また懐かしいひとを夢にみた。こんな日はよけいな情報は、つとめて封じておきたくなる。煩瑣なイメージでその姿が消えないように。安んじた声を出して、夢のくちびるから読んだ言葉がうすらぐことがないように。世の中の雑駁な音の群れにまどわされないように。
だが、こんな日でも最近ことに狭くなった目が許してしまえる映像がある。きょうは、そんなお気に入り実写映画を紹介しよう。
一九九六年に公開された映画「コンタクト」は、長年私を魅了してやまない愛すべきシネマのひとつである。友人に誘われるままに劇場鑑賞し、パンフレットまで買い、原作小説はむさぼり読んだ。宇宙科学への関心を即座に花ひらかれてしまった記念碑的作品といえよう。名作とは世事の評価にあらず。(もっともこの作品を好意でむかえる御仁は多いけれど)その感動をただ一作のみにとどめずに、関連作品へと好奇心の輪をひろげさせてくれる、知の磁力がはたらくものなのである。エンドロール前にあらわれる "For Carl" がこの映画の完成を待たずして病に倒れたカール・セーガン博士への献辞だと知ったとき、制作スタッフの熱い想いがしかと胸にきざまれた思いがした。
この物語は、地球外知的生命体の探査(SETI)になみなみならぬ情熱を燃やす、女性科学者エリー・アロウェイ博士が、自分の信念を曲げず、さまざま辛酸を舐めながらも宇宙に旅立って未知との遭遇を果たす、スペースドラマである。
初見とうしょは宇宙映像の美しさと、伏線のめぐらし方、そしてなにより主演の演技派女優ジョディ・フォスターの熱演に目をうばわれていた。簡素な身なりで知的探求にいどむ科学者。かと思えば、イヴニングドレスに着替えて華やかに場を飾ってみせる。最初は顔いろの悪く、眉宇をふきげんにした扱いにくそうな顔をしていたが、話がすすみ、彼女の熱意にのって事態がすすみにつれて、肌つやが輝くようにみせている。万の役をこなしてきたジョディは、ひとりの女を演じても、こういう百様千態の演じ分けがうまいのだろう。
そのときはただ、純粋に娯楽として楽しめていたのだと思う。作中語れられる壮大なテーマ、「なぜ我々はここにいるのか、我々は何者なのか」という問いは哲学的示唆をはらみ、私をひときわこころ魅してくれた。だが、数年後、この映画は私にとっては別の意味をおびてくるようになった。
およそ、ご都合主義的な展開と、派手なアクション、爆発と恋愛という要素を、宇宙を舞台としてふんだんにもりこめば成立してしまいそうなのがSF映画。宇宙という人類のアウトゾーン、いまだもって認知のてのひらが届かないその場所は、まさに緊迫感を煽ってみせるにはうってつけ。それは歴史に材をもとめながら、もしもの感覚で味つけされた史劇とおなじくらいの、まやかしがある。
だが、この物語を「サイエンスフィクション」──それはヒロインが、自身のヴィジョンを評して企業のCEOから投げつけられ、憤りを隠せなかった言葉である──と冠するには、いくわりかの注意を必要とする。なぜなら、この映画には巧妙なリアリズムがしかけられているからである。
さかんに挿入される現実映像がそれである。
異界からのメッセージ受信のニュースを、実際のCNNのリポーターを出演させて報道させてみたり、ラリー・キング・ライブやクロスファイアといったニューストーク番組を潜り込ませている。
また、クリントン大統領の演説フィルムや、三六年のベルリンオリンピック開会式の映像が使用されている。前者は、あたかも登場人物とおなじ空気を吸ってしゃべっているかのようにみせかけているので驚きだが、この使用にあたってはクレームがついたようだ。ともあれ「ロジャー・ラビット」で実写とアニメーションをいかんなく融合させてみせた、ロバート・ゼメキス監督の合成術が冴える。またじっさいの全米科学財団が運営する天体観測施設を借りてのロケーション、CGとは思えない宇宙移転装置の精巧なつくりなど、リアリティの追求には手抜かりがない。
