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元バレー坊主。

母 永眠

2021年03月05日 | 日記
三年三か月にも及ぶ、不自由な寝たきりの状態から、
去る二月二十二日、母はついに解放され、永遠の眠りに就きました。

くも膜下出血で倒れ、それからついに、自宅へ帰ることも、
大好きだった仕事(家事)に精を出してもらうことも、
叶えてあげることはできませんでした。

十数時間にも及ぶ手術の結果を待つ間は、ただただ、
せめて命だけは助かって欲しいと、切実に願いました。

そして、結果として、本当に命だけが助かりました。

とりあえず命は取り留めたものの、予断を許さない状態は続き、
それでも、面会の際は、こちらの話しかけに対して頷いたり、
言っていることを理解して、笑顔を見せてくれたりしました。

搬送され、手術をした病院の入院期限を迎え、
リハビリ期の病院へ転院しましたが、そこで一度状態が悪くなり、
再手術の為、再び元の病院へ搬送されました。

その頃から、少しずつ、少しずつ、状態は静かに悪化していきました。

話しかけに対する反応も鈍くなり始め、
頷きもほとんどなくなり、笑顔はまったくなくなりました。

リハビリ期の病院の入院期限を迎え、ついに、母が最期の時を迎える、
最期の病院へと転院となりました。


せめてもの救いは、その病院のスタッフの方々が、本当に献身的で、
いつもいつも、とても親切に、優しく、暖かく接して下さったこと。

仕事の休日にしか面会に行けない私と違って、
毎日接して下さるスタッフの方々は、いろいろな母の嬉しい出来事を教えて下さりました。

私などが面会で、同室の患者さんに遠慮して控えめに、
「お母さん、おはよう」などと声をかけても、ほとんど反応がないのに、

とっても声の大きい、女性の看護師さんが笑いながら、
「そんなんじゃダメですよ(笑)」

「〇〇さん、おはよー!」

すると母は、弱弱しく目を開き、掠れた小声ながら、
「おはよう」
と返事をするのです。

他にも、同室の患者さんがお誕生日で、スタッフの方々が
「○○さん、お誕生日だね! おめでとう!」と声をかけたら、突然母も、
「おめでとう」と言ったのだとか、
ごく初期はまだ、たまの経口食が可能で、元気な頃から大好きだったフルーツのゼリーを、
一口飲みこんだ後に「おいしい」って言ってくれたとか…

見守る家族にとって、絶望しかない状況の中で、
髪の毛ほどの細い光の筋でも、とてもありがたい光明に思えたものでした。


回復する希望は皆無、弱り続けていくことに抗う手段などなく、
それでも母は、踏みしめるように生き続けました。
眠ること以外、一切の自由を奪われた身で。

もう本当は、早く楽にしてあげたいと、
お母さん、もう楽になっていいんだよ、と、ずっと思い続けていました。
だからといって、合法に安楽死させる方法などなく、
私の手で、母の命を終わらせることも、まったく考えなかったと言ったら嘘になりますが、
様々な思いが去来し、できませんでした。

母が倒れてから三度目の正月が過ぎ、年末年始休暇の最終日の一月五日、
突然病院から連絡がありました。
担当医いわく、心臓が肥大して、血圧が下がっている、胃ろうで注入している食を、
もう、腸が処理できず、腸にガスが溜まり、そのガスを自力で排出できない状態だと。
なので、胃ろうを中止して、点滴に切り替えるとのこと。
そして、即ちこれは老衰で、恐らく、早ければ一週間、長くとも、
二月を迎えられないだろうと言われました。

ついに、この時が来たのだなと、哀しみと、母がやっと楽になれるのだという、
背反した二つの気持ちが、不規則に心を揺さぶり、
割と気持ちは穏やかで、取り乱したりしていないのに、
それ以降、少しの間、食べ物を受け付けなくなってしまいました。
深層心理の領域で、動揺していたのかもしれません。

覚悟の日々は、思いの外長く、
なんと母は、もう迎えられないだろうと言われていた二月を迎えました。
一月の最終週からは、病院のご配慮で、現在すべての患者さんの面会が禁止されている状況下で、
事前に予約をすれば、一回に二名まで、五分ほどではあるけれど、
面会をさせていただけることになりました。

