暘州通信

日本の山車

◆櫛引八幡宮の河童 二 左甚五郎

2011年11月14日 | 日本の山車 左甚五郎
◆櫛引八幡宮の河童 二 左甚五郎

 帰ってきた左甚五郎は翌日神官に事情を話し、神庫に保管してあった旧社殿のはしらを一本もらい下げ、これで河童の嫁御の彫刻にかかりましたが、困ったことに、ちょうど妙なところに?穴(ほぞあな)があいております。「まあいいわい」、甚五郎は一匹のめすのメドツを彫り上げ、緑色に塗り上げると、そのめすの河童は、しおらしげに左甚五郎を見上げます。…甚五郎は、その雌の河童に、「……かくかく、しかじか……というわけじゃ、ひとつお見合いをして、気に入ったら、めどつのかしらの嫁御になってくれ」、さっそくメドツのかしらとお見合いをさせたところ首尾は上々、というわけで、川かみの下堂前(下斗米?)あたりから材木を運搬する作業はメドツが引き受けてくれることになったのでございます。さあ、それからはメドツの親分は六十四匹(河童六十四?)のメドツを指示して、みごとに社殿を建立する材木の運搬を終了しましたから、運搬作業はなにごともなくあっという間に完了しました。神官をはじめ産土の村人も大喜びでございます。翌日は、約束どおり、メドツの祝言が行われることになりましたが、村人も招かれ、夫婦の固めの儀式も神官のはからいで無事におりおこなわれたのはいうまでもございません。…左甚五郎も祝い酒ですっかりごきげんでございます。こうして、社殿の建立が始まりまったのでございますが、あるよ使いのものという一匹のメドツが左甚五郎を尋ねてきました。そして言うには、「まことにおはずかしきことながら、お願いがあってまいりました」、「なんじゃな……?」、「じつはわしらのおかしらが、祝言の晩からごしんぞさまとくっついたきり、はなれなくなってしまいました。「……???」、なにとぞ、おねがいでございます、ふたりをひきはなしていただけませんでしょうか」、「うーん、それは弱ったな、ちょっとできん相談じゃ」、「うん、できんな」、「それはまたどうしてでございます」、「斐太の工が彫った?穴じゃ、抜けるわけがない。うーん貫穴(ぬきあな)だったらよかったのにな」、使いのメドツは青い顔をさらに真っ青にして帰って行きました。翌日の晩になるとまたやってきて、甚五郎さま、おねがいですからなんとかしていただけませんでしょうか?」、左甚五郎はさすがに可哀想になってきて、その河童を社殿の脇商事に移してやり、簿時に収まることと相成り、それ以来、まべちがわ(馬淵川)には悪さをする河童は出ないようになったそうでございます。
幸せにお暮らしのご夫婦の方、これから結婚して新しい人生のスタートをおきりになる方は、ぜひ櫛引八幡宮にご参詣になり、メドツ(メドチ)のお守りをお買い求めになられたらいかがでございましょう。
へい、おたいくつさまで。

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◇十月花形歌舞伎と左甚五郎伝説
2011/10/19(水) 午後 11:45
... 日本一の彫刻師、全国に左 甚五郎作と伝えられます作は数々あります。 我が八戸にもあるんです。南部一の宮・櫛引八幡宮社殿と八幡様の悪戯メドツ(河童)退治。(笑) 左甚五郎作と言われる八幡宮。 名人甚五郎も寸法間違いした。知られては大変と ...
 


