暘州通信

日本の山車

◆01339 楢泉庵 横山家 41

2016年03月19日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆01339 楢泉庵 横山家 41

八日町湊

 楢泉庵は、江戸時代には川上郷 一七村に属する、八日町村であり、明治初年には全域が飛騨郡代管轄の幕府領となっていたが、明治八年(一八七五)の統合により、清見村を経て高山市八日町となった。
 当所は、江戸時代を通じて山方米の代納となる材木の積み出しが行われた川湊であった。江戸時代初期には高山町の西部を流れる苔川の水運にたよっていたが、水量が多く、材木を豊産放散する川上川が次第に主流になった。
 急流の多い河川の上流では筏を組むことができないので、上流で伐採された材木は原木のまま流され、八日町湊の寄せ場と呼ばれる貯木場に集められ、ここで木曾とおなじ、前を舳(へ)乗り、真ん中を中乗り、後ろを艫(とも)乗りとよぶ筏師が、上中下の三段にいかだを汲み、富山藩の笹津湊、西岩瀬湊に送られた。市場は毎月八日に開かれたことから八日町と呼ばれるようになった。国府朝(現高山市)および、富山市神通川右岸、富山空港東北にも八日町がある。
 富山と飛騨を結ぶ道路は、富山県・岐阜県の県境ともなっている猪谷で、番所が置かれていた。神通川はこのすぐ上流で高原川と、宮川に分かれるが、高原川水系沿いの道を越中東街道、宮川水系沿いの道を越中西街道とよばれた。越中東街道は、江戸時代中期になっても船津までの間に駕籠で川を渡る駕籠の渡しが七か所もあったという。いずれとも大変な難路であった。越中西海道は牛一頭がようやく通れる細い道があっ手、物資輸送が行われたが、左右振り分けに摘むことのできない場所も多く、一駄(米俵二俵分、約一二〇キログラム)の荷物を積めないところは半駄(約六〇キログラム)を牛の背に平積みにして運ばれた。当然ながら輸送経費は莫大なものとなった。

 神通川水系は山間の河川のため急流が多く、水運の利用は困難と考えられるが、古代には、越中と飛騨船津(現飛騨市神岡町)をむすぶ船便があったと伝わり、大和と浪速と堺の間を結ぶ渡来系氏族の船便とおなじだったらしい
 この川船は、人が三、四人、米俵がせいぜい五俵合わせておよそ一トンが積むことができる平底で前後に長い川船だったという。櫂や艪ではとても困難で、竿をさし、河畔の綱をたどり、急流ではろくろで綱を捲いて引き上げるという困難な操船によって越中から八日町湊に物資がはこばれたが、季節に関係したものも多く、春のホタルイカ、夏の、鱈の日干し、身欠にしん、いわしの丸干し、秋季のかまぼこ、くずし、サス(かじき)の昆布締め、こうじ、冬、富山の家庭薬、塩、和紙、鰤などは著名で、なかでも、羽前庄内の紅、京のおしろい、椿油などは女性垂涎の品で、変わったところでは、加賀友禅の端切れなどは若い娘らがこぞって買い求めたものだった。冬の炉辺でおはじきや、信玄袋を作ったのである。針や、糸、物差し、ハサミ、筆硯もよく売れたという。

 掲載の写真は珍しい寄せ場風景である。

◆谷口與鹿 柿のお礼

2011年04月23日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 柿のお礼
 與鹿の悪戯盛りの子供のころの話である。
 高山町の南部、宮川の西は昔は大灘(おおなだ)といっていた。ここに徳兵衛と呼ばれた旧家があったが、畑に大きな柿が実るのであった。大きな果実の甘柿で、近在の人は次郎柿とよんでいた。今と違って菓子などない時代だから、秋になると皆うらやましげに見上げるのだったが、この家の主人というのが稀に見るけちで、この柿を口にした人はめったになかったのである。
 柿が実るころになると高山の町のほうから商人に雇われた若者が二、三人やってきて、天辺に一個を残し、すべてもいで町に運んでしまうのが常であった。
 この柿に目をつけたのが、例の鐡(のちの山岡鐡舟)と五郎(のちの谷口與鹿)である。
 主人の不在を狙って、この柿の木によじ登り、次から次ともいで、たらふく食った後は「あじか」とよぶ小籠につめこみ、ちぎった柿をこれに要れ、しめしめと柿の木を降りてきたまではよかったが、地上に下りたとたん、大きな怒号が飛んだ。いつの間にか主人が帰り、おりてきたら縛りあげようと、丈夫な荷縄を二筋、手にさげて待ち構えていたのである。
 悪いところで捕まってしまった二人は、頭を張り飛ばされ、しこたま背中をどやされ、柿木を背中にしてがんじがらめに縛り上げられてしまった。約半日ちかくも縛られていた二人は、あたりに宵闇が迫り、あたりが暗くなってくると、さすがに心細い。山の秋は日の暮れるのも早く、やがて、星が瞬き始めると、気温も下がってきて、寒いのと心細いのとで、めそめす泣いていると、ころはよしと、徳兵衛の親父がやってきて、
「こら、懲りたか」
 と聞き、こっくりすると縄を解き、また二、三発張り飛ばして、やっと許してくれたのだった。