監督の弁によれば、テレビのモニタやコンピューター画面がうつしだされ、緊迫感をたかめているとのこと。すなわち、宇宙人からのコンタクトをうけたということがメディアを流れることで、事実となるというメディア社会の戦略をものしているわけだ。映画という絵そらごとの出来事であるのに、現実味を色濃くさせ、あたかも起こりえたドキュメントのように思わせる効果は、のちにエリーが体験したミステリーと対比的な様相をなしてくる。
エリー・アロウェイは、証拠のないものは徹底的にしりぞけるというラディカリスト(合理主義者)であった。が、彼女がおいもとめていたもの、すなわち地球外知的生命体との交信という途方もない野心こそは、頭のお固いお偉方には、夢見がちなお嬢さんの妄想なのだと一蹴されてしまう。設備の予算を削減されても、なんとか資金融資をさがしあて、メッセージ受信に成功。が、政治的思惑や、神の存在を信じないことを理由に宗教家の恋人パーマーにも阻まれて、宇宙へとぶ夢を断たれてしまう。地球上の九五パーセントの人類が神を信じているのに、無神論者をわれわれの代表として送り出すわけにはいかない、というのだ。そして、そもそも彼らは地球外知的生命体の存在をあやぶみ侵略者と決めつけてさえいた。おそらくは聖書に異星人の記録がないという理由で。なんたるクリスチャニズムかと気色ばんでしまう。が、じっさい、科学者の半数以上は神を信じているというデータがあり、かつ、立花隆の著作『宇宙からの帰還』に詳しいが、NASAの宇宙飛行士でも引退後に神父に転向した者も多くいるのだ。人類の五パーセントに属する人間こそが、歴史上つねに画期的な発明をし、天才的なひらめきでもって文化や科学技術の新路をひらいてきたというのに、多数派をきどる連中がその萌芽をつぶそうとするのである。メディアに隠蔽されて師のドラムリン教授に手柄を横取りされたエリーは、さぞや悔しかったであろう。
だが皮肉なことに、エリーが乗り逃したポッドこそが悪魔の箱舟であったのである。その機が師ともどもカルト宗教のテロリストによって葬られ、意外な方向から彼女にチャンスが転がり込んでくる。
念願かなって第二のポッドに搭乗し、後述するように奇跡体験を得るエリーだが、残念なことにその神秘の十八時間は記録されていなかったのである。異星人との邂逅をとらえたはずの頭部にすえつけたカメラは、ただノイズだけを残していた。施設内の四三台ものカメラは何も映していないという結果をつきつけられ、色あせた唇をふるわせているエリーの顔のアップを、何重にも監視カメラが捉えている。莫大な資金と死者を出してまで推した計画がなんの成果もむすばなかったことに、各国の批難を浴びたアメリカ。国家はエリーをあたかも魔女裁判のように審問にかけて、その責めをひとり負わせようとする。裁きの場にたつ前に刷りこまれる大統領の公言シーン「事実だけを扱ってください」は、今やおそろしく残酷に聞こえる。精神錯綜か、はたまた計画の出資者と共謀した狂言かと、するどく詰問されてしまうエリー。幻覚であったかもしれないと主張をゆるめたうえで、けれども涙に光らせた強い瞳で彼女はこう叫ぶ。
このとき浮かんだ涙は、窮地にたたされた惨めな自己を憐れんでのものではないだろう。おそらく、美しい感動を思いおこし、感極まっているという表情だ。そして、それを物証として示せないという科学者精神からくる純粋な無念さ。このとき背景の聴衆は肌いろの色班と化しているいっぽう、エリーの顔だけクローズアップして、その迫真のフェイスヴァリエーションを余すところなく捉えている。このモーメントの映像のよさは、作中にしばしば引用されたやや画質の劣る大統領や報道キャスターたちの映像と見比べてみれば一目瞭然。この演出によって観る者に、彼女の証言の信憑性をふかめさせているのである。そして、これにさかのぼること以前の、ヴェガ星雲のなかでしかと眺めた星空へむけた、歓喜にうちふるえた表情も見のがすことができない。
