孫崎享氏「TPP参加に歯止めを」 農協研究会
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2014 年 3 月号「中央公論」掲載
減反と農協の大罪-戦後農政を歪めた元凶-逆進性は国益か
山下 一仁
自民党や国会の委員会は、コメ、麦、牛肉・豚肉、乳製品、
砂糖などを関税撤廃の例外 とし、確保できない場合は、
環太平洋経済連携協定(TPP)交渉から脱退も辞さないと決 議した。
しかし、これらの農産物の生産額は 4 兆円程度で、
自動車産業の 13 分の 1 に過ぎ ない。それが日本の TPP 交渉を
左右している。
しかし、関税で守っているのは、国内の高い農産物=食料品価格だ。
例えば、消費量の 14%しかない国産小麦の高い価格を守るために、
86%の外国産小麦についても関税を課し て、
消費者に高いパンやうどんを買わせている。
多くの政治家は、
貧しい人が高い食料品を買うことになる逆進性が問題だとして、
消費 税増税に反対した。食料品の軽減税率も検討されている。
その一方で、関税で食料品価格 を吊り上げる逆進性の塊のような
農政を維持することは、政治家にとっては国益なのだ。
米国や欧州連合(EU)は
高い価格ではなく、財政からの直接支払いを農家に交付することで
消費者には
低い価格で農産物を供給しながら、
農業を保護する政策に切り替えている。
直接支払いで農業は保護できるのに、なぜ日本では、農産物の関税で
維持されている高い 農産物・食料品価格が国益になるのだろうか?
特別の権能を持つ JA=農協
グループ
その答えは、米国や EU になくて、日本に存在するものがあるからだ。
農協=JA グループである
農協は戦後最大の圧力団体である。
農地改革で多数の小作人に農地の所有権を与えた
ため、農村は保守化した。この農村を組織したのが農協だった。
農協が動員する票は自民党 を支え、
自民党は農林水産省の予算や組織の維持、増加に力を貸し、
農協は米価や農協施 設への補助金などでメリットを得る
“農政トライアングル”が成立した。
水田は票田とな り、農村を基盤とする自民党の長期安定政権が実現した。
政府がコメを買い入れた食糧管理制度の時代、
農協は政治米価引き上げの一大運動を展 開した。
食管制度がなくなった今も、
米価が低下すると、
農協は政治力を発揮して政府に 市場でコメを買い入れさせ、
米価を引き上げさせる。政治力こそ農協の最大の経営資産だ。
欧米の農協は、
農産物の販売、資材購入などそれぞれに特化した農協であり、
日本の農協 のように
銀行、生命保険、損害保険、農産物や農業資材の販売、
生活物資・サービスの供給 など、ありとあらゆる事業を総合的に
行う組織ではない。
日本の法人の中でも、
このような 権能を与えられているのは農協だけだ。
銀行は他事業の兼業を禁止されているし、
生命保険 会社は損害保険業務を行えない。
JA バンクの貯金残高は
2012 年度には 88 兆円まで拡大し、 我が国第二を争うメガバンク
となっている。
農協保険事業の総資産は 47.6 兆円で、
生命保 険最大手の日本生命の 51 兆円と肩を並べる。
農産物や生活物資の売り上げでも中堅の総合 商社に匹敵する。
農協は多くの事業を行う巨大企業体である。
農業産出額は
1984 年の 11 兆 7000 億円をピークに減少傾向が続き、
2011 年には 8.2 兆 円とピーク時の約 3 分の 2 の水準まで低下した。
農業が衰退する一方なのに、
なぜ農業の協 同組合である農協が発展するのだろうか???
