ロシア革命⬅︎レーニン・スターリン赤化革命に『反旗日本』往年の戦略
軍閥、右翼の台頭、大正デモクラシーの時代が終わり、日本は一路、
軍国主義への傾斜、暗殺、クーデター、中国での戦争拡大、謀略
という昭和動乱へ突入する
欧米列強が新植民地主義を打ち出し資本主義の福音を伝導する
封じこまれた日本が
満州、蒙古、朝鮮、台湾のブロックを強固にするため打ち出した
イデオロギーが「アジア主義」「五族協和」「大東亜共栄圏」
それらの伝道部隊が仏教各派宗教団体が動員され国策に従事
ロシア革命後、日本は満州、蒙古(内蒙古)重視
傀儡政権樹立、反ソ基地化を図った
1918年満鉄の援助で「日蒙仏教連合会」が浅草本願寺で設立
1924年川村満鉄総裁、児玉関東庁長官らの援助で
蒙古のラマ僧、蒙古満州の宗教者が続々来日する中
大本教の出口王仁三郎が蒙古へ旅立った
出口の政治的意図は明らかである、当時日本は蒙古で
ロシア反革命軍(セミョーノフ)を組織
1919年「大蒙古国」樹立構想を画策
出口は蒙古の宗教ラマ僧との談判に出かけた
出口は馬賊に捕らわれ危なく殺されかかった
大蒙古構想は失敗
全満州・内外蒙古・バイカル以東の地域を「高麗国」とする
「肇国会」に移る
1925年、北京の悟善社に結成された「世界宗教連合会」に
頭山満、内田良平、岡崎鉄首らの右翼指導者と同居し
セミョーノフらが入っている
▶︎復古調を揶揄されるされる安倍首相の画像
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▶︎グリゴリー・セミョーノフ
グリゴリー・セミョーノフ
グリゴリー・ミハイロヴィチ・セミョーノフ
(1890年9月13日 - 1946年8月30日)はロシア革命当時
ザバイカル・コサックの統領(アタマン)であり
、極東三州の独占的利権を確立しようとする
日本軍参謀本部によって、反革命勢力の軍事指揮官に
擁立された。
概要[編集]
セミョーノフは東シベリアのザバイカル州
クランツカでコサックの父とブリヤート人の母
の間に生まれた。
1908年、オレンブルクのコサック学校に入る。
3年後卒業し、第一ウェルフネウディンスク連隊に配属
され、外蒙国境警備の任につく。
その後チタの軍学校に学び、また沿海州の国境警備等
の任につき、1914年、第一次世界大戦が勃発すると、
第一ネルチンスク連隊の一員として東部戦線へ出征。
軍功を立てて勲章二個を得た。
大尉として第三ウェルフネウディンスク連隊で
ペルシャ戦線に戦っている
時に二月革命が起こった。
臨時政府のケレンスキーへ民族部隊の設立を献策して容れられ、
シベリアに戻って募兵を始めるが、十月革命の勃発を受けて
反革命勢力として活動を開始する。
1918年9月、イギリスに擁立されたコルチャークにより
、オムスクに臨時全ロシア政府が成立すると、セミョーノフは
コルチャークからザバイカルの統治権限を受けるが、
両者の戦略や思想の食い違い、英仏軍と日本軍の思惑の相違があり、
その反目の深刻さは軍事作戦面での共同までも妨げていた。
1920年3月、ウラジオストクで新聞を発行していたユダヤ系ロシア人の
アナトリー・グートマンは日本で反過激派(反赤軍)露字新聞
「デイロ、ロシー」(Дело России)の邦文翻訳号を創刊した[1]。
1920年6月にロシアの陸軍中将ロマノフスキーが軍代表者の
セミョーノフやスイロボヤルスキー少将と協議を行い、
「デイロ、ロシー」を買収した[1]。「デイロ、ロシー」の主筆は
ロマノフスキーが行っていた[2]。
彼の粗暴で専制的な素行の噂は、
民意による政権樹立を名目とするアメリカにとって、
極東から日本の勢力を排除するための口実となり、日本のシベリア出兵
継続を危うくさせた。
赤軍に押されてオムスク政府が崩壊する際、
500トンとも言われる帝政ロシア中央銀行の金塊の一部を入手して
日本の朝鮮銀行に輸送した。
続いて列国のシベリア撤退に伴い日本軍の後ろ楯を失い失脚、
1921年にウラジオストクを脱出した後上海、アメリカ、日本を転々とする。
1945年8月、大連にいたセミョーノフは赤軍に捕縛され、
1946年8月モスクワで国家財産略取のかどで絞首刑を執行された。
同将軍に関しては、
吉野松夫という人物と関わりがあり、以下の様な記述も
見受けられる。
赤軍捕縛時のセミョーノフ
(吉野氏は)元関東軍ハルビン特務機関員で、
白系露人工作を担当、チョウル白系開拓団の監督官
とも 言うべき形で副村長をしており、
セミョーノフ将軍の姪を妻にしていたといわれる。
終戦時にはハルビンでソ連側に逮捕されたが、
特務機関員なのにもかかわらず
シベリヤ送りにもならずに、 二十一年大連経由で
引き上げてきた。もちろん、
妻やセミョーノフ将軍が処刑されたことは
いうまでもないことである。
その後、露語に巧みなことから日ソ通信社や
旧朝連(朝鮮人連盟)に関係、二十七年に
日ソ貿易商社進展実業の通訳として、
樺太炭の摘み取りのため樺太へ出張したこともある
という人物である
― 三田和夫著「赤い広場―霞ヶ関
山本ワシントン調書」20世紀社 昭和30年 pp.80~81
出典[編集]