「わたしの全存在が告げている」との口述は、こういいかえてもいい。ひとは自分が美しい、すばらしいと感じたものを、証し立てもしないが、真実にしたがるのだと。マスメディアの伝えるものが必ずしも正しくはない、あの人類が月の大地に降り立った映像ですら捏造だという疑惑がもちあがっている今、人間は信念をどこにおくべきか。そういう単純だが、明確な問いを発しているように思われる。
折りにふれドキュメンタリー要素を混ぜ込むいっぽうで、適度に現実の便宜から外れたことをおこなって、映画とはていのいい娯楽なんだよ、というお茶目な遊び心も忘れてはいない。かなり日本人の苦い笑いをそそった事柄であるが、この映画にはしばしば奇妙に本尊をゆがめられたジャポニズムが登場する。二体目の時空間移動装置が建造されていたのは、なんと北海道。スポンサーのハデス氏に招聘されて、ポッドの乗員に抜擢されたエリーの控え室は、いかめしい和風づくり。床の間らしき空間に、椿の活け花、鏡餅(!)、破魔矢、草履が並びおかれ、掛け軸が壁にある。部屋奥には南部鉄瓶と、あきらかに西洋のキャンドルというより、神道でつかうような白い蝋燭が二本ならぶ。そこで待機するアロウェイ博士のいでたちは、白いバスローブというよりはどうみても経帷子。
またいざポッドに乗り込む際の背後からついてくる日本人の案内役ふたりは、黒いヘルメットで黒づくめの衣裳。ひと言ももの言わず、去り際で上目遣いに伺うようにお辞儀するという技術を、エリーもマスターして返礼してみせるのが、まったくおかしい。アメリカの企業がプランを練って、日本の下請け会社に製造をまかせたという説明は、日米関係を揶揄したものとみるべきだろう。むこうのお国には、ジャパニーズは仏頂面して得体の知れない薄ら笑いをうかべている民族に映っているのであろう。隣国の呆然とする無理解ぶりというよりは、こそばゆいジョークなのだと、私は感じている。
SFの醍醐味は最先端の科学知識をふんだんにつめこんで、知的欲求をあおり真実味をくわえることにある。地球外知的生命体からのメッセージが素数をつかった暗号電報であることや、ワームホール時空間移動のアイデアは、原作者の著名な天文学者セーガン博士が行動に起こした宇宙計画や、著作で展開させてきた仮説にもとづいている。したがって、エリーの行動は、現実には理論的には正しいと太鼓判を押されてはいるものだ。だが監督は、原作者の要請するあまりに専門的な技術情報はたくみに廃して、科学にうとい一般人でもぞんぶんに楽しめるエンターテインメント性を重視したのである。そして、それはみごとに成功しているといえるだろう。事実に史実をおりこむ手腕もさることながら、よくある類型化されたエイリアンを描かなかったことが、「いかにも、もっともらしい」という、つくりもの以上ほんもの未満な、虚構がギリギリちかづく現実性を保っているのである。
しかし、この物語のいちばんのリアリティというのは、なにより、生臭い人間ドラマがあるということであろう。純粋に異世界の住人との交流を求めたいという女性サイエンティストの想いは、老獪(ろうかい)な権力者にふみにじられ、不愉快な国家機密の番人に阻まれ、爽快に恋心をいだいた宗教家とは一時的な袂をわかち、巨魁なる資本家にはやや野心的に修正利用されていく。こうした苦難にあえぎながらも、真摯な研究意欲を忘れなかったエリーはついに華々しいシートを手に入れるが、それは徒労に堕してしまうものではあった。この結末に、従来の勝ち負けはっきりしたSF大作的カタルシスを望んでいた観衆はさぞや肩を落としたことだろう。およそ数年来の研究が無に帰し、スキャンダルにまきこまれたあとで、最終的には静かな辺境施設に舞い戻っている。
だが、彼女は確実に真理を得たのだ。そして、それはおそらくは、巨大な資金と装置でもって遠い彼方に飛ばされるようなふしぎを経ずとも、ひとが日常なにかの拍子にふと目覚めるような人生の意義だったにちがいない。
