ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
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彬子女王の手記  2

2015-06-10 07:10:00 | 皇室報道

 

 父の死という悲しいきっかけであったが、三笠宮家と深く絆を結んだ今だからこそ、

痛切に感じることがある。

それは、いかに長い間祖父母や叔母たちが私たち仁親王家のことを気にされ、

心配してくださっていたかということだ。

そのあたたかいお気持ちを最近まで知るすべがなく、

今のような親交を持つことができなかった自分自身に歯痒ささえ覚えている。

 親とその親族が仲が悪いと子供は苦労する典型。まるで将来の愛子内親王のよう。

   むしろ、愛子内親王が健常じゃなくてよかった・・・・彬子女王のようには感じないでしょうから。

 そんな風に疎遠にしてきたのは、一緒に暮らしてきた「父」でしょう?違う?

  父を悪者にしたくない気持ちはわかるけど、それを全面的に母のせいにするのはどうかと。

 ここでいう「今のような親交」とは何でしょうか。

  普通なら「父の死をきっかけに祖父母と和解し、穏やかな交流を持つ事が出来て幸せだ」と

  なるべきところ「歯がゆさ」を覚えている。

  穿った見方をするなら

  彬子女王の祖父母ならびに宮家に繋がる人達は

   彬子女王に「あなたが宮家の当主におなりなさい」と言っている。

   「あなたのようなよい娘が跡取りで本当に嬉しい」と言っている。

   「あなたこそ淑子女王以来の女性宮家当主。だから仁親王、桂宮の式年祭

    そしていずれ私達の祭祀を受け継いでおくれ」と言ったかも。

 そして仁親王は、そういう考えではなかった・・・・・という事です。

 

 母が病気のご療養ということで仁親王家を出られて以来、

  私は10年以上母ときちんと話をすることができていない。

  再三母に話し合いをしたい旨をお伝えしてきたが、その都度代理人を通じて

  拒否の旨が伝えられるだけであった。

 ちょっと待って。今まで、何度も公の席に同席しているでしょう?

   この週刊誌と真逆な話を信じるべきかいなか。

 拒否られているというなら「理由」をきちんと書かないと片手落ちです。

  私は信子妃が拒否をするようには見えません。

   もし、彬子女王が何かの話をしたいといい、拒否する事があるとしたら、それは

  「私を宮家の当主として認めて」という一件に尽きるのでは?

  信子妃側としてはそれはどうしても受け入れられない事ですよ。

  どこの世界に、娘達に一生独身でいろと願う母がいますか?皇族の身分に拘らず

  幸せな結婚をしてほしい。宮家の事は自分が・・・というのが筋です。

  それを「母は野心を持っている」と見るのはひねくれすぎ。

 

 体調が回復され、ご公務に復帰される母に望むことが二つだけある。

  一つは心配をおかけした三笠宮同妃両殿下にお目にかかり、

  公務復帰のご報告と無沙汰のお詫びをしていただきたい。

  そして私たち皇族を支えてくださっている国民の皆様に公務復帰の

  ご報告をしていただきたい。

  それ以上のことをこれからも私が望むことはないだろう。

  三笠宮両殿下に謝って欲しい → 何を謝れと?

                          心配をおかけしました。でも葬儀にも出して

                          戴けませんでした。最期も看取る事が許されませんでした。

                          私をお許し下さい・・・って?

   国民に公務復帰の報告を → 記者クラブを通じてもうして頂いているし、現実に

                        公務に出られていますが。他に何を報告しろと?

 この一文で「彬子女王・・・やっちまったな」という気がします。

  娘が母に「おじい様に謝ってよ」って言いますか?

  父と母の確執は夫婦にしかわからない事。そして三笠宮両殿下にはわかっているという事。

  晩年の仁殿下が「離婚」を真面目に考えていたとするなら、その通りにしなかった

  信子妃に両殿下はいい感情を持っていないと思います。

  つまり、彬子女王はいい歳をして祖父母とその後ろに控える人達に利用されたんでしょうね。

 ちょっと 麻生家は何をしているの?

   太郎さん 大事な妹がここまで貶められていいんですか?

