創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

新・創価学会を斬る-29

2017-11-13 07:16:59 | Weblog

新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)

                ----(P189)---(以下、本文)---
債鬼に追われ、逃げまどう戸田の姿
 埼玉県の種村慶次郎さんによると、危うくご当人も詐欺の擬制になるところであっただけに、当時の戸田のべテン師的な人間臭さを次のように具体的に伝えている。
「戸田のことを知ったのは、昭和二十四年、私の友人の紹介で、彼が東京建設信用組合専務理事という名刺を持ってきたときです。『二万円の金を預ければ十万円貸すから出資してくれ』ということでした。で私は十万、二十万円と出してみました。中には一くち五百円という小口の出資者もあったらしいです。
 そのうち寄り合いに三度ばかりよばれて行きました。奴さんが席を離れたとき、ひょいと見ると机の上に日蓮宗の信者が使っている御書に赤鉛筆で何やら訂正してあるのがのっていました。裏をみると日蓮さんの身延山久遠寺と書いてある。
 初めはこれを何に使うのかわからなかったが、今になってみると創価学会の『御書』を自分で作っていたわけですよ。
 そのとき、いろいろ話してみて、奴さんが金を貸すなんていうのは嘘で、ただ金が欲しいんだということがわかってきましたね。

 私の友人の長山延美さんは八十万円出し、私も結局、八十六万円を出しました。まあ戸田から金を借りなくても、そのうち幾らかでも利息がついて戻つてくるだろうぐらいに思っていたわけです。
 そのことがあってからしばらくして、私が土地を貸していた人がやって来て『種村さん、こういう会があるのだが、入ってみないか』という。何だか面白そうだから入ってみました。
 その翌々日、座談会があるというので行ってみると三十人ぐらい集っていた。そこで,大白蓮華という雑誌をもらったんです。裏の最後の所や見たら戸田城聖と書いてある。そこで私は皆んなに「奴さんには金の貸しがあるんだ」と言ったら皆びっくりして、『本当か』という。それで証書を持って来て見せてやったら、半信半疑だった者まで驚いたです。『これは本当だ。戸田先生が借金しているなんて大変だから、早速、面会に行こう』ということになったんです。

 当時本部は信濃町の旧イタリア大使館員宅にあったのでそこへ行き一番前に座って待ってました。午前九時が講話の時間でした。時間がくると、名前は忘れたが中央大学の教授という人が出て来たので、証書を見せて『これを解決して欲しい』と言ったところ、その先生は首をかしげて証書を見ていましたが、それからベルを押したんです。すると二階から女の人が降りて来たので、証書を二階に持たせてやりました。
 十分ぐらいでその女が私を呼びに来たので私たち三人は二階へ上って行つたんです。二階は四十畳ぐらいの座敷で、その真中に黒檀のテーブルが置かれてあり、その中央に奴さんが座って、両脇に女がついていました。私の顏を見ると、『やあ、種村君しばらくだ。この問題は二、三日待ってくれ給え。今日はしばらくだからゆっくり話をしょう』といって大変なご馳走や酒を持ってこさせましたね。私が酒をやらないのを知ってるのにね。それに二年もたっているのにしばらくとは、ずいぶん図々しい男だなと思ったもんですよ。