高米価・減反政策によるコメ農業衰退
食管制度の時代には、
政府が農協を通じて農家からコメを買い入れる価格を高く設定し
農家所得を保障した。1995 年食管制度がなくなって以降も、
減反政策で生産を減少させ、 高い米価を維持している。
所得は、
価格に生産量をかけた売上額からコストを引いたものだ から、
所得を上げようとすれば、価格または生産量を上げるか
コストを下げればよい。
農政 は米価を上げたために、コメ消費は大きく減少した。
規模の大きい農家のコメ生産費
(15ha 以上の規模で実際にかかるコストは 1 俵当たり 7,023 円)
は零細農家(0.5ha 未満の規模で 16,845 円)の半分以下である
(2012 年)。
1 俵(60kg)当たりの農産物のコストは、
1ha 当たりの肥料、農薬、機械などのコストを、
1ha 当たり何俵とれるかという単収で割ったものだ。
単収が倍になれば、コストは半分にな る。つまり、
米価を上げなくても、規模拡大と単収向上を行えば、コストは下り
所得は 上がる。
図表 1 が示す通り、
都府県の平均的な農家である 1 ヘクタール未満の農家が農業から
得 ている所得は、ほとんどゼロである。
ゼロの農業所得に 20 戸をかけようが 40 戸をかけよ うが、
ゼロはゼロ。
20 ヘクタールの農地がある集落なら、
1 人の農業者に全ての農地を任 せて耕作してもらうと、
1,450 万円の所得を稼いでくれる。
これを農業のインフラである農 地や水路の維持管理を行う対価として
農地を提供した農家に地代を配分した方が集落全 体のためになる。
農村振興のためにも、農業の構造が必要なのだ
13)
(生産費: 円/60kg)
(米作所得: 千円)
16000 14000 12000 10000 8000 6000 4000 2000 0 -2000
18,000 16,000 14,000 12,000 10,000
8,000 6,000 4,000 2,000
0
出所)農林水産省
「農業経営統計調査」から作成
コメの規模別生産費と所得
13)
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所得
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550000.5..
~~~~~ 満12351~0~以
....01以2上
0.(.所
未
0.00
生産費
0000.5上0(
しかし、農地面積が一定で一戸当たりの規模を拡大することは
農業に従事する戸数を 減少させるということだ。
組合員の圧倒的多数であるコメ農家の戸数を維持したい農協は、
構造改革に反対した。
農協が実現した高い米価のおかげで、
零細で高コストの兼業農家が 滞留し、農地を手放そうとしなくなった
この結果、
主たる収入が農業で農業だけで生計 を維持しようとする主業農家に
農地は集まらず、主業農家が規模を拡大してコストダウン収益向上を
図るという道は困難となった。
主業農家の販売シェアは
野菜では 80%、
酪農で は 93%なのに、
高米価政策のおかげでコメだけ 38%と異常に低い。
しかも、減反政策は単収向上を阻害した。
総消費量が一定で単収が増えれば、
コメ生産 に必要な水田面積は縮小し
減反面積が拡大するので、減反補助金が増えてしまう。
この ため、財政当局は単収向上を農林水産省に厳に禁じた。
1970 年の減反開始後、政府の研究 者にとって、
単収向上のための品種改良はタブーとなった。
今では、日本のコメ単収はカ リフォルニア米より、4 割低い。
民間企業が開発した多収量品種もあるが、
農家に苗を供給 する農協は、
生産が増えて米価が下がることを恐れ、この品種を採用
しようとしない。
高い米価はコメの消費を減少させた。
高米価政策によって生産と消費の両面で打撃を加 えられたコメ農業は
衰退。コメの産出額は 10 年間で半減し、
農業産出額に占めるコメの割
0生0得 産()
費所 ) 得 )
図表 2 は、さまざまな農業の中で、
コメだけ農業所得の割合が著しく低く、
農外所得(兼 業収入)と年金の割合が異常に高いことを示している。
コメを作っているのは、兼業農家 や年金生活者である。
(図表―2)
46)
(千円)営農類型別年間所得と内訳(2012) 9000