   いくら皇族でもやっていい事と悪い事があるでしょうに。

 

 今、私は日本の伝統文化を子どもたちに伝えることを目的に設立した、

  心游舎という団体で活動をしている。

  父はよく、「皇族というものは、国民の中に自ら入って行って、

  彼らが望むことをするのが仕事だ」とおっしゃっていた。

  父にとってのそれは、社会福祉であり、スポーツ振興であり、青少年育成であったと思う。

  私には父ほどの力もないし、知識も乏しいので、父と全く同じことをすることはできない。

  ただ、父がこれらの活動に情熱を傾けられたように、

  私は日本の伝統文化を次の世代に伝えること、

  日本の伝統文化が生き続ける土壌を耕すことに自身をかけたいと思っている。

  そして、そのことが、本当の意味で「父の仕事を受け継ぐ」ことではないかと感じはじめている。

  亡くなられた今では確かめることはできないけれど、

  父はいつものように「にやり」と肯定の笑みを浮かべてくださるのではないかと思っている。

 「皇族というものは・・・・」が「公務は受け身」と少し違った意味に聞こえますよね。

   とっても偉そうという感じ。

   まあ、仁親王はそういう方だったでしょう。悪気はないんだけど。

 ただね。仁親王があそこまで福祉にのめりこんで行ったのは、ある種の自己満足だと

  思うんですよ。それはそれでいいと思います。

  ただ娘が過大評価する必要はないんじゃないかと。受け継ぐなら粛々と静かに。

 それにしても間違った敬語が気にかかる。

   謙譲語のないかの国の人みたい。

 

 父が薨去され、仁親王家は三笠宮家に合流することとなった。

   ありがたいことに祖父母は私と妹に「私たちが責任者になったのだから

   何でも相談してちょうだい」と仰ってくださる

   この言葉はあたたかい毛布のように、私たちをふんわりと包んでくれている。

   父の死から三年ということで、さまざまな媒体から取材のお話をいただいた。

   こちらへの寄稿と同じように月刊誌からも原稿の依頼を受け、

  自分の今の状況を整理する意味もあって手記を寄せた。

   その手記につけたかったタイトルが「父からの最高の宝物」であった。

  残念ながら月刊誌の手記のタイトルは私が見ることもできず、

  編集部の方がつけられたようだが、私にとって三笠宮家との絆が、

  この3年間で得た何よりも大切な財産である。

 

彬子女王はわかっていない。

三笠宮家との復縁を果たしたのは「父の死」があってこそ。

そしてそれは決して「贈り物」などではない・・・という事。

彬子女王が今、考えなくてはならないのは、なぜに父と祖父母が断絶していたのか

冷静に検証する事。

そして皇室の長い歴史の中で、三笠宮家がどの立ち位置で、何をすべきか。

ご自分は「三笠宮家の幕引き」をする存在であると自覚する事です。

高円宮家の2女王は久子妃によって、そういう割り切りが出来ないから

いまだに結婚しないのでしょう?

このままじっと黙っていれば、いずれ女性宮家の話が再燃し、その頃、いくつになってるか

わからない彬子女王と瑶子女王が、花も実もある人生を棒に振って

ただ「好きな事が出来る皇族生活」を謳歌し、「宮家当主としての誇り」によってのみ

生きるなら、それは非常に悲しい事だし、国民にとって迷惑です。

宮家は血のスペア。

スペアになれない皇族がいつまでも残る事は意味がないからです(冷たいけど)

彬子女王がやっている仕事は、いうなれば彼女の「趣味」であって、決して本当に意味で

自己犠牲ではないし、福祉ではない。

そんな予算があるなら、秋篠宮家に、悠仁親王に。将来、天皇の姉となる眞子・佳子内親王に・・・と思う。

それが国民というものですよ。

 

信子妃殿下。黙っている必要はないのでは?

麻生家としてもこれは抗議すべき案件です。

「皇室」をゆるがす事件に他なりませんので。

三笠宮家の件を許しつつ、東宮家を批判することなど出来ないでしょう?

