「竹島=トクド独島」⬅︎「私腹・糞袋ー国士」
出典:
1:「新歴史の真実」 前野徹 著 講談社α文庫P44~45
2:「沈黙のファイル」共同通信社社会部編 新潮文庫P18~35,39~55
1:➡︎東京裁判から50数年しか経っていない、
今の日本の指導者層は
開廷していた頃まだ生を受けていなかったか、幼かった60代です。
親の代に起こった歴史の真実にさえ無関心とは?
無責任、無恥、無表情が日本列島を覆っている
「竹島=独島」 が象徴的です
竹島は1905年以降、国際社会でも日本領の一部としてきた
ところが1952年サンフランシスコ講和条約発効で
日本が朝鮮半島の独立を認め一切の権利を放棄した
途端に、韓国政府が「竹島」の領有権を宣言した
1954年日本政府が国際司法裁判所へ調停を提議した
韓国は調停を拒否、実効支配に乗り出す
1997年金泳三政権は500トン級の船舶接岸施設を建設
有人灯台、警備隊常駐、宿舎・ヘリポートを完成
自然保護地域に指定、国立公園に指定
2003年固有の郵便番号を割り振った
決定的な領土侵犯に対して指を咥えて眺めているだけで
日本政府は、
国際社会への働きかけもまったく行っていません
自国領土が掠め取られる重大危機に国会の真剣討議がない
政府・自民党も野党も何故か知らんぶりです
主要マスコミも報道しません
わずかに産経新聞がおりに触れて言及するのみです
靖国参拝など内政干渉まがいの抗議には逆に
「土足で踏み込んだ竹島撤退が先だ!」毅然と抗議すべきですが
竹島=独島 は見て見ぬ振りをします
逆に、先の戦争には謝罪を繰り返す有様です
2:➡︎ソウルから帰国した瀬島竜三は
インドネシア賠償ビジネスで活躍した小林勇一に
ソウル駐在を命じた
『おい小林君!次は韓国だ』
《狙いは日本から韓国への賠償金5億ドルプロジェクト獲得 》
『僕が半年がかりで布石を打ったからそのラインに乗って
走ってくれ!』とね」
賠償はひも付きだから韓国側の要求で発電所や工場を建設
、必要な商品を輸出、その支払いは日・韓両政府が保証する
当時の小林勇一の仕事ぶりについて
伊藤忠ソウル支店長付き運転手李鍾七67が証言 する
「小林さんはチップを倍渡すんです、だからドアボーイが殺到した
キーセンパーティもチップ相場300ウオンなのに500ウオン
日本からの土産も本物の真珠の装飾品を買ってきて渡す」
「伊藤忠がトップを走ろうと思えばできたんです、でも
二番がいい、一番にはなりたくない、と言っていました。」
「特にKCIA金部長は裏金の要求が非常に荒っぽかったから
請求権の仕事で一番を走ると危ない、それより
民間借款の方に力を入れようという考えでした」
「瀬島さんは財界人と挨拶を交わす前に、真っ先に私を抱きしめ
二人が知り合ったいきさつを話すんです。私を紹介することで
『こんな下の者まで気を使う人間なんだ』と見せたかった
財界人の印象を良くするために私を利用したところもあるんです」
この運転手と瀬島の出会い
1962年末、大野伴睦の訪韓団と前後してソウル入りした
瀬島
との出会いがきっかけだった
李は瀬島が滞在したソウルの「朝鮮ホテル」の専属運転手だった
「偶然瀬島さんが私の車に乗って一週間、韓国の工場を見回った
それがきっかけで伊藤忠に25年間もお世話になった、同情したのか
瀬島さんは伊藤忠の専属にならないかと誘ってくれました」
▶︎1962年3月13日等々力の1600m2の児玉邸宅
児玉は戦時中アヘンなど密売で巨利を得た、持ち帰った資産で
自由党設立資金に、政財界や右翼、暴力団の黒幕として君臨
この14年後、ロッキード社秘密代理人として所得税方違反に
KCIA幹部の崔英沢は児玉邸で児玉の紹介で大野伴睦に会う
「大野さんの秘書の中川一郎さんや読売政治部の渡邉恒雄さんが
いつも一緒だった。韓日交渉に慎重な大野さんが弱気になると
『おやじ、私たちがいるじゃないか。元気を出せ』⬅︎35頁
とハッパを掛けてくれたりした」
児玉の登場は
日韓交渉に風穴を開け条約締結の原動力となった
崔は児玉邸に通い始めて1ヶ月ほどした頃
瀬島竜三に引き合わされる
▶︎インドネシアの賠償ビジネス
瀬島竜三の部下だった小林勇一の証言が続く
「久保のような男のことを政商と言うんだろうね、彼は
『東日貿易の株主には大野伴睦や河野一郎、児玉誉士夫らがいる』
と自慢していた、自民党の裏の政治資金ルートになっていたようだ」
久保は
銀座の外車ブローカーで米車を輸入して大企業に転売で荒稼ぎした
スカルノ大統領と仲良くなって賠償ビジネスに紡績プラントや
ジープ納入、テレビ局設備など賠償絡みの仕事を伊藤忠商事に仲介し
その都度コミッションを要求した
「久保が『瀬島さんこれだけ払うと約束した』と言うから
社に帰って確かめてみると瀬島さんは『約束した覚えはない』
と言う、久保は『嘘つくな』と怒り出す、えらく苦労したよ」
コミッションは通常13%だった
久保の説明では10%をスカルノに渡し
残り3%が東日貿易の取り分になると言う⬅︎18頁
スカルノはデヴィを一目で気に入り、帰国後インドネシアに呼んだ
1959年10月、デヴィは久保と共にジャカルタ入りした
「久保さんはスカルノさんに頼まれて日本女性を紹介しただけで
誰でもよかった。たまたまスカルノさんがとても気に入ったので
久保さんがデヴィさんに
現金500万円と等々力の百坪の土地を
渡して、ジャカルタ行きを説得したんだ」⬅︎23頁