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年金収入等
page4image2844
8000
7000
6000
5000
4000
3000
2000
1000
0
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農外所得
農業・農業生産関連事業所得
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水田作 果樹
野菜 肉牛
ブロイラー 酪農
出所)農林水産省「H24 年 営農類型別経営統計(個別経営)」より
コメの比重が低下しているので、コメの兼業農家の存在は
農業全体にとってはなんら重 要ではない。
コメの兼業農家がいなくなってくれた方が、
主業農家の規模が拡大して、コ メ農業は発展する。しかし、
それは農業の視点であって、
農協の視点ではない。
農協にと っては兼業農家の方が重要なのだ。
次の図表 3 は農家所得(平均値)の内訳である。
コメの兼業農家は農家戸数の 7 割を占 4
めるとともに、その農外所得は他の農家と比較にならないほど大きい。
したがって、農家 全体では、コメ兼業農家の農外所得が支配的な数値と
なってしまう。
高齢化で、年金収入 も増加。
1955 年に農家所得の 67%を占めていた農業所得は、
2003 年には 14%に下がった。
農業所得 110 万円に対して農外所得 432 万円は 4 倍、
年金等 229 万円は 2 倍である。 (図表―3)
100% 90% 80% 70% 60% 50% 40% 30% 20% 10% 0%
実質農家所得の構成推移(1955-2003) 年金・被贈等page5image4580 page5image4664 page5image4748 page5image4832 page5image4916
農業所得
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出所)農林水産省『農業経営動向統計』より作成。
注)2004 年以降、調査体系が変更されたため数値が接続しない。
コメ農業を衰退させた兼業農家の滞留は、農協に好都合だった。
莫大な農外所得も年間 数兆円に及ぶ農地の転用利益も、
銀行業務を兼務できる農協の口座に預金され、
農協は日 本で第二位を争うメガバンクとなった。
高米価による兼業農家の維持が、農協発展の基礎 となった。
問題の本質は“TPP と農協”だ
関税がなくなれば、国内価格を高くしている減反政策は維持できない。
これで価格が下
がっても、米国のように財政から直接支払い、所得補償を行えば、
農家は影響を受けない。
しかし、所得の高い兼業農家の所得を補償することは、
納税者の納得が得られない。する と、
米価低下でコスト割れした兼業農家は農地を出してくる。
主業農家に限定して直接支 払いをすれば、それによって地代負担能力が
高まった主業農家に農地は集積し、規模拡大、
農外所得
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1955 1957 1959 1961 1963 1965 1967 1969 1971 1973 1975 1977 1979 1981 1983 1985 1987 1989 1991 1993 1995 1997 1999 2001 2003
コストダウン、収益向上が実現する。
減反廃止で、単収も向上する。
高齢化、人口減少で縮小する国内市場をいくら関税で守っても、
日本農業は衰退するし かない。
国際的にも高い評価を受けている日本のコメが、
減反廃止と直接支払いによる生 産性向上で価格競争力を持つように
なれば、世界市場を開拓できる。
しかし、
兼業農家が いなくなり、主業農家主体の農業が実現することは、
農協にとって組織基盤を揺るがす一 大事だ。農協が
TPP に対して大反対運動を展開しているのはこのためだ。
農協にとって 10 年先の農業がどうなるかは重要なことではない。
問題の本質は、“TPP と農業”ではない。
“TPP と農協”なのだ。
減反見直しの罠
減反政策の基本は、
農家が水田でコメ以外の作物を植えるという転作=米作
の減反をし た面積に補助金を交付し、コメの生産を減らして、
米価を高くするというものだ。
