ぽかぽか容器

元バレー坊主。

母 最期の別れ (後) ぽかぽか容器 最終回

2021年03月06日 | 日記
二月二十七日 土曜日。

この日は土曜とはいえ出勤日だったので、午前中は出社し、
仕事を片付け、前出の頼もしい若手社員に後を任せ、
車で一時間半ほどの菩提寺へと向かいました。

父も十七年前に、この寺で葬儀を執り行いました。

父は、兄弟の中で最初に亡くなったので、
それはそれは、盛大に送ってあげることができたのですが、

今となっては、父方の叔父は、末弟の叔父ただ一人、
母方の叔父も同じで、
生前、優しく、気配りの人だった母は、親戚中の人気者で、
親しくしていただいた友人も多かったのに、

そもそももう、参列自体が困難な親戚ばかりな上に、
大規模な式は、世間の事情的に不可能だったので、

ほぼ、家族葬の形を取らざるを得ませんでした。


それでも、式場に到着すると、
母は、それはそれはたくさんの花に囲まれていて、
芳しい花の香りの漂うなか、棺の中で静かに横たわっていました。

夕刻六時から、住職の読経が始まりました。




通夜とはいえ、昨今、夜通し故人を忍び、火と線香を絶やさず供養する、
「夜伽」という習慣はほぼ廃れ、
そもそも、浄土真宗では、くどいようですが即身成仏なので、
霊でいる期間は存在せず、母はすでに仏様(だから浄土真宗の香典は「仏前」が正しい)で、
このような故人の霊を鎮めるためのセレモニーというのは必要ないのですが、

私にとっては、母が人間の姿でいられる最期の夜、
寒い中、独りぼっちで暗い祭壇に横たわって過ごすことが切なく、
斎場の奥には、普通だったら通夜へ参拝に来て下さった方々をもてなす、
広い和室のスペースがあったので、
そこに泊めてもらう許可をもらい、一人、
うたた寝を繰り返しながらも、一晩、線香を焚き続けました。


酷く寒い夜でした。


夜が明け、葬儀は九時からの予定だったので、
八時前には身支度を整え、何をするでもなくうろうろとしながら、
時折線香の様子を覗いては、絶えていたら焚べるを何度か繰り返している内、
葬儀社の方々がいらっしゃいました。

今日の大まかな流れを説明していただき、
ありがたいことに、私の旧友から弔電をいくつかいただいていて、
その電報の紹介をどのようにするかなど、打ち合わせをしている内に、
家族と、ごく少数の親戚も続々と到着しました。


粛々と式は進行し、いよいよお別れから出棺の儀へ。

喪主の挨拶とは言え、参列者は親族だけなので、
堅苦しいことは言わず、母がやっと楽になれたことの喜び、
決して孝行息子ではなかったけれど、母の元に生まれたことを誇りに思うと、
拙い言葉を紡ぎ、話させていただきました。

祭壇を彩っていた花々は、棺に納めるために切り取られてお盆に盛られ、
母の遺体の傍らに、皆で供えていきました。
色とりどりの華やかな花々に囲まれていく母。
孫たちは、おばあちゃんとの思い出の品を母の胸元へ。

元気だった頃、花や草木が好きで、よく世話をしていたことを思い出し、
涙で見送ることだけはやめようと、心に誓っていたけれど、
さすがにこの時ばかりは、これがいよいよ母の人間の姿の最期なのだと、
感情の込み上げてくるのを抑えることができず、
声を押し殺し、溢れ出る涙をハンカチで押さえ続け、
出棺の時には必ず笑顔でいられるようにと、
静かに心の落ち着くのを待ちました。



すべての花が供えられ、花まみれとなり、
様々な思いの籠もった品を胸に抱いた母の姿は、
本当に綺麗でした。

棺の蓋が閉められ、皆で手を添えて霊柩車へ。

私と息子の車に分乗してもらい、
霊柩車の後に続き火葬場へと向かいました。



ここでもひとつ、ちょっと驚くことがありました。

実は、母のことを慕い、とても仲の良かった叔母が、
昨年の九月に急逝されていたのですが、
宗派が違い、とあるキリスト教系の信者であった叔母ですが、
なんと、同じ火葬場、そして、

いよいよ母の棺が炉へと入れられようとする刹那、
それぞれに最期の言葉をかけ、見送った先に見たのは、

妹である叔母が焼かれたのと、同じ炉だったのです。

火葬を待つ間、控室で親戚同士、昔話に花を咲かせ、
皆が母の思い出に浸ってくれました。
叔父たちは、私の知らない、母の結婚前の話など
(実はもう何度も聞かされたんですが)、
嬉しそうに、昔に思いを馳せ、語ってくれました。