いやはや・・・皇室のモラルハザードがここまで来ているとは。

そして手を出せない宮内庁。いさめる事が出来ない天皇と皇后。

悲しいですわね。

 

コメント (31)
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彬子女王の手記  1

2015-06-10 07:00:00 | 皇室報道

 文芸春秋7月号にも

「彬子女王 母には三笠宮両殿下にお詫びして欲しい」という手記が載るようですが

こっちはブログに載ったもの。

雑誌とブログでここまで・・・・・と。宮内庁は結局止める事が出来なかったのですね。

以下の文。敬語の使い方がおかしい部分は赤で記します。

仁親王殿下薨去から3年

「父からの最高の贈り物ー三笠宮家との絆」

 タイトルからしてもう 一体何なの?「三笠宮」を名乗っているのにあらためて

「三笠宮家との絆」っていうと、本当に上から目線のプライドを感じる。感じすぎます。

 

 この6月6日で父の死から3年を迎える。

   私にとって父の死は、覚悟していたようで、まったくできていないものだった。

   正直言えば、未だ失ったもののあまりの大きさに戸惑いを覚えているほどだ。

   でも、父は最後に私たち姉妹に最高の宝物をくださった。

   それが今の私たちを支え、力を与えてくれている。

   その宝物、三笠宮家との絆を、父亡き今、

   大切に育んでいくことが残された私たちの定めと思っている。

 まずしょっぱなから「殿下が亡くなるまで、三笠宮家との絆はなかったんですか?と問いたいです。

  親しみをこめているんでしょうけど、この場合、「父」ではなく「仁親王」とお呼びするべきかも。

  「父」に対して「三笠宮家」は「祖父母の家」になるわけで。

  曖昧な敬語の羅列が苛立たせるんですけど。

 要約すると

父の死は覚悟していたけど、いざ本当に亡くなってみると、その気持ちをあっさりと

覆す程悲しみにくれてしまい、今もまだ続いている。

父が最後にくれたもの。それは私達姉妹のルーツである「三笠宮家」との絆であると思う」

こんな漢字でしょうか?

 

 父を亡くし、母は病気療養中でご不在という状況で取り残された私たちに、

   手を差し伸べてくださったのは、三笠宮家の方々だった。

   ちょうど3年前の今頃のこと。父を失った悲しみに浸ることもできないほど

 毎日さまざまな儀式があり、

 右も左もわからない状態で、

  ひっきりなしに来られる御弔問のお客様に対応をしていた仁親王邸では、

  当然のことながら些細な失敗が繰り返されていた。

  それをどうするかの判断に追われ、本当に訳がわからなくなってしまった私は、

  恥ずかしながら一切の思考がストップしてしまい、廊下で立ち尽くしてしまっていた。

  そんな私に「しっかり!」と声をかけ、お客樣方へのお茶の準備の指示をしてくださったのが、

  父の姉である近衞の伯母だった

  また、父の妹である千の叔母も、自ら伯母と共にお茶出しをしてくださった。

  そのおかげで仁親王邸は無事その日の行事を終えることができた。

  その時ほど親族のあたたかさを感じたことはなかった。

 なぜ母の「御不在」という書き方をするのか全くわかりません。

   皇族なのに敬語と謙譲語がわからないってどういうこと?

 ここでわかる事は、葬儀を取り仕切るべき「当主の妻」の不在。代わりに

   取り仕切ったのは娘。しかし影の立役者は近衛庸子氏と千容子氏だった。

  「近衛の伯母」「千の叔母」という言い方も今一つで。間違ってはいないけど。

  「近衛家に嫁いだ伯母」とか「千家に嫁いだ叔母」とか・・・そういう言い方は出来ないかな。

 ちょっと、父が亡くなった時を思い出しました。

  すごくよく似ていると思います。

  私はまだ21歳で、喪主の母は頼りにならず右も左もわからない私が葬儀を取り仕切るにあたり

  口を出したのは母方の親戚連中で。

  こういう人たちに取り込まれたのか?とちょっと・・・・・

  だって本当の親族なら「お具合が悪いと言ってもお母様なのだから、こちらに来て

  戴くのが筋ではありませんか」と進言すべきでしょう?

