようもないが、
やはりそれだけ切羽詰まったものがあったに違いない。

仏教ではよく「自分が生きているのではなく、すべて生かされている」と言われる。
その言葉の本質を知らないせいか、私には半信半疑のところがある。
この人の「死ぬ」という選択は間違っているのだろうか。

心変わりは私のいつものクセ

2006年05月22日 | 想い

よくコロコロ心変わりをするのは昔から私のクセだから今さら珍しくも何ともない。
1年前くらいまでは、マスコミなどに踊らされて田舎暮し、スローライフに憧れていた。
実際、軽い気持で何度か田舎に土地を見に行ったこともある。

今少し心が傾いているのはマンション暮しだ。
元々私はマンション暮しは好きではなく、
出来ればこのまま一戸建てに暮したいと思っている。
しかし、今住んでいる家も築後30年を過ぎようとしており、
これから後20年何もしない(補修など)訳にはいかないであろう。
(後20年も生きると思っている自分がなんとも笑わせる)
また、今住んでいる処は坂道、階段が多くて年寄り向きではない。
それと、何時まで車に乗れるかも心配事のひとつだ。
先々色々の事を考えると一戸建てに固執せず、
買物・病院・交通に便利な場所でのマンション暮しも考える様になった。

この気持が何時まで続くかは私自身自信がないが、色々アンテナを巡らしておこう。
私自身の性格的なことも大きいが、年齢的なことで変わってきても可笑しくはないはず。


堺屋太一氏の提言から

2006年05月20日 | 想い

私は団塊の世代よりほんのちょっとだけ前の人間であるが、
YAHOO!セカンドライフの中で堺屋太一氏が
「定年を迎える団塊の世代」へ提言しているのが非常に参考になった。
私の勝手な判断で、以下の2点だけを要約して採り上げてみた。

・お金で子供に対して権威を保とうとする。
お金をやって子供を呼ぼう、側に置いておこうと必死になってしまうんです。
逆に子供の側からみると、お父さんやおじいちゃんのところへ行く理由はないわけです。
教えてもらえるノウハウも情報もないから。高齢の親たちがとくに面白いわけでもない。
こうして結局、子供の側からもお金をもらう以外に行く理由がなくなってしまうんです。
お金やモノで子供に対する影響力を持とうとは考えないほうがいい。

・私は10年も前から職縁社会から好縁社会にと言っているんです。
好縁社会をつくるためには、まず、自分が何を好きかを明確に知らなきゃいけないんです。
本当に好きなものを探すためには、まず第一に、そのことをしても人よりも疲れない、
ということを念頭に置くこと。他の人が2時間やれば疲れて嫌になるところを、
自分は4時間やっても平気だというものが本物なんです。
2番目は、そのことについて誰とでもしゃべりたくなるということ。
誰彼かまわず話したい、話さずにはいられないということが本当に好きなことなんです。
そういうものを探せばいいんです。

「お金やモノで・・・・」というのは、やりたくても出来ない私には全く縁がない話だからいい。
「本当に好きなもの・・・」というのは、ぜひ探してみたいものだが、
私にとっては非常に難しい課題だ。

私のサラリーマン成績表

2006年05月17日 | 想い

社会保険庁社会保険業務センターより老齢厚生年金の支払額について(お知らせ)が届いた。
支払額は既に知っていたが、改めて通知額を見ると愕然とする。
最低生活出来るような額には程遠い。
気楽に今こんなブログなんか書いている場合ではないはずだが。

しかし、冷静になって考えると、これが私のサラリーマンとしての成績表だ。
生活出来る出来ないは私ひとりの責任であって、誰が悪い訳ではないのだ。
支払額が極少なのは、単に私の働きが悪かっただけの事である。
働きが悪かったのと辛抱が非常に足りなかったからだ。

結局のところ、サラリーマンには辛抱が必要だと言う事か。
そんな事は大昔から言われている事だが、私の辞書に「辛抱」の項目が欠落していただけの事。
しかし一方で、大多数のサラリーマンより気ままに気楽に人生を歩いて来たとも言える。
私は誰に対しても「辛抱すれば何時か必ずいい事あるよ」とは絶対言わない。
何時かって何時だろうね。