前回に引き続き、江戸時代の「和算」を取り上げます。
当時の「和算」は実際に、どれぐらいの水準にあったのか。
和算がもっとも発展した時期は、1720年ごろまでの江戸初期である。この時代には大阪の毛利重能、松村茂清のほか、吉田光由、榎並和澄らすぐれた数学者が多数輩出している。
その中でも和算の分野で“天才”といわれ、最高峰の実績を残した人物に幕府御納戸組頭(現代風に言えば、幕府の会計課長)だった関孝和(1637~1708年、生年は1642年説もあり)がいる。
関孝和は非常に幅広い数学研究を極めたことで知られ、その研究テーマは文字係数の代数式を筆算で表す方法を編み出したほか、方程式の判別法、ニュートンの近似解法、行列、正負の根の存在条件、近似分数、不定方程式、正多角形や円周率の計算、円錐曲線論、微分積分などなど、数学オンチには頭が痛くなるような難解な高等数学の題材が並ぶ。
関孝和は数学をすべて和漢の書物を用い、独学で修めた。「規矩要明算法(きくようめいさんぽう)」「発微算法(はつびさんぽう)」など数多くの著述を残し、“算聖”と呼ばれた。まさに、和算の創世者と言ってもよい偉人なのです。当時の世界のレベルから見ても、関孝和の和算は最高水準にあったことは間違いない。
当時の高等数学のもとになったのは、農民の日常生活で使われる数学にあった。たとえば、関孝和が最も得意としていた立体幾何学は、もともとは水田の土壌体積を計算することから始められたものだ。
日本の土地は山がちで、斜面を切り開いて田畑を作る必要があった。この斜面を削って平面にするために、土壌の体積計算を行う必要に迫られたのである。
それが証拠に、関孝和自身は幕府直轄の武士であったが、その門人には農民や町人出身者が多い。つまり、和算は実用の学問として成立していたわけだ。このように江戸時代の文化・科学は庶民層によって普及・発達していったのである。
ヨーロッパの学術文化が、貴族・支配者階級の手によって発達したのに対し、いかにも対照的である。しかも、独学、自力で高度な発展を遂げていたことは、江戸時代の和算の大きな特徴といえよう。
日本独自に発展した和算は、庶民が生んだ科学的業績の最高峰だったのである。
---owari---
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