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お山にお宮がたちました

四国八十八箇所お遍路 第七十六番札所 金倉寺

第76番札所こ金倉寺は、地元の人々から「おかるてんさん」の愛称で親しまれてきた金倉寺の訶利帝母(かりていも)さま。
 鬼子母神(きしもじん)さまとも呼ばれ、子授けや安産、また子供や女性の守り神さまとして古くから信仰されてきました。

御本尊 薬師如来
本尊真言 おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌 まことにも神仏僧を開くれば 真言加持(かじ)の不思議なりけり



金倉寺は、弘法大師の甥で天台寺門宗の開祖「智証大師」が誕生した地であります。

縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善(わけどうぜん)が建立し、道善は「自在王堂」と名づけ、仁寿元年(851)11月に官寺となった際に開基の名をとって「道善寺」となりました。

その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊に。

「金倉寺」になったのは928年、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんだ寺名となったようです。


「智証大師」は、子供の頃「日童丸」と呼ばれ、たいそう賢いと評判でした。

智証大師が2歳の時には、一人で遊んでいる幼い体からなんとも言えない後光が射しているのを付近の人々が見たといわれています。

そして、「きっと仏様が生まれ変わったに違いない。将来は必ず立派なお方になられるだろう。」と、この地に立派な子が生まれたと喜び合ったそうです。

また、5歳の時には目の前に天女が現れ、「貴方は三光天の一人、明星天子であり、虚空蔵菩薩の仮の姿。貴方が将来仏道に入るなら私がずっとお守りしましょう。」と告げられたという伝説も。

この天女こそが、よその子供を食べた罪でお釈迦様に末子をとられ、子供を失った母の辛さを教えられた後に仏になったとされる「訶利帝母(かりていも)」(別名「鬼子母神(きしもじん)」)でした。

こうして訶利帝母に守られて育った智証大師は、修行を重ね、仏法を広めることに精進できたといわれています。
紹介HPより

山門をくぐると大きな木が迎えてくれます。



本堂に続く参道です。
綺麗に手入れされています。




鐘楼です。




明治時代には、善通寺第11師団長として赴任した乃木希典(のぎまれすけ)が、明治31年から3年間、金倉寺の客殿を仮住まいにしており、遺品展示室には乃木将軍ゆかりの品々も展示されています。

乃木将軍は、本名「乃木 希典(のぎ まれすけ)」、幕末から明治時代にかけて活躍した軍人で、特に日露戦争での武功は世界的に評価されており、学習院院長を務めていた際には「迪宮裕仁(みちのみやひろひと)様」(のちの昭和天皇)の養育を担当したことでも名を知られています。

本堂の前には妻を面会せずに帰したという「乃木将軍妻返しの松」も現存しています。



こちらが本堂です。


金ピカの大黒天様がいらっしゃいました。




大師堂です。


新羅神社(神仏分離以前は新羅明神社) が山門の西隣りにあります。智証大師を園城寺へ導いた老翁(新羅明神)と唐へ行くことを勧めた山王権現を祀っていたが、神仏分離により現在は素戔嗚尊を祀ることとなっています。





こちらもお詣りさせて頂きました。












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