この作品タイトル「コンタクト」が意味するところは、地球人と異星人との接触、ただそれだけではない。エリーは自分の信条のためには己を曲げない女性で、空の果てからいつともなしに届く宇宙の声に耳そばだてながら、周囲からは煙たがられ、そして彼女みずから遠ざかっていた。神のご意向を無視したその研究は、同業の科学者たちのみならず、宗教団体からも批判のつぶてを投げられる。そんなコミュニケーション不全(厳密を記すならば、ひとを選んで対話するという狷介な性格)な人間が、自分の種をこえた未知の領域人とコンタクトを図ろうなどとは無理からぬこと。
エリーの孤独な妄想癖はその子ども時代にさかのぼることができた。
エリーの体験した十八時間。そこで見たものは、科学的に立証するならば彼女の幻想が呼んだ奇跡であったといえようか。幼い頃に行きたかった浜辺、そして亡き父の姿を模してあらわれた異星人。ひとときではあるが、天涯孤独の身となっていて誰にも埋められなかった彼女の寂しさが、その人物に抱きとめられていやされる。父親を亡くした日、いつもは異星人に応答せよと語りかけた無線機に、彼女は必死にパパ、パパと呼びかけていた。異星人は少女の潜在意識に二十数年後に答えてくれたのだ。これが奇跡でなくてなんだといえるのだろう!こう言ってよければ、死とは終わりではなく、認識のおよばない次元への帰りの約束されない旅路のことだ。未知の生命体は諭す。別れの悲哀は孤独を生むが、それはお互いの存在でいやされるのだと。そして長い時間をかければ、また会えるのだと。
物語ラスト、政府の調査員会の尋問をおえてホワイトハウスから出てくるエリーを、官邸前をうめつくす民衆が歓喜と敬愛の表情でむかえてくれる。証拠はないが自分の信じるところ貫いた科学者の意思表明。それは神を信仰するにも等しい行為でもあった。五パーセントに属する奇人が、九五パーセントの人類に喜びでうけいられた瞬間。それこそ、まさに主人公の手にした偉大なコンタクトであったといえるだろう。
劇中くりかえされる「地球人だけだと宇宙(スペース)がもったいない」という台詞が、最後に「地球人だけだと空間(スペース)がもったいない」といいかえられているのも、主人公が自身のよって立つ世界にアンテナを向けはじめた証左なのである。
あまりに高みの空を望み、光りを求めすぎて、多くの声が潜んでいる足もとの草むらに耳をかたむけない。そんな愚を犯しているのだと言われている気がした。二十四時間真昼と化した感のある文明社会でますます遠くなったむかしの夜空を懐かしみながら、私は思う。果たして宇宙人がいるとしても、彼らは我々のサーチに見つからないようにうまく棲んでいるのではなく、我々のほうが交信を拒んでいるのではないだろうか。エイリアンとは、まさに既知でありながら見知らぬ者にしたてられた存在の謂い。手軽に、はやく、安くを求める消費メディア社会が、お互い人間を、ないしは生命連鎖でつながっている地上の存在を、知的な異邦人にさせている。映画冒頭のひきこまれるような、少女の心的世界の深さと、何億光年も先の宇宙の果てとがつながっているというトリックは、いささか批判的に読むべきかもしれない。
この原案を世に送り出した故人は、いま、こと座のあたりでもさまよっているのかもしれない。その偉大な天文学者からのメッセージは遠い異境からの暗号を待つまでもなく、本を開けばいまにも届く。だが、はたして、いまだもって地球の外側に出ようとせず、ネットの声で多くとつながっているのだと欺かれながら、ひとりの殻にこもりたがる現代人が多い現象をみれば、どんな言葉を発しているのだろうか。電子の世界に耳をにぶらされて、私たちは彼の声をキャッチできていないのかもしれない。
【ネタのタネ】
【追記】
この記事は「ネタのタネ」レース二月第二週お題に応募し、優秀賞にえらばれました。こちらを参照。事務局の皆さま、ありがとうございました。
コンタクト(1997) - goo 映画
