陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

オタクの情緒にものの道理は通じない

2024-04-30 | 二次創作論・オタクの位相

SNS上は多様な意見の坩堝です。さまざまな趣味人すなわちオタクが顔を突き合わせて、あるいはすれ違っているのです。
自分の好きな原作ジャンルにつき情報検索するのみでも、興味深い見解が得られることもあります。今回はそんなオタクならではの空気感についての私見です。まあ、気楽に読んでいただけましたら。

一般人にはなじみのないことではありますが。
百合もしくはBLというサブカル創作の嗜好を表す分野には、こんな暗黙のルールがあるそうです──カップルになったふたりの間に、「異性の」相手を挟ませてはならない、と。百合やら、BLやらとは、同性の関係性を疑似恋愛めいて楽しむ創作物の傾向のこと。なかには、本気の恋愛といいますか、えげつない肉体関係を伴う描写もあります。どのくらいの濃度を好むかは人それぞれなのですが、この「異性」の存在感いかんで、作品の雰囲気が損なわれるので、という声があるわけです。

実はこうした傾向をですね、私、ここ数年にしてはじめて知りました。
そもそも、自分が二次創作させていただいている原作ジャンルには、男子も女子もわりと活躍することが多くて。マイナーだが百合ジャンルの伝説とも語られる某作品にしても、JKどうしのガチ百合と兄弟のBLっぽい関係性が混在しています。ヒロインは当初イケメンと付き合ってしまう。しかも、男の子が好きなロボットもので王道の悲恋もの。そんな嗜好のサラエボ戦地な作品なのだから、宗教対立が起きないはずはないが、SNSのような人流の激しい場にいなければ、論争に巻き込まれることはなかったのでしょう。

作品が炎上するというのは、作品内の「悪い部分」をめぐっての互いの価値観がぶつかり、妥協点が見つからないからです。
この作品のあれやこれやを私は好まない。そういったお気持ち表明は誰がしてもよいものです。けれど、昨今、いち個人のさざなみにすぎない主張が大津波になりやすい。我も我もと同意したばかりに、その反論が作者の筆を折ることすらありうるのでしょう。

私自身も歯に衣着せぬ勢いでレビューをしたためることはあります。
ここが変だな、おかしいな、そう思うことはある。けれど、それに正しさを求めてはいない。だってそれは投票ではないのだから。追放運動をしたいわけではないから。なので、私はSNSで特定のひと(特に創作界隈やサブカル好きな人種)とつるむのはやめています。慣れ合って主張を押し通しても、その価値観があったはずの相手とも、また共感がズレ合ってしまうことはよくあります。私が語ったことを旗印にして、攻撃材料にしてほしくはないからです。答えを押し付けたいのではない、ただ、問いかけをしてみたい。

百合のあいだに男が挟まるのはおかしい。それは言えばよろしいでしょう。
あなたが悪いと思うものは、あなたが大事にしたいものなのだから。その言葉の裏にある、そのひとの価値観のディティールを構成している要素について、外側にいる人間は知る由もないのだから。異性愛に対する苦手意識なのか、父権主義への嫌悪なのか、女性の地位向上なのか、もしくはイマジナリー彼女の処女性なのか、なにを大事にされているのかわからないが、それは主張したらいいわけです。

しかし、そこで問題なのは──「そういう創作は許せない、しないでほしい」とまで言い切ってしまうことです。
これは賛成しかねます。私がチーズのアレルギー持ちだとする。見るのも嫌だ。そこまではいい。けれど、私の家族、友人、知人も食べないで、つくらないで。この世界のすべてから、チーズなるものを撲滅してほしい。こんなことを言い出したら、それは先般物議をかもした生活保護者やホームレスに死ねと言いつのったユーチューバーと同じ優生思想と同じになります。チーズを食わねば、それしか食料がなくなったときに、私は飢え死にするだけなのです。選択肢を自分でなくしているだけなのです。

あなたが嫌いなものがあるのは、自分自身の「気分」の問題なのであって、他人があなたのために矯正するものではないのです。
むろん、社会通念上蔓延したら困るような表現──殺人や暴力は楽しい美しいといったような──をすることについては議論の余地があります。表現や思想の自由というスローガンで隠れ蓑にされてはいけない、人間内部の残酷な一面について正当化するような創作物があるにはあるでしょう。でも、たかだか、女が多い世界に男がいて、それがストーリー上必要悪として絡まねばならない場合もあるのに、「男がいる」ただそれだけで排除対象になる。それは行きすぎていやしないか。オトコとオンナがいないと、生命は誕生せず、それは自分の存在の否定につながるからなのです。

なぜ、こうした踏み込んだ禁止論が出てくるのかといいましたら、現代では人間の欲望をいかに湧きあがらせるかをビジネスにするからです。
創作物があると、それに対する何らかのアクションがなければいけない。無視すればいいのに、目につくところに流れてくるから攻撃したい。なんとかが好き嫌い、ゆがんだ欲望を抱いてる、そんな私自身をまるごと愛してほしい。そんな渇望をこのネットの世界では感じることがあるからでしょう。

そして、私は前々から申し上げておりますが。
自分の嫌いな傾向の創作に出会った場合に、いちばん冴えた異議申し立てというのが、それよりも面白い創作でやり返すことです。創作をされないのならば、自分の主義嗜好に合う他作品を盛り立てて応援するしかありません。嫌いな創作物やその主張につきお前さんの口を閉じろと言うのは、いずれ、あなたご自身の喉を絞められてもおかしくはないぞ、ということなのです。

好き嫌いを好き勝手に言いあえるというのは、それだけ日本のサブカル文化が裾ひろがりで多様であることの証左なのです。

オタクの情緒にものの道理は通じない。
法的な根拠に基づかない、一部の人間による界隈の好みをなぜかルールやらしきたりやらへと格上げしてしまう空気感について、語ってみました。有力な論客が嗜好を誘導することは、文化を見る目をつぶしかねない危険をはらんでいるのかもしれないのですね…。

国立漫画喫茶のような、権力者のお目がねにかなった創作物のみを展示保存するという案も、ナチスドイツの表現主義アートへの弾圧のような道をたどりかねず、芸術文化たるものは常にアウトローであってほしいのです。どこぞの国のように、サブカル規制が進まないだけ、日本は文化に寛容であるのは喜ばしきことなのです。

( 2021/09/12)




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