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お山にお宮がたちました

四国八十八箇所お遍路 第六十一番札所 香園寺

第61番札所香園寺は、聖徳太子(574~622)が第31代用明天皇の病気平穏を祈願して創建したと伝わっています。

御本尊 大日如来
本尊真言 おん あびらうんけん ばざらだどばん
ご詠歌 後の世を思えば詣(まい)れ香園寺 止(と)めて止まらぬ白滝(しらたき)の水


昭和51年に建立された褐色の鉄筋コンクリート造りの大聖堂です。
大聖堂は本堂と大師堂を兼ねています。
高さ16m、1階が大講堂、2階が本堂と大師堂となっていて、本堂には620余の椅子席があります。
現代的なお寺です。



戦争慰霊観音像です。




鐘楼堂です。




縁起に依り子安大師(赤ちゃんを抱く弘法大師)を祀る唯一無二の寺であります。

聖徳太子の夢の中に、七彩の雲と天より降りた金の衣を着た白髪の老翁があらわれ、「二名の島(現在の四国)に霊地あり。梵舎一宇を建立せば病脳忽ち平癒すべし。」とお告げを残しました。
聖徳太子はその命を受けてこの地に渡り、霊地を探しました。林の中で一夜を過ごした明け方、金の衣を着た白髪の老翁が霊鳥に乗って現れ「仏法有縁の霊境なり。(ここが仏道に深い縁のある神聖な場所である)」と告げました。
よってここに七堂伽藍を建立しました。竣工の折、この老翁が再び現れ、一七日間御堂の中にこもって本尊を安置しました。このお陰で天皇のご病気は治り、当山は「教王院」の山号を賜り、祈願寺とされました。
香園寺HPより


天平年間(729年~749年)、行基菩薩が行脚の途中に立ち寄られ、お堂を建立して多くの信徒を悩みや苦しみから救ったという言い伝えがあります。

聖徳殿です。


この階段を上がり大聖堂に入ります。


中の写真は撮ってないのですが、大日如来様や赤ちゃんを抱っこする弘法大師がいらっしゃいました。

大同年間(806年~810年)弘法大師が四国巡教の際に、当山の麓で難産に苦しむ一人の妊婦に出会いました。加持祈祷したところ、安産となり、玉のような元気な男の子が誕生しました。その元気なうぶ声は、近隣に響き渡ったそうです。
これが機縁となり弘法大師はしばらく香園寺にとどまりました。塔中六坊を創建し、自らもその一坊に入りました。また、中国から持ち帰った金像一寸八分(約5.5センチ)の大日如来を、本尊の胸間に納め、脇仏不動明王の彫刻をのこしました。
弘法大師は、安産、子育て、お身代わり、女人成仏を祈る秘法を寺にのこしたと伝えられています。
香園寺が「子安の弘法大師」といわれる由縁はここにあります。弘法大師は、唐木梅檀を焚き、護摩修法を寺にのこしました。
「梅檀山教王院香園寺」という名は、これに由来します。
香園寺HPより



1番札所霊山寺にて団体さんに会い、お経の唱え方、巡礼の順番を横で見て学ばせて頂くことができました。何も知らずにお遍路を始めたので本当に有難たかったです。
実はそれ以来、一度も団体様に会う事なくここまで来ました。


気候も良く、コロナも落ち着いてきたから、お坊さんに連れられた団体さんが白装束に身を包みいらっしゃいました。
年配の方が多かったのです。
歳と共に俗世から少し離れ神仏を求め行脚するようになるんですね。


駐車場に向かう参道です。




参道の右側に1995年に立てられた種田山頭火の句碑
「南無観世音おん手したたる水の一すぢ」
「秋の夜の護摩のほのほの燃えさかるなり」
がありました。


左側には川柳句碑「偉い子はいぬがどの子も親思い」がありました。
写真はありません。。。



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