como siempre 遊人庵的日常

見たもの聞いたもの、日常の道楽などなどについて、思いつくままつらつら書いていくblogです。

ボヘミアン・ラプソディ 自分だけのためのノート

2019-01-06 03:33:22 | 遊人庵的日常
 2018年の最後の一か月から、年を越して2019年の正月まで、私の頭の中はQueen一色で明け暮れました。
 11月の封切りから日本全国を席巻して大ブームになった映画「ボヘミアン・ラプソディ」のことです。映画にいては、まあ一応見ておこうか、程度の興味でしたので、こんなことになるとはホントに思っていなくて、現在自分でも唖然としているのですが。結局映画は映画館で3回見ました。その間1か月以上、年越しを挟んで、ずっとQueenの曲ばかり聞いて、動画を漁って…と、まありっぱな廃人です。
 こういう、なにかに突然ズボンと落ちてドップリという状態は、まあ事故みたいなものです。発生したらひたすら身を任せているしかないので、この一か月ちょっとの間、こころゆくまでQueen沼に浸かって過ごしました。

 映画については、いろんな人がいろんな感想を発信しておられ、テレビでも急きょの特番など様々組まれたりしていました。それぞれすごく共感できるものも、あまりできないものも、いくら何でもちょっとなあ…(失笑)みたいなのも、いろいろでしたが、それも一巡して落ち着いた感があります。落ち着いたところで、完全な後出しですが、のちのちの自分のために、自分の感想をノートにまとめておこうと思いました。



 私はQueenが「好きか嫌いかといったら好きなほうだけど、特別ファンというわけでも」という、洋楽一般を広く浅く好むアラフィフとしては、まずボリュームゾーンにいると思います。同世代の一般教養として一通りのヒット曲は知っており、「グレイテスト・ヒッツ」は一応買って持ってはいて、各種PVはお笑いネタに分類されている、という(あ、個人的にはブライアン・メイと誕生日が同じ7月19日なので、そこだけ一方的に親近感を感じてたりはしてました)。
 そんな私が、映画見ただけで、なにか昔の恋人に再会して年甲斐もなく燃え上がったみたいな、疑似メロドラマ的な胸苦しさに襲われるのは、映画のドラマ性の高さから一時的に酔うのは当然でしょうが、でも(同じくアラフィフの脳に刷り込まれている)マイケル・ジャクソンとか、プリンスとか、デヴィッド・ボウイとかの半生をこのような映画で見たとしても、ここまでの気持ちになるだろうか? そうは思えない。じゃあ何だろういったいこれは。
…と記憶を探っていったら、何年かまえの、あるシチュエーションに思い至りました。

 あれはいつものように、フラメンコの稽古が終わった後に、ギタリストさんや師匠、クラス仲間などと居酒屋で遅い食事をしながら、フラメンコ談議に花を咲かせていたときでした。
「カマロンってフレディ・マーキュリーとかぶるんですよね…」
 たぶん、カマロンが「サン・フェルナンドのミック・ジャガー」と呼ばれていた話をしていたと思う。いや、私の中ではミックというより…みたいな流れで、それまで深く考えてもいなかったことがフッと口から出てしまい、あ、そうだったんだ!カマロンとフレディはかぶるんだ!と、瞬間自分の中でぱっとピントが合ったのです。ただ、まわりがあまりにも「は? 何言ってんのこいつ??」みたいな謎反応だったため、いやいや、すみません何でもないです、と速攻取り下げてそれっきりになった、そんなことがありました。
 …っといわれても何の話だか分からない向きのため、ごく簡単に説明しますと、カマロン・デ・ラ・イスラは1992年に亡くなっているフラメンコの歌い手で、フラメンコをやっているなら初心者でも知らなきゃ恥ずかしいというくらいアイコニックな名前です。
 わたしはフラメンコを習い始めてすぐのとき、偶然この人のCDを聞いた瞬間魅了されてしまい、それがなければフラメンコも3年くらいでやめていたと思います。それが気づけば20年。長々続いた道楽も、ここ7,8年でやっと、恐る恐る…という感じでカマロンのレトラを、少しずつならって歌ったりなどしています。
 洋楽は広く浅く好きなので、カマロンの「La Leyenda Del Tiempo」とQueenの「ボヘミアン・ラプソディ」に、うっすら似たものを感じていてはいました。曲が似てるわけでは全然ありませんが、なんというか、境界線上に運ばれていくようなヤバさ、一度聞くとあたまから離れなくなるような中毒性、そのあたりが「なんか、かぶるなあ…」と、それはずっと頭にあった気がします。
 それと1950年生まれ・92年没(享年42歳)のカマロンと、1946年生まれ・91年没(享年45歳)のフレディの活動時期は、これは完全にかぶるんですよね。もちろん、国も違えばジャンルとしても接点の何もない二人ですけど、漠然とした同時代的な共振というものは、ないとも言い切れないとも思えます。
 で、その居酒屋での会話は私もそのまま忘れていたわけですが、今回映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見て、うっすら似てるように感じていたことが、もっと本格的に深く胸に落ちて共鳴してしまい、なにか苦しいような気持になってしまったのでした。



