狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

文化はその黎明における根源的な相のなかでは、何か遊び的なものを固有の性質として保っていた。いや、文化は遊びの形式と雰囲気のなかで営まれていた。

2019年01月27日 14時50分43秒 | その他の日記





 マスメディアは苦難にめげずに頑張っているように見える人が大好物です。
 例えば、真夏の昼間の炎天下の中で高校生がふらふらになりながら野球をプレイする。高校生の怪我の可能性やパフォーマンスの低下や健康を一切考えず、過酷な環境で頑張っている姿を感動という形でニュースを構成して利益を得ようとします。 
 怪我を負っても頑張っている選手はTVは大好物です。その選手の将来がどうなるかなんて考えません。苦闘している姿をニュースにしてにお届けして「頑張れ頑張れ」と煽ります。
 例えば、怪我をしているのにノーヒットノーランを8回まで続けた投手を9回で降板させるとマスメディアは監督を批判します。怪我でその投手がどうなろうとマスメディアは知ったことではなく、ニュースとして盛り上がらないから無責任に投手を変えた監督を批判します。
 スポーツというものが何なのか? スポーツ文化とは何か? ということをマスメディアは一切考えません。
 もし、競技中に選手が死亡してもそれさえもマスメディアは見世物にして利益を稼ぐでしょう。
 
 選手はプレイを止めることを好みません。
 プレイ中はアドレナリンが出ていて興奮状態にあります。
 だから選手はプレイを止める判断が自分では出来ないケースがあります。

 スポーツ競技は、選手に危険性が発生した場合には強制的に選手にプレイを止めるシステムが確立しています。
 しかし、「あと少しだから」だとか「頑張っているのだから」という無言の圧力が発生したらそのシステムが停止する場合があります。
 マスメディアは無責任に煽ります。しかしその結果には責任は取りません。そして責任が取れないようなことを平気な顔でしているのです。
 競技を主宰する側はそのように無責任に煽る人達から選手に危険が発生した場合に強制的にプレイを止めるシステムを守るべきです。
 そして選手に危険が発生した場合に強制的にプレイを止めた審判は保護すべきです。
 さらに選手に危険が発生した場合に強制的にプレイを止めずにプレイを続行させた審判には注意し今後そのようなことをしないように指導すべきです。

 スポーツは体育ではありません。
 スポーツと体育は全く違うものです。
 そして体育であっても選手に危険な状態にあるのならばプレイを止めさせるべきです。

 選手を危険な状態にさせておいて『感動』という言葉でごまかすべきではない。と私は思うのであります。




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