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舞い上がる。

日々を笑い、日々を愛す。
ちひろBLUESこと熊谷千尋のブログです。

おいてきぼりひたすら解らなくて気が付くのがいつも遅いんだ。

2019-04-23 22:34:22 | Weblog
2015~2018年あたりの約3年、自分が色々と試行錯誤しながら悩んでいたことに、2019年になってからちょっと変化が生まれそうな気がしています。
多分、いい変化だと思うので、ここから自分の人生が少しずつ上向いていけばいいなと思っていますが、ただ、自分が変化している最中は、過去の自分をまだ完全には捨てきれずに未だに過去の自分に囚われていたりして、その狭間で結構しんどい気持ちになったりするものなんですよね。



そういう気持ち悪さを言語化することで、少しずつ整理して受け入れていく、という生き方は昔から変わらないし、そもそもこれはそういう目的のブログなので、今回もそういう気持ちで書いていきます。





この3年間くらいで起こった大きな変化と言えば、2015年の夏を最後に、新潟で演劇に出演することをやめました。

そのことは、やめて2年経った2017年にブログにまとめました。
やや真面目な話、俺の病気の現状とその原因と対策について。



ただ、演劇をやめたあとも、さくらもみぢと「新潟演劇人トーーク!」という、新潟の演劇について語るUSTREAMの番組はやっていたのですが、それも2018年にやめました。

そのことは、2018年のブログに書いてあります。
新潟演劇人トーーク!最終回、終了しました!



この、2015年に演劇をやめてから、2018年に「新潟演劇人トーーク!」をやめるまでの3年間という時期が、自分が一番面倒臭かった時期だと思っています。
と言うのもこの時期は、演劇をやめたはいいものの、観劇はしていたし新潟の演劇について考えることも多く、演劇とそれなりに近い距離のところにいたという、何とも言えない時期だったんですよね。

演劇をやめたことで、それまで自分が関わっていた「新潟演劇」というコミュニティから離れ、「新潟演劇」を客観的に見ることが出来るようになったのがこの時期でした。
そして、客観的に見ると、「新潟演劇」という界隈の文化が、悪い意味で物凄く変なものだと気付いてしまって、「何であんなことしていたんだろう」と思いました。

一番大きかったのが、「新潟演劇」という界隈は物凄く閉鎖的で内輪ノリで成立していた世界だったんだよなあ…ということです。
「新潟演劇」から一歩外に出たら誰も知らない、そのくらい、新潟という街の文化に別に何の影響も与えていない、そういう閉鎖的で内輪ノリな世界にいたんだなあ、ということです。

印象的だったのが、2016年の秋くらいに、新潟の演劇関係者が多く出演している、おそらく気合いを入れて作ったのであろう演劇を立て続けに3本観たんですけど、どれも面白くなかったんですよ。
なんですけど、3本とも、“演劇関係者の中では”“面白いとされていて”、関係者同士でTwitterで褒め合ったりしていたのを見て、ああ、「面白い新潟演劇」ってのはあくまで「新潟演劇という界隈の中で面白いとされている演劇」なんだな、と気付いた体験だったんですよね。

なんとなく惰性で観劇してはUSTREAM「演劇人トーーク!」で感想を話すという体験は続けていたのですが、それも「自分が新潟演劇を観劇してそれについてネットで語る→それを新潟演劇関係者が見る」ただそれだけという、非常に閉鎖的な世界で行う不毛な活動に過ぎなかったと気付いてしまって、やめました。(本当にやめられて良かったと思っています)
ただ、そういう新潟演劇に対する不満はあったものの、自分は新潟演劇をもうしていなかったので、その不満をどこにぶつけていいか分からない(もしも演劇をやっていたら反面教師にして自分が面白い演劇を作るぞというモチベーションにも出来るかも知れないがそれもない)、それで、取り敢えず自分の中で新潟演劇を否定している、というのがこの時期でした。



