創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価を斬る・41年目の検証-67

2017-03-13 06:17:48 | Weblog

藤原弘達・創価学会を斬る 41年目の検証 言論出版の自由を守る会編
                 (日新報道 2012/2)
    ------(315)---(以下、本文)-------

⑤言論出版妨害事件の淵源
 --「水滸会遺戒置文二十六箇条」を検証する/小川頼宣
「水滸会遺戒置文二十六箇条」と題する内部秘密文書が創価学会に存在する。いわば池田大作会長(現・名誉会長)の「日本乗っ取り計画」のテキストである。
 もともと同書は、太平洋戦争後に創価学会を実質的に創設した戸田城聖二代会長(※創価学会は前身の創価教育学会の会長である牧口常三郎を初代会長と位置づけていることから)が、将来の創価学会を託す男子青年部の幹部を育成・訓練するために設けた「水滸会」(※日本でも人気のある中国の古典「水滸伝」に因み、英雄豪傑の集まった梁山泊を模した)での戸田発言をはじめ、「支部長会」や「部隊長会」などの各種会合での戸田の発言を、戸田の死去後に「水滸会」に出席していた青年部幹部らがまとめた「水滸会記録」をべースにしている。
 この「水滸会記録」は、「いよいよ編集へ 水滸会と華陽会戸田先生のご指導の記録」(昭和34年1月30日付「聖教新聞」)とあるように、昭和33年の暮れから34年にかけて整理・編集されたもの。完成後は「男子部隊長は、男子部長を中心に墓前に並び、精魂こめて集成し終わったばかりの水滸会記録を先生の御前に供えて唱題した」(昭和34年4月10日付「聖教新聞」)との記事が示すように、戸田の一周忌法要に際して戸田の墓前に供えられたが、刊行されることはなく、その後、所在も不明となっていた。
「水滸会記録」が刊行されなかつた理由は、同文書が出版されれば宗教団体である創価学会が「日本乗っ取り=天下取り」を企図していることが明白になり、厳しい社会的批判と監視に晒されること。また水滸会での戸田発言は、戸田の死去直前の昭和33年2月14日付「聖教新聞」に掲載された戸田の闘病記と、担当医の所見に「重篤な肝臓病(肝硬変症)」とあるように、大量飲酒をくり返し、しばしば飲酒したまま指導や講義を行ったことで知られる戸田の、酔いにまかせた“ホンネ”や戯れ言が散見され、刊行が憚られたからとも推測される。
  そして戸田の指導の記録を提案した池田が、昭和35年に創価学会の会長に就任した後にも「水滸会記録」の出版に踏み切れなかった背景には、今日、創価学会の「永遠の指導者」(創価学会会則)として、創価学会に絶対的に君臨する池田の姿からは想像することのできない、池田の権力基盤の脆弱さもその一因だったと考えられる。
 周知のように戸田は、昭和33年4月2日に死去した。池田はその著作とされる小説「人間革命」(※ゴーストライターの故・篠原善太郎【創価学会の外郭出版社・鳳書院の社長】が執筆)において、自らを戸田の正統な後継者と位置づけているが、池田が会長に就任する昭和35年5月3日まで会長が二年余にわたって不在だった事実が示すように、戸田は後継会長の指名を行わなかった。
 したがって池田は会長就任後、戸田会長の晩年から会長空位期間中に理事長の職にあつた小泉隆をはじめとする先輩幹部らを斥けて、早急に権力基盤を確立する必要に迫られていた。そのために池田は、戸田の遺言や構想を実現すべく行動することで自らを戸田の正統な後継者であると位置づけることに腐心した。
 また同時に、早くから創価学会内部にあって「天下取り」を公言していた池田は、勢力伸長と戸田の遺言や構想の実現を背景に、戸田を凌駕する絶対的宗教指導者の地位の確立を企図。その宗教上の権威と権力、そして勢力伸張の結果もたらされる組織のカネと票の力を基盤に国政に進出し、天下に覇を唱えることを夢想した。
「水滸会遺戒置文二十六箇条」には、政界進出は地方議会と参議院までとしていた生前の戸田の主張とは異なり、「君等が衆議院に出てやらなければ駄目である。君等が覚えておいて戦うときに広宣流布のキッカケとなる」と記載されており、戸田が「水滸会」に出席していた青年部幹部らに、衆議院への進出を指示していたことになっている。
