二月二十七日 土曜日。
この日は土曜とはいえ出勤日だったので、午前中は出社し、
仕事を片付け、前出の頼もしい若手社員に後を任せ、
車で一時間半ほどの菩提寺へと向かいました。
父も十七年前に、この寺で葬儀を執り行いました。
父は、兄弟の中で最初に亡くなったので、
それはそれは、盛大に送ってあげることができたのですが、
今となっては、父方の叔父は、末弟の叔父ただ一人、
母方の叔父も同じで、
生前、優しく、気配りの人だった母は、親戚中の人気者で、
親しくしていただいた友人も多かったのに、
そもそももう、参列自体が困難な親戚ばかりな上に、
大規模な式は、世間の事情的に不可能だったので、
ほぼ、家族葬の形を取らざるを得ませんでした。
それでも、式場に到着すると、
母は、それはそれはたくさんの花に囲まれていて、
芳しい花の香りの漂うなか、棺の中で静かに横たわっていました。
夕刻六時から、住職の読経が始まりました。
通夜とはいえ、昨今、夜通し故人を忍び、火と線香を絶やさず供養する、
「夜伽」という習慣はほぼ廃れ、
そもそも、浄土真宗では、くどいようですが即身成仏なので、
霊でいる期間は存在せず、母はすでに仏様(だから浄土真宗の香典は「仏前」が正しい)で、
このような故人の霊を鎮めるためのセレモニーというのは必要ないのですが、
私にとっては、母が人間の姿でいられる最期の夜、
寒い中、独りぼっちで暗い祭壇に横たわって過ごすことが切なく、
斎場の奥には、普通だったら通夜へ参拝に来て下さった方々をもてなす、
広い和室のスペースがあったので、
そこに泊めてもらう許可をもらい、一人、
うたた寝を繰り返しながらも、一晩、線香を焚き続けました。
酷く寒い夜でした。
夜が明け、葬儀は九時からの予定だったので、
八時前には身支度を整え、何をするでもなくうろうろとしながら、
時折線香の様子を覗いては、絶えていたら焚べるを何度か繰り返している内、
葬儀社の方々がいらっしゃいました。
今日の大まかな流れを説明していただき、
ありがたいことに、私の旧友から弔電をいくつかいただいていて、
その電報の紹介をどのようにするかなど、打ち合わせをしている内に、
家族と、ごく少数の親戚も続々と到着しました。
粛々と式は進行し、いよいよお別れから出棺の儀へ。
喪主の挨拶とは言え、参列者は親族だけなので、
堅苦しいことは言わず、母がやっと楽になれたことの喜び、
決して孝行息子ではなかったけれど、母の元に生まれたことを誇りに思うと、
拙い言葉を紡ぎ、話させていただきました。
祭壇を彩っていた花々は、棺に納めるために切り取られてお盆に盛られ、
母の遺体の傍らに、皆で供えていきました。
色とりどりの華やかな花々に囲まれていく母。
孫たちは、おばあちゃんとの思い出の品を母の胸元へ。
元気だった頃、花や草木が好きで、よく世話をしていたことを思い出し、
涙で見送ることだけはやめようと、心に誓っていたけれど、
さすがにこの時ばかりは、これがいよいよ母の人間の姿の最期なのだと、
感情の込み上げてくるのを抑えることができず、
声を押し殺し、溢れ出る涙をハンカチで押さえ続け、
出棺の時には必ず笑顔でいられるようにと、
静かに心の落ち着くのを待ちました。
すべての花が供えられ、花まみれとなり、
様々な思いの籠もった品を胸に抱いた母の姿は、
本当に綺麗でした。
棺の蓋が閉められ、皆で手を添えて霊柩車へ。
私と息子の車に分乗してもらい、
霊柩車の後に続き火葬場へと向かいました。
ここでもひとつ、ちょっと驚くことがありました。
実は、母のことを慕い、とても仲の良かった叔母が、
昨年の九月に急逝されていたのですが、
宗派が違い、とあるキリスト教系の信者であった叔母ですが、
なんと、同じ火葬場、そして、
いよいよ母の棺が炉へと入れられようとする刹那、
それぞれに最期の言葉をかけ、見送った先に見たのは、
妹である叔母が焼かれたのと、同じ炉だったのです。
火葬を待つ間、控室で親戚同士、昔話に花を咲かせ、
皆が母の思い出に浸ってくれました。
叔父たちは、私の知らない、母の結婚前の話など
(実はもう何度も聞かされたんですが)、
嬉しそうに、昔に思いを馳せ、語ってくれました。
こうして、長い年月を経て、一人、また一人と、
兄弟を失っていき、残された末弟である叔父は、
