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自遊人の時間


毎日ブログを書くのもしんどいし、気が向いた時だけ書くことにしよう!

知人K氏のこと

2007年03月05日 | 人物
知人のK氏と約1ヶ月ぶりに会って、お酒を飲みながら話をした。
私は日本酒の熱燗、K氏は焼酎のお湯割りを飲みながらの約4時間。
話をした、と言うのはK氏の方で、私はほとんど聞き役。
K氏は話好きということもあり、疲れもせずによくしゃべる。

K氏は現在69歳だが、どう見ても69歳には見えないほど実に若々しい。
K氏とはかなり昔に同じ職場で働いていた先輩ではあるが、遊び友達でもあった。
まだ私が独身の時、よくマージャンをしたりゴルフに行ったり飲んだりしていた。
その為、ゴルフをするため一緒にハワイへ行ったのが海外旅行の始まりだった。

K氏の毎日の日課は、ゴルフの打ちっ放しと昼寝だと言う。
毎日午前中、車で5分のところにある打ちっ放し場でゴルフをするらしい。
いくら好きでも毎日やるとなれば苦になりませんか、と聞くと別に苦にならないと返事が返ってきた。
毎月の打ちっ放し代がだいたい5万円、年にして60万円くらい払っていると平然と言う。

また、毎日午後から1時間半近く昼寝をするとの事。
そんなに昼寝をしていたら夜が眠れないでしょう、と聞くとそんな事はないとの答え。
そして、夜中トイレに起きる事はほとんど無い、と当然の如くに言う。
全く羨ましい事ばかりを聞いているうちに、私の方は少し呂律が回らなくなっていた。

吉田拓郎を応援したい

2006年10月26日 | 人物
録画していたNHK総合テレビのプレミアム10「今日までそして明日から」
(吉田拓郎35,000人の同窓会)を見た。
吉田拓郎&かぐや姫 Concert in つま恋2006の舞台裏ドキュメンタリー番組。
31年前のコンサートを復活、平均年齢49歳のファン35,000人が集った。

吉田拓郎は私と同い年の60歳だが、この番組を見て彼は私より数段大人だと感じた。
勿論名前だけはずっと知っていたが、それほど彼の歌には関心がなかった。
元々私はノンポリだから、そんな彼らに熱中することはなかった。
しかし、今回のコンサートの観客の多くは彼の若い時からの熱烈なファンのようだ。
そんな熱狂的なファンとは別に、自分自身や周りを冷静に見ている大人の吉田拓郎がいる。
彼が語っていた言葉の中でちょっと気に入った言葉があった。

今日より明日はちょっとだけ幸せになりたいとか、
今日より明日はちょっとだけ満足が増えてほしいとか、
今日より明日はちょっとだけ旨いものが食いたいとか、
その程度の、ちょっとをずっとめざして生きている感じがする。
自分のわがままとかいろんなものを通したい。
そんな人生のままでいたい。

コンサートを締め括り、最後に歌った曲は「今日までそして明日から」
1970年、彼が24歳の時に書いた詩だ。
24歳では早過ぎる。60歳の今相応しい詩ではなかろうか。

わたしは今日まで生きてみました

そして今 わたしは思っています

明日からも こうして生きていくだろうと


背中が熱いと訴える

2006年08月05日 | 人物
その女性は70歳台、亭主がいて、一人娘がいる。

背中が熱い熱いと訴える。

内科、産婦人科、胃腸科、泌尿科、心療内科、皮膚科など色々な医者に診てもらう。

どこの医者からも「異常が無い」と言われる。

それでも女性は背中が熱い熱いと訴える。

女性は五体が不自由とはとても思えない。

目は良く見え、耳は良く聞こえ、話はちゃんと話せるし、歩こうと思えば歩ける。

それでも女性は背中が熱い熱いと訴える。

自分は身体の調子が悪いのだと嘆く。

亭主は何もしてくれず、何も分かってくれないと嘆く。

女性は背中が熱い熱いと訴える。

医者が出す薬を信用せず、自分の想いに暗示に拍車がかかる。

心の弱さがある宗教へ向かわせる。

そして背中が熱い熱いと訴える。

背中の奥深いところで何かが疼いている。

どうして疼くのか、本人も、家族も、まして他人も分からない。

ほんの微かな疼きの声に真剣に耳を傾けてみたらどうだろうか。

夫・遠藤周作を語る

2006年04月13日 | 人物
作家 遠藤周作について妻 順子さんが語っている。
聞き手は、遠藤周作の作品についてとても詳しい鈴木秀子さん。

私は遠藤周作の本は「沈黙」「深い河」「海と毒薬」しか読んでいない。
いずれも大分前に読んだせいか、情けない事にはっきりとした筋書きが思い出せない。
ただ、「沈黙」については深い感銘を受けた記憶はある。
また、狐狸庵先生と呼ばれていた程度の知識しか持っていない。
今回この本を読んでみて、全く知らなかった遠藤周作という人を知ったことは大きな収穫だった。

