創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

サヨナラ.私の池田大作-13

2016-10-22 09:12:44 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社 
    ------(69P)---(以下、本文)-------

5・立てば折伏、座れば題目、歩く姿は菩薩様    菊池教子
     大経寺信徒
     鳥取県出身
     昭和二十一年十一月二日生まれ
     学会元役職地区担当員
     駒沢学園卒業(昭和三十九年)
<2-1>
◆ 私の幼少時代
 私は、鳥取県で生まれました。母方の先祖はかなり前から神主の系統だったようです。
 何故か周りには精神疾患の人が多く、私も三歳の頃からその影響を受けたようで、とても神経質な子どもに育ち、家族も手の付けられないほどの癇癪持ちだったようです。ちょっとしたことにも紛動され、自分でも制御できなくなるのです。
 家族は両親と兄と私の四人で、私の病は家族の悩みの種だったのです。

◆ 入信で得た初心の功徳
  私の入信は昭和三十六年、中学三年の時でした。母は先に入信していましたが、活動には参加していませんでした。幼少時から精神的な病を抱えていたため、授業の内容を十分に理解することは難しい状況でした。
 しかし、初心の功徳というのでしょうか、私の学力ではとうてい合格は無理と言われた高校に入学することが出来たのです。嬉しさがこみあげてくると共に、純粋にこの信仰の素晴らしさに感動しました。
 それからは、担任の先生、クラスメートに、御本尊様の功徳をお話し、折伏を実践しました。御蔭で学校中の人たちから“創価教子”さんと呼ばれました。
 禅宗系の高校であったため、ある時、担任の教師から学校内で折伏をしてはならないと注意されましたが、御本尊様の偉大なお力、自分の体験したこと、喜びを語らずにはいられませんでした。
 折伏の偉大な功徳により、家族も諦めていた私の精神疾患が、いつの間にか影を潜め、早口でおしゃべり好きな女性へと変化していったのです。日々変わつて行く私の姿を見て、信心に反対だった父と兄も入心することができました。

◆ 創価学会発祥の地で学会活動
 私の実家は、創価学会発祥の地である東京の品川区上大崎にありました。周りは大幹部ばかりで、白金台町の戸田会長宅はすぐ近くでした。戸田家のお手伝いさんとも仲良くなり、奥様の幾子さんとも言葉を交わす機会があり、戸田先生に対しては自然に尊敬の念を抱いていきました。このお手伝いさんは、現在、法華講員になっています。
 一家全員で信心するようになった私の家は、学会の拠点となり、毎日大勢の人たちが出入りしており、活気のある組織になっていました。
 高校卒業後は大手町のある会社に勤め、学会活動を中心とした楽しい青春時代を過ごしました。
 二〇歳の時、区長を拝命し、やがて総本山大石寺を清掃する“白蓮グル-プ”の一員となり、任務に当たっていました。ある時、本山内を清掃していると、池田大作氏が傍を通りながら、「信心根本に幸せになりなさい」と言つて頭を撫でられたことを思い出します。
 正本堂の御供養の際には、当時住んでいた目黒から渋谷駅までの交通費を浮かせ節約して貯金し、御供養させていただきました。

◆ 学会活動を一生懸命に実践
  昭和四十九年に結婚してからも、学会活動に励み、常に結果を出していました。例えば、選挙活動の折には、個人で二〇〇名以上のF票(外部の友人知人の票)を獲得し、その中の人たちに聖教新聞を啓蒙し、三〇部以上の購読となりました。地元駅では駅員さん全員に公明党の支援者になってもらい、積極的に地域で活動していました。
 また座談会の出席率が常に高水準であったため、あちこちで活動発表をしたり、更に、元気のない組織に派遣されたことも度々ありました。活気がなく聖教新聞の啓蒙や創価新報の購読の悪い地域を駆けずり回って、組織の人々が元気になるよう激励していきました。
 こうして身を粉にして活動できたのは、初心の功徳により高校に入学できたこと、また精神疾患を克服できた体験を通して、御本尊様の偉大なお力と功徳を確信できたからだと思います。

◆ 本部職員の兄のこと
 私は兄と二人兄妹で、兄は大学卒業後、聖教新聞社に入社し、当時は池田大作氏を心から尊敬して働いていたようです。
 兄が本部職員なので、地域の学会員からは随分と羨ましがられました。それは池田氏と近いところにいて、広宣流布のお役に立てるという憧れみたいなものでした。
 兄は聖教新聞の出版総局に所属しており、主に都内の書店周りなどを担当していました。池田氏の書籍や小説『人間革命』をコ-ナーに置かせてもらうのが仕事だったようです。
 ところが、あれほど池田氏を尊敬して本部職員になった兄が、徐々に池田大作と距離をおき始め、職員をやめる機会を窺っていたなんて私には知る由もありませんでした。後日、兄から聞いたのですが、「言論出版妨害事件」の時、上司からの業務命令により各書店を回り、藤原弘達著「創価学会を斬る」の書籍を置かないようにと圧力をかけていったとのことです。一連の創価学会の反社会的な行為に対し、池田の欺瞞性や創価学会の体質に心の底から憤りを感じ、また当事者として関わったことへの反省からだったようです。
 詳しい経緯は、この本の「コラム」に本人が書いていますので参考にしてください。

◆ 学会をなかなかやめられず
 平成三年、学会が御法主日顕上人猊下の退座要求署名を始めました。私たち夫婦は地区幹部、支部幹部として、署名運動に狩り出されました。しかし、兄から割価学会や池田の行状を聞いていた主人は、署名活動に対して積極的ではありませんでした。
 先に脱会していた兄から、「退座要求署名などすると地獄に堕ちる。一日も早く学会をやめ、日蓮正宗に戻るように」と厳しく破折されましたが、私は組織の人間関係があって、なかなかやめられずにいました。

◆ 突然の病気、そして脱会
  このあと、それまで健康だった私が、原因不明の病気になりました。
 あれほど学会活動を積極的にやっていた私が、やる気が全く起きないのです。精神的にも追い詰められていたのかもしれません。悩み苦しんで学会本部へ指導を受けに行きましたが、「池田センセ-を信じてついていきなさい」とのことでした。
 病気で苦しみながらも活動する私を見兼ねて、主人が大経寺に相談に行き、「大日蓮」等の書物を頂いてきました。主人と私は、池田の言うことと、日蓮正宗の言うことを冷静に判断し、身近な兄の後押しもあり、漸く平成三年十一月、家族全員で脱会することができました。
 脱会してすぐのこと、私の勤めるスーパーの駐車場に右翼の街宣車が来て、「お山が悪い、お寺が悪い」などと騒ぎ、立ち去って行きました。法華講に入講後、不思議なことに原因不明の病気など身心共に良くなったのは、御本尊様のお陰としか考えられません。
 このころ、法華講の方々のお話がすべて新鮮に感じられました。
       ---------(75P)-------つづく--

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