結果として私は、亡くなるまでに二回しか面会に行けませんでした。
その時の母は、もう目を開けることはなく、
酸素吸入器の力を借りて、弱弱しく呼吸を続けるだけの状態でした。
それでも看護師さんが、
「今日はね、ちょっとだけ目を開けてくれたんですよ!」
と、とっても嬉しそうに、報告してくださり、
そのあまりに純粋な優しさに、涙が出ました。


二月二十二日。

職場に、姉からの電話。
可能なら、出来るだけ早く病院へとのこと。
すぐには退社できそうにない状態だったのですが、
年の初めに、母の状況を伝えておいた若い社員が、
ここは任せて、すぐに病院へ行ってくださいと、
頼もしく言ってくれた優しさに背中を押され、
職場から四十分ほどかかる病院へ向かいました。

母の傍らには姉がいました。
まだ、弱い呼吸は途切れていませんでした。

姉とは反対側の、母の傍らに立ち、
もう、自由に身体に触れてよいと言われていたので、
手を握り、肩を摩り、もう聞こえてはいないだろうけど、
声をかけました。

身体はもう、温もりを失い始めていました。

現代は、昔のように物々しい機械に囲まれて、
バイタルサインの表示がされているということはなく、
とても小さな機械が枕元に置いてあり、
それがナースステーションに情報を送り続けています。

呼吸に合わせて、小さく上下する母の喉元。
弱いけれど、到着してすぐには、まだ多少の規則性を持って、
ゆっくりと動いていました。

しばらくして…

喉に痰が絡んだかのように、ちょっと喉が鳴ったかと思ったら、
その時沈んだ喉が、上がってきませんでした。

姉と私が一瞬沈黙した次の瞬間、
かはっ、という感じに息を吹き返し、
また弱い呼吸をし始めましたが、またしばらくして止まり、
徐々に、その間隔が短くなり始めた頃、

ナースステーションでバイタルサインの異変を見ていた婦長さんが来て、

「今、何度か呼吸が止まっています。心臓も、一分間に五回程度拍動しています」
と伝えられました。

それでも、長い闘病を続けた母を、成す術は無かったけれど、
ずっと見守り続けてきた姉と私に、動揺はありませんでした。

嗚呼、やっと楽になれるね、と、安堵の気持ちの方が、
この時は少し勝っていたように記憶しています。


弱弱しくも動き続けていた母の喉の動きが止まり、
程なくして院長先生がいらっしゃいました。

ドラマなどで目にしたことのある、
患者の手首を取って脈を確かめ、ペン型のライトで眼を照らし、瞳孔を確認。
そして腕時計に目をやり、

「十三時二十五分、ご臨終です」


父の最期を看取ることのできなかった私は、考えたら、
これが五十五年の人生で初めて立ち会った、人の臨終なのだなと、
おかしなことを考えていました。

長すぎた絶望の日々に、望みもしないのに、
覚悟だけは心に沈み続けていったので、不思議なほど涙は出ませんでした。

むしろ…

「お母さん、本当に長い間辛かったね、お疲れさま。やっと楽になれたね」
「ありがとう」


霊安室へと移され、お化粧で綺麗にしてもらい、
燭台と香炉が用意されました。

そして、しばらくすると、いままでずっとお世話してくださった、
スタッフの皆様が、母に会いにきてくれました。
姉と私よりも、スタッフの方々がみなさんいっぱい涙を流されていて、
不自由な身でありながら、この優しさに、暖かさに見守られて、
日々を過ごせた母は、せめてまだしも倖せだったと、
そう思った瞬間、私も涙が溢れました。

だって今、大変な思いをされている病院のスタッフさんが、
その状況下にあって、何故、これほど他人に(仕事とはいえ)優しくなれるのだろうと、
寝たきりだった母の最期の三年三か月の内、二年半もの間、
家族の我々より、長い時間を過ごしお世話をして下さり、
こうして最期の別れに涙を流して下さっているのを拝見したら、

なんだか、母の魂が救われ、解き放たれたような安心感が、
胸に溢れたのです。


家系が浄土真宗(本願寺派)を信心しているので、
その教えに倣えば、人が亡くなると、阿弥陀如来様のお導きによってすぐに仏様となり、
極楽浄土へと向かうとされています。
なので、この時点ですでに母は仏様で、魂などとっくに解き放たれていたんですがね(笑)


このあと、新型コロナウィルスの影響下にある中での、母との最期の別れをしなければなりません。


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