さらに 2010 年度から民主党は、これ以上コメを作らないという
生産目標数量を守った農家に対し て、
コメの作付面積に対する
補助金=戸別所得補償を支払うことにした。
今回の見直しは、民主党が導入した戸別所得補償を廃止する
もので、自民党が選挙公約 で掲げていたものだ。
その代わり、
1970 年から続いている本来の減反=転作面積に対する
補助金(減反補助金)は、拡充される。つまり、
高米価政策という農政の根本に、いささ かの変更もない。
米価が下がらないので、TPP 交渉での関税撤廃などできないし、
零細な 兼業農家も米作を続けるので、
主業農家が農地を借り受けて規模を拡大することもできな い。
1ha 規模の標準的なコメ農家は
1951 年には年間 251 日働いていたが
機械化が進んだ ので 2010 年には 30 日しか働いていない。
週末しか農業をしない兼業農家にとって、
麦や 大豆を作るのは大変だが
コメなら簡単に作れる。
前回の自民党政権末期の 2009 年から、
パン用などの米粉や家畜のエサ用などの非主食用にコメを作れば、
これを減反(転作)と 見なして、主食用にコメを販売した場合の
10 アール当たりの収入 10.5 万円と同じ収入を 確保できるよう、
8 万円の補助金を交付してきた。
今回補助金を 10 アール当たり最大 10.5 万円にまで増額し、
米粉・エサ用の米価をさら に引き下げて需要・生産を増やそうと
している。
この補助金は主食用米の販売収入と同額 なので、
農家は米粉・エサ用のコメをタダで販売できる。
輸入される小麦やトウモロコシ よりも、タダのコメの方が安い。
これから牛や豚は税金の塊のようなエサを食べることに なる。
現在、米粉・エサ用のコメ作付面積は 6.8 万ヘクタールで、
減反面積 100 万ヘクタール の 1 割にも満たない。しかし、
8 万円と補助単価が大きいので、トータル 2,500 億円の減反 補助金
のうち 544 億円がこれだけに支払われている。
農林水産省はエサ用に最大 450 万ト ンの需要があるとしている。
単収 700 キログラムなら、面積で 64 万ヘクタールだ。もし
10 アール当たり 10.5 万円を払うと、これだけで 7,000 億円かかる
残りの減反面積を合わ せると、減反補助金は 8,000 億円に達する。
これまで減反補助金と戸別所得補償を合わせて
5,000 億円ほどの税金を使って米価を上 げ、消費者に 6,000 億円
もの負担を強いてきた。
コメ産業は 1.8 兆円にすぎないのに、合計 1.1 兆円の国民負担だ。
国民は納税者としてもお金を払い、その結果、
消費者として高いコ メの価格を払うという、
とんでもない政策を 40 年以上も続けてきた。
今回の補助金が効き すぎて
エサ用のコメの収益の方がよくなれば、
主食用のコメの作付けが減り
主食用の米 価はさらに上がる。
税金投入の増加とあわせ国民負担はさらに高まる。
消費税には厳しい 政治も、
主食であるコメ価格引き上げには寛容である。
補助金漬けによる米粉やエサ用のコメ生産は、
輸入小麦やトウモロコシを
代替してしま い、これらのほとんどを輸出している
米国の利益を大きく
損なう。米国が世界貿易機関 (WTO)に減反補助金を提訴すれば、
日本車に報復関税をかけることが可能だ。
見直しが招く減反の崩壊
1992 年、ガット(GATT)ウルグアイ・ラウンド交渉の最終局面で、
EU はそれまでの 価格による農家保護から、
財政からの直接支払い
へ農政を大きく変更した。
(過剰農産物 を輸出補助金で処理することによる)
財政負担の増加と
米国との貿易紛争の激化、(輸出 補助金削減が要求された)
ウルグアイ
・ラウンド交渉への対応が原因だった。
ウルグアイ・ ラウンドを TPP と置き換えると、
今回の減反見直しが
もたらす状況は、EU の農政改革の 状況と類似する。
高米価・減反政策を徹底した行きつく先が、
減反と農協の崩壊を招く
か もしれない。一筋の光明である。
▶︎孫崎享氏「TPP参加に歯止めを」 農協研究会
・本当のことが言えない風潮
・国より企業の利益を優先
・事実を直視、正しい判断を
・経済だけではない農業の価値
・農業者の行動を国民運動へ
7月のTPP(環太平洋連携協定)交渉に向け、
日本の参加が近づいているが、このままTPP参加に向けて