 池田にとって都合の良い「水滸会記録」を作り、それを戸田の遺訓・遺言だとするには、創価学会において絶対的な権力基盤を確立する必要がある。仮に「水滸会」に出席し、戸田から直接、指導・薰陶を受けていた戸田門下生が多数存在し、創価学会内部において一定の影響力をもっている状況下において、改変・改竄した「水滸会記録」を出版すれば、池田が戸田の意志や遺訓を改竄・捏造している事実が発覚してしまう。したがって池田は、創価学会における絶対的な権威と権力を確立するまでは「水滸会記録」の出版に踏み切れなかったのである。そのことは、池田が戸田の正統かつ正当な後継者であることを自己宣伝する小説「人間革命」の、「聖教新聞」への連載開始が昭和40年だったことからも窺うことが可能だ。
 昭和40年に小説「人間革命」の連載が開始されたのは、池田が創価学会において絶対的な権威と権力を把握したことの証左に他ならない。昭和37年の参院選で戸田時代(昭和31年参院選で3名当選)を凌駕する9名の当選を果たした池田は、「政党は作らない」「衆院には進出しない」との前言を翻して、昭和39年に公明党を結党し、昭和42年の衆院選に公明党を出馬させた。その結果、公明党はいきなり25議席を獲得し、世間を驚かせた。
  会員の増加という勢力の着実な伸張とともに、戸田が成し得なかった衆議院進出を果たしたという実績を背景に池田は、創価学会内部における絶対的な権威と権力を掌握。「戸田先生が出来ないことを私がやったのだ!」と有頂天となり、年来の夢想だった「天下取り」に向けて前進を開始した。
  昭和55年に創価学会から造反した池田のゴーストライター部門(特別書籍部)の責任者だった故・原島嵩元教学部長は、生前、「水滸会遺戒置文二十六箇条」は、池田の指示で、副教学部長だった佐久間昇が「水滸会記録」を、池田の意志に沿うものへと改変したものである旨、発言している。
 実際、創価学会の外郭印刷会社のひさご印刷の原稿用紙に書かれた「水滸会遺戒置文二十六箇条」には、池田の指示によるものと見られる加筆・修正跡があることから、おそらく池田は、自らの「天下取り」の野望を達成するために、「水滸会記録」を「水滸会遺戒置文二十六箇条」へと改変したのだろう。そしてその際に、自らの積年の野望である「天下取り」や衆院への進出を戸田の意志によるものと位置づけたものと推測される。
 だが得意満面の時、人は得てして躓き、高転びする。組織内における絶対的な権威と権力を把握したことで創価学会内部に批判者のいなくなった池田は、「天下取り」の阻害要因となる外部の批判者をも駆逐しょうとした。その結果、生じたのが言論出版妨害事件だった。
 言論出版妨害事件は、創価学会・公明党に対する厳しい社会的批判、政治的批判を招いた。特に憲法が規定する言論の自由や出版の自由、さらには政教分離規定への抵触が大きな問題となった。昭和45年5月3日、池田は創価学会の第33回本部総会の席上、言論出版妨害の事実を謝罪すると同時に、創価学会と公明党のいわゆる政教分離を宣言した。これによって池田の「日本乗っ取り計画=天下取り」のテキストである「水滸会遺戒置文二十六箇条」は永遠に出版の機会を失うこととなったのである。
 その「水滸会遺戒置文二十六箇条」の存在が世間に明らかとなり、注目を浴びたのは、前述の原島が、昭和54年に創価学会から造反した際に持ち出して公表した資料の中に同文書が含まれており、しかもその内容が、池田大作による「日本乗っ取り=天下取り」のテキストだったことによる。
 前述のように「水滸会遺戒置文二十六箇条」は、池田の手によって改変されているものと見られるが、同文書には「水滸会」における戸田発言の趣旨が色濃く残されていることは確実である。その意味で、戸田・池田の二代の会長にわたる政界や官界さらにはマスコミ界等に対する基本的な概念や姿勢が投影されていることは間違いない。
       ---------(320P)-------つづく--

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