こうして、長い年月を経て、一人、また一人と、
兄弟を失っていき、残された末弟である叔父は、
このとき、どのような気持ちだったか。

推し量ることなどとても叶いませんが、
懐かしそうに目を細めるその目尻から、
時折涙の伝うのを見て、胸が痛くなりました。


母の骨を拾い、最期のお経を賜り、
お骨、遺影、位牌(本当にくどいですが、本来浄土真宗には位牌はありません)を、
息子と娘(共に孫)に託し、
姉と私は、子供の頃大変可愛がってもらい、
晩年の母のことをとても心配してくれた伯母との、最期のお別れへ向かったのでした。




実は今日は、このブログを開設してちょうど4300日目。
いやいや(笑)
別に4300日って、数字的に限が良さそうに見えて、
特にちょうどでもなんでもないんですが、
これ年月に直すと、およそ11年と285日。

元々は、当時所属していたソフトバレーチームのメンバー募集のために立ち上げましたが、
結局ほぼ、当初の目的を達成することはできず(でもお一人だけメンバーになってくださった!)、
そのあとは、別に有名人でもなんでもないおっさんが、駄文を認めるだけの、
日記を垂れ流しているだけのブログに成り下がりました。

そうして数年前にバレーの活動そのものから離脱し、
それからは、本当に、ただ素人の中年の日記を公開しているに過ぎない有様となりました。


それでも不思議なもので、今でも日に数十名の方が閲覧してくださっています。
人数的に、大きなブレがないことから、恐らく閲覧者のほとんどは、
毎日同じ方なのではないかと思っています。

こんな拙い駄文の羅列をご覧いただき、今まで本当にありがとうございました。


この日記を以て、ブログ「ぽかぽか容器」の最終回とさせていただきます。

ブログをご覧いただいた、すべての方々、
あまつさえコメントをくださった方々、
改めて、心から感謝いたします。
ありがとうございました。


ブログ自体、閉鎖はしませんが、今後更新されない状態が長く続くと、
サーバーの負荷などを理由に、運営側から削除されることがあるかもしれません。

その際は、悪しからずご了承いただけましたら、ありがたく存じます。


ありがとうございました。

2021年 3月6日 10時24分 自宅 自室にて。


母 最期の別れ (前)

2021年03月06日 | 日記
父の時にもお世話になった葬儀社へ連絡し、
そこは母の病院からは遠い所にあるので、連絡から一時間半ほど待ちました。

やはり都心から、職場を早退して向かっていた、
おばあちゃんが大好きだった孫娘(つまり私の娘)は、
間に合わないのではないかと心配していましたが、
葬儀社の車と、ほとんど同時に到着、
もう幼かった頃のように、涙で顔がぐちゃぐちゃでした。

葬儀社の方が、あれこれ搬出の段取りをしている間、
私と今後について打ち合わせをしている間、
おばあちゃんとに手を合わせ、話しかけることができました。

世間はコロナ禍にあり、葬式もこの影響の外にはなく、
コロナ禍以前のように、死後すぐに納棺され、
通夜、葬儀という順調な流れは期待できず、
その時点では、長ければ火葬を一週間程度待たなければならないと告げられました。

その後の連絡で、納棺が木曜日に決まり、
通夜が土曜日、葬儀(死後、すぐに仏様になるとされる浄土真宗には、告別式がない)は
日曜日に決まりました。

ここでひとつ、ちょっと驚くべきことがあって、
実は、母が亡くなった日、母より年上の(御年93歳)私にとっての伯母が、
このところ施設のお世話になっていたとはいえ、
病気を患うこともなく、ケアマネージャーさんのお世話になりながら、
それまで元気だったのに、
母を追うように、母の死後四十分ほど後に、
突然お亡くなりになったのです。

母が倒れた時は、その時点ですでに90歳を超えておられたのに、
まだご自宅で過ごし、ご自身の足で歩き散歩やお買い物へ出かけられるほどお元気で、
親戚の中では一番歳が近く、若い頃から当家の嫁同士、
いろいろと助け合ってきたようで、
母のことを、大層心配して下さっていました。

きっと、母の魂が伯母に、先に旅立ったことを知らせたのではないかと。
そうして、伯母はそのこと(母が不自由から開放されたこと)に安堵し、
ご自身も後を追われたのではないかと、
そんな風に思えてなりませんでした。


伯母の家族は一日葬を選択し、通夜は執り行わず、
日曜日に、葬儀のみ行うこととなり、
なんと、母、伯母と葬儀が連続する、大変な一日となりました。



今、職場も大変な状況下にあることで、
慶弔休暇は申請しませんでした(このことで後に大変なことになる)。

木曜日は、納棺に立ち会うため少し早く退社し、
葬儀社の霊安室
(くどいようですが、即身成仏する教えの宗教なので、霊という概念は存在しないんですが)に
向かいました。