「俺が何者かは俺が決める」
 という、フレディが自分の生きざまを総括するセリフが、映画終盤のライブ・エイドの直前にでてきます。
 想像ですが、この映画の製作に深くかかわったQueenの現在のふたり、ブライアン・メイとロジャー・テイラーが言いたかったのは、要するにこれだったのではないでしょうか。
 フレディの最後の一声まで、ヴォーカリストとしての彼に寄り添った二人ですから、映画のセリフそのままのことを当人が言ったか、言わなかったか、それはわからないけれど、「自分が何者かは自分で決める」という矜持ははっきり感じており、自分たちは彼が決めたことをクリアにし、音楽として形にするという意思を共有した。いや、古希を迎えたいまでも、ひとつもぶれずに共有している、と思えるのですよね。その意思の結実が世界に響いたのがこの映画だったのではないか…と。
 ただ、「自分が何者か自分で決め」た彼は、そのように決めたことで幸せだったのか。彼の決めたことに寄り添い、支え続けて、天国に見送った後でも、それで彼は幸せになれたんだろうかという思いは、ずっと残っていっただろうと思います。普通に家族を見送った一般人にもそういう心もとなさはうっすら残るものですが、そこはレガシーがとてつもなく大きいだけに、残されたほうの不安も大きかったことでしょう。そういうものは年とともに解消されるかといったら、されないわけですよね。で、ふたりとも高齢になって、自分の人生のゴールは見えてくる。自分たちの気力が確かなうちにやるべき仕事としては、亡きフレディの人生をきちんと祝福し、再評価し、なにより、しあわせにしないといけない。
…と、まあ想像ですけど、この映画を実現に導いたなみなみならぬ意志力は、そのような、広く一般にも共感できる亡き人への思慕から発していて、それが映画が大きな感動を呼んだ要因の小さからぬ一つであったと、私は勝手に思うわけです。
 亡き人の人生を祝福する、というのは、美化するとか都合よく正当化するということではないけれど、暴露本ではないので、何かを晒すようなことは一切しない。おそらく、生前本人が自分の口から多くを語らなかったこと(出自、セクシャリティ、成功の裏にあった不道徳への耽溺など)については、あえて淡々と、ことさらに深く掘り下げずに背景にとどめたのではないでしょうか(なにしろフレディの人生を祝福するのが第一義なので)。
 これが綺麗ごとだ、作り話的で映画としてはまったくつまらない、という批判も散見されるのですが、それを圧倒的に讃嘆のほうが凌駕しているのは、ひとえに、「故人を幸せに再評価したい」という、真っ当で強い意志が正しく多くの人に響いた結果のように思えます。

 そしてカマロンの方ですが、彼はそういう意味では幸せではなかった。まったく幸せじゃなかったと思います。
カディスの隅っこの小さい島から出た天才カンタオールが、天才ギタリストのパコ・デ・ルシアと出会って化学反応をおこし、伝統的なフラメンコを超越…ある意味で破壊したものを生み出してしまい、世の熱狂的な反応をうけて、自分は壮絶に孤独になっていった。薬物に耽溺して心身ともに病んで、それでも振り絞るように歌い続けて、鬼気迫るものを生み続て、42歳という若さで亡くなってしまいました。
 カマロンの「もどき」は履いて捨てるほどいるけれど、カマロンは一人しかいない。よく言われることです。これは、彼のレトラを勉強するようになって、頭でなく感覚で、五感を突き刺されるようにわかってきました。まだまだ全然、何もわかってないのだろうけど、それでも。
 この人の唄の、大人の男であり、少年であり、性悪女のようでも、清純な乙女のようでもあり、枯れた老人のようでもあったりする、まだ何も知らない初心者じぶんに聞いて衝撃を受けたその「異形さ」というのは、絶対近づけない領域として勉強すればするほど遠くなる。
ただ、こういうものの存在を知って、長いことかけて学び、それが縁の人とのつながりが自分の周りにできていくというのは、とても不思議で、幸せなことだとしみじみ思います。そう、私は彼に幸せにしてもらってるのです、間違いなく。
 だから、その彼が幸せでなかったというのは、一方的に申し訳なく、辛い。彼を慕う後続は良くても、自ら道なき道を開いた天才の孤独も不幸も、自分たちが満ち足りて充実して幸せなだけに、想像するだに(できないけど)辛いです。
 彼のレガシーがこんなに人を無限大に幸せにしている。本来全然関係ない極東の素人の女にめぐりめぐってつながっていったりする。リアルタイムで見たことないのに見たように熱く語るファンがいくらでもいる。それが天才なのである、と思うし、凡人には絶対できない、その感動の波及をもって、彼の人生が幸せに救済されてほしいと祈りたいです。いや真面目な話。

 パフォーマーとして人の望むものを与えたい、最終的に体が動かなくなるまで出来るだけのものを残したいと望み、実際にそのようにしたフレディの遺志が、27年たって、このような映画という形でもうひとつの結実を見て、往年のファンどころかその子、孫の世代にあらたな感動を呼び、ファンを作ったりする現象をみていると、批評家の意見などまったく寄せ付けない、ある種の「感動の力学」というのはあるのだなと思ったり。そのスパンの長さにまた感動したり。天才の力というのは結局すごいものであるな、と思ったり。まだいろいろ感心することしきりなのですが、やっぱり、

「それで、あなたは幸せになれたんでしょうか?」

…という儚い疑問は、回収しきれないままフワフワ漂っており、それはたぶん、ブライアンとロジャーが誰よりも感じていることなんじゃないか、と想像したら、

回収しきれないのは、亡き人への愛かもね。

と、なんか一方的な結論が脳裏に降ってきました。

…But life still goes on,
だよね。


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