◆左甚五郎 脊振の太鼓

2011年04月20日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 脊振の太鼓
 孟暑の昼下がり、筑前から肥前にいたる脊振の峠道を下っていた左甚五郎は、あまりの暑さに、傍らにあった傾いたお堂の縁に腰を下ろして休んでいたが、そのとき目の前を通りかかった奇妙な小僧に眼を留めた。その小僧は眼を真っ赤にして、眼のふちをほこりと涙で黒くしてめそめそ泣きじゃくっている。これを見て甚五郎は小僧に声をかけた。
 「見かけない小僧だな、虎の皮のパンツなどはいて」……といったかどうかわかりませんが、子供をあやしていると、ようやく泣きやみ手にした太鼓を甚五郎に見せた。
 「ふーん、どうやら壊れてしまったな?」
 というと小僧は「お父うと、おっ母あに叱られる……」
 「よしよし、わかった。おじさんが何とかしてあげよう」 
 甚五郎は、お堂の片隅から破れ太鼓の埃を払い、欅を刳り貫いて、壊れた太鼓と同じようなものを作ってやった。子供の喜びようはひととおりではない。
 そのとき、どこでみていたのか小僧の親らしき人影が目の前に現れた。虎の皮のブラジャーをしているほうは、どうやら母親らしい。
 小僧の父親は甚五郎の作った太鼓を打つとにっこり笑って礼を述べた。
 「……実は私らは、雷神の夫婦でございます。私らが眼を離した隙に倅が大切な太鼓を持ち出して遊んでいるうちに、うっかり雲の上から落としてしまいこのように壊れてしまいほとほと困っておりました。おかげさまで前よりいい音がします」
「ふーん、そうだったのか……」
「ところで、あつかましいがお願いがございます」
「なんじゃな?」
「そこのあまった皮で同じような太鼓をもうひとつ作っていただけませんか」
「造作も無いことじゃ」
 できた太鼓を父親に見せると、指でトントンとはじいていたが、
「まことに結構でございます。これを貴方さまにさしあげます」
「……これは、いまわしが作ったものじゃ」
「……、それもそうで……、ところで、もし雨がいるときはこの太鼓をたたいて私めを呼んでください」
 雷神の夫婦は丁重にお礼を述べると、こどもをつれていずこへともなく立ち去った。 
 甚五郎も山をくだり、鍋島の御城下までくると一軒の旅籠を眼にして暖簾をくぐった。
「ごめんよ」
「へい、いらっしゃいま……」
「番頭さんかな? ひとつ頼みがあるのじゃが……」
「へい、なんでございましょう?」
甚五郎は首からぶら下げたきたない太鼓を指差し、
「実は路銀がないのじゃが、この太鼓で、今夜一晩泊めてもらえんじゃろうか? いや、酒と飯があればそれで十分……」
番頭はそれを聞くと、みなまで言わせず激しい剣幕で怒鳴りつけた。
「ば、ば、馬鹿にするな……とっとと、失せてしまいやがれ!」
 その大声が奥にまで届き、何事かと宿の主人が出てきた。番頭から話を聞くと、
「番頭の失礼をお許しください。結構でございます。手前どもは御客人をお泊めするのが稼業でございます。どうぞお泊まりください。だがひとつお詫びがあります」
「なんじゃな?」
「じつは、先月梅雨明け以後、この一ヶ月あまり雨が一滴も降らず、井戸が干上がってしまって、飲み水にも事欠く始末……、お風呂を差し上げられません」
「何じゃ、そんなことか、わしは酒があればそれで結構……あ、それからな、明日夜が明けたら、その太鼓を二つ三つ叩いてみてくれ」
宿の主人は、奇妙なことを言う客だと思いながらも翌朝目覚めると、表に出て、
どん、どん、どーん、と太鼓を打ってみた。
 すると、雲ひとつ無かった空に黒雲が湧き上がり、
ごろ、ゴロ、ゴロ、じんんごろう……と雷が鳴り響き、みるまにザーッと雨がふりだしたのだった。
 それ以後は、日照りが続くと、
「及慈雨の甚五郎さま、どうかひと雨お願いします」と祈り、太鼓をどん、どん、どーん と打つと、必ず雨が降るのだった。
 「肥前雨乞い太鼓浮流】のはじまりだそうである。

◆左甚五郎 伯耆の甚五郎恵比寿

2011年04月06日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 伯耆の甚五郎恵比寿

 伯耆の國をを旅していた左甚五郎。さて日も暮れかけたが今夜はどこで宿を借りるかな。秀麗な大山が長く裾を引き、美しい海岸線が続いている。今日はこの海岸線を歩いてきたのだが、美しい景色に見とれてわれを忘れ、ふと気がつくとあたりには人家のある様子がうかがえない。
 まあ、何とかなるだろうとしばらく歩いていると、浜辺近くに一軒の大きな家が見えた。甚五郎、その家の近くまできてみて驚いた。屋根はほとんど落ち、残った部分の周りに茣蓙をつるした粗末な家である。しかし、人は住んでいるらしくわずかに焚き火の煙が上がっている。甚五郎は近づいて声を掛けた。中から六十すぎと思われる老人が出てきて、「なんじゃな」と応じた。
 甚五郎は、今夜一夜の宿をお借りしたいと頼むと、老人は、飯と蒲団はござらぬはそれでもよろしかったらどうぞと応じてくれた。囲炉裏の前に座ると、昼から何も口にしていない甚五郎はさすがに腹が減ってきた。ひもじい思いに耐えてじっと我慢をしていると、その様子を見ていた妻女が見かねて「おなかがおすきでしょう」と声をかけてくれた、「ああ、ひだるい(ひもじい)」と応じると、何もございませんが……といいながら雑炊を出してくれた。早速よばれることにしたが、薄い塩味にわかめが入っただけの汁である。「これが雑炊?」、甚五郎がいぶかしんでいると老人が苦笑しながら答えてくれた、「確か十粒くらいの米が入っていたはずじゃが……、これが最期の米ですわい」。
 海の水でわかめを煮ただけのものであった。
 囲炉裏の前でごろ寝しながら甚五郎が聞いた話は次のようなものであった。
 二十年前までは、裕福な漁師の網元で、周りには漁師の家も百軒以上あったが、次第に不漁となり、近年は舟を出しても、網を曳いても何もかからなくなってしまったという。このため、見限った漁師らは土地を離れ、いまはわずかに三件にまで減ってしまったのだそうである。その家々の暮らしもこの老人らの暮らしと変わらないらしい。
 村には事代主之命をまつる神社があるということだったが、祭などいつしたか思い出せないくらい昔のことだったという。
 翌朝甚五郎は村の鎮守に行ってみた。草ぼうぼうと生い茂るあいだに壊れかけた石段が続き、傾いた鳥居、倒れた燈籠、それでもようやく拝殿に近づき一歩足を踏み入れたら床が抜けた。
 それでも古色をたたえる社殿は奥に長い、大社造である。甚五郎は考え込んでしまった。
 網元の家に帰り老人に話を聞くと、「御祭神様は越後のほうにカノジョができて以来すっかりそちらに居続けですっかりお見限りで……」と悔しそうな様子である。
「昔から恵比寿で鯛を釣ると申すではないか」
「申し…ひだるいの甚五郎さま」、
「……なんじゃな……?
「それを言うなら、海老で鯛を釣るでごっざいます」
「ははは、そうか、そうか……」
  それから三ヶ日、甚五郎は一体の恵比寿神像と、麒麟獅子頭を二頭を彫り上げ、老人これから祭をいたそうと言った。
「ひだるいの甚五郎さま、獅子舞をしますんで……?」
「そうじゃ」
「……しかし、かぶりものがありません」
「そうか、油単がないか……。それならお前さんの娘の緋色の腰巻はどうかな、紐もついていて獅子の頭と結ぶのにちょうど具合がいいぞ」
「……じつは……腰巻の舌はすっぽんポンでして……」
 さて、祭日になると、事代主之命(恵比寿神)を神殿に納め、祝詞をあげると、浜辺に降り、砂浜で漁師二人による獅子舞が行われた。油単は、伯耆丸と書かれた古い大漁旗を二つに割いて作られていた。近所の漁師ふたりで舞われたが、笛も太鼓も無く、漁師はまったく所作など知らないにもかかわらず、獅子が勝手に動いてついて動くだけで舞いができたのだった。
 獅子舞が終わろうというころ、沖の海の色が変わり、近づくにしたがって次第に波立ち、汀に押し寄せると、銀輪が躍り、鯛、ひらめ、すずき、いわし、さば、ふくらぎ、かれい、蛸、蟹、するめ? かまぼこ? 薩摩揚げ? 鰹節? などの海の幸が砂浜に打ち上げられた。
 村には昔のような賑わいが戻ってきた。
 人にとは恵比寿さま、ひだるいの甚五郎様をお祭し、大漁祈願のまつりをするようになったのであった。