化粧を施され、キレイな装束に着替えさせてもらっていましたが、
三年以上の寝たきりの状態で固まった、足首、肘、手首などはもう、
動かすことができなかったようで、不自然な形のままでした。

死後火葬までに時間を要するので、腐敗の進行を遅らせるため、
低温で置かれているということもありますが、
手を握ると、酷く冷たく、その手を腹の上に戻そうとしたら、
力なく身体の脇へと滑り落ちてしまい、何度試してもダメで、
その様がなんとなくおかしくて、笑ってしまいました。

その後、担当の方と今後の段取りを再確認し、
出棺の際に棺の中に入れるものなどを尋ねられ、
その後、納棺となりました。

母の、人間としての最期ですから、
豪華な棺を選び、納まってもらいました。
こんなことは、送る者の自己満足に過ぎませんが…


最期、
「じゃあ、またね。 土曜日に会おうね」
と言って、棺の顔の部分の扉を閉め、葬儀社を後にしました。



母 永眠

2021年03月05日 | 日記
三年三か月にも及ぶ、不自由な寝たきりの状態から、
去る二月二十二日、母はついに解放され、永遠の眠りに就きました。

くも膜下出血で倒れ、それからついに、自宅へ帰ることも、
大好きだった仕事(家事)に精を出してもらうことも、
叶えてあげることはできませんでした。

十数時間にも及ぶ手術の結果を待つ間は、ただただ、
せめて命だけは助かって欲しいと、切実に願いました。

そして、結果として、本当に命だけが助かりました。

とりあえず命は取り留めたものの、予断を許さない状態は続き、
それでも、面会の際は、こちらの話しかけに対して頷いたり、
言っていることを理解して、笑顔を見せてくれたりしました。

搬送され、手術をした病院の入院期限を迎え、
リハビリ期の病院へ転院しましたが、そこで一度状態が悪くなり、
再手術の為、再び元の病院へ搬送されました。

その頃から、少しずつ、少しずつ、状態は静かに悪化していきました。

話しかけに対する反応も鈍くなり始め、
頷きもほとんどなくなり、笑顔はまったくなくなりました。

リハビリ期の病院の入院期限を迎え、ついに、母が最期の時を迎える、
最期の病院へと転院となりました。


せめてもの救いは、その病院のスタッフの方々が、本当に献身的で、
いつもいつも、とても親切に、優しく、暖かく接して下さったこと。

仕事の休日にしか面会に行けない私と違って、
毎日接して下さるスタッフの方々は、いろいろな母の嬉しい出来事を教えて下さりました。

私などが面会で、同室の患者さんに遠慮して控えめに、
「お母さん、おはよう」などと声をかけても、ほとんど反応がないのに、

とっても声の大きい、女性の看護師さんが笑いながら、
「そんなんじゃダメですよ(笑)」

「〇〇さん、おはよー!」

すると母は、弱弱しく目を開き、掠れた小声ながら、
「おはよう」
と返事をするのです。

他にも、同室の患者さんがお誕生日で、スタッフの方々が
「○○さん、お誕生日だね! おめでとう!」と声をかけたら、突然母も、
「おめでとう」と言ったのだとか、
ごく初期はまだ、たまの経口食が可能で、元気な頃から大好きだったフルーツのゼリーを、
一口飲みこんだ後に「おいしい」って言ってくれたとか…

見守る家族にとって、絶望しかない状況の中で、
髪の毛ほどの細い光の筋でも、とてもありがたい光明に思えたものでした。


回復する希望は皆無、弱り続けていくことに抗う手段などなく、
それでも母は、踏みしめるように生き続けました。
眠ること以外、一切の自由を奪われた身で。

もう本当は、早く楽にしてあげたいと、
お母さん、もう楽になっていいんだよ、と、ずっと思い続けていました。
だからといって、合法に安楽死させる方法などなく、
私の手で、母の命を終わらせることも、まったく考えなかったと言ったら嘘になりますが、
様々な思いが去来し、できませんでした。

母が倒れてから三度目の正月が過ぎ、年末年始休暇の最終日の一月五日、
突然病院から連絡がありました。
担当医いわく、心臓が肥大して、血圧が下がっている、胃ろうで注入している食を、
もう、腸が処理できず、腸にガスが溜まり、そのガスを自力で排出できない状態だと。
なので、胃ろうを中止して、点滴に切り替えるとのこと。
そして、即ちこれは老衰で、恐らく、早ければ一週間、長くとも、
二月を迎えられないだろうと言われました。

ついに、この時が来たのだなと、哀しみと、母がやっと楽になれるのだという、
背反した二つの気持ちが、不規則に心を揺さぶり、
割と気持ちは穏やかで、取り乱したりしていないのに、
それ以降、少しの間、食べ物を受け付けなくなってしまいました。
深層心理の領域で、動揺していたのかもしれません。