 今の若いかたらには想像もつかないだろうが、昔の農家は山沿いに家を建てることが多く、しかも厠は、家から張り出した懸崖のような造りで、下を小川が流れていて、二、三階の高さから用を足すというような家が結構あったのである。言うなればこれも昔の水洗トイレかもしれない。

 鐡(山岡鐡舟)と五郎(谷口與鹿)がこのまま黙って引っ込むはずがない。
 しばらくたって、ほとぼりの冷めたころ、二人は相談してなにやらこそこそ細工をしていたようだったが、やがてそれもすんだと見え、ふたりは顔を見合わせてにっこり笑うと意気揚々と引き上げて行った。
 徳兵衛の家の異変は翌日に起こった。
 肥満の徳兵衛が厠に入ろうと一歩踏み込んだところ、左足がめりめりめりという大きな音とともに床板を踏み抜いてしまい、あわてて下ろした右足も同じようにめりめり、便器には尻を突っ込むとそのまま動けなくなってしまった。
 しかも床を踏み抜いたときの床板がささくれだって、脛から腿にかけて無数の棘となって突き刺さり、赤い血がぽとりぽとり……。
 おかみさんと娘は、実家の祭で山田の在所に里帰りしていて、呼べど叫べど誰もきてくれない。
 あせれど、もがけど、ついに出ることができないまま助け出されたのは、翌日の昼過ぎ、裏道を通りかかった農夫が、血に染まった脚が二本上からぶら下がっているのを見つけたときだった。
 鐡(山岡鐡舟)と五郎(谷口與鹿)が、便所の踏み板を裏を削り取って二分(五、六ミリメートル)ばかりの厚さにしてしまっていたのだった。
 徳兵衛の脚は腫れあがり、ひりひり、ちくちく、うんうんうなりながら三、四日ばかり寝込んでしまったのだった。 
 「忌々しい、くそがきめ……! 今度見つけたらただではおかんぞ……!!」歯噛みしながら心に誓ったのだった。
 しかし、狭い町である。師走、二十四日市の雑踏で賑わう高山の町へ出かけときこのくそがき二人を見つけたのであった。
 「このくそがき!」
 思わずこぶしを振り上げ思いっきり二人の頭を殴りつけたときだった。
 「何をしている!」
 見ると立派な武士が三名この様子を見ていたのである。
「お代官様の若さまを何で殴っておるのじゃ。ちょっと番所まで来てもらおうか」
「ひえーっ」
 徳兵衛はまっさおになって震え上がり、その場にへたりこんでしまった。
 高手小手に縛り上げられ、引っ立てられた徳兵衛、もう命もないものと思うと口惜しいやら、悲しいやらで、顔は涙でぐちゃぐちゃ。お白洲に引き立てられ神妙にうずくまっていると、無念さがこみ上げてくる。正面の襖が開けられ、小野朝右衛門代官(郡代)が正座に着いた。
 「これ、そのものの縄をとけ」
 配下に命じると、声をかけた。 
「これ、徳兵衛とやら、うちのせがれが申し訳ないことをしたのう」
 徳兵衛は声も出ずその場にひれ伏してしまった。
小野朝右衛門は笑いながら
「菜根譚にのう、柿は十個もらったら三つはひとにあげるのがよいとあるぞ」
「へへえ……、恐れ入りましてございます」
結局、何のお咎めもなかったのであった。

 谷口與鹿の幼少時は、相当な悪戯好きで、周りを閉口させることがしょっちゅうだった。師匠の中川吉兵衛が、
「お前の親は左甚五郎のように立派な大工にあるようにとおまえに五郎と名前をつけたが、どうもろくでもないことばかりして……わしがお前にもうひとつ足して六にしてやろう」といった。
 それ以来、与六というようになり、長じてからは與鹿と書くようになった。

