出典:「ふたつのフォーチュンFORTUNE」ダイヤモンド社
寺島実郎著→
『ここはじっくりと「フォーチュン」誌を掘り下げて
戦争、そして今日に至る日米関係史を
直視することとしたい』
◉▶:97頁「零戦開発の意味」
1936年の時点で零戦は存在しなかった
零戦とは昭和12年(1937)に開発に着手した12式艦上戦闘機が
昭和15年7月に海軍の制式戦闘機として採用されたことによって
ちょうど昭和15年が紀元2600年だったことを記念し
2600の末尾のZEROをとって「零式艦上戦闘機」と命名された
ものである
模倣の域を出るものではなかったが
昭和7年の上海事変以後
海軍では航空機の重要性を認識して国産化に力を注ぐようになった
その結果が
96式艦上戦闘機(三菱重工製造)であり画期的戦闘機であった
96式を踏み台として
主として三菱重工(エンジンは中島飛行機)によって開発された
のが零戦なのである
性能要求は「重装備をもつ軽い戦闘機」であり
96式艦上戦闘機が高度3000mで時速350kmであったのに対し
零戦には高度4000mで時速500km、20mm機銃搭載を要求した
さまざまなサンプル機が欧米から購入された
ドイツからはハインケルHE-112型戦闘機(時速444km)
米国のヴォートV-143型戦闘機(時速426km)
などが代表である
米国は1938(昭和13)年頃まで
数年後に戦争に入る相手である日本に戦闘機を売っている
零戦の特色とされる「引き込み脚装置」も
米国のヴォートV-143を参考にシタと記録されている
零戦は時速530kmをだす挌闘戦機能の優れた戦闘機だった
実戦に登場したのは
1940(昭和15年)9月14日重慶上空で
国民政府軍のイ15・イ16(ソ連製)27機全機を零戦13機で撃墜
それ以後
対米戦の始まる1941年末までに零戦が国民政府軍に与えた損害は
撃墜機162,撃破機264,合計426機であり
零戦の被害は防御砲火による2機のみであったという
日本は零戦の中国大陸でのあまりにも華々しい戦果に自信を深め
これならば米英の戦闘機に立ち向かうことができる
自信を持ち始めた
真珠湾攻撃には零戦が79機
制空隊機として参加し先頭を切って真珠湾上空に突入した
1937年の開発着手以来1940年に実戦配備されるまで
わずか3年であり日米開戦まで1年という
ぎりぎりのタイミングであった
急速に日本が自信をつけたプロセスのシンボルが零戦だった
◉▶付記
人命軽視の軽量曲芸飛行機『零戦』はサクラのように散花シタ
人命重視の分厚い装甲の『グラマン』は命中しても落ちないが
軽量曲芸飛行機もどきの『零戦』は一発で散花した
熟練運転手不在となった
それは二度目の敗戦、経済敗戦の今日と瓜二つだ
高度成長期の土台から貢献した人材に報わぬ感謝不在の風土
分け前の三分割は当然《資本・経営・労働》へ
だがこの国は労働者への分け前をごまかした
「退職給与引き当て金勘定科目」へ積み上げて鼻先の人参
その科目を消去した
貧困労働者は公表貧困率16%の群れと化した
失業率と同根
貧困率16%→80%かも
OECDは
日本の公表低失業率は全体を狂わすので全体統計から排除の由
img_284242_14369254_0
栄養失調の日本兵
ピクチャ 9
200px-Yoshida_visits_McArthur_1954
yosida6
笑顔の天皇夫妻
DownloadedFile