 へい、御退屈さまで、御存知伯耆の左甚五郎の一説でございます。

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◇蛸御殿 1
2007/6/4(月) 午前 6:14
この物語は、蛸が悪魔の魚と、恐れられていた頃の話です。 漁師の冶五郎は、人里は慣れた、少し突き出た岩の上に座っ ... というのは建前で、隣の甚五郎が、見ていなければ、本当は隠して、帰って ... と思いましたが、声は低く、老人の男の声です。 どこかで ...
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◆高麗人参(朝鮮人参) 

2011年02月26日 | 日本の山車 左甚五郎
◆高麗人参(朝鮮人参) 
 旅を重ねて常陸の國についた左甚五郎、ひとりの子供が眼を真っ赤にしてうなだれているのを見かけた。甚五郎は子供に近づくとやさしく声を掛けた。「悪さをして、お父っつあんにでも叱られたかい?」。子供はかすかにいやいやをした。「ふーん、どうしたのかな?」
 少年は聞かれるままに、ポツリポツリと話し始めた。
 なんでも父親は早くに世を去り、母親が細腕で子供を育てていたが、長年の苦労が重なり、ついに病床に伏すことになった。ここ数日はさらに元気が無く、気力も衰え、子供が作った重湯すら喉を通らぬらしい。そこで、今日は医者に診てもらったところ、よく保って今月一杯の命だろうと言われたと言う。「何とかおっ母あを助けて……」と頼んだが、医者は、高麗にある朝鮮人参を煎じて飲ませれば、あるいは助かるかもしれんが、手にいれる手段があるまい、不憫にのうと言い聞かせたと言うことだった。
 「飛騨の山奥には、高麗人参があると聞いたことがあるが、たとえ、飛騨に行っても探しだせるかどうかな……?」。
 これを聞いていた左甚五郎、子供に言い聞かせた。「おじさんがその高麗人参を手に入れてあげよう。でもひとつ約束をしてくれるかな。ここで見たこと聞いたことは今後人には話さないことだ。いいかな?」
 子供はこっくりうなづき、「うん、約束する」と言った。
 甚五郎と子供は山道を戻ると子供に目隠しをし、抱きかかえると、黄色の鶴(黄鶴)を呼び出し、ひととびに飛騨の山中に到った。そこで、黄鶴の背中からおりた甚五郎と少年は、瀧に沿った山道を登り、清流のほとりに生えている高麗人参(竹節人参)を三株掘り起こし、これを持ってふたたび常陸に戻ってきたのだった。早速綺麗に水洗いし、三日陰乾ししたあと、土瓶に入れて水を張り、三時間あまり煎じたものを、少しづつ母親に飲ませると、夕方にはようやく声も出るようになり、「ありがとうございます」とお礼を述べるのだった。少年お喜びようは一通りではない。
 それから七日もたつと、ようやく床の上に起き上がることができるようになったのだった。
 甚五郎は上下が赤と黒に染め分けられた種子を取り出すと、子供に、これを播いて育てなさいと言って立ち去った。
 子供は長じてから江戸に出て、「赤髭」とよばれる名医になったが、甚五郎との約束は生涯守りとおしたという。