このとき、どのような気持ちだったか。
推し量ることなどとても叶いませんが、
懐かしそうに目を細めるその目尻から、
時折涙の伝うのを見て、胸が痛くなりました。
母の骨を拾い、最期のお経を賜り、
お骨、遺影、位牌(本当にくどいですが、本来浄土真宗には位牌はありません)を、
息子と娘(共に孫)に託し、
姉と私は、子供の頃大変可愛がってもらい、
晩年の母のことをとても心配してくれた伯母との、最期のお別れへ向かったのでした。
実は今日は、このブログを開設してちょうど4300日目。
いやいや(笑)
別に4300日って、数字的に限が良さそうに見えて、
特にちょうどでもなんでもないんですが、
これ年月に直すと、およそ11年と285日。
元々は、当時所属していたソフトバレーチームのメンバー募集のために立ち上げましたが、
結局ほぼ、当初の目的を達成することはできず(でもお一人だけメンバーになってくださった!)、
そのあとは、別に有名人でもなんでもないおっさんが、駄文を認めるだけの、
日記を垂れ流しているだけのブログに成り下がりました。
そうして数年前にバレーの活動そのものから離脱し、
それからは、本当に、ただ素人の中年の日記を公開しているに過ぎない有様となりました。
それでも不思議なもので、今でも日に数十名の方が閲覧してくださっています。
人数的に、大きなブレがないことから、恐らく閲覧者のほとんどは、
毎日同じ方なのではないかと思っています。
こんな拙い駄文の羅列をご覧いただき、今まで本当にありがとうございました。
この日記を以て、ブログ「ぽかぽか容器」の最終回とさせていただきます。
ブログをご覧いただいた、すべての方々、
あまつさえコメントをくださった方々、
改めて、心から感謝いたします。
ありがとうございました。
ブログ自体、閉鎖はしませんが、今後更新されない状態が長く続くと、
サーバーの負荷などを理由に、運営側から削除されることがあるかもしれません。
その際は、悪しからずご了承いただけましたら、ありがたく存じます。
ありがとうございました。
2021年 3月6日 10時24分 自宅 自室にて。
この日は土曜とはいえ出勤日だったので、午前中は出社し、
仕事を片付け、前出の頼もしい若手社員に後を任せ、
車で一時間半ほどの菩提寺へと向かいました。
父も十七年前に、この寺で葬儀を執り行いました。
父は、兄弟の中で最初に亡くなったので、
それはそれは、盛大に送ってあげることができたのですが、
今となっては、父方の叔父は、末弟の叔父ただ一人、
母方の叔父も同じで、
生前、優しく、気配りの人だった母は、親戚中の人気者で、
親しくしていただいた友人も多かったのに、
そもそももう、参列自体が困難な親戚ばかりな上に、
大規模な式は、世間の事情的に不可能だったので、
ほぼ、家族葬の形を取らざるを得ませんでした。
それでも、式場に到着すると、
母は、それはそれはたくさんの花に囲まれていて、
芳しい花の香りの漂うなか、棺の中で静かに横たわっていました。
夕刻六時から、住職の読経が始まりました。
通夜とはいえ、昨今、夜通し故人を忍び、火と線香を絶やさず供養する、
「夜伽」という習慣はほぼ廃れ、
そもそも、浄土真宗では、くどいようですが即身成仏なので、
霊でいる期間は存在せず、母はすでに仏様(だから浄土真宗の香典は「仏前」が正しい)で、
このような故人の霊を鎮めるためのセレモニーというのは必要ないのですが、
私にとっては、母が人間の姿でいられる最期の夜、
寒い中、独りぼっちで暗い祭壇に横たわって過ごすことが切なく、
斎場の奥には、普通だったら通夜へ参拝に来て下さった方々をもてなす、
広い和室のスペースがあったので、
そこに泊めてもらう許可をもらい、一人、
うたた寝を繰り返しながらも、一晩、線香を焚き続けました。
酷く寒い夜でした。
夜が明け、葬儀は九時からの予定だったので、
八時前には身支度を整え、何をするでもなくうろうろとしながら、
時折線香の様子を覗いては、絶えていたら焚べるを何度か繰り返している内、
葬儀社の方々がいらっしゃいました。
今日の大まかな流れを説明していただき、
ありがたいことに、私の旧友から弔電をいくつかいただいていて、
その電報の紹介をどのようにするかなど、打ち合わせをしている内に、