余談ですけど、やっぱり2017年に長く続いたバイトを辞めてから不安定で調子が悪い日々が続いていることも大きいと思うんですよね。
調子が悪くなると人を嫌いになりやすくなるし、そうすると一人で勝手に敵を増やしてしまうんですよね。無職のこの2年間で学んだことですね。

さっきから書いているような新潟演劇アレルギーがひどくなったのが2017年くらいからなんですけど、タイミングが完全に一致してますしね。
まあ昔、入れ込みすぎたからその反動なんだと思うけど、それにしたって敏感すぎるし、早く克服したいものですね…と思っていたところに、もしかしたら克服できたのか…!?みたいな体験がありました。



その話をする前に、ちょっと違う話をしていきますけど、新潟演劇は面白くなくて関わるのはやめたとは言え、別に演劇にしか興味がないタイプの人間ではないから、新潟の色んなイベントとか音楽とかアートとか見に行って、これは素晴らしい!みたいな体験もたくさんしたんですよ。
時には、自分が否定していた演劇でも、本当に面白いし素晴らしいと思えるものに出会える体験もありました。

そういう様々な体験を経て、演劇も音楽もアートも全部ひっくるめて「表現」という言葉を使いますけど、「いい表現と、そうじゃない表現の違いって何なのだろう」ってことを、クソ真面目に考えるようになっていました。
一応自分の中で、「見た人の心を動かす力があるものがいい表現」というざっくりとした定義はあったんですけど、じゃあそれって何なのだろう?知名度や集客の違いなのか?いや、それだけではないよな…と、ああでもないこうでもないと考えていたんですよ。



で、これについてずっと考え続けていたある時、今までの自分の考え方を全部ひっくり返すような大きな発見がありました。
きっかけは、そもそも自分の根本にあるのは「いい表現はちゃんと評価したい、残していきたい」という気持ちがあると気付いたことでした。

で、そういう「いい表現」は、一体どこから生まれるんだろうか、と考えたら、「どこから生まれるか分からないものだ」ということに気付きました。
だとすれば、いつ何が生まれるか分からないのだから、とりあえず可能性の芽は摘まずに残しておいた方がいいんじゃないか、と思ったんですよね。

つまり、僕がそれまで面白くない、価値がない、と思っていたものも含めて、面白くないにしても、とりあえず否定せずに残しておくに越したことはないと気付いたんですよ。
こうして、新潟演劇など、気に入らないものを頭ごなしに否定することはやめて、取り敢えず「そういうものもあるんだな」くらいに考えるようになったわけです。



これは本当に自分にとってそれまでの考え方を変える体験、自分の価値観を変える体験でした。
具体的に何がきっかけとかではなく、色々なものに出会って考え続ける中で、そういう考えに至ったんですよね。

これ、普通に一つの成長だと思っているし、考え続けることで人は成長できるんだと気付けた体験でした。
そういう、成長というすごくいい体験をしたにもかかわらず、同時に、「何で今までの自分は気付けなかったんだ…」という後悔が生まれてしまったわけです。

いや、過去の失敗があるから今があるわけで、後悔したところで無意味なんですけど、やっぱり考えてしまうんですよね。
これ完全に、演劇やめた時と同じ状態ですよね。







ちなみに、タイトルの「おいてきぼりひたすら解らなくて気が付くのがいつも遅いんだ」は、aikoの「飛行機」という曲の歌詞で、ピンポイントで今の自分に刺さる歌詞だなと思って付けました。
(ちなみに完全に余談ですが高校生の時はaikoにガチ恋してました)





ところで、自分がまだ新潟で演劇をしていた時の体験で一つ後悔していることがあります。
それは、当時仲良かった友人が僕に対してしたこと(具体的に言うと、自分や自分の友人の脚本やアイディアを無許可で使われたこと)に対して、物凄く怒ったんだけど、それが言い出せなかった、という体験でした。