だが、こんな日でも最近ことに狭くなった目が許してしまえる映像がある。きょうは、そんなお気に入り実写映画を紹介しよう。
一九九六年に公開された映画「コンタクト」は、長年私を魅了してやまない愛すべきシネマのひとつである。友人に誘われるままに劇場鑑賞し、パンフレットまで買い、原作小説はむさぼり読んだ。宇宙科学への関心を即座に花ひらかれてしまった記念碑的作品といえよう。名作とは世事の評価にあらず。(もっともこの作品を好意でむかえる御仁は多いけれど)その感動をただ一作のみにとどめずに、関連作品へと好奇心の輪をひろげさせてくれる、知の磁力がはたらくものなのである。エンドロール前にあらわれる "For Carl" がこの映画の完成を待たずして病に倒れたカール・セーガン博士への献辞だと知ったとき、制作スタッフの熱い想いがしかと胸にきざまれた思いがした。
この物語は、地球外知的生命体の探査(SETI)になみなみならぬ情熱を燃やす、女性科学者エリー・アロウェイ博士が、自分の信念を曲げず、さまざま辛酸を舐めながらも宇宙に旅立って未知との遭遇を果たす、スペースドラマである。
初見とうしょは宇宙映像の美しさと、伏線のめぐらし方、そしてなにより主演の演技派女優ジョディ・フォスターの熱演に目をうばわれていた。簡素な身なりで知的探求にいどむ科学者。かと思えば、イヴニングドレスに着替えて華やかに場を飾ってみせる。最初は顔いろの悪く、眉宇をふきげんにした扱いにくそうな顔をしていたが、話がすすみ、彼女の熱意にのって事態がすすみにつれて、肌つやが輝くようにみせている。万の役をこなしてきたジョディは、ひとりの女を演じても、こういう百様千態の演じ分けがうまいのだろう。
そのときはただ、純粋に娯楽として楽しめていたのだと思う。作中語れられる壮大なテーマ、「なぜ我々はここにいるのか、我々は何者なのか」という問いは哲学的示唆をはらみ、私をひときわこころ魅してくれた。だが、数年後、この映画は私にとっては別の意味をおびてくるようになった。
およそ、ご都合主義的な展開と、派手なアクション、爆発と恋愛という要素を、宇宙を舞台としてふんだんにもりこめば成立してしまいそうなのがSF映画。宇宙という人類のアウトゾーン、いまだもって認知のてのひらが届かないその場所は、まさに緊迫感を煽ってみせるにはうってつけ。それは歴史に材をもとめながら、もしもの感覚で味つけされた史劇とおなじくらいの、まやかしがある。
だが、この物語を「サイエンスフィクション」──それはヒロインが、自身のヴィジョンを評して企業のCEOから投げつけられ、憤りを隠せなかった言葉である──と冠するには、いくわりかの注意を必要とする。なぜなら、この映画には巧妙なリアリズムがしかけられているからである。
さかんに挿入される現実映像がそれである。
異界からのメッセージ受信のニュースを、実際のCNNのリポーターを出演させて報道させてみたり、ラリー・キング・ライブやクロスファイアといったニューストーク番組を潜り込ませている。
また、クリントン大統領の演説フィルムや、三六年のベルリンオリンピック開会式の映像が使用されている。前者は、あたかも登場人物とおなじ空気を吸ってしゃべっているかのようにみせかけているので驚きだが、この使用にあたってはクレームがついたようだ。ともあれ「ロジャー・ラビット」で実写とアニメーションをいかんなく融合させてみせた、ロバート・ゼメキス監督の合成術が冴える。またじっさいの全米科学財団が運営する天体観測施設を借りてのロケーション、CGとは思えない宇宙移転装置の精巧なつくりなど、リアリティの追求には手抜かりがない。
監督の弁によれば、テレビのモニタやコンピューター画面がうつしだされ、緊迫感をたかめているとのこと。すなわち、宇宙人からのコンタクトをうけたということがメディアを流れることで、事実となるというメディア社会の戦略をものしているわけだ。映画という絵そらごとの出来事であるのに、現実味を色濃くさせ、あたかも起こりえたドキュメントのように思わせる効果は、のちにエリーが体験したミステリーと対比的な様相をなしてくる。
