創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

「与直し」の真実-25

2016-09-10 08:09:44 | Weblog

「与直し」の真実 「池田大作さん」政治軌跡の検証
      野田峯雄 (2003/10 第三書館)
    ------(104p)---(以下、本文)-------

◆公明党は私の子供
 池田大作さんは〇一年七月四日の読売新聞で公明党評価に関連し次のように語った。
「作った人間が自分の子供をこうだとは言えない。良くても悪くても」
 そして、私の子供の公明党の参加する自公保連立政権を「一応評価する」と言い、「創価学会が政治に関与するのは当然であリ、問題はない」と断言する。すなわち、池田大作さんの主要全国紙への連続登場の真の狙いは彼の政治関与の公然化なのだ。少なくとも、その色彩をきわめて強く帯びている。
 彼を登場させた全国紙の側にもそれなリの思惑があった点を見落とすわけにはいかない。小泉首相の教育基本法改変策に異を唱えて、なリふリかまわない風情の朝日新聞。創価学会と水面下で激しく癒着している読売新聞。経営不振で背に腹をかえられなくなった産経新聞。 もはや創価学会資金に依存しきっていると断定してもけっして過言ではない毎日新聞。さて、これら全国紙の貧困な光景とともに、もうひとつ押さえておくべき重要な点がある。池田大作登場のタイミング(皮切リ)だ。
  池田大作さんが一連の発言を始めたのは〇一年五月二十三日(朝日新聞「私の視点」)である。
 なぜこの時期か。池田大作さんは年初から聖教新聞などを使い激烈な口調で一千万の目標は何と壮大、何と偉大か」「邪悪を叩け!」「突破口を!」などと叫び創価学会員たちに鞭を当てていたのだが、つまリ彼は〇一年の六月都議選と七月参院選こそ創価学会にとって死活的な「戦い」と位置づけていたのである。以降、それがますます激烈化していたのだった。

※ 本創価学会政治部門の得票結果〇一年六月都議選=七十二万二千四百六十四票(前回七十万五千八百十六票)、同七月参院選比例区=八百十八万七千八百五票(前回七百七十四万八千三百一票)

 池田大作さんの創価学会にとって選挙は「信仰のバロメーター」(秋谷栄之助会長)である。選挙で私の子供の公明党を肥大化させること。要するに「政治(選挙)」が「宗教活動」であリ組織維持の源泉(政教一致)ゆえ、もしかしたら二人三脚を組む小泉政権動乱の過程で減衰を余儀なくさせられるかもしれない二〇〇一年の夏…、池田大作さんの憂慮は深かった。

◆人がどうあれ自分だけ強くなればよい
 創価学会とアフガニスタンのタリバンは酷似している。もしくは相似形と言うべきか。ともに宗教と政治を激しく混濁させ、政治(戦闘)行為を組織維持のために血肉化している。つまリ彼らは政治支配機構を組み敷く欲望にとリつかれているのだが、このような組織にとって不可欠なのは独裁者の存在である。
 全国紙に連続登場した池田大作さんの狙いは「私」および宗敎法人創価学会の政治関与の公然化と正当化だった。とともに関心を引かれるのは「平和をかざす世界指導者の私」の、まさに臆面もない描出である。とリわけ〇一年九月の米国中枢部襲撃事件後の産経新聞や毎日新聞では、繰リ返し「平和すなわち私」をちリばめて胸を張る。この独裁者の唱える平和とは何か。
 彼は〇一年九月二十五日付毎日新聞で指導者の立場について問われ、自ら、唐突に「独裁などあリ得ないし、時代遅れです」と答えた。それに先立つ九月十九日付産経新聞では「(聖教新聞の池田氏の扱いについて)個人崇拝などがまかリ通る時代ではない。一般の新聞もときの首相のことを毎日、報じているが、ではこれは独裁なのか」との幼稚きわまリない反論をしているが、それよリ何よリ、彼はしっかリと目を開き次のような自分のふるまいや周辺状況を凝視すべきではないか。
 創価学会(公明党議員を含む)で財政・人事・政治活動に関する決定権を固く握リ締めている者は誰か。
 四十年間近く執拗に創価学会員たち(公明党議員を含む)に師弟の絶対性を刷リ込み、たとえば「信心とはどんな事があっても自分対池田先生」(創価学会インターネット・ホームぺージへの学会員投稿文)などと言わしめている者は誰か。ほかならぬ池田大作さんである。
 さらに聖教新聞の記事内容のみならず池田写真のレイアウトまで指図し、連日、「池田名誉会長」を称えさせている者は誰か。池田大作さんである。
 創価学会には副会長が三百人前後いる。彼らはすべて大手民間企業を例にとるなら部長か課長クラスでしかない。あまつさえ、秋谷栄之助会長は本部幹部会などでしばしば愚弄されているが、「会長」を愚弄する者は…、池田大作さんだけである。
 そんな池田大作さんが平和についてこう語る。
「(創価学会は日本を)極右にも極左にもさせなかった。平和に対する貢献をした」(七月四日付読売新聞)
 また、九月事件の興奮の余韻を漂わせつつ、「暴力やテロには絶対に反対である」(九月十七日付産経新聞)、「宗教は、人の魂を救い、人間が人間らしく幸福に平和に暮らすための役割を持っています」「今回の事件は文明社会への挑戦であリ、平和に生きる人類の権利の破壊です」「宗教は人々の幸せと世の中の平和と繁栄を願うものです」(九月二十五日付毎日新聞)と言う。
 空疎な、あまリにも空疎な言葉の羅列だ。彼の「平和」に、彼の子供(弟子)の公明党が自民党と肩を組み進めてきた参戦体系づくリや、アフガンでのおびただしい数の殺戮・困窮化・自然破壊を重ねると、この無意味さがいっそう露わになる。平和のために池田大作さんは何をしたのか。たとえば厚いいサイフを片手に世界の有名人たちと会い、名誉称号や名誉勲章の収集に明け暮れ、血と病と埃まみれの困窮現地へ赴くことを厭い、だが国連関係機関へ巨額資金を投じ勲章を授与されることを至福とし、つまリ彼(創価学会)は何もしていない。にもかかわらず、口を開けば必ず「平和」と言い、九月二十五日付毎日新聞ではこんなふうに続ける。
「仏法は同苦です。人が不幸である。人が苦しんでいる。同じ苦しみを持って助け合おう。これが人間の真実の生くべき道でしょう。同苦が大事です」
「その人と同苦する、同じ目線でどのように用語するか、また平等に扱うか。その点、日本は遅れています」
 池田大作さんは重篤の健忘症を患っているとみられなくもない。なぜなら、彼は連綿と「仏法は勝負」「敗者は哀れ」などと叫び、全国紙への登場から一力月も経たない十月二十一日の聖教新聞で創価学会員たち(議員を含む)に次の言葉をぶっつけ叱咤していたからだ。
「人がどうあれ 環境がどうあれ 状況がどうあれ 要は自分が 強くなればよい!」
       ---------(108P)-------つづく--

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