覚悟の日々は、思いの外長く、
なんと母は、もう迎えられないだろうと言われていた二月を迎えました。
一月の最終週からは、病院のご配慮で、現在すべての患者さんの面会が禁止されている状況下で、
事前に予約をすれば、一回に二名まで、五分ほどではあるけれど、
面会をさせていただけることになりました。

結果として私は、亡くなるまでに二回しか面会に行けませんでした。
その時の母は、もう目を開けることはなく、
酸素吸入器の力を借りて、弱弱しく呼吸を続けるだけの状態でした。
それでも看護師さんが、
「今日はね、ちょっとだけ目を開けてくれたんですよ!」
と、とっても嬉しそうに、報告してくださり、
そのあまりに純粋な優しさに、涙が出ました。


二月二十二日。

職場に、姉からの電話。
可能なら、出来るだけ早く病院へとのこと。
すぐには退社できそうにない状態だったのですが、
年の初めに、母の状況を伝えておいた若い社員が、
ここは任せて、すぐに病院へ行ってくださいと、
頼もしく言ってくれた優しさに背中を押され、
職場から四十分ほどかかる病院へ向かいました。

母の傍らには姉がいました。
まだ、弱い呼吸は途切れていませんでした。

姉とは反対側の、母の傍らに立ち、
もう、自由に身体に触れてよいと言われていたので、
手を握り、肩を摩り、もう聞こえてはいないだろうけど、
声をかけました。

身体はもう、温もりを失い始めていました。

現代は、昔のように物々しい機械に囲まれて、
バイタルサインの表示がされているということはなく、
とても小さな機械が枕元に置いてあり、
それがナースステーションに情報を送り続けています。

呼吸に合わせて、小さく上下する母の喉元。
弱いけれど、到着してすぐには、まだ多少の規則性を持って、
ゆっくりと動いていました。

しばらくして…

喉に痰が絡んだかのように、ちょっと喉が鳴ったかと思ったら、
その時沈んだ喉が、上がってきませんでした。

姉と私が一瞬沈黙した次の瞬間、
かはっ、という感じに息を吹き返し、
また弱い呼吸をし始めましたが、またしばらくして止まり、
徐々に、その間隔が短くなり始めた頃、

ナースステーションでバイタルサインの異変を見ていた婦長さんが来て、

「今、何度か呼吸が止まっています。心臓も、一分間に五回程度拍動しています」
と伝えられました。

それでも、長い闘病を続けた母を、成す術は無かったけれど、
ずっと見守り続けてきた姉と私に、動揺はありませんでした。

嗚呼、やっと楽になれるね、と、安堵の気持ちの方が、
この時は少し勝っていたように記憶しています。


弱弱しくも動き続けていた母の喉の動きが止まり、
程なくして院長先生がいらっしゃいました。

ドラマなどで目にしたことのある、
患者の手首を取って脈を確かめ、ペン型のライトで眼を照らし、瞳孔を確認。
そして腕時計に目をやり、

「十三時二十五分、ご臨終です」


父の最期を看取ることのできなかった私は、考えたら、
これが五十五年の人生で初めて立ち会った、人の臨終なのだなと、
おかしなことを考えていました。

長すぎた絶望の日々に、望みもしないのに、
覚悟だけは心に沈み続けていったので、不思議なほど涙は出ませんでした。

むしろ…

「お母さん、本当に長い間辛かったね、お疲れさま。やっと楽になれたね」
「ありがとう」


霊安室へと移され、お化粧で綺麗にしてもらい、
燭台と香炉が用意されました。

そして、しばらくすると、いままでずっとお世話してくださった、
スタッフの皆様が、母に会いにきてくれました。
姉と私よりも、スタッフの方々がみなさんいっぱい涙を流されていて、
不自由な身でありながら、この優しさに、暖かさに見守られて、
日々を過ごせた母は、せめてまだしも倖せだったと、
そう思った瞬間、私も涙が溢れました。

だって今、大変な思いをされている病院のスタッフさんが、
その状況下にあって、何故、これほど他人に(仕事とはいえ)優しくなれるのだろうと、
寝たきりだった母の最期の三年三か月の内、二年半もの間、
家族の我々より、長い時間を過ごしお世話をして下さり、
こうして最期の別れに涙を流して下さっているのを拝見したら、

なんだか、母の魂が救われ、解き放たれたような安心感が、
胸に溢れたのです。


家系が浄土真宗(本願寺派)を信心しているので、
その教えに倣えば、人が亡くなると、阿弥陀如来様のお導きによってすぐに仏様となり、
極楽浄土へと向かうとされています。
なので、この時点ですでに母は仏様で、魂などとっくに解き放たれていたんですがね(笑)


このあと、新型コロナウィルスの影響下にある中での、母との最期の別れをしなければなりません。