◆かぐや姫の山車

2011年02月26日 | 日本の山車 左甚五郎
◆かぐや姫の山車
 左甚五郎は、下野の國を旅していたときある町で、山車の彫刻を頼まれたが、題が『日本昔ばなし かぐや姫』だと告げられて、たいへん悲しそうな表情になり、注文を固辞して立ち去ったと言う。組内では仕方なく別の彫刻師に頼んで彫刻してもらったのだが、祭礼の前日に落雷があり、山車は一度も曳かれることなく炎上してしまった。
 この話がいつとはなく各地に広がり、山車を作るときは「かぐや姫」を避けるようになった。
 江戸時代、飛騨高山の国学者田中大秀は、その話を聞いてたいそう不思議に思い、多くの文献を渉猟して解明に当たったが、ついにその原因はわからなかったと言う。近年のことは不明であるが、江戸時代に建造された山車には「かぐや姫」にゆかりのある山車は無いらしい。
 田中大秀はこれが機縁になって、名著と言われる『竹取物語 解』を著述した。

◆左甚五郎 陸前の観音 二

2011年02月25日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 陸前の観音 二
 「そのお嬢様と言うのが先ほどまでここでわたしと話していたあの娘さ、可愛い姪じゃが、どうにもならん。田畑、山林などかなりの財産もあったのじゃけれど、いまはそれも七年のあいだにすべて売り払ってしまって、今はもう何も残っておらん。可愛そうに母親は心労で旦那のあとを追い、娘は縁談も流れ、いよいよ女郎に身売りするしかないと言って別れを言いにきたとこさ」。
 「ああ助かった」と言って喜んだ農民らは、慰めの言葉を掛けるところか寄り付きもせず、たまにみちであっても顔を背けて通るという浅ましさ。
 左甚五郎は眼に涙を浮かべて聞いていたが、聞き終わると姐さんに言った。
 「それは気のどくにのう、せめてわしが供養に観世音菩薩を彫刻してあげよう、いや、わしは飛騨高山の左甚五郎というもんじゃ」と名乗ったから茶店の姐さんは飛び上がるほど吃驚した。「わ、わ、わたしが娘の、い、い。家まで案内します」
 数日して、観世音菩薩が彫りあがった。姉、弟、茶店の姐さん、それに甚五郎の四人で、非業の死を遂げた夫妻の七回忌の法要を勤めることになった。左甚五郎の彫り上げた観世音菩薩をまえに。位牌をならべ、しめやかに法要は進んだが、娘が焼香し、鈴をたたき手を合わせ、ふと観音さまを見上げると、観世音菩薩はにっこりと微笑まれたのだった。次に弟が手を合わせると、やはり、にっこりとお笑いになる。茶店の御姐さんはその霊験に恐れ入ってしまった。
 このようなうわさが広がるのは早い、話を聞きつけた近在の人々が仏への供養志をつつんで尾舞藺するようになった、これがやがて、ご領主様の耳にも入り、御参りに来られることにませなった。


◆左甚五郎 陸前の観音 一

2011年02月25日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 陸前の観音 一
 陸前は北国とはいえ、盛夏の街道は、容赦なく照りつける太陽が恨めしくなるような昼下がり、「こんなときに冷えた一杯の酒を呑ませてくれるなら、土蔵付の家を呉れてやってもいいぞ」。ひとり愚痴を言いながら長い坂道を登ってきた左甚五郎は、峠の辻に一軒の茶店を見つけると、「水を一杯呉れ」。「水ですか?」、「酒を一杯飲ませてくれと言いたいが、生憎銭の持ち合わせがない。水で結構」、「お茶を淹れますよ」、「馬鹿を言え、この暑いのに、お茶など飲もうもんならあっという間に成仏してしまわあな」。「ははは、お客さんは江戸の方ですか」、「」いや、わしは飛騨高山の住人じゃ」、「ああそうですか、それは遠いところからようこそ」。
 立て続けに茶碗に三杯の水を飲みほすと、さすがに峠の辻だけあって、涼しい一陣の涼風が吹きぬけた。「姐さんその隅でしばらく休ませてくれ」というなり横になった甚五郎、まもなく寝息を立てはじめた。夕暮れも間近になって、ふと人声がするのに眼がさめた甚五郎、聞くともなく横になって聞いていると、なにやらしんみりした様子である。
 「せめて店でも繁盛していたら働いてもらうんだけどね、この有様じゃね」と言いながら甚五郎のほうをちらと見たから眼が合ったしまった。「これこれ、あてつけを言うものではないぞ」と言いながら起きだし、伸びをしながら聞いた話は次のようだった。
 七年まえのことだった。当地は大恐慌で五穀は実らず、餓死者もでる惨憺たる世相だったが、例年通りの年貢を治めよとの厳しい御達しが役所から届き、翌年に蒔く種籾まで徴収する厳しさだった。ところがその翌年もまた冷害で、七月の半ばには霜がおりる有様で、山野には草すら生えなかった。ただ不思議なことに、夏も終わり近くになると、笹が実をつけたのだった。【麦角】である。ひとびとはこの笹の実を【野麦】とよび、争ってこれを採集し、団子を作って辛うじて飢えを凌いだのだった。

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◇【世界遺産・日光】輪王寺&東照宮
2010/3/28(日) 午後 11:59
... 石鳥居 (いしどりい) 【重文】 ご鎮座翌年の元和4年(1618)、九州筑前(福岡県)藩主黒田長政 ... 眠り猫 (ねむりねこ) 【国宝】 左甚五郎作と伝えられています。牡丹の花に囲ま ... (´▽`*)アハハ 「お~い お茶」 の販売機。 なんとボタンが36個 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/mineyuho/51946262.html