手をこまねいていていいのだろうか。「TPPへの参加は、
日本の主権にかかわる重大な問題だ」。
外務省で国際情報局長、駐イラン大使などを経て
2009年まで防衛大学校教授だった孫崎享(まごさき・うける)氏は、
既定路線のように流れる風潮に警鐘を鳴らす。
6月1日開いた農業協同組合研究会で
「TPPと日本の国益を考える」について講演した。
講演の要旨を紹介する。
「TPP参加は国の主権を侵害する」
危険なISD条項、参加の流れに歯止めを
◆本当のことが言えない風潮
農業者の奮起を促した孫崎さん 日本がTPPに入る理由はまったくない。国会議員などからなる「TPPを考える国民会議」が5月に開いたシンポジウムで、代表世話人の一人である榊原英資氏が経済摩擦に伴う1992年、93年の日米交渉の経験から、「取るものと取られるものがあるのが交渉。何もない交渉はありえない。TPPはとるものが何もない」と述べていた。その通りだが、いまこれを言うと変人扱いされる。
私はテレビで、「安倍首相はTPPでは交渉力を発揮して日本の言い分を通すというが、これはありえない。日本の国益を侵害する問題だ」と述べた。すると衆議院総務委員会のNHKの予算審議で、東京選出のある議員が、
「孫崎はテレビでとんでもないことを話している。NHKは出すべきではない」と発言した。
それで参議院の予算委員会が私を呼んだ。そのときTPPと尖閣問題、そして集団的自衛権について私の意見を述べた。こうした状況を踏まえて述べたい。
(写真)農業者の奮起を促した孫崎さん
◆国より企業の利益を優先
いま日本は大きな岐路に立っている。外交、内政にさまざまな問題があるが、特にTPPのISD条項が問題だ。投資家や企業が損害賠償を求めて相手国を提訴できる。これは国家の主権を脅かす重大な問題だ。ISDが基本とする経済理念は、受入国で期待される経済的利益を得られないときのものだが、TPPはそれで収まらず、健康、土地、政府調達、知的所有権など、広範な分野における企業の利益を対象にする。
例えば企業が建設した廃棄物処理施設で発生した有害物質でがん患者が発生し、自治体が施設の利用を不許可にした場合はどうか。有害物質のあるガソリンの輸入や、新薬の特許で臨床試験が十分でないときはどうするか。メキシコやカナダでは公害でがん患者を発生された企業の営業や施設利用、あるいは新薬の使用許可を取り消したことで、企業に訴えられ、数千万ドルの損害賠償を求められたことが数多くある。政府や自治体は企業が有害物質を出した場合、それを止めるのが当然だが、それが企業の利益確保を妨害したとして訴えられるのだ。
◆事実を直視、正しい判断を
カナダでは、臨床試験が不十分だとして製薬会社の新薬に特許を与えなかったことで、企業から政府が訴えられたが、裁判所は却下した。そこで企業はISDに提訴し、政府は1億ドルの損害賠償を求められた例がある。臨床が不十分といったら、安全まで臨床試験するのが当たり前。それが不十分ということで最高裁の判断をISDで覆す。国の最高機関である国会の決定をISDが裁くという事態が生じているのだ。
国民会議主催の国際シンポジウムで、ニュージランドのオークランド大学のケルシー教授が、安倍首相は、「交渉で日本が指導的な立場をとるというが、これはありえない」と述べていた。これまで参加国は17回の会合を重ね、残りは7月の2回の会合を残すのみで、10月に最終のサインになる予定。メキシコ、カナダの参加が、これまでの交渉結果をそのまま受け入れるようにという条件をつけられたように、交渉力発揮はありえない。18回が7月15日から25日だが、日本が交渉に参加しても最後の2日だけ。それでなにができるか。
伊丹十三の父親で映画監督だった伊丹万作が、昭和21年にこう発言している。第2次大戦が終わり「国民のみんながだまされたといった。しかし反対という人が出てきたら、みんなで排斥したではないか。思考を停止して大勢についていった」と。いま日本は思考停止の状態にある。考えると大勢から外れるから考えないようにする。それがまさにいまのTPPである。政府の言うことを検証し、きちんと事実を積み上げれば日本の主張が通らないことは分かる。
◆経済だけではない農業の価値
