
4月28日は、8年前に亡くなった母方の祖父の誕生日。
幼い頃、弟が生まれる前は祖父母と一緒に住んでいて、弟が生まれてからも、祖父母は忙しい両親の代わりに僕や弟の面倒を見てくれた。
保育園が終わると、いつも祖父が迎えに来てくれた。
祖父は散歩が好きで、保育園の帰りに寄り道ばかりする子供だった僕と、祖父は「散歩がてら」と言っていつも一緒に歩いてくれた。
休みの日はバスや電車で、古町や白山神社などにも連れていってくれた。
僕が今でも新潟の町が好きなのは、きっと祖父のお陰だと思う。
写真は、1996年に祖父の誕生日祝いで家族旅行をした時のもので、当時9歳だった僕の隣に立っているのが祖父です。
祖父との記念写真を載せようと思いましたが、顔を載せるのはちょっとな…と思ったらちょうどいい写真がありました。
小学生の時は学校が終わると祖父母の家に寄って、仕事で帰りが遅い両親を待つ毎日だった。
中学生になると部活などが始まり祖父母の家に行く機会は減ったが、その代わりに今度は祖父がよく家に来てくれるようになった。
中学3年生の卒業間近のある日、放課後に学校に残っていたら教務室に呼び出された。
何かと思ったら、家が火事だという。
慌てて帰ると、家の前に消防車が来ていて、消火活動を行った後だった。
幸いにも家はほとんど無事だったが、台所は燃えたあとだった。
すると、隣の家から祖父が出てきた。
たまたま家に祖父が来ていた時に火事が発生したので、避難させてもらっていた。
この日はたまたま祖父が家に来ていた時に、冷蔵庫の配線がショートしてほこりに燃え移って火災が発生したらしい。
その時、祖父がすぐに消防車を呼んだので、ボヤで済んでいたのだ。
もしも祖父がいなければ家は全焼していたかもしれないし、隣の家に燃え移っていた可能性すらある。
祖父は本当に我が家の命の恩人だった。
高校に進学すると祖父母に会う機会は減り、長野県の大学に進学するとさらに会う機会は減った。
でも、年に何度か帰省するたびに会いに行くことにしていた。
その時、祖母が若い頃、祖父が倒れて救急車を呼んで脳外科で手術を行ったという話をしてくれた。
祖母は祖父の命の恩人だったのだ。
大学卒業後、松本で演劇をしていた時、佐渡に住む父方の祖父が亡くなった。
その時は、一度新潟で母方の祖父と、東京に進学していた弟と合流して、3人で佐渡の葬式に向かった。
僕が新潟に帰ってきてから、少しずつ祖父母の認知症が進んで、老人ホームに入居するようになった。
2014年、僕が万代市民会館の展示会に参加した時、老人ホームにいた祖父母が母に連れられて車椅子に乗って展示を見に来てくれたのが嬉しかった。
その頃の僕はまだ演劇をしていて、老人ホームに会いに行った時に演劇の思い出の写真を見せたりしていた。
一度、松本のBLUESの演劇の中で、一発ギャグ要員でウルトラマンの格好をした時の写真を見せたら笑ってくれた。
2015年に祖母が亡くなって、その2年後に後を追うように祖父も亡くなった。
祖父が亡くなる直前、祖父の孫(僕のいとこ)たちが全員集合して、会いに行けたことがあった。
でもその頃の僕は、何かとイベントごとに足を運んでばかりだったので、遊びに行く直前に軽いノリで祖父に会った感じだった。
もっと祖父に会いに行けば良かったし、家族や親戚と過ごす時間を大事にすれば良かったという後悔がある。
今では家族と過ごす時間も増えて、毎年春と秋のお彼岸とお盆には墓参りもする。
そして誕生日と命日には、こうして思い出そうと思う。
祖父母が住んでいた家は今はもうなく、そこでは弟一家が新居を建てて暮らしている。
でも、祖父母の住んでいた家の記憶ははっきり残っていて、記憶の中で一部屋ずつ思い浮かべながら歩くことができるし、リビングのソファーには今でも祖父が座って相撲を見ている。