エリー・アロウェイは、証拠のないものは徹底的にしりぞけるというラディカリスト(合理主義者)であった。が、彼女がおいもとめていたもの、すなわち地球外知的生命体との交信という途方もない野心こそは、頭のお固いお偉方には、夢見がちなお嬢さんの妄想なのだと一蹴されてしまう。設備の予算を削減されても、なんとか資金融資をさがしあて、メッセージ受信に成功。が、政治的思惑や、神の存在を信じないことを理由に宗教家の恋人パーマーにも阻まれて、宇宙へとぶ夢を断たれてしまう。地球上の九五パーセントの人類が神を信じているのに、無神論者をわれわれの代表として送り出すわけにはいかない、というのだ。そして、そもそも彼らは地球外知的生命体の存在をあやぶみ侵略者と決めつけてさえいた。おそらくは聖書に異星人の記録がないという理由で。なんたるクリスチャニズムかと気色ばんでしまう。が、じっさい、科学者の半数以上は神を信じているというデータがあり、かつ、立花隆の著作『宇宙からの帰還』に詳しいが、NASAの宇宙飛行士でも引退後に神父に転向した者も多くいるのだ。人類の五パーセントに属する人間こそが、歴史上つねに画期的な発明をし、天才的なひらめきでもって文化や科学技術の新路をひらいてきたというのに、多数派をきどる連中がその萌芽をつぶそうとするのである。メディアに隠蔽されて師のドラムリン教授に手柄を横取りされたエリーは、さぞや悔しかったであろう。
だが皮肉なことに、エリーが乗り逃したポッドこそが悪魔の箱舟であったのである。その機が師ともどもカルト宗教のテロリストによって葬られ、意外な方向から彼女にチャンスが転がり込んでくる。
念願かなって第二のポッドに搭乗し、後述するように奇跡体験を得るエリーだが、残念なことにその神秘の十八時間は記録されていなかったのである。異星人との邂逅をとらえたはずの頭部にすえつけたカメラは、ただノイズだけを残していた。施設内の四三台ものカメラは何も映していないという結果をつきつけられ、色あせた唇をふるわせているエリーの顔のアップを、何重にも監視カメラが捉えている。莫大な資金と死者を出してまで推した計画がなんの成果もむすばなかったことに、各国の批難を浴びたアメリカ。国家はエリーをあたかも魔女裁判のように審問にかけて、その責めをひとり負わせようとする。裁きの場にたつ前に刷りこまれる大統領の公言シーン「事実だけを扱ってください」は、今やおそろしく残酷に聞こえる。精神錯綜か、はたまた計画の出資者と共謀した狂言かと、するどく詰問されてしまうエリー。幻覚であったかもしれないと主張をゆるめたうえで、けれども涙に光らせた強い瞳で彼女はこう叫ぶ。
「経験したのはたしかです。証明も説明もできません。けれど、わたしの全存在が告げています。あの経験はわたしを変えました。宇宙のあの姿に、我々がいかに小さいかを教わりました。同時に我々がいかに貴重であるかも。決して孤独ではありません。そのことを伝えたいのです。そして、あの畏怖の念と希望とを。そう願い続けます」
(台詞は邦訳字幕を参照)
このとき浮かんだ涙は、窮地にたたされた惨めな自己を憐れんでのものではないだろう。おそらく、美しい感動を思いおこし、感極まっているという表情だ。そして、それを物証として示せないという科学者精神からくる純粋な無念さ。このとき背景の聴衆は肌いろの色班と化しているいっぽう、エリーの顔だけクローズアップして、その迫真のフェイスヴァリエーションを余すところなく捉えている。このモーメントの映像のよさは、作中にしばしば引用されたやや画質の劣る大統領や報道キャスターたちの映像と見比べてみれば一目瞭然。この演出によって観る者に、彼女の証言の信憑性をふかめさせているのである。そして、これにさかのぼること以前の、ヴェガ星雲のなかでしかと眺めた星空へむけた、歓喜にうちふるえた表情も見のがすことができない。
