伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

クロちゃんの意味

2021年08月30日 | エッセー

 『水曜日のダウンタウン』 TBSで毎週水曜日の10時から1時間放送される、ダウンタウンの冠番組である。パネラーの松本人志が「いつ終わってもおかしくない番組」と言う割には4年を超えて続いている。
 『天龍源一郎以上のハスキーいない説』『すき家築地店でまぐろ丼頼むヤツ マジで0人説』などを掲げて徹底調査に乗り出す。
 「くだらない」。当然、「この世から処分すべき」TV番組の筆頭に挙げる人は数多いるはずだ。もっともそういう人は最後まで観ないであろうが。
 TV情報バラエティー番組とやらの「コンテンツの絶望的な劣化」は凄まじい。病膏肓に入る、である。当番組は「劣化」の成れの果て、つまりはその究極形を先取りするものだ。因みに、稿者は当番組の結構なファンでありつづけている。

 以上、旧稿「刻下、究極のテレビ番組」(18年6月)を抄録した。今も続行中だから7年になる。当番組で筆頭の実験台はなんといってもクロちゃんである。罰で檻に入れられる、ほとんど虐待に等しい仕打ちを受けた企画もあった。倫理上半歩は確実に超えたシリーズもあった。非難囂々、警察が出動する騒ぎもあった。しかしきわどい実験に限っていつもクロちゃんに白羽の矢が当たる。だが本人は逃げず、怯まず真っ正面にその矢を受ける。顔面血だらけ、まことに甲斐甲斐しい。
 そのクロちゃんが先週今週と、二度にわたって登場。「クロちゃん部屋ごと無人島生活」のミッションに挑んだ。「挑んだ」といってもハメられたのだが……。
 大阪でギャルに囲まれ鯨飲、爆睡。目が覚めたら東京の自室。しかしその部屋は東京から500キロも離れた無人島(名前がなんと「黒島」)に再現したもの。東京の自室にある全てのものを運び出し、まったく同じように“雑然と”配置し復元した。見事なプロの仕事といえなくもないが、すげー「くだらない」仕込みに掛けるただならぬ熱意は狂気ですらある。
 さて泥酔からやっと目が覚めたクロちゃん、「おはおはギュルリン、クルクルパーーーン」とSNSで投稿し、トイレに行くためドアを開ける。と、目の前には海。島、島、海、海。
「え~、どういうこと? でも、うちんちだし。でも、うちんちじゃないし」
 と、自問すること10分。やっと『水曜日のダウンタウン』だと気がつく。
 スタッフは姿を見せない(海中シーンで瞬間映り込むがのはお愛嬌として)。代わりにドローンと島内十数カ所に設置された監視カメラが行動を追う。セキュリティは十全になされている。島のあちこちに隠されたドラゴンボールを7つ集めるとエスケープが叶う。
 果たして脱出できるか? 
 崖をよじ登り、海底へ潜水、ジャングルへ分け入り、砂を掘り回し、一つづつ玉を揃えていく。一歩まちがえば大事に直結する苛酷なアドベンチャーである。そしてさらに次の難題が……。
 1週目の終わり、松本人志が一言。
「けど、感動はまったくないね」
 意外なクロちゃんの健闘に興が冷めたか。
 なにはともあれ、クロちゃんとはいったい何者なのだろう? 黒川明人(アキヒト)が纏う着ぐるみではないか。頭を剃り、髭を蓄え、声を変え、肚の中まで黒くし、自堕落で、幾つもの生活習慣病を抱え込み、コロナにも感染し、キモい醜男(ブオトコ)にメタモルするための着ぐるみではないのか。
 ……それにしても、なんのために? 
 世を風靡するイケメンへの果たし状、高学歴高収入天下御免のITビジネスマンへのアンチテーゼ、MC・俳優・シンガー・ものまね、なんでもござれのマルチ芸人への意趣返し、とまあそんなところか。謹厳実直、品行方正、清廉潔白、自尊、名誉、忠誠などなど、伝来の支配的価値観を卓袱台返しにするクロちゃん。それでもいざという時、生き延びるのはどちらか。レジリエンスはどちらが勝るか。それを醜男の極みが見せつける。……そうとでもしないと、クロちゃんはやってらんないだろう。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」である。
 以上、勝手な義憤に駆られてエールを送ってみた。 □