 父を亡くし・・・って「父の葬儀」だもん。当たり前じゃん。

 要約すると

母が病気療養中で不在であった為に私が一切の取り仕切りをしなくてはならず

 そのせいで数々の失敗をやらかしてしまった。

 その時に助けてくれたのは二人の伯母・叔母であった。

 おかげで弔問客にお茶出しをする事が出来たのだった

 あーわかるわかる。こういう時、積極的にぶつかってくる人に弱いよね。

 「味方なんだわ」と思ってしまう。今まで疎遠だったのに急に優しくされると余計にそう思う。

 

 三笠宮家の長男として生まれた父は、将来三笠宮家を継ぐことになることから、

  宮号を賜らず、仁親王家当主として独立した生計を立てていた。

  本来であれば長男として、三笠宮家を支える立場であったはずの仁親王家だが、

  雑誌などに報道されたように、長い間三笠宮家の中で孤立した存在であった

  その大きな要因が長年にわたる父と母の確執であった。

  私も妹も特別なお祝い事などを除いては、御本邸を訪ねることもほとんどなく、

  どことなくぎくしゃくとした雰囲気もあって、三笠宮家の方々と

  深く親交を結ぶことができなかったように思う。

  そんな家族の状況にも関わらず、父亡き後、葬儀のことだけでなく、

  私たち姉妹を様々な場面で面倒を見てくださったのが、

  祖父母や高円宮妃殿下を始めとする三笠宮家の方々であった。

  最近では皇室のしきたりなど、わからないことがあると、

  すぐに御本邸の祖父母を訪ねてご相談をさせていただいている。

  そんなとき、祖父母の口から語られる父や叔父、叔母たちの他愛もない思い出話は、

  かつての三笠宮家の姿をよみがえらせるものであり、

  私の知ることのできなかった父の姿を垣間見る本当に貴重な物語だ。

 いいのか?こんな事を暴露して。

  「両親の確執のせいで本邸と疎遠になた」と告白しているんですよ。

 基本的に彬子女王は、三笠宮家に生まれながら宮家の歴史、皇室の歴史に疎かったのでは

  ないかと思われます。理由は誰もそれを教えなかったからという話?

  彬子女王にとって「父」は皇族というか「皇族という職業についている人」くらいの認識だったのでは?

 父と母の確執(つまり仲違い)がどうして長老殿下と疎遠になるのか。

  個人的に、最初に仁親王と三笠宮殿下の間に「疎遠」が生じたのだとすれば

  それは例の「皇籍離脱」宣言のあたりではなかったかと。

  当時はまだ彬子女王は生まれていなかったっけ?

  印象ですけど、三笠宮は桂宮ともそんなに仲がいい・・・というイメージはありません。

  桂宮家創設の宴には三笠宮殿下はいなかったし。

  仁殿下も桂宮も、学習院時代に「皇族」である事に関して随分嫌な目になったでしょう。

  つまり、そういう「血筋」に関して親に責任転嫁するような事があったのではないかと。

 祖父母あら昔話を聞いて「へえ、うちってそんな立派な家だったんだ」と初めて知り

  プライドを強く持つ。

  宮家として格下であっても、今では「長老」と言われる程古い家なわけだしね。

  それが生きるステイタスになったのかもしれませんね。

   30になるまで皇室のしきたりを祖父母に聞く必要がなかった生活ですか・・・・・

 

 三笠宮家の方々以外にも、父の死に際して様々な方からお力添えをいただいた。

  天皇皇后両陛下から賜ったあたたかいお言葉は、

  どれだけ感謝を尽くしても尽くしきれないほどの

  大きな心の支えとなった。

  皇太子同妃両殿下、皇族殿下方から日々いただくお心遣いが

  どれほどありがたかったことだろう。

  また、斂葬の儀を始めとする一連の葬儀にあたっては、宮内庁職員、宮家職員、皇宮警察、

  警視庁の皆が真摯に、それぞれの役割を超えて「殿下のために」と準備をしてくれた。

  皆の気持ちに頭が下がる思いでいる。

 この一件に関して秋篠宮家と常陸宮家は全くの無関係だという事がわかりますね。

  宮内庁らには上から目線。どこの御姫様だ?って感じです。

  

 

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