「わたしの全存在が告げている」との口述は、こういいかえてもいい。ひとは自分が美しい、すばらしいと感じたものを、証し立てもしないが、真実にしたがるのだと。マスメディアの伝えるものが必ずしも正しくはない、あの人類が月の大地に降り立った映像ですら捏造だという疑惑がもちあがっている今、人間は信念をどこにおくべきか。そういう単純だが、明確な問いを発しているように思われる。
折りにふれドキュメンタリー要素を混ぜ込むいっぽうで、適度に現実の便宜から外れたことをおこなって、映画とはていのいい娯楽なんだよ、というお茶目な遊び心も忘れてはいない。かなり日本人の苦い笑いをそそった事柄であるが、この映画にはしばしば奇妙に本尊をゆがめられたジャポニズムが登場する。二体目の時空間移動装置が建造されていたのは、なんと北海道。スポンサーのハデス氏に招聘されて、ポッドの乗員に抜擢されたエリーの控え室は、いかめしい和風づくり。床の間らしき空間に、椿の活け花、鏡餅(!)、破魔矢、草履が並びおかれ、掛け軸が壁にある。部屋奥には南部鉄瓶と、あきらかに西洋のキャンドルというより、神道でつかうような白い蝋燭が二本ならぶ。そこで待機するアロウェイ博士のいでたちは、白いバスローブというよりはどうみても経帷子。
またいざポッドに乗り込む際の背後からついてくる日本人の案内役ふたりは、黒いヘルメットで黒づくめの衣裳。ひと言ももの言わず、去り際で上目遣いに伺うようにお辞儀するという技術を、エリーもマスターして返礼してみせるのが、まったくおかしい。アメリカの企業がプランを練って、日本の下請け会社に製造をまかせたという説明は、日米関係を揶揄したものとみるべきだろう。むこうのお国には、ジャパニーズは仏頂面して得体の知れない薄ら笑いをうかべている民族に映っているのであろう。隣国の呆然とする無理解ぶりというよりは、こそばゆいジョークなのだと、私は感じている。
SFの醍醐味は最先端の科学知識をふんだんにつめこんで、知的欲求をあおり真実味をくわえることにある。地球外知的生命体からのメッセージが素数をつかった暗号電報であることや、ワームホール時空間移動のアイデアは、原作者の著名な天文学者セーガン博士が行動に起こした宇宙計画や、著作で展開させてきた仮説にもとづいている。したがって、エリーの行動は、現実には理論的には正しいと太鼓判を押されてはいるものだ。だが監督は、原作者の要請するあまりに専門的な技術情報はたくみに廃して、科学にうとい一般人でもぞんぶんに楽しめるエンターテインメント性を重視したのである。そして、それはみごとに成功しているといえるだろう。事実に史実をおりこむ手腕もさることながら、よくある類型化されたエイリアンを描かなかったことが、「いかにも、もっともらしい」という、つくりもの以上ほんもの未満な、虚構がギリギリちかづく現実性を保っているのである。
しかし、この物語のいちばんのリアリティというのは、なにより、生臭い人間ドラマがあるということであろう。純粋に異世界の住人との交流を求めたいという女性サイエンティストの想いは、老獪(ろうかい)な権力者にふみにじられ、不愉快な国家機密の番人に阻まれ、爽快に恋心をいだいた宗教家とは一時的な袂をわかち、巨魁なる資本家にはやや野心的に修正利用されていく。こうした苦難にあえぎながらも、真摯な研究意欲を忘れなかったエリーはついに華々しいシートを手に入れるが、それは徒労に堕してしまうものではあった。この結末に、従来の勝ち負けはっきりしたSF大作的カタルシスを望んでいた観衆はさぞや肩を落としたことだろう。およそ数年来の研究が無に帰し、スキャンダルにまきこまれたあとで、最終的には静かな辺境施設に舞い戻っている。
だが、彼女は確実に真理を得たのだ。そして、それはおそらくは、巨大な資金と装置でもって遠い彼方に飛ばされるようなふしぎを経ずとも、ひとが日常なにかの拍子にふと目覚めるような人生の意義だったにちがいない。