家族と、ごく少数の親戚も続々と到着しました。
粛々と式は進行し、いよいよお別れから出棺の儀へ。
喪主の挨拶とは言え、参列者は親族だけなので、
堅苦しいことは言わず、母がやっと楽になれたことの喜び、
決して孝行息子ではなかったけれど、母の元に生まれたことを誇りに思うと、
拙い言葉を紡ぎ、話させていただきました。
祭壇を彩っていた花々は、棺に納めるために切り取られてお盆に盛られ、
母の遺体の傍らに、皆で供えていきました。
色とりどりの華やかな花々に囲まれていく母。
孫たちは、おばあちゃんとの思い出の品を母の胸元へ。
元気だった頃、花や草木が好きで、よく世話をしていたことを思い出し、
涙で見送ることだけはやめようと、心に誓っていたけれど、
さすがにこの時ばかりは、これがいよいよ母の人間の姿の最期なのだと、
感情の込み上げてくるのを抑えることができず、
声を押し殺し、溢れ出る涙をハンカチで押さえ続け、
出棺の時には必ず笑顔でいられるようにと、
静かに心の落ち着くのを待ちました。
すべての花が供えられ、花まみれとなり、
様々な思いの籠もった品を胸に抱いた母の姿は、
本当に綺麗でした。
棺の蓋が閉められ、皆で手を添えて霊柩車へ。
私と息子の車に分乗してもらい、
霊柩車の後に続き火葬場へと向かいました。
ここでもひとつ、ちょっと驚くことがありました。
実は、母のことを慕い、とても仲の良かった叔母が、
昨年の九月に急逝されていたのですが、
宗派が違い、とあるキリスト教系の信者であった叔母ですが、
なんと、同じ火葬場、そして、
いよいよ母の棺が炉へと入れられようとする刹那、
それぞれに最期の言葉をかけ、見送った先に見たのは、
妹である叔母が焼かれたのと、同じ炉だったのです。
火葬を待つ間、控室で親戚同士、昔話に花を咲かせ、
皆が母の思い出に浸ってくれました。
叔父たちは、私の知らない、母の結婚前の話など
(実はもう何度も聞かされたんですが)、
嬉しそうに、昔に思いを馳せ、語ってくれました。
こうして、長い年月を経て、一人、また一人と、
兄弟を失っていき、残された末弟である叔父は、
このとき、どのような気持ちだったか。
推し量ることなどとても叶いませんが、
懐かしそうに目を細めるその目尻から、
時折涙の伝うのを見て、胸が痛くなりました。
母の骨を拾い、最期のお経を賜り、
お骨、遺影、位牌(本当にくどいですが、本来浄土真宗には位牌はありません)を、
息子と娘(共に孫)に託し、
姉と私は、子供の頃大変可愛がってもらい、
晩年の母のことをとても心配してくれた伯母との、最期のお別れへ向かったのでした。
実は今日は、このブログを開設してちょうど4300日目。
いやいや(笑)
別に4300日って、数字的に限が良さそうに見えて、
特にちょうどでもなんでもないんですが、
これ年月に直すと、およそ11年と285日。
元々は、当時所属していたソフトバレーチームのメンバー募集のために立ち上げましたが、
結局ほぼ、当初の目的を達成することはできず(でもお一人だけメンバーになってくださった!)、
そのあとは、別に有名人でもなんでもないおっさんが、駄文を認めるだけの、
日記を垂れ流しているだけのブログに成り下がりました。
そうして数年前にバレーの活動そのものから離脱し、
それからは、本当に、ただ素人の中年の日記を公開しているに過ぎない有様となりました。
それでも不思議なもので、今でも日に数十名の方が閲覧してくださっています。
人数的に、大きなブレがないことから、恐らく閲覧者のほとんどは、
毎日同じ方なのではないかと思っています。
こんな拙い駄文の羅列をご覧いただき、今まで本当にありがとうございました。
この日記を以て、ブログ「ぽかぽか容器」の最終回とさせていただきます。
ブログをご覧いただいた、すべての方々、
あまつさえコメントをくださった方々、
改めて、心から感謝いたします。
ありがとうございました。
ブログ自体、閉鎖はしませんが、今後更新されない状態が長く続くと、
サーバーの負荷などを理由に、運営側から削除されることがあるかもしれません。
その際は、悪しからずご了承いただけましたら、ありがたく存じます。
ありがとうございました。
2021年 3月6日 10時24分 自宅 自室にて。