 出資をしたときも、料理屋に招待されたが、酔っばらって奴さん。大きなことばかり言っていたですよ。
『日本の国はいまに俺が支配するんだから、わからんことを言うヤツは馬鹿野郎だ』戸田の大言壮語はアル中のためだといわれてましたが、いつも酔っぱらっている感じでした。
 私はそれからずっと後になって聞いたんだが、この東京建設信用組合いうのは、東京都の建設課に勤めていた人が内職にやっていたもので、東京芝南佐久間町に事務所があったんです。それを奴さんが横取りして、神田の西福田町に二階家を借り、そこで始めたもんです。下が事務所になっていて、セールスマンを使い、金集めを盛んにやっていましたね。二階には、二、三度上って行ったことがありますが、四時頃になると、若い者がぞろぞろ集まって来る。『ここはいったい、何なのだ』とそういう連中に聞いてみたんです。部屋のまわりに南無妙法蓮華の絵がいっばいあったのでね。そうしたら『ここで先生が講義をするんです』という返事だった。何んの講義か、そのときはよくわからなかったんですがね。
 これもあとになり決算のとき知ったんですが、出資者の大半は信者だったんですな。大きな金額を出資した人は少なく、多くは零細の金を出していたらしいです。やがて組合は行きづまり、割り戻し、つまり出資額の月三分という利息の支払いも駄目になったわけです。
 昭和二十五年八月二十日に大蔵省から閉鎖命令をくったのですね。そのとき金庫をあけてみたら、スッカラカンで何もない。負債が八十万円ということでした。
 ところが戸田は『御書を作って一冊千円で売る。千冊しかつくらないから値段が上がって、そのうち二、三千円で売れるようになる。そしたら借金が返せる』と盛んにいう。まるで子供だましだなと感じました。経営者として出資者に対する責任感が全くないんです。これはもう初めからだましとるつもりだったのかもしれない。ところが奴さんはチャンと、閉鎖命令の前に後釜を市ケ谷見附の市ケ谷ビルの二階につくってあったわけです。これが大蔵商事株式会社。そこでもやっばり同じような方法で、月四分の利息で金を預るというようなことをカタカナで書いた趣意書みたいなものが作られてありました。
 その頃奴さんは午前中、大蔵商事にいて、午後は学会の本部に行くということでした。そこで私は本部に行ったわけです。しぱらくして『やあ、ご苦労様、ご苦労様』といって金をくれました。もっともその前には何回も延期してくれるよう手紙が来ましたがね。金をくれればもう奴さんには用がない。で私は学会を止めちゃった。長山さん(現在、北区十条在住)にも『金を取りもどすんなら学会へ入れ』といったけど、あの人は『そんなものには入らん』といって遂にとりそこなってしまったようです。
 学会はすぐに寄付をとる。一番最初の大講堂をつくるときはひどかったですね。各学会員に千円ずつ割当てた。信者は中産階級よりは下のクラスばかり、まあそれを目標に折伏していたから当り前でしょうか、中には明日買う米の金を持っていいった人もいて『種村さんどうしょう』というから『どうしようもないよ、お前が出したんだから」といって米を少し呉れてやったこともありましたよ。

 ともかく戸田は、すごくずるい男で借金で、首が回らないときは逃げ回ってばかりいる。前に私が持っていた証書というのは、組合のものではなく、彼個人のものでした。いつだったかぱったり何処かの駅で顔を合わせたときに無理矢理、私の事務所へ奴さんを引張ってきたところ、畳に額をこすりつけて、必ず返すからと何度も繰り返すんですがそのときは半ば行方不明のような状態だったのでそうカンタンに彼の言葉を信用できない。
 そこで改めて証書を書かして戸籍謄本も出せといったら持って来ました。
 あんな奴のつくった宗教で病気が治るわけがないよ,本当に治るなら日本中の病院を回って治してやればいいじやないか。初代の牧口常三郎も獄死しちゃったし、自分も肝臓病で死んじやった。自分の病気が治せないで、なんで他人の病気が治せるんですかね,そんなものを信じてる学会員というのは少し頭がおかしいんじゃあないかな。もっとも戸田も口だけはうまいから、結局みんなだまされたわけだけど、今度は池田にだまされているのがわかってないんだな…。
 ともかく戸田という男は、貰うものは何んでも貰う主義だったですよ。悪い教師の見本のようなものです。その代り出すものは絶対に出さない。宗教家というのは、困っている人なんかに施しをするのが普通だけどね。
 それから、趣味としては自分の飲み食いにはよく金を使っていた。それも他人をもてなすんではなくもっぱら自分のためなんだ,
 こんなこともあった。
 私が本部に行ったとき、戸田が『種村君、ちょっとお客さんだから』といって席をはずしたんです。十五分ぐらいで戻って来て、『ご利益だからといって百万円を五つも持って来たヨ」と懐から出して見せてくれました。そのとき世の中はずい分広いなと思いましたね。こんな男に金を出す人がいるとは...。
 それから、私は戸田が金は一銭もかからないというので大石寺へ行ってみると何んだかんだと金をとられる。戸田が『種村さん、五十円あげてくれ』というから、私が『金は一銭もいらないと言ったじゃあないか』と反ぱくすると、『まあ、そんなことは言わずにあげてくれ』とくる。それから当時は、やれ数珠を買え、お経の本を買え等ですぐに五、六百円もかかったものでした。」

 ともかく以上の話にはウソはない、とみてよい。もうすでにこの時代に学会が、どのようにして底辺の大衆から金を吸い上げるかの基本的なパターンが出来上っていたことがよくわかるというものである。
       ---------(196P)-------つづく--

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