この作品タイトル「コンタクト」が意味するところは、地球人と異星人との接触、ただそれだけではない。エリーは自分の信条のためには己を曲げない女性で、空の果てからいつともなしに届く宇宙の声に耳そばだてながら、周囲からは煙たがられ、そして彼女みずから遠ざかっていた。神のご意向を無視したその研究は、同業の科学者たちのみならず、宗教団体からも批判のつぶてを投げられる。そんなコミュニケーション不全(厳密を記すならば、ひとを選んで対話するという狷介な性格)な人間が、自分の種をこえた未知の領域人とコンタクトを図ろうなどとは無理からぬこと。
エリーの孤独な妄想癖はその子ども時代にさかのぼることができた。
エリーの体験した十八時間。そこで見たものは、科学的に立証するならば彼女の幻想が呼んだ奇跡であったといえようか。幼い頃に行きたかった浜辺、そして亡き父の姿を模してあらわれた異星人。ひとときではあるが、天涯孤独の身となっていて誰にも埋められなかった彼女の寂しさが、その人物に抱きとめられていやされる。父親を亡くした日、いつもは異星人に応答せよと語りかけた無線機に、彼女は必死にパパ、パパと呼びかけていた。異星人は少女の潜在意識に二十数年後に答えてくれたのだ。これが奇跡でなくてなんだといえるのだろう!こう言ってよければ、死とは終わりではなく、認識のおよばない次元への帰りの約束されない旅路のことだ。未知の生命体は諭す。別れの悲哀は孤独を生むが、それはお互いの存在でいやされるのだと。そして長い時間をかければ、また会えるのだと。
物語ラスト、政府の調査員会の尋問をおえてホワイトハウスから出てくるエリーを、官邸前をうめつくす民衆が歓喜と敬愛の表情でむかえてくれる。証拠はないが自分の信じるところ貫いた科学者の意思表明。それは神を信仰するにも等しい行為でもあった。五パーセントに属する奇人が、九五パーセントの人類に喜びでうけいられた瞬間。それこそ、まさに主人公の手にした偉大なコンタクトであったといえるだろう。
劇中くりかえされる「地球人だけだと宇宙(スペース)がもったいない」という台詞が、最後に「地球人だけだと空間(スペース)がもったいない」といいかえられているのも、主人公が自身のよって立つ世界にアンテナを向けはじめた証左なのである。
あまりに高みの空を望み、光りを求めすぎて、多くの声が潜んでいる足もとの草むらに耳をかたむけない。そんな愚を犯しているのだと言われている気がした。二十四時間真昼と化した感のある文明社会でますます遠くなったむかしの夜空を懐かしみながら、私は思う。果たして宇宙人がいるとしても、彼らは我々のサーチに見つからないようにうまく棲んでいるのではなく、我々のほうが交信を拒んでいるのではないだろうか。エイリアンとは、まさに既知でありながら見知らぬ者にしたてられた存在の謂い。手軽に、はやく、安くを求める消費メディア社会が、お互い人間を、ないしは生命連鎖でつながっている地上の存在を、知的な異邦人にさせている。映画冒頭のひきこまれるような、少女の心的世界の深さと、何億光年も先の宇宙の果てとがつながっているというトリックは、いささか批判的に読むべきかもしれない。
この原案を世に送り出した故人は、いま、こと座のあたりでもさまよっているのかもしれない。その偉大な天文学者からのメッセージは遠い異境からの暗号を待つまでもなく、本を開けばいまにも届く。だが、はたして、いまだもって地球の外側に出ようとせず、ネットの声で多くとつながっているのだと欺かれながら、ひとりの殻にこもりたがる現代人が多い現象をみれば、どんな言葉を発しているのだろうか。電子の世界に耳をにぶらされて、私たちは彼の声をキャッチできていないのかもしれない。
【ネタのタネ】
【追記】
この記事は「ネタのタネ」レース二月第二週お題に応募し、優秀賞にえらばれました。こちらを参照。事務局の皆さま、ありがとうございました。
コンタクト(1997) - goo 映画