僕としては、仲良かった人が急にそんなひどいことをしてきたのがショックすぎて何も言い出せずに、一人で怒って一方的に縁を切り(Twitterのフォローも外し)、その後はもう顔を見ることもなくなったんですよね。
ただ、冷静に考えれば分かるんですよ、人間誰しも間違う生き物だから、彼が「友人のアイディアを悪びれもせずに無許可でパクるという物凄く失礼なこと」をしてしまったのも、若さ故の過ちってやつだと思うんですよ。

そして同時に、人間は成長する生き物でもあるから、過去に間違いを犯した彼も今ではもう違う人間だろうし、いつまでも当時の彼じゃないと思うんですよ。
だからもし、当時ちゃんと面と向かって自分の気持ちを伝えられていたら、喧嘩にはなったかも知れないけど、仲直りをできた可能性もあると思うんですよね。

でもそれが出来なかったから、いつまでも彼のことが許せないし、気持ち悪い感情が残ってしまっているし、同時に、そんな彼の中にも自分と似たような悩みや苦しみがあるという当たり前の事実について考えてしまうと、気持ちのやり場に困るという現象も起きるんですよね。
まあ、過去に囚われても仕方ないのですが、これは、自分が未だに新潟演劇に対するネガティブな感情をバッサリ切り捨てられない一つの原因だし、未だに後悔していることですね。





あと、せっかくだからもう一つ話しておきたいんですけど、やっぱり僕は、自分の意見を人に伝える、ということが苦手なんだと思うんですよ。
先程の話に出てきた、演劇の脚本をパクられた時も、ちゃんと怒れなかったように。

それに少しだけ近い体験として、相手が“良かれと思って”自分に何かを伝えようとしてきて、それが完全に見当違いだった時も、反論とかせずに全部聞いて真に受けてしまう、ってのがあるんですよね。
でも頭の中では「それは違うぞ」って拒絶しているから、体だけが反応して気持ち悪くなってしまうんですよね。

宗教の勧誘も、クソリプも、不登校時代の「学校に行った方がいいよ」もまさにこれだと思うんですよ。
でも、伝わる人にしか伝わらないと思うけど、自分の中に「反論しよう」「相手を説得しよう」みたいな発想がそもそもほとんど存在しない俺のような人間は多分たまにいて、こういう人間が誰かからわーっと言われるともうどうしようもないんだよな。

要するに、コミュニケーションが苦手なんでしょうね。
新潟演劇からコミュニケーションの問題まで、色々話してきましたが、そういう体験や、そういう体験を思い出す出来事が、2019年になってからありました。





まとめると、自分がダメな奴だなあ、と思ってしまうような体験が立て続けに起こり、僕は凹んでいました。
しかし、まるでそんな自分の気持ちを描いてくれているかのような映画に出会う時、僕は、「この世のどこかで誰かが分かってくれるんだ」と思って、すごく救われたりするんですよね。

4/20(土)~21(日)にシネ・ウインドで観た「MOOSIC LAB 2018」は、まさにそんな映画ばかりでした。
MOOSIC LABって、本当にドンピシャで僕の気持ちを分かってくれるような映画が多いんですよね。

誰にも伝わらない自分だけの悩みとかもMOOSIC LABだけは分かってくれるような気持ちになるし、そして自分と同じような誰かがどこかで同じ映画を見ているかも知れないと思うとちょっとだけ救われる。
だから毎年必ず僕は観に行くし、どんなに集客が悪くても自分は新潟でMOOSIC LABを好きでい続けるぞ!と思うんですよね。



そんな「MOOSIC LAB 2018」の感想は、ここにまとめてあります。
MOOSIC LAB 2018 新潟編、感想まとめました!(内回りの二人、月極オトコトモダチ、いつか輝いていた彼女は、無限ファンデーション、ドキ死、左様なら、ゆかちゃんの愛した時代、普通は走り出す)





二日間観た「MOOSIC LAB 2018」が本当に良くて、思わず帰り道に新潟駅で飲酒をしてしまった!





そして帰宅してカレーを食べて元気を出したのでした。




そんな、死ぬほど情緒不安定だった時に、ある人がツイートで僕のことを「友達」って書いてただけで泣きそうになりました。
僕にも友達がいたんだな…
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