◆谷口與鹿 宗猷寺の鐘

2011年04月20日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 宗猷寺の鐘
 また、碌でもないことをしおって、この悪がきが!
 真っ赤な顔をして、大声で怒鳴っているのは飛騨高山の東山にある宗猷寺(そうゆうじ)の住職である。
 叱られている悪童は、まだ幼いころの六(のちの谷口與鹿)、それに高山の郡代所(代官所)のお代官さまの倅の鐡(てつ、鐡太郎、のちの山岡鐡舟である。
 悪がきが叱れている話のいきさつはこうである。
 ある秋の夕暮れ刻、いつものごとく住職が鐘を撞いていると、その下でふたりの悪がきがじっとそれを見上げていた。住職は思わず、二人の少年に、
「どうしたこの鐘がほしいのか?」
ときくと二人の少年はこっくりと頭を下げ、口をそろえて、
「ほしい」
といった。住職は笑いながら、それならおまえたちにこの鐘をやろうといった。
 その約束を覚えていて少年らは悪がき十数人とともにやってきて、この鐘をはずそうと、鐘楼に登って梯子を掛けて鐘をはずそうとしていたのである。
 住職はかんかんに怒って、
「だれが、この鐘をやるといった! やるのは音だけじゃ」
 少年らは神妙に叱られ、その日はすごすごと帰っていった。
 しばらくたったころのことである。外が騒がしいので住職が表に出てみると、例の悪がきどもが、鐘を柿渋を引いた茶色の油紙でそっくりつつみ、更にその上を唐草の一反大風呂敷を四枚もつないで鐘をそっくり包んでいる。
 住職は青くなった。
「今日は鐘の音のほうを貰いにきました。大切なものなのでいまこうして丁寧に包んでいるところです」
 なるほど撞木の当たるところには前後に大きな座布団二枚があててある。
 住職は青くなった。
 住職は代官所に願い出てなんとか堪忍してもらったのだった。

 宗猷寺には、山岡鐡舟の父母、小野朝右衛門と磯女の墓所がある。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二二

2011年02月08日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二二
 照顔齋が描いた谷口與鹿の似顔絵とは、驚いたことになんと後ろ向きの姿だった。鶴毟衣を着て、髪をあげて総髪にし、まとめてからげ、背中を向けて胡坐をかいて座っている。  サトイモ科、テンナンショウ属の植物に、マムシグサというのがある。飛騨地方では方言で「へんべのだいはち」とよんでいる。へんべは蛇のことである。
 直射日光の当たらない半日陰の山道などでときどき見かけるが、花(佛炎苞)は淡緑色から暗紫紅色で、蛇が鎌首を擡げた姿に似ていて、あまり気持ちのよいものではない。群馬県でたくさん作られている蒟蒻(こんにゃく)はこの仲間である。
 ところが、このマムシグサは案外はにかみ屋で? 人の通るほうを向いて咲いているものはほとんど無い。
 與鹿の似顔絵を見ていてふと気がついた。
     
   枯れそうな 気色も見せず 鬼薊
 
 葱坊主のような頭はまさに鬼薊であり、「枯れそうな気色も見せ」ないのは、谷口與鹿が自身を詠んだものであった。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二一

2011年02月08日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二一
 谷口與鹿の肖像を写した絵が二点知られる。まだあるかもしれないが、現在知られているのは、淹留先の岡田家の主人である糠人が、周甲(還暦)を祝して出版された俳句集『かさりたる』で、「かさりたる」とは、【飾樽】のことで、よく神社などに奉納してある綺麗な薦で巻いた酒樽のことである。與鹿はこの冒頭に自筆の自画像を描いている。もうひとつは、照顔齋が、伊丹郷町とかかわりのあった俳人らに自筆の一句を書かせて、照顔齋その人物の似顔絵を描いたものである。この本には、與鹿の、

   枯れそうな 気色も見せず 鬼薊

 の句があることはわかっていたが肝心の肖像画が描かれた本を見る機会が無かった。このことを知ってから十数年も経ってから、はじめて現物を見る機会があった。はやる心を沈めながらその箇所を開いたときはあっと驚いた。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二〇

2011年02月07日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二〇
 梶曲阜(かじきょくふ)、照顔齋が、商用で江戸に旅したときの様子を克明に記した自筆の道中記『照顔齋道ノ記』がある。これを見ると、旅は東海道を下り、帰りは中山道を通っている。須賀川のたよ女とは江戸で逢ったはずだが、その記録は見当たらない。木曾についたとき、土産を買っているがそのときの句に、

