(出典:「新潮45」4月号228~235頁
初代の倭国大王・仁徳天皇)
初代の倭国大王は第17代「仁徳天皇」 ←創業の君主
第18代「履中天皇」←17代の長男
第19代「反正天皇」←18代とは同母弟(珍)
第20代「允恭天皇」←19代とは同母弟(済)
第21代「安康天皇」←20代の息子(興)
第22代「雄略天皇」←21代の弟(武)
第23代「清寧天皇」←22代の息子
以上:7名
難波に都を作り「高津の宮」。
大阪平野の大規模な干拓工事
「この国は湿地が広くて田畑は少なく
また河の流れがユルヤカで水はけが悪い
雨量が多いと海水が逆流して市街も道路も水浸しになる
堀を掘って排水を良くし
浸水を防いで耕地や住居を保護せよ」←仁徳天皇
488年に完成した沈約の『宋書』の「夷蛮伝」には
478年に倭王・武(雄略天皇)の使いが
南朝の宋の皇帝のもとに手紙の文面がある
五世紀当時の日本人が建国の歴史を自ら述べたものである
上毛野国(群馬県)下毛野国(栃木県)など
東の毛人の55ヶ国を仁徳天皇が武力で征した
西の衆夷の66ヶ国(九州)を服し
その中間の
中部・近畿・中国・四国の諸国は連合して
仁徳天皇を共通の倭王としていただいた
また
この倭王・仁徳天皇が渡って平らげた海北の95国とは
韓半島の諸国である
369年高句麗王国が南下を開始し
独立していた百済王国は難波の仁徳天皇と同盟した
仁徳天皇を倭王として承認
証拠として七支刀を作って贈った
石上神宮に現存するこの七支刀には369年の日付と
次の銘文がある
「先世以来、いまだこの刀あらず。
百済王世子は、聖なる『晋』に生まれたるを奇とし
ことさら倭王のために旨して造らしめ
伝えて後世に示す」
こうして仁徳天皇が倭王の地位を外国から承認された369年は
河内王朝建国の年、畿内の倭国の起源である
倭国の後援を取り付けた百済は
371年再び高句麗を破り故国王を殺した
20年後の391年
倭国は初めて韓半島に大規模な介入を行なった
高句麗の「広開土王碑」がそれである
『倭は辛卯の年(391)をもって来たりて海を渡り
百残(百済)・□羅(新羅)を破り、もって臣民となす』
412年
高句麗の広開土王が死んで、高句麗と倭の間に和解成立
翌413
高句麗の長寿王の使者と
仁徳天皇の息子の倭王・讃(履中天皇)の使者が連れ立って
南京の「東晋」の朝廷を訪問した
この時すでに「東晋」朝の実権を握っていた将軍・劉裕は
420年、自ら皇帝となって『宋朝』を建てた
宋の武帝である
この宋朝と河内王朝の倭国は
倭王・讃の弟の倭王・珍(反正天皇)
▼:年表
220~265:魏の国(首都は洛陽)←239、243:「卑弥呼」遣使
221~263:蜀(漢)
222~280:呉(日本語の原点←呉音)
265~316:晋(西晋)←266:倭の女王「臺興」遣使
317~420:東晋(仁徳天皇、河内王朝全盛)
420~479:宋(南朝)
479~502:齊(南齊)
502~557:梁(梁の武帝、倭王を征東大将軍とす)継体天皇?
557~589:陳
589~618:随
618~907:唐
745:玄宗、楊太眞を貴妃とす。
754:鑑真和尚、日本に渡り帰化
756:安祿山、燕皇帝と称す。玄宗西南に走る、楊貴妃殺される
757:日本の国名「大和」←「大養徳」←「倭」
901:「南詔」国滅ぶ(大和城)
413:倭王・讃、東晋に遣使
425:宋に入貢
430:宋に入貢
438:倭王珍、宋に遣使
443:倭王済、宋に遣使
462:倭王興、宋に遣使
478:倭王武、宋に遣使
502:梁の武帝、倭王を征東大将軍とす
507~531:継体天皇在位
付記:
「継体天皇の問題は、
当分私にとって楽しい格闘の相手になりそうである」
森浩一 著『日本神話の考古学』 朝日文庫 も10-1
付記:「神武東征」←九州より大和へ(上記、森浩一著)
野間岬の笠沙町で生まれた神武天皇四男は兄弟四人と東征
瀬戸内海経由
大阪湾の河内王朝(仁徳天皇軍団)と激戦
長男が負傷して死んだ
次男三男は記録にない(手分けしたのか?)
四男の神武天皇が紀伊半島迂回し、
三重県から上陸陸路、河内王朝を攻撃し、大阪湾を征討した
《個人的疑義:
継体天皇は
琵琶湖北西の高島市「勝の」に在住し、大和に攻め上がった
神武東征軍団は直接大和を目指すのであれば
瀬戸内海を東進するはずである
ところがどうしたことであろうか?
船団は西に向かい
関門海峡を通って響灘に出
遠賀川の河口にあった岡(遠賀)に寄っている
「古事記・日本書紀いずれもそのように記している」
遠賀川全長73km,古代においても水運が活発であった
遠賀川上流の飯塚市付近には大型甕棺の流行がある
『大型甕棺=ゾロアスター教による埋葬』←東大寺の火祭り
「背振山」南麓の神埼町から飯塚市まで甕棺葬
その中間に『宇美町』、祭神は「敏達天皇」
四男が神武天皇
次男、三男は「継体天皇」「敏達天皇」では?では??
日本史は今日の『失業率』のように紛らわしい
国技日本相撲のような八百長イカサマ改竄ズサン偽証、日常化
納税市民の暮らす場所ではなさそうだ
「仁徳天皇と3人の子と2人の孫」ともいうし、仁徳を五王に含める説の場合は「仁徳一家五人」ともなるらしいです。