酸素ボンベ

2021年08月28日 | エッセー

 

 12日深更、同じ症状が襲ってきた。仰臥すると呼吸ができないくらい息苦しい。横臥しても同じ。かろうじて座ると息が続く。時々、目の前が暗くなる。13日1時半、観念して、救急外来へ。駐車場から外来の窓口まで、わずか30メートル。これが遠い。肩で息をしながら、果てのない道をやっとたどり着く。
 顔を見るなり、ベッドに寝るように指示される。すぐに酸素吸入。採尿管の挿入、レントゲン、CTなど……。
 「なぜ、11日は帰したんでしょうねー。肺炎を併発しています。入院してください」最も怖れていた言葉だった。
 「通院ではいけませんか?」苦しい息の下での哀願である。
 「なにを馬鹿なことを言ってるんですか。お宅には酸素ボンベがありますか。その他必要な施設がありますか。このままお帰りになったのでは、命の保証はできません」獄卒の声だ。
 「おめぇの保証なんぞ、頼まねぇよ!」と、啖呵を切る勇気も元気もさすがに失せていた。黙するほかはない。
 横付けされたベッドに移り変わり、階上のICUへ。点滴が2本、心電図の端子が4本、1時間ごとに締め付ける血圧計、指先に酸素濃度計、酸素マスク、採尿管……。寝返りもままならない。ついに囚人(メシュウド)となりはててしまった。生まれてこの方、一度も経験したことのない「入院」の二文字が重くのしかかる。見えざる格子だ。格子なき牢獄だ。

 12日といっても、13年前の1月のことだ。08年1月の拙稿「囚人(メシュウド)の記 1」冒頭をそのまま転写した。
 だから、刻下のコロナ感染の辛さがよく分かる。病症が酷似している。だが、まるっきり違う点がある。
「お宅には酸素ボンベがありますか」
 である。「あるわけがないんだから、入院するしかないんです!」が含意されていた。ところが、今や逆転した。
「酸素ボンベを持ってとっととお帰りください」
 さらに、
「ボンベは配ってあげます」
 から
「配れませんから、来てください」
 になって、とどのつまりが酸素ステーションになった。しかし、それとて東京「酸素ステーション」は130床中、利用者は3日間でたった27人だけ(26日現在)。この国の行政は深刻な酸素不足に陥っている。お前たちこそ酸素ボンベを先ず吸え! だ。言うに事欠いてスッカスカ首相は
「明かりはハッキリ見え始めた」
 と大見得を切った。悪いことは言わない。早く、眼科に行った方がいい。
  「事実はなぜ人の意見を変えられないのか」? 認知神経科学者ターリ・シャーロット女史は「確証バイアス」──仮説や信念を検証する際、それを証する情報ばかりを集め、反証情報を集めようとしない傾向──の存在を挙げる。事実があっても意見を変えないのは、
〈望ましい方法なんです。自らの考えに合わないエビデンスが出てくるたびに考えを変えていると、めちゃくちゃなことになりますからね。だから自分の意見にそわない事実を突きつけられても、考えを変えないほうが合理的かつ効率的なのです。脳の働きからみても筋が通ります。まず人が確信をもってその考えを抱いているとき、そして頑なに何かを信じたいと思っているときには、とくにそうなります。何か信じたい事柄がある場合、それを示唆するエビデンスを受け入れる可能性は高まり、信じたくない理由があればエビデンスを提示されても無視する可能性がより高くなるということです。〉(PHP新書今月刊「自由の奪還」から抄録)
 スッカスカ君に見える「明かり」は、脳が「めちゃくちゃなことに」ならないための防御反応なのだ。
 身体に取り入れた酸素の25%、最も消費量が多いのが脳である。大量の酸素ボンベをただちに官邸に搬入せよ!  スッカスカ君に急いで酸素吸入だ。 □