◇越後長岡 ひなものがたり♪
2010/2/27(土) 午前 8:59
... 作は、左甚五郎 と伝えられているものだそうです。       左は 喜内様(三代将軍・家光 ... 養嗣子・忠恭(ただゆき)の娘・つね姫出生の翌年に    母の実家である遠州掛川城主・太田資 ... きっとここでお茶してたと思います。          最後 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/orion_chelsea/59575588.html

◆左甚五郎 豊後日田の眠獅子

2011年02月24日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 豊後日田の眠獅子
 豊後日田の某神社のことである。不幸にして火災に遭い、社殿は全焼してしまったのだった。
 幸いにも氏子の努力で数年を経ずしてみごとに再建できたのだった。神官の喜びはひととおりではない。しかし、やがて何か物足らないことに気がついた。正面の向拝柱には何の彫刻も無かったのである。気にしかけけたら夜も眠れぬくらいに苦になってならない。思案に余って氏子総代に相談したところ、総代も驚いた。
 ところがよくしたもので、豆田の旅籠に乞食のように薄汚い貧相な一人の男が、宿代の支払いができず、宿でも思案に暮れているという。なんでも飛騨の匠とか言っているらしい。
 しめた、これはいいことを聴いたぞ、「宿賃と酒代くらいで、向拝柱に「獅子と獏」を彫ってもらおう」。総代は、飛騨の匠に掛け合って見ることにした。
 早速その話を斐太の工にすると、意外とあっさり引き受けてくれた。男は数日かかって彫刻を完成し、柱に取り付けたと言うので神主や、氏子総代、氏子らがこれを見上げて驚いた。なんだか小さな岩くらいの丸まったものが柱に取り付けてあるが、どう見ても獅子には見えない。獅子の頭すらないのである。
 これが名高い飛騨の匠の仕事だろうか? と一同呆れて見上げていたがそのうち次第に腹を立て、怒号が飛び交うと、斐太の工を怒鳴りつけた。
 斐太の工は悄気かえり、ほうほうの態で、逃げるように日田の町から出て行ったのだった。
 あとに残った神社関係者は腹立ちも収まらないまま、しばらくは、斐太の工を罵っていたのだが、まあできたことは仕方が無い。聞くところによると、左甚五郎というえらい名人が肥後のほうでお仕事をなさっているそうな。それが終わったらこちらに回ってもらい、作り直してもらったらどうだろう。困惑していた一同は、やっと愁眉を開き、さっそくだれかを使いに立てようということになったのだった。
 異変はそれから三日後の朝に起こった。神社の前で蒼白になって震え、腰の抜けた一人の男がうずくまっていたのである。ただならぬ様子に早朝から多くの野次馬が集まってきた。男はただただ震えていたが、やがてやってきた代官所の役人らが、ようやく聞き出した話は、この男、このような立派な神社だから、さぞかし賽銭箱にはたんまり御賽銭があるだろうと昨夜遅くに忍び込みいざ、賽銭箱に手を掛けたところ、どこかで怪しい唸り声がし始め、やがて、首を擡げるや、巻き毛を振るわせ、真っ赤な眼を剥いて大声で吼えたのであった。男はこれを見て仰天し腰が抜けて動けなくなったと言うのだった。
 さて、そのころ左甚五郎は、肥後熊本城の客人として招かれていた。先年の【竹製の水仙】のお礼を述べたいということで招かれたのだった。日田の使いはその左甚五郎に会って吃驚仰天、なんと先日皆で怒号と罵声で追い払った斐太の工ではないか。
 左甚五郎はただただ恐れ入っている使いに言った。
 「いや、わしも悪かった。獅子も夜番をするからには昼は寝ておかんとのう」

◆左甚五郎の緋鯉

2011年01月20日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎の緋鯉
 左甚五郎は、尾張藩の木曽川の輪中(わちゅう)の、ある神社の祭に曳く山車の彫刻を頼まれていた。輪中(わちゅう)は今は愛知県ではなく岐阜県である。まだ残暑厳しい初秋のことである。暑さにほとほと参ってしまった左甚五郎は、素っ裸になって木曽川に飛び込んで涼をとっていたのだが、突然股間に衝撃を受けて青くなった。どうやら何か大きなものが食いついたらしい。しかしどう焦せっても離そうとしないから困ってしまい、そのまま川から上がってきたが、なんと、目の下二尺もあろうかと見える大きな真鯉が股間にぶら下がっている。折から川に洗濯に来ていた村の乙女がこれを見て赫くなりながらも、堪えきれずに大声で笑い出した。左甚五郎も赤くなったが水から上がっても真鯉は食いついたまま離そうとしない。乙女は助けを呼びに村に駆けてゆき、大勢の女たちが集めって来た、いれかわりたちかわって、左甚五郎に食いついた鯉を引きはなそうとするのだが、鯉は暴れて跳ねるものの、せっかく捕らえた好餌を離そうとせず、そのつど左甚五郎は、痛い、痛いといって悲鳴を上げる始末。気の毒やら可笑しいやら、物好きの野次馬が押しかけて黒山のひとだかりである。甚五郎は村人に頼んで、仕事場から鑿と、赤松の枝をそれに盥を持ってきてもらった。そして、彫り上げたのは一匹の緋鯉である。盥に水を張ってもらい、彫り上げた緋鯉を放つと元気に泳ぎだした。これを見て左甚五郎はその盥に飛び込んだ。すると、あれほど食いついて離れなかった真鯉が、緋鯉のほうにちらと気を取られ、うっかり咥えていた左甚五郎をはなしてしまった。このときとばかり、左甚五郎が盥から飛び出したのは言うまでもない。その夜は村の女たちが集まりこの土地の名物である【鯉のいばら飯】を炊き上げ。大振る舞いになった。鯉のいばら飯というのは、一匹の大鯉をそのまま炊き込んだごはんのことで、鯉の小骨が茨のようだからつけられた名だそうである。緋鯉は、これを聞いた西濃の垂井というところにある【紫鱗(しりん)】という山車のに飾られることになった。琴高仙人(きんこうせんにん)は赤い鯉に乗るといわれ、この縁起をよろこんだのである。緋鯉の代金は金二両だったという。
 輪中の村人は、これを「木乃伊とりがみいらになった」と言い、【鯉のいばら飯】を炊くときはいつもこの話をして笑い転げたということである。

