門を入ってすぐ太玄塔と書かれた石碑がありますがこちらは山本太玄(17代住職)と山本玄峰(18代住職)の供養塔のようです。
廃仏毀釈によって廃寺となった雪蹊寺を復興させたのが山本太玄師であります。
「昭和の傑僧」と名高い山本玄峰師が若い頃に遍路の途中行き倒れになっていたところ、当時の雪蹊寺の住職・太玄和尚(山本太玄)に救われたという逸話があります。
この石碑の横に「土居保墓」「土居保妻墓」と書かれた2つの墓石があります。
このお墓は坂本龍馬の日根野道場時代の剣の師匠である土居保(楠五郎)とその妻のお墓で、龍馬が14歳の時から剣の指導をし、人間形成にも深い影響を与えたといわれています。
御本尊 薬師如来
本尊真言 おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌 旅の道うえしも今は高福寺 のちのたのしみ有明(ありあけ)の月
寺伝によれば空海(弘法大師)の開基で、創建当初は真言宗に属し、「少林山高福寺」と称したという。
『土佐国編年紀事略』には嘉禄元年(1225年)、右近将監定光なる人物が高福寺を創建したとする。天正16年(1588年)の長浜地検帳には「慶雲寺」とあり、この頃までに慶雲寺と改称していたことが窺える。
寺に伝わる毘沙門天および両脇侍像は、毘沙門天像の足枘銘から湛慶の真作と判明し、高福寺創建の嘉禄元年(1225年)頃の作と推定されている。ただし、湛慶作の仏像が都から遠く離れた土佐に伝わった経緯は定かでない。鎌倉時代に仏師運慶と長男の湛慶が来山して「慶運寺」と改めたという伝承もある。
その後、寺運が衰え、廃寺となっていたが、天正年間(1573年 – 1593年)の後期に月峰和尚が住職となり、土佐国の戦国大名長宗我部元親の後援で臨済宗の寺として復興した。慶長4年(1599年)の長宗我部元親の病没後、当寺は長宗我部家の菩提寺となり、元親の法名「雪蹊恕三大禅定門」から「雪蹊寺」と称した。
以上Wikipediaより
こちらが本堂です。
お地蔵さんと河童ですか?可愛かったです。
自分の体の悪いところと同じところをなでると病気が治ると信仰されているびんずるさんです。
こちらが大師堂です。
馬頭観音様のお宮もありました。
お稲荷さんです。
隣は神社です。
このお寺の雪蹊寺という寺号は長宗我部元親の戒名「雪蹊恕三大禅定門(せつけいにょさんたいぜんしょうもん)」からつけられたようで長宗我部元親と非常に縁深いお寺です。
隣に長宗我部元親公を主祭神とする秦神社があり、お詣りさせて頂きました。歴史好きな人はワクワクするかもしれませんね。
木々が生茂ります。
社殿にてお詣りさせて頂きました。
社殿にてお詣りさせて頂きました。
社殿の奥には長宗我部盛親(もりちか)公の慰霊碑があります。家督を継いだことにより、気の毒な晩年を送ったようです。
盛親は元親の四男で、戦国大名としての長宗我部家最後の当主です。
神社の摂社末社の西宮神社がありました。御祭神は恵比寿様です。
掃除されてなかったのですが上がってみました。誰もお詣りされてないような感じです。
物寂しさを感じましたが、神社の素通りは出来なくて上がって手を合わしお詣りさせて頂きました。
雪蹊寺は素朴なお寺であり、秦神社は素朴な神社でした。