陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

映画『インビジブル』

2008-11-08 | 映画───サスペンス・ホラー
&kind

人間が血の詰まった皮袋だったらいいのに、みたいなことを言ったのはカフカだっただろうか。
皮膚のしたに隠しているものが、ほかの動物並みに単純に血とか、筋肉とか、臓器とか、骨だけだったらいいのに。人間はまったくそうではなくて、姿を消そうとするほど、それが色濃く現れてしまうのである。
ひとの視線や勘はあんがい敏感で、社会はしたたかに善意のリトマス紙を用意して、ほんのささいな憎悪すらあぶりだそうとしてしまう。黒い気持ちはどこかに残っていて、それだけを見えないようにする薬だけは残念ながら開発されていない。だから、人間は見た目よくひとに美しく映る術を研究してきたのだった。もしひとを透明にする薬が開発されたら、たちまち美しいものが減り、芸術はすたれ、醜いものばかりが跳梁跋扈するに違いない。醜さは落とせない、削れない。薄めて軽くしておくことができるだけだ。


金曜ロードショーでやっていました映画『インビジブル』、理科室にある人体模型みたいなCGが嫌で流し見ていたのですが、それでも最後まで観てしまったのは、ひとえに声優陣に惹かれるがゆえ。
主役のマッドサイエンティストに安原義人氏、そしてヒロインの科学者には田中敦子さまを起用!敦子様ですよッ!(落ち着きなさい、私)安原氏は『キャッツ・アイ』とか『北斗の拳』で親しんだ渋いけれどどこか三枚目なお声が素敵。敦子様はほんとに色香のある才女役がよく似合いますね。じつはうっかり最後のクレジットで確認するまで気づかなかったのです。ひと言ふた声耳にしただけではすぐには誰とはわからない声なんですが、いつもどこかで聞いたことある声だなって思って、ふしぎと落ち着いて響いて耳に心地いい声だったりする。

さて、物語の筋書きのほうですが、これはとくにひねりもなくて。
以下、ネタバレありです。ばらすほどの仕掛けもないのですが。

透明人間になる薬を開発した天才科学者セバスチャンが、しだいに凶悪化し、最後に自滅するというストーリー。かのH. G. ウェルズの『透明人間』を下敷きにした構想でさして珍しくもないのですが、皮膚、筋肉、骨と透けていく過程のCGのつくりこみはさすが。
ちなみに開始三〇分間を見のがしたため、ケヴィン・ベーコン演じる元の姿をまったく見ないままだったので気づかなかったのですが、『アポロ13』に出てたあの人だったんですね。たしかにあれは悪役顔だ(苦笑)

みずから実験体になったが、身体を復元できる薬の開発に失敗し、自暴自棄になった男の悪事がどんどんエスカレート。ついには同僚を殺害するにいたるわけですが、直接の原因はヒロインが科学者の助手マットに情を移したことへの怒りだったわけで。政府に無届けの極秘の研究であったことを知るのは三角関係の男女のみで、その痴情の縺れにまきこまれて、始末されてしまうラボの他のメンバーがかなり可哀想でした。だって原因をつくったふたりは生き残ってしまうんですよ。このヒロインが主人公をモルモット扱いしたりしなきゃ惨劇はおきなかったわけだし。
あと、脇腹に深手を負って倒れていたのに最後になっていきなり平然とヒロインのピンチを救う助手とか。アンア、傷どーしたの? 仙豆でも喰ったんかい?って突っ込まずにはいられませんでした。

ただ映像的にはかなりよろしかったですね。透明化した人間とバトルするためにどうやって可視化させていくとか。ヒール役だから仕方ないのかもしれないんですが、主人公の男の生涯透明なままで過ごさなきゃいけないことへの絶望がもっと深く掘りさげられていたらよかったと思うのですが、テレビなのでカットされていたかもしれません。

にしても『LOVERS』(レヴューはこちら)でもそうでしたが、恋に破れた男(女でもそうですが)の復讐劇ってすさまじいものがありますね。透明人間ということが主題というよりも、男女の愛憎劇を主軸として、あくまで透明化する設定は手段としてとどめておいたほうがよかったかもしれません。つまり計算違いで透明人間になったままもどれない科学者の狂気、ではなくて。才能があるのに、恋人の心変わりに苦しむ科学者が、二人の逢瀬を覗くために手を出した禁忌の薬で、さいしょは簡単に戻れていたのに戻れなくなってしまうとか。いっそのことヒロインを主人公にして正体がわからない不可解な現象に怯えることで恐怖感をかきたてるとか。(それもベタかもしれないが)
ま、スリラー物に複雑なプロットをもとめること自体がどだい無理なのでしょう。考えさせる伏線を張ると、流れが悪くなってしまいますし。

誰しもいちどは透明になりたい。他者の視線の監獄から自由になれたいと願うもの。
しかし、人間というものは肉の衣を剥がされると、剥き出しの悪意が暴れはじめる。キャッチコピーの「姿は見えないが、殺意は見える」はまさに言い得て妙。見えないことにあぐらをかいて欲望をあからさまにしていると、いつか存在そのものまで消されてしまうのです。
存在の半透明化というのは、まさしく匿名の電子社会において実現されているのです。ネットのコミュニティでときにひとの悪意が暴走してしまう大量インビジブルネットワークへの警醒のドラマではないかとも思えるわけです。

ところで科学的には、透明化しえたとしても網膜まで消えるので光りがとらえられず眼が見えなくなったり、胃のなかの食べ物がまる見えになったりするわけで。だとしたら、自分の身体にほんらい属さないもの、入れ歯とか心臓のペースメーカーなんかも見えてしまうんですよね?透明になったまま血や涙を流したら、それも透明なんでしょうか?物質の光りの屈折率を変えるわけだから、色かたち以外の他の物質の特質は残るわけですよね。香ばしいインビジブルな排泄物とか(想像しないでください)
そして、姿が見えなくなったとしても、着ることになれた現代人がつねに全裸でいることのストレスは大きいわけで、そうした萎縮した精神状態から犯罪をしてもいつかボロがでてしまう。また逆に自分を認識させるために、服を着なきゃいけない。
そう言えば日本にも昔っから透明人間の話ありましたね。天狗の隠れ蓑を奪う吉四六さんの話とか。
敦子様つながりでいえば「攻殻機動隊」に周囲の景色にとけこむカメレオン効果のようなスーツ、光学迷彩があるそうで。

ところでこの日、深夜にマイ・ベスト・シネマのひとつ『コンタクト』(拙稿「エイリアン Not Found ? ─映画「コンタクト」評─」を参照)が放映されていまして。やはり途中から観たのですが、DVD版と声優が異なっていたり、邦訳台詞がいちぶ変えられていて、楽しめませんでした。妙にカットされてしまったせいもあるけれど。この映画は名画だと思いますので、できればゴールデンタイムに完全ノーカットで放映してもらいたいものですが、あまり見かけませんね。内容が哲学的すぎて視聴率がとれないせいでしょうか。なお、とくに終盤のアロウェイ博士が異星人とコンタクトするあたりからは字幕で俳優の地声で楽しまれることをおすすめします。今回のテレビ版邦訳ではダブルミーニングにしてある単語のニュアンスがまったく伝わっていなくてがっかりでした。

【掲載画像】
M. C. エッシャー『和合の帯』(1956年)リトグラフ


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