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conscience

my diary

リスキリング? DX? 何のこと

2022年10月09日 | 日記
 リスキリングという言葉を聞いたが辞書を引いても無かったので、riskyと何か関係があるのかとも考えたが、サイトで検索すると、「Reskilling」とのこと。カタカナ読みの発音で聞いたので分からなかったが、リ・スキルであれば意味が分かるし、リスキリングとは、職業能力の再開発、再教育のことを意味していることも理解出来た。外来語をカタカナ読みで発音するのは止めて欲しいものだ。更にリスキリングはDXと関係があるともいう。何のことなんだ。アラ古希にはわからない。同じようにDXを検索すると、DXは「デジタルトランスフォーメーション(Digital Transformation)」の略で、直訳すると「デジタル変革」という意味になるそうで、ビジネス領域に限った言葉ではなく、デジタル技術を社会に浸透させて人々の生活をより良いものへと変革することを指すとのこと。それなら、「デジタル変革には、人々の職業能力の再教育が必須である。」と言ってくれれば直ぐに分かったのにと思ったことだった。カタカナ英語をやたらと使うことが知的だと誤解しているのは、日本人の悪い癖では無かろうか。都知事なども、やたらとカタカナ英語を連発しているが、国民に意味が分からなければ独りよがりでしかない。
 しかし、我が国では、マイナンバー制度も未だに普及していない。せめて、希望者には、所得と医療費などの控除等、マイナンバーと紐づけて納税額が自動的に計算出来るようにぐらいはなっていても良いのではなかろうか。どうしてもそれが嫌だという腹黒い人には別に強制しなくても良いが、希望者には、そうして欲しいものだ。
 それから、今後、DXが進んでゆくと、現在ある仕事の中でも、不要な職種も多くなって、職種間で人の移動も多くなるだろう。リスキングが必要な理由だろう。そういえば、当「アラ古希」生も、これからは情報科目の履修も必要だと思って、還暦過ぎなのに、放送大学で当該科目の履修を試みたこともあった、コロナ禍となってからやる気が無くなってしまったのと、三回も別のコースを卒業していたので、もう嫌になって中途で断念した経験がある。それでも「日常生活のデジタルネットワーク」と「情報ネットワーク」などは丸Aの成績であった。そもそも、我々の世代はパソコンにすら触ったことがなかったが、仕事に就いていたときには、思い立って初期のプログラム作成の勉強もしたことはあった。これからの若い世代の人は、情報関連科目は高校・大学などで学んでいるのだろうが、既に仕事に就いている人は、リスキリングを強いられて、おそらく大変なことになるだろう。今から、少しでも学びなおしを試みておくことだ。

 ところで、岸田首相は、マスクの着用の是非について検討するとのこと。確かに、コロナ禍になって三年にもなる現在、やたらに規制していては生活もままならないということからだろうが、超過死亡者が最大4万人になる可能性もあるということなどからすると、コロナと診断されなかった人でも死亡者が増えているということだと思う。ウイズコロナも仕方がないかもわからないが、そうかといって国がマスクを外せと国民にいうのも奇妙なことだ。屋外でマスクの必要が無いと言っているのも、本当に科学的な根拠に基づいているのだろうか。阿波踊りでクラスターも発生したことだし、屋外でも密集して声を出していれば感染はするのではなかろうか。ともあれ、マスクをするかしないかは自己責任ということだろう。そういえば、武漢ウイルスの最初の頃に、春節に武漢で開かれた万家宴という食べ物を持ち寄る4万人の大宴会で感染が拡大したのではという報道もあった。阿波踊りクラスターも、踊り子と観客が密接していて、しかも、屋台出店なども近くに出ていて、来客は自由に飲食していたので構造的に似たものだっただろう。欧米諸国がノーマスク政策を取っているからといっても、高齢化が世界一の日本でも同じようにしても大丈夫だという根拠は本当にあるのだろうか。 雰囲気に流されているだけのように見える岸田首相の決断が心配だ。

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ピント外れ

2022年10月05日 | 日記
 ピント外れ(out of focus )なことを、何故繰り返すのだろうかと思う。北朝鮮発射のミサイルに伴うJアラートのことである。少し冷静に考えればわかると思うが、ミサイルが発射されたのを探知したとして、仮にそれが日本国内への攻撃を企図したとしても、アラート発出から着弾までに退避する時間的な余裕は無い。それなのに、毎度、アラートを出すということは、北朝鮮が連続的に発射することを予想しているということだろうか。しかし、そうだとしても、どこに避難する場所があるのだろうか。台湾に近い与那国島でさえ国民が避難できる防空壕も整備されていないではないか。戦後、占領軍から平和思想を刷り込まれて、他国から武力攻撃を仕掛けられるということを考えることすら禁句となっている、日本国内では退避出来る場所など無いことになっている。それなのに、何の役にも立たないJアラートを敢えて出して国民を混乱させるということは、政府が、意図的に危機を煽り、国民を動揺させて、それによって何か政治的なものを狙っているとしか思えない。
 そんなことを繰り返すくらいなら、攻撃される可能性のある場所、基地の近くなどへの防空壕の整備、反撃能力の整備、原発などがミサイル攻撃された場合の対処方針の策定と訓練の徹底などを行うことが合理的だろう。それに対して、一部野党からは、北朝鮮へ妥協的な外交交渉を行うべきとの声もあるが、気まぐれで野心的な将軍様に屈服することがどういうことか分かっていての声なんだろうか。拉致被害者のことをことさらに大きく取り上げてきて、未だに小泉政権以降には被害者の帰国すら実現出来なかった安倍・菅政権についても、拉致問題を政権が意図的に利用してきたとしか思えない。ミサイル問題も同じ轍を踏むんだろうか。そして、そんなに頻繁にアラートを発出していると、オオカミ少年効果で本物の攻撃を受けても誰も避難すらしなくなるだろう。
 
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生死不定

2022年10月03日 | 日記
 ここ数日の間に、アントニオ猪木さんや円楽さんなどの有名人の死が伝えられた。多死社会の到来を示唆しているようでもあり、人の世の儚さを表しているようでもある。アラ古希にも関わらず若い気分のままではいる私ではあるが、他の人の訃報を聞くたびに嫌な予感が頭の片隅に去来するようになってきた。
 しかし、人の生き死には定まっておらず、特に、伝染病や理不尽な侵略戦争などが起こっている今の世の中にあっては、普通に生活していても先がどうなるかは分からないし、生物は必ず滅びる運命にあるものだ。
 私は、多くの日本人が漠然と持っているような、輪廻転生とか、死後の世界とかの考え方は持っていなくて、死亡すれば、物理的な肉体も、刺激を受けて脳の中の記憶中枢が刺激されることによって起こる思考も、ただ滅びてしまうのではないかと考えている。すなわち、死とは、無に還ることに他ならない。お大師さんや神様に縋ったり、南無阿弥陀仏・南無妙法蓮華経などと唱えてみても、その事実には逆らえないのではないか。

 しかしながら、寿命とは予め予測できるものであり、その限られた時間内に何をするかでもあろう。そんなことを最近よく考えるようになってきた。なるべく楽で、何事にも捉われない生き方をしたいと考えている。間違っているだろうか。
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