いま、多くの人は日本の米作りは経済的に合理性がないという。しかし、それで収入を得て生活を支えている人がいる。農業を経済だけ考えていてよいのだろうか。1999年、国際条約局長のときの思い出がある。ヨルダンのアブドゥッラー国王が王子の時、来日し食事を共にしたが、対日の目的は、当時死の床にあった国王が大好きだった青森りんごと松坂牛を買いにきたのだという。それだけ日本の農産物にはブランド力がある。これから中国や東アジアの富裕層がこうした安全でおいしい日本の農産物を求めるようになる。
日本の農業は頑張れば展望が開ける。なぜTPPに入らないと頑張れないか。これはTPPと何の関係もない。
先の国際シンポジウムで、アメリカのパブリックシチズン貿易担当のワラックさんの資料によると、アメリカがカナダやメキシコと結んだFTA(自由貿易協定)にもISD条項が入っているが、そのときだれもこの危険性を論議しなかった。もともとISD条項は、法律が整備されていない後進国向けで、日本のような先進国を対象にしたものではない。ところが企業は、これをもって国内法にチャレンジできることを知った。訴訟の数も賠償金額も年々増え、もう、一つのビジネスだ。
ケルシーさんとワラックさんは「どこへ行って聞いても、日本がTPPに入る理由を話せる人がいない」という。それにも関わらず、参加推進論のオンパレードだ。前原・元外務大臣は「GDP1.5%の農業のため、98.5%が犠牲になっている」といった。TPPは関税の問題だという言い方だが、TPPはすべての経済分野に渡るのだ。菅・元首相は「第3の開国」といった。第1、第2の開国が分かっているのだろうか。明治の開国は関税自主権がなく治外法権が与えられた。第2次大戦の敗戦のときはどうか。降伏文書をよく読んでほしい。そこには「日本は連合国最高司官がすべての命令を出し、行動をとることを約束する」とある。すべてアメリカのいうことに従うということだ。
財界は「TPPに入らないと世界の孤児になる」という。しかしG8(主要8か国首脳会議)の参加国はどこも入らず、ブラジルなどのブリックス諸国も入っていない。アセアン諸国も大所は参加していない。
それで世界の孤児といえるのか。
「内需型産業から世界に打って出る」
「円高への抵抗力を高める」
「農業改革を急ごう」
「TPP参加が日本の命運を決める」
「競争力磨く志を再び」。
推進派の主張だが、嘘と詭弁に満ちている。
◆農業者の行動を国民運動へ
また、TPPに入らないと日本の安全が守れないという。果たしてそうだろうか。いま、日本の安全保障上、一番大きな課題は尖閣の問題だ。尖閣諸島は1972年の日中国交回復のとき、田中角栄首相と中国の周恩来首相が、当面は触れず将来の解決に待とう、紛争の種にしてはならない、ということで処理してきたものだ。当時の新聞もそう報じており、それが常識だった。
外務省も、当時の条約課長で対米交渉に通じていた栗山尚一氏は「尖閣は棚上げで暗黙の了解が日中首脳レベルでなされた。78年の平和友好条約締結で再確認されたと考えるべきだ」と述べている。
しかし今の政府は「合意はなかった」という。どちらをとるかで対応が全然違ってくる。棚上げは当事者によって守られる限り、紛争の悪化を防止し、沈静する有効な手段になるが、政府はいま、その手段を自ら捨てている。
日米安保は、核の傘で米国が日本を守るためにあるという。しかし朝鮮戦争、ベトナム戦争で、米国は核兵器の使用を考えたが、結局、米国内と国際世論で使えなかった。いまも使えない。アメリカが核攻撃を受ける危険を犯してまで日本を守ることはない。核の傘は基本的には無いのだ。
いま日本の輸出は対米が15.5%、中国、韓国、台湾、香港の東アジアが38.8%。それでも15%を選ぶのか。もうアメリカと心中しなくてもよい時代なのだ。残念ながらTPP反対で頑張るところがだんだん少なくなった。
最初から反対しているのは農業関係者だ。
これがつぶれたらもう終わりになる。
反対の理由は農業だったかもしれないが、TPP反対は国民のためでもある。
頑張って欲しい。
活発に意見交換した研究大会 活発に意見交換した研究大会
(写真)活発に意見交換した研究大会
【講演者略歴】
孫崎享氏(元イラン大使、元防衛大学教授)
まごさき・うける 1943年生まれ。66年東大法学部中退、外務省入省。駐ウズベキスタン大使、国際情報局長、駐イラン大使を経て2009まで防衛大教授。著書に『日米同盟の正体』、『不愉快な現実』(講談社現代新書)、『戦後史の正体』(創元社)、『転ばぬ先のツイ』(TPP等についてツイッターしたものに解説・