◆左甚五郎 「日光の眠り猫」外伝

2011年01月08日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 「日光の眠り猫」外伝
 こんなお話があります。日光東照宮の造営に関わっていたときのことです。このときは甲良豊後守(こうらぶんごのかみ・斐太で修行して当代随一の宮大工と言われた人です) 左甚五郎はこの宮大工に招聘されて日光のお仕事を手伝ったようですが、来る日もくる日も山中でのお仕事ですから、もともとあまりまじめ人間ではない左甚五郎は、秋も次第に深まり日も短くなって、宵闇がせまるともうじっとしていられません、赤提灯が恋しくなってきます。そこで仕事場をそっと抜け出して麓の鹿沼宿にやってくるとやれ嬉しや、一軒の飲み屋が目につきました。見ると薄汚い軒の傾いた一軒の飲み屋です。もとは旅籠だったそうですが、主人が若いとき放蕩三昧で、あわれその行く末が今のざまです。と鼻水をすすりながら愚痴をこぼします。
 酒さえあれば店の汚いのなぞ気にしない左甚五郎、ついしばらく酒を断っていたこともあって、ついつい酩酊するまで飲み続け、はてはへべれけになって店の隅で眠り込んでしまいました。
 あくる日になるとすっかり酔いの醒めた甚五郎、案の定、甚五郎には金子の持ち合わせがありません。左甚五郎はそのまま数日滞在しましたが、主人は語気鋭く勘定の支払いをせまりますが支払いなどできようはずがありません。このあいだに見るからにみすぼらしい一匹の猫を彫り上げました。甚五郎はやおらこの猫を主人に示し、これを勘定代わりにとってくれと差しだしました。主人はそれを手にとって、しげしげと見つめていましたが、どう見ても猫には見えない…? しかし、言われてみれば猫が体を丸めて薄目を瞑って居る姿に見えなくもない。主人は怒って甚五郎を裸にし、大切に持っていた宇多國長が鍛えた一本の鑿まで取り上げてしまったのです。これにはさすがの左甚五郎も困り果てました。
 左甚五郎は、同情した宿場女郎の情けで昼はどうやら人目を避けることができました。 さて、夜も更けて、深夜になると飲み屋の外まで来て小さな声で「ちゅう」と呼びかけると、中から猫が「にゃあ~お」と応じ、右手で閂をはずしそっと戸を引きあけて、「おいでおいで」をして左甚五郎を中に入れてくれました。
 おかげで甚五郎は着物と鑿を取り戻し、一目散に日光に逃げ帰ったのでした。
 いつとはなしにこの話が伝わると一目見んものと人々が押し寄せてくるようになります。 戸口の外に立って人々が「ちゅう」とないてみせると、「にゃあ~お」と啼いて、戸がスルスルと引き開けられ、お礼に一文銭を投げ込むと、猫がうっすら眼を開いて、にっこりと笑い、右手を挙げてバイバイをして戸を閉めたといいますが、これは後の作り話でしょう。
 さあこれが評判になって人々が押し寄せ、たいへんな騒ぎになりました。一目見んものと押しかけた人が行列を作り、嘘か真か、延々と徳次良(とくじら)のあたりまで続いたといいます。見そびれた人たちは鹿沼宿にわらじを脱ぎましたから、旅籠も大繁盛。飲み屋の主人は、かの宿場女郎と語らい、一番から百番まで番号をつけ、この木札を持った人を優先的に扱うようにしましたから、遊郭も大繁盛しました。現在の石橋町のあたりだったと言いますが、現在ではどのあたりになるでしょうか・
 この話が将軍様のお耳に入って、左甚五郎の彫った猫はお召しあげとなって、日光東照宮の霊廟に通じる長押の上に飾られることとなりました。このとき猫らしく綺麗に着色されたのですが、猫は気に入らないらしく、その後はずっと不貞寝をしたままになりました。飲み屋の親父は、「飢えた虎はよたよた歩くというが、まったく惜しいことをしたわい。それにしても甚五郎先生にはすまないことをした」と語っていたそうです。
 のちに、ひとびとはこれを【左甚五郎作の日光の眠り猫】と呼ぶようになりました。
 お粗末ながら【左甚五郎作の日光の眠り猫】の外伝でございます。