   桶の輪を 藤で曲げたる 木曾土産

 とある。よほど珍しかったらしい。伊丹の酒樽は、醸造用から、販売用まで竹の箍(たが)で締めたものだった。その竹材は、西は有馬、北は佐井寺(吹田市)、水無瀬から京都洛西にまで及ぶ厖大なものであった。現在もなお竹林が見られる。神足(こうたり)の錦水亭はその筍料理で知られ、旬の季節には訪れる人が多い。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一九

2011年02月07日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一九
 梶曲阜(かじきょくふ)、通称大和田屋金兵衛こと照顔齋は、各地の俳人と交わりがあったが、その交流を物語る例を挙げておこう。
 奥州須賀川(福島県須賀川市)に、市原たよという女性がいた。通称は須賀川のたよ女の名で知られる。安永五年(一七七六)に裕福な酒造家に馬あれ、七人の兄弟とともに育てられたが、婿を迎えて家業を継いだのがこのたよであった。
 ところが、多予が三十一歳のとき突然不幸が訪れた。夫の有綱が三人の庫を残して先立ったのである。家業と子育てで艱難の暮らしが続き、ついに過労でたおれたが、このころ、近くに住む、俳人の石井雨孝にすすめられて、俳句の道を志すようになった。
 たよは八十九歳で生涯を閉じるまでに、およそ四千句を残し、句集に『浅香市集』ほかがある。晩年に、松尾芭蕉の、

  風流の はじめや奥の 田植え唄

 の句碑を、十念寺の境内に建てている。
 須賀川のたよ女は、伊丹郷町の俳人とも交流を持っており、照顔齋に味醂(みりん)の醸造方法を尋ねており、照顔齋は懇切に教えている。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一七

2011年02月06日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一七
 谷口與鹿が、三本松の妓楼で遊び呆け、勘定ができず、褌まで取り上げられて路上に放り出された話はすでにしたが、破れた絽の羽織を頭からかぶって、明倫堂の裏口からすごすごと現れたときには、さすがに香坡の妻静、女中のまつは仰天した。まるで堤燈のおばけである。尻など丸出しである。しかし、それが與鹿だとわかると顔を見合わせて辛抱していたが、堪えきれずに笑い出した。
 騒ぎを聞きつけて香坡も現れる。香坡はしばらくその様子を見ていたが、ひとこと、「愛婦の病」かと言った。静、何か着物を出してあげなさい。
 そこへ伴善右衛門が顔を出し、この様子を見ると顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。「あんた、ええかげんにしなはれや!」。
これが口癖である。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一七

2011年02月06日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一七
 谷口與鹿が、三本松の妓楼で遊び呆け、勘定ができず、褌まで取り上げられて路上に放り出された話はすでにしたが、破れた絽の羽織を頭からかぶって、明倫堂の裏口からすごすごと現れたときには、さすがに香坡の妻静、女中のまつは仰天した。まるで堤燈のおばけである。尻など丸出しである。しかし、それが與鹿だとわかると顔を見合わせて辛抱していたが、堪えきれずに笑い出した。
 騒ぎを聞きつけて香坡も現れる。香坡はしばらくその様子を見ていたが、ひとこと、「愛婦の病」かと言った。静、何か着物を出してあげなさい。
 そこへ伴善右衛門が顔を出し、この様子を見ると顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。「あんた、ええかげんにしなはれや!」。
これが口癖である。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一六

2011年02月06日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一六
 …朧月夜との仲が世に知れ、困惑した光源氏は身を退くこととし、須磨へひきこもり、侘び住まいをはじめる…
 『源氏物語』、【須磨】の冒頭である。谷口與鹿は橋本香坡、岡田糠人、照顔齋ら伊丹の諸友らとこの須磨に遊んでいる。現在須磨離宮公園の近くにある月見山で須磨の中秋の名月を詠む外界が行われたのである。昼は「青葉の笛」など平敦盛の遺品を伝える須磨寺に参詣し、のぼり来る名月を見ながらの俳句の会であった。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一五