・女としてね、惚れた人と一生添い遂げて、最後まで惚れたままでいられたのだから、とてもとても幸せでした。最後まで惚れつづけられたということは、女として最高に幸せな一生だったと思います。

・四十年余の結婚生活のうち、四分の一ぐらいは病院暮らしでした。

・最後の三年半の入院中、辛い病気に加えて院内感染から、薬害に至るまで、これでもかこれでもかというほどの辛苦を舐めたのでした。

・(満州時代、両親が離婚して)家に帰るのが嫌で道草をしたり、悪戯をしたり、荒れたようですね。やはり何と言っても、母を捨てた父が許せなかったのじゃないでしょうか。

・主人は母から「ホーリィ(思いやり)でない」と言われるのをとても恐れていたみたい。「ホーリィであることが人生で一番大切なことだ」という母の教えが、最期の瞬間まで貫いていた。

・うちでは良心の象徴が母なのです。ですから主人が私に、絶対にこれは本当なんだって言うときには、「おふくろに誓ってこれは本当だ」って言うし、私に対しても「おふくろに誓えるか?」って訊きます。

・(38歳ごろ)10時半頃起き出して、ご飯を食べて、ぐずぐずして、お昼過ぎから仕事に取りかかって、夕方までは毎日、みっちり書いていました。勿論、本は大好きで、1日2冊ペースで読んでいました。ジャンルを問わず、幅は広かったですね。

・主人を文学の道に導いてくださった決定的な恩人は、慶応の佐藤朔先生だったと思うのです。あの方がいらっしゃらなかったら、主人はたぶんフランス文学を勉強しなかったでしょうし、小説家になっていたかどうかも疑わしいような気がします。

・狐狸庵モノは純然たるサービスとして読者のため、ことに若い読者へのサービスだったような気がしますね。

・面白いのは、創作が行き詰ると、必ずグレアム・グリーンとモーリヤックを読み返しておりまして、「そのうまさ、その情感にみちた文体に圧倒される」とか、「グリーンのうまさが羨ましい」とか、そんなことがいっぱい書かれてありました。

・サン=サーンスのチェロ協奏曲第一番を流したり、グレゴリアン聖歌をかけたり、フォーレ、セザール・フランクなんかを聞きながら書いていました。セザール・フランクのヴァイオリンソナタが大好きでしょっちゅうかけていました。とにかく純文学を書いてるときは、必ずそういう音楽が書斎に流れているのです。

なんだか抜粋するところが多くて、とてもじゃないが書けない。
以上、文藝春秋発行の「夫・遠藤周作を語る」(初版1997年9月29日)より抜粋した。

斉藤茂吉という人

2006年03月16日 | 人物
以前、歌人で精神科院長であった斉藤茂吉の事を書いた。
茂吉の長男の茂太氏が、父は完璧主義者で粘着性性格であったと言っていた。

先日、青木 玉著「小石川の家」を読んでみると、
著者の祖父で文豪の幸田露伴と斉藤茂吉との親交が書かれている。
露伴及びその家族は、茂吉に好印象を持っている。

「斉藤茂吉先生はおみえになると何時も声をかけてくださって、
 よく私にお土産を下さる。お客様の中では大好きな先生だ」

「斉藤先生と言えば、にこにことなさったお顔が先ず目に浮ぶ。
 こちらの目の中に暖かなものが流れ込んで来るような感じがある。
 母は先生のことを、慈父を見ると言った。
 言葉を探せば、正にぴったりとはまる思いである」

「そんな中(注:戦時中の食糧難で全ての人が食料をやりくりしている時)
 斉藤茂吉先生は、多分御自分の召し上がり料を割いてお米の包みを下さった。
 それは祖父(露伴)の命につながっている大切なものであった」

恐らくどちらも本当の茂吉の姿ではなかったのではあるまいか。
日本人多くの外面が良くて、内面が悪いタイプの人だったのかも知れない。