◆左甚五郎 良寛の鍋蓋

2010年03月07日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 良寛の鍋蓋
 左甚五郎、越後新発田藩までたどりついたのだが、例により貧しくて旅籠に泊まることができなかった。しかし、親切な老婆と出会い、そのはからいで、ある農家に世話になった。そこで粥をよばれたのだができあがりにひどく時間がかかった。それも道理、鍋に蓋がないのである。そこで甚五郎はお礼に鍋の蓋を作ってやったので、煮物が早くできるようになっって老婆はよろこんだ。それからしばらくたった或る日のこと、薄汚い老僧がこの農家に宿を借りた。じっと鍋蓋を見ていた老僧は、何を思ったかその鍋の蓋の裏に「天上大風」と書いて去った。この話が新発田藩溝口のお殿さまの耳に入り、お殿様のお買い上げとなり、たくさんのお礼が老婆に支払われたのだった。老僧は良寛だった。この話があちこちに伝わり、鍋の蓋に良寛の揮毫を求める人があとを絶たなかったという。


◆左甚五郎 木臼のない甚五郎家

2010年03月07日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 木臼のない甚五郎家
 左甚五郎は旅に出ていることが多く、郷里の飛騨高山に帰ることは少なかったが、
ある年の正月はめずらしく郷里で新年を迎えることになった。おかみさんは甚五郎に言った。「うちの子にも正月は餅を食べさせてやりたいが、臼がないから餅がつけませんよ。なんとかしてくださいな」。そこで甚五郎はもっともだと思い木製の臼をこしらえることにした。ところが臼を作る大きな木を探しているうち、また遠来の仕事が入り、上方に出かけることになってしまった。おかみさんは呆れ果てたが仕方がない。石臼を注文して餅をついてもらった。だから甚五郎の家には木臼がなかったという。

◆甚五郎の招き猫

2010年02月17日 | 日本の山車 左甚五郎
◆甚五郎の招き猫
 江戸時代、江戸の町で小間物の行商をしていた忠兵衛、さな(佐奈)という夫婦があった。子はなく一匹の猫を飼っていたがたいそう忠兵衛になついていた。三月を迎えたある日、いつものように忠兵衛は行商に出かけたのだが、その日は風が強く大火事が発生した。後に言う振袖火事、明暦の大火である。江戸の町は火に包まれ、この火事で天守閣も焼け落ちた。伝馬町の牢屋では、一時的に囚人を解き放つ、解き放ちが行われた。これ以後千代田城には天守が築かれることはなかった。また一時的に解き放たれた囚人たちは恩徳に感じて全員戻ったといわれる。
 行商埼でこの火事を知った忠兵衛も急いで我が家に飛んで帰ったのだが、幸い妻は無事であったが火が迫るのに猫が忠兵衛の帰りを待ち続けて、家を出ようとしないというのである。 忠兵衛は火の粉の舞う家並みを通り抜けて、燃え盛る我が家に飛び込むと、愛猫を抱いて飛び出したのだった。
 しかし、猫は焼け落ちた梁に前足を挟まれ、哀れ不具になってしまった。ちょうどこのころ江戸にいた甚五郎のうわさを聞いた夫婦は甚五郎のところに相談に来た。「わしは医者じゃないからどうにもならんが…」といいながらも、気のいい甚五郎は木で猫の前足を作ってやったのだった。不思議なことにこの日から猫は普通に立って歩けるようになり、どこで見つけたかお嫁さんまで連れてきたのだった。
 やがて寿命で猫が息を引き取ると夫婦はそのさびしさにさいなまれるのだったが、夫婦で相談をして、甚五郎さんに猫の遺影を彫ってもらおうということになったが、甚五郎はどこかに旅立って江戸にはいなかった。うわさをたどって、上州伊勢崎でようやく甚五郎をたずねあて「しかじかで…」と話すと、甚五郎は前足を作ってやった猫をよく覚えていて、そっくりの猫を木で彫り上げてくれたのだった。しかしこの猫は動かなかったので少しがっかりしたが、それでも喜んで江戸に戻ったのだった。それからしばらくたったある日のこと、仏壇の前に飾っておいた猫があまりにも生前の姿に似ていたので、思わず猫の名前を呼ぶと猫は眼をあけ、片足を上げて「みゃあ」と嬉しそうに鳴いたから忠兵衛はびっくり仰天、それからというもの毎日名前をよんでは頭をなでてやると、猫はのどをごろごろいわせて喜ぶのだった。やがてその年も迫り、十一月ともなると浅草の長國山鷲山寺の酉の市に、夫婦そろってお参りし、おかめ笹で作った福笹を買って帰ったのだが、面白半分に笹についていた打出の小槌を猫にもたせたところ、猫は喜んでそれを振ったから、たちまち福が舞い込み、商売は繁盛、家普請でき、以前にもましてはんえいするようになった。この猫は世田谷の豪徳寺の猫と兄弟だったという。
 浅草の長國山鷲山寺には左甚五郎が奉納した大鷲があったというが、夫婦が献納した猫ともども大正時代の関東大震災で失われた。



