創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・池田大作をブッた斬る-2

2018-02-09 08:21:44 | Weblog

創価学会・池田大作をブッた斬る 藤原弘達 1988=昭和63年
                                           (日新報道/¥1,000)
    ------(P.7)---(以下、本文)-------

プロ口ーク゛ --終戦直後の“神々のラッシュアワー”と民主主義
 雑誌「日本評論」(今は廃刊)の昭和二十四年三月号に、「生きている宗教」なるタイトルで座談会記事がのっている。敗戦後まもない頃の用紙事情そのまま、A4判九十六頁という貧弱な月刊誌である。中央公論、改造、文芸春秋なども同様だった。言論,出版の自由の世の中になったとはいっても、紙がなければどうにも仕方のない時代の懐かしい雑誌の一つである。
 座談会「生きている宗教」は、九十六頁の総べージ中、十六べージが当てられている。大特集ということになろう。この中で、出席者の一人、服部之総がこんなことをいっている。
『……支那で大乗仏教になったのが、聖徳太子のときにこっちへきているのだけれど、それがさらに論理的に発達したやつが鎌倉仏教です……。(中略)ところが浄土教の発展、親駕の宗教、それから日蓮になると、これは支那の禅以上のところまでロジカルに進められています。宗教改革以後のキリスト教にまさるとも劣らない、いわゆる宗教というかたち、宗教形態というか、そのことは言葉をかえると、さっきの疑(擬)似宗教のもとであるセックスの問題だとか、肉体的な医療あるいは社会的な医療といいますか、それから金の問題ですね。そういう問題からもともとすベての宗教は出発するのでしょうけれど、それを完全に?棄したというところまでいっていると思います。したがって鎌倉仏教の中には、擬似宗教がラフなかたちでもっているセックスだの、病気だの、幸福というものはもうないのです」(傍点・著者)
 この服部の指摘はさすがに鋭い。戦後の“神々のラッシュアワー”はまさに「ない」ものからの再出発ということにもなる。
 別の出席者、新島繁は、戦後、巷に続出した擬似宗教にふれて、こう述べている。
「....天皇が人間宣言をして神様じゃないということをいって、人間の仲間に落ちてきた。と思うとぎゃくに民間からおれは神様だというのが盛んに現われてきた。こういうわけで、最近はこの宗教団体というのは税金がかからないというせいもあるらしく、平均一日に二つか三つは届け出があるようです」
 そして、「爾光尊」「踊る宗教」「観音教」「PL」、市川の「お助け爺さん」などの例をあげる。彼は観音教についてこういう。
「....始めは指圧をやっていたそうです。これが今では実に堂々たるもので二〇万の信者があり、方々に別荘があって、熱海あたりにも二、三力所くらいある。これはいわゆる『お光り様』とかいう名で呼ばれて、教祖に会うというだけでも二千円から金を出さなければならない......。(中略)この神様を信じていますと、なんだって叶う」

 ここに名の出てくるのは、昭和二十四年当時の新興宗教、擬似宗教の大手である。「立正佼成会」「霊友会」の名は登場しない。むろん「創価学会」も、まだ弱小教団だったわけである。
 神々のラッシュアワーと呼ばれた新興宗教、擬似宗教の続出を、先の服部之総はこうもいっている。
「……つまり終戦後の擬似宗教が下品で、お粗末で、世界のどこへ出しても恥しいような低級なものが出たということは、別な言葉でいえば、終戦後の日本の民主主義解放の運動がそれだけ本ものになっていない」(傍点・著者)
 昭和二十年七月に巣鴨刑務所から釈放された戸田城外(のちに城聖)は、翌二十一年元旦から創価学会のカンバンを掲げ、法華経の講義を始めた。戸田の師、創価教育学会会長・牧口常三郎は十九年に獄死していた。
 戸田は創価学会講義の傍ら、仙花紙やヤミ紙を使って出版業をやり、不動産業や金融業にも手を出し、“新円成金”となるが、創価は法華経研究会の規模に止まっていた。この時期、戦時下の解散でチリヂリになった旧創価教育学会会員も、戸田の創価学会に戻ってきた。小学校教師が多かった。旧創価教育学会員に折伏されて学会員になった池田太作(のちに大作)は、昭和二十二年八月、戸田の経営する金融会社の営業部員になる。
 天皇の神格否定宣言、いわゆる「人間宣言」が出たのは、戸田が法華経研究会を始めた同じ二十一年元旦だ。そしてその同じ年、当時の政治的、社会的状況に対して私はこう書いている。

 「南原繁総長をはじめとする諸教授連は国体変革論を真向からふりかざして金森国務相に迫りつつある。はたして国体は変革され、革命があったのであろうか? 法理論は第二、第三の問題として革命を云々する以上、それを裏づけるベき事実が存在しなければならない。
 ポツダム宣言の受諾をもって革命とみるか、民主主義は必然的に人民主権を意味するが故に革命と断ずるか。この点の事実認識の相違が一は国体護持論者となり他は国体変革論者となる。
 宣言受諾に際し国民の意識を支配した重要なる要素は国体護持なる条件と聖断の下ったこと、すなわち大御心に出たるとの二つではなかったであろうか。この意識の結集されたるものが終戦後の国民の総意にほかならない。しかるに過般来の憲法論議の経過をみるに国民の総意と感情からはるかに距った観念遊戯の感なしとしないのである。
 われらは国体変革なる解釈論の当然優位を示す可能性をもつ新憲法をはたして支持しうるや、すべからく国民投票に訴えるべきである。(尾道市栗原町・藤原弘達=復員者)」
 右の文章は、昭和二十一年九月九日付「朝日新聞」の「声」欄に「新憲法を国民投票に」の題で私が投書したもの。私にとって、自分の文章が初めて活字になった記念すべき第一号である。南中国から復員して五か月、私は二十五歳になったばかりであった。
 この日の日記に私はこう記している。当時のまま紹介しておこう。

 「朝日新聞ノ『声』ニ国体論ニ関スル意見ヲ発表シタ。新聞屋ハ我輩ノ論ヲ換骨奪胎シタ微温論ニヌリカエテ掲載シテヰル。イカ二今日ノ新聞ガ国民ノ正シイ與論ヲ発表スル上ニ制約サレテヰルカトイフ事ヲマザマザト見セツケラレタヤウナ気ガスル。ンノ点デハ言論ノ自由ナンテモノハアリハシナイノダ。明ラカニ米国ノ帝国主義二隸従シテヰルトイッテヨイデアラウ。モウ一度反駁シテヤリタイトモ思フノタガ没ニキマッテヰルカラ止メタ。何ニシテモ正論ハ黙サザルヲ得ナイ今日ノ状勢、如何センヤデアル」
 その新憲法は、この年十一月三日に公布されている。
 国家主権の一体性が軍事的占領によって否定されたまま、「天皇人間宣言」とひきかえにあたかも精神の救援物資のように放出された戦後日本における「信仰の自由」は、騒々しいだけの神々のラッシュアワーをよんだが、その分水嶺として「日本国憲法」の果たしたカムフラージュ的役割はいかにも大きい。民衆はそのままで「魔法の園」の中にまさに自由放任されたということでもあろう。
 創価学会やさらには池田大作のようないかがわしい存在が、やがて、この「魔法の園」から「神の代理人」を潜称して、ウジ虫のように発生することとなる。まさに記念すべきタイミング、私もこういう文章をこのタイミングに書き残しておいてよかったなと思う。
       ---------(11P)-------つづく--

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