2011年02月05日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一五
 このころ、伊丹郷町に商才に長けた傑出した人物がいた。
 梶曲阜(かじきょくふ)と言い、通称を大和田屋金兵衛、俳句の号を照顔齋(てるがおさい)
と言った。上島鬼面(うえしまおにつら)を意識した号である。猪名野神社の境内には大和田屋金兵衛の名で寄進した立派な燈籠があり、多くの諸国の俳人と交わっている。
 與鹿を伊丹郷町に招いたのは。【劔菱】の酒造家である坂上桐陰、それにこの照顔齋の意見が強かった。劔菱は、頼山陽が最も好んだ伊丹の酒で、母親を伴ってきたときには母には白雪を進めたと伝わる。当時の醸造は現在と違って管理が難しく、苦労して仕込んでも腐敗してしまうというようなことも少なくなかった。そのため、劔菱では醸造にあたっては、大阪府の西国四十八箇所の一ヶ寺、勝尾寺に近い箕面の滝の水を寒中に酌んで加えた。劔菱の剣は箕面の滝不動明王の倶利伽羅(剣)であり、飾樽(化粧樽)の中央に剣、右上に瀧水、左には伊丹の銘酒であることを示す、【丹醸】の文字がある。文人好みの酒といわれ、愛飲家が多いが、現在は、灘の酒になっている。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一四

2011年02月05日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一四
 武川久兵衛邸の近くに酒造家の鹿嶋屋があった。岡田家といい與鹿が後半生を通じてお世話になった家である。伊丹郷町の宮前に醸造所と屋敷があった。岡田家の当主は俳号を糠人(ぬかんど)と言って俳諧をよくし、ほとんど伊丹郷町を住まいにしていた。明倫堂の橋本香坡とは、篠門の同門である。
 與鹿はその伊丹郷町の岡田家の離れをあてがわれていた。明倫堂へは、伴家の裏庭伝いに通じていたらしい。與鹿は至極当たり前のようにここを通っていたが、伴家の主人は伴善衛門といい、伊丹郷町の宿老の一人で、面倒見が良い反面、いわゆる口やかまし屋であった。與鹿はたびたびつかまって、説教を食らっている。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一三

2011年02月05日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一三
 谷口與鹿がはじめに浪華の土を踏んだのは、今橋にあった篠崎小竹の篠門・梅花舎であった。ここで娘婿である後藤松陰を知った。松陰は、美濃の出身で人あたりのいい、物腰の穏やかな人だったようである。頼山陽ら関西以西の著名詩人六名の詩を集めた『摂西六家詩鈔』の編纂は後藤松陰の手によるが、当為頼山陽は、後藤松陰を評して【才あって、気たらず】と評している。後藤松陰は與鹿の晩年まで、その後長い付き合いになった。後藤松陰が伊丹郷町にきたときに一緒に猪名川を舟で下った様子を詩に詠んだが、與鹿は竹製の酒容器に彫刻した合作があえい、池田氏の某家の所蔵になっている。高山の赤田臥牛の孫にあたる誠軒も梅花舎をたずねており杜氏はまだ健在だった篠崎小竹と面談している。小竹の日誌に記述がある。
 蝦夷の物産を扱って巨富を築き、陸奥の大間(青森県)に居館を構えていた、飛騨屋久兵衛は浪華の天満に居住していた。武川久兵衛の屋敷があった。久兵衛は、【鳩亭】の号が遭ったらしい。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一二

2011年02月04日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一二
 谷口與鹿の茶の湯の師匠は、中川吉兵衛であった。冬頭町にあった旧家、中川長衛門の分家筋にあたり、高山市(寺内)下一之町の屋臺、【布袋臺】の彫刻を始め、西之一色町の東照宮本殿に立派な四神を彫ったが、この彫刻は今は見当たらない。諏訪の和四郎こと、立川
和四郎の信頼が厚く、委嘱されて、各地の彫刻を手がけている。信州安曇野の有明山神社の
裕明門は【日光東照宮の用命門、信州有明山の裕明門】と言われるほど立派な建造物で、立川一門の彫刻が配されている。そのまえにある手水舎の工匠は、斐太ノ工・山口権之正で、中川吉兵衛の弟子だったといわれる。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一一

2011年02月04日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一一
 当初、谷口與鹿が伊丹郷町を訪ねたときは、伊丹郷町の猪名野神社の祭礼で曳く屋臺(山車)建造のためであった。しかし、與鹿が伊丹郷町をたずねたころは、すでに伊丹郷町の繁栄は峠を越して、経済が下向きに転じたときであった。その建造資金の調達が思うようにゆかなかった。しかし、酒造家の旦那衆との交わりが重なり、俳諧、茶の湯、音曲、絵画を通じ、また伊丹明倫堂の橋本香坡との交友が深まり兄弟以上となった。香坡の妻の静がまたよく面倒を見てくれた。静は上州沼田藩(群馬県沼田市)の平尾戟の娘で、香坡の父の坦翁が、沼田藩士だったこともあって迎えた妻であった。與鹿はそこで代用教員のようなこともしていたらしい。