◆甚五郎の子授け地蔵

2010年02月17日 | 日本の山車 左甚五郎
◆甚五郎の子授け地蔵
 日向の国、延岡のお殿様延稜公に招かれて、豊前臼杵から南に向かっていた左甚五郎はある村で宿を借りた。夫婦は好人物で甚五郎をあたたかくもてなしてくれたのだが、なぜか家のなかがわびしい。だがそのわけはすぐにわかった、夫婦に子供がいないのである。長年連れ添い夫婦仲もいいのだが、近くのお地蔵さんにお参りしてお願いしても、なぜか授からぬものは仕方が無い。もう諦めているという話だった。一部始終を聞き終わった甚五郎は翌日、あるじにお地蔵さんまで案内してもらった。しばらくお地蔵さんを眺めていた甚五郎は祠を寄進して差し上げようといい、お地蔵さんのおうちを作ってそちらに移ってもらったのだった。夫婦はたいそう喜んで毎日団子を作ってお供えし、せっせと日参したのだが、やはり子宝に恵まれなかったのである。夫婦は世間で評判の左甚五郎さんもたいしたことはないわい。もう明日からはおまいりもやめようなどと夫婦は愚痴を言いながら帰ってきたのだったが、その夜のこと、夫婦の枕元に件のお地蔵さんが現れたから驚いた。お地蔵さんいわく、「そちたちのお陰で毎日腹がふくれているのはありがたいが、聞けば子宝を望んでいるそうじゃの?」、「さようでございます、しかしお地蔵さんが望みをかなえてくださらないので…」思わず愚痴を言ったところ、お地蔵さんが言うには「わしは、団子はもう食い飽きた、明日から餅をあげよ」というなりぱっと姿が消えた。後で聞いたら妻も同じ夢を見たという。「不思議なこともあるものじゃ?」、しかしお地蔵さんのお告げなので翌日は餅を搗いてお地蔵さんに備えたのだった。その夜のこと妻が真っ赤になってもじもじしているのを見た主人、「ははあ? そういうことだったか」とすべてを理解した。「甚五郎さまのご利益はありがたい」。仲のよい夫婦に子供が恵まれたのはそれからまもなくのことだった。
 子宝に恵まれない夫婦は餅を搗いてお地蔵さんに供えると子供が授かるというのでたいそう評判になって、お参り衆があとを絶たなかった。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/

◇日光に行ってきました~!
2008/3/4(火) 午前 9:58
... 親子杉や夫婦杉など御神木があって、夫婦円満に良いと書い ... このお地蔵さんの名称は並び地蔵なんですけど、 行きに数えたお地蔵さんの数と帰りに数えた数が絶対に合わないという ... 名匠左甚五郎の名に因んで名付けられたという 日光甚五郎煎餅を買って帰り ... http://blogs.yahoo.co.jp/chikatyu2000/54154948.html

◇祇園祭小事典ラインナップ
2006/7/5(水) 午前 0:56
... 8月の地蔵盆、9月の御施餓鬼  27日:長刀鉾 ... 左甚五郎の兎の彫刻、豪華な屋根回り  18日:白楽天山 → 禅問答の御人形、学問のお守り  19日:芦刈山 → 別れた夫婦が再び一緒に、山口華揚のライオンの前掛、鶴の見送  20日:太子山 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/kobayan717/38485279.html




◆左甚五郎と五合庵

2010年02月17日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎と五合庵
 ある秋の黄昏がた、左甚五郎は越後寺泊をすぎたあたりの海辺で、空腹に耐えながら暮ゆく向かいの佐渡島を眺めていたときだった。「どうしなさった」と声をかけてきたものがいる。振り返ると破笠に破衣の貧相な僧である。甚五郎は苦笑いしながら「じつは腹が減って…」、それを聞いた僧はまじめな顔で「それはお困りじゃろう」しばらくお待ちなされといって姿を消したがしばらくすると、古鍋を提げてもどってきた。
 しして、ふところから今日の托鉢で得たと思しき一合ほどのこめを鍋にあけ海の水で炊いで、お粥を炊いてくれたのだった。「さあ、食べなされ」、僧は甚五郎にすすめ、自分も一緒になって食べたのだった。甚五郎は尋ねるともなくたずねると、どうやらこの近くの僧らしいが、行く雲、流れる水。臥所を定めぬ常住の住まいもないらしい。
 話を聴き終えた甚五郎は、僧のために、弥彦神社の南斜面の空き地に翌日から三日ほどかけて、小さな小屋を建ててやった。六畳と三畳ほどの粗末で小さな庵だったが、拾い集めた小枝を囲炉裏にくべると、部屋はたいそう暖かかだった。
 「神社には話をしておいたから、この庵で過ごしなされ」と甚五郎は言い、立ち去ったが、近くには湧き水もあり、それからはまれには尋ねてくる人もあり、米、醤油なども届けられ、紙、筆、硯も次第に備わってまずは不自由の無い暮らしであった。
 この貧しげな僧とは良寛で、訪ねてくる人の求めに応じて書を認めるのだった。
 あとで、庵を提供してくれたのが左甚五郎だと知った良寛は、この庵を、一合の雑炊を分けて食べた甚五郎を偲んで「半合庵(ごごうあん)」と名づけた。さらに、飛騨のたくみを詠んだ詩一編をつくって甚五郎の徳をしのんだのだった。「飛騨のたくみの打つ墨縄の…」とある。良寛はこの庵にしばらく住まいし、老いてのちに麓に移った。「半合庵」はその後無住となり、ひとびとは「五合庵」とよんで、明治の初め頃までは存在したらしいが、ついに朽ちたのだった。いまは良寛を讃える人々によって、往時を偲ぶ五合庵が復元されている。