無償トレード

2021年08月25日 | エッセー

 「無償トレード」というから、相手は誰だと調べてみた。なんのことはない。交換する相手や移籍金が不要なトレードをそう呼ぶと判った。
 「暴力で日ハムを追放になった選手をすぐ使うのか。ドラゴンズは優勝出来なくてもこんなことはしません」と立川志らくはツイートし、猛反撃を喰らって削除。腰砕けは情けないが、主張はその通りだ
  08年に不倫騒動を起こした二岡智宏を日ハムに引き取ってもらった借りを返したとの見方もあるが、野球解説者の田尾安志氏はプロ野球コミッショナーが機能していないと苦言を呈している。処分は球団ではなく、コミッショナーがすべきなのに、オーナー会議がヘゲモニーを握っていることが主因だとする。
 「年俸も3年契約の3年目、推定年俸3億4000万円を日割りですから、中田は全然損していません。日ハムは厄介払いができて万々歳、巨人は手薄な一塁手を補強できた、という状況ですね」とある野球ライターは語る。
 こういうのを「火事太り」という。いや、正確にいうと隣町の火事で「火事太り」だ。もちろん、中田というより巨人が、だ。こんなオイシイ話はまずない。だが、出火元は間違いなく中田本人である。
 武士は食わねど高楊枝。あちらでは、ノブレス・オブリージュ。どちらも位階と品格、特権と責任との併存を迫る。
   〽義理と人情を 秤にかけりゃ
    義理が重たい 男の世界
 健さんは『唐獅子牡丹』でこう歌った。日ハムとの義理がすっ込んで、巨人との人情が出しゃばる。そこを江戸落語の立川志らくは多分嘆いたのだろう。江戸は武士の町。ノブレス・オブリージュに悖るのではないか。こう東京出身でありながら名うての竜党が咆えた。このあたりの屈折が落語の滋味といえなくもない。
 ともあれ、コミッショナーの機能不全が余計な問題を引き起こした。永田町のコミッショナーも機能不全で次から次へと災厄の連鎖を呼んでいる。いっそ野党に無償トレードするか。それはヤだから、引きずり下ろすか。どうにもこうにも八方塞がりの愁嘆場だ。どうぞお好きに。だが、火事太りは絶対ない!とだけは言っておく。 □


私家版「CM天気図」

2021年08月24日 | エッセー

 天野祐吉さんが生者の列を離れて8年。その1年前のロンドンオリンピックを「地球村の大運動会」と評したことが懐かしい。爾来「CM天気図」、別けてもTVCMは気圧配置がまったく変わった。リアルな天気図も同じように様変わりしたが、コロナが追い打ちを掛けてまさに異常気象が常態化しつつある。
 先月21日の「プレジデントオンライン」は次のように報じた。
〈「毎日テレビを見る人」は8割切る
毎日テレビを見る人は8割を切り、10代20代の半数がテレビを見なくなった――。コロナ禍で広告収入が落ち込んでいる放送界に激震が走っている。しばらく前から若者の「テレビ離れ」は言われてきたものの放送界はタカをくくっていた節があるが、テレビライフが激変している実態を突きつけられて、にわかにざわついてきた。1960年の調査開始以来、初めて8割を切った。年齢別にみると、50代以下は軒並み減少。今や10代や20代の若者は、2人に1人がテレビを見ないということになる。
 2010年までは、9割の人がテレビ漬けの日々を過ごし、若者世代も8割以上が毎日テレビを見ていただけに、この5年間の「テレビ離れ」のスピードは半端ではない。
 一方、平日にインターネットを利用する人は、全体で45%。「テレビ離れ」が激しい若者ほどネットの利用率が高くなった。ネットの動画配信サービスが普及する中、若者世代はテレビからネットに急速に移行している。60代以上でもネットの利用者は急増している。今回の調査結果について、当のNHK放送文化研究所が「衝撃的」と驚くように、若者にとってテレビは毎日見る「日常メディア」ではなくなりつつある、といえそうだ。
 民放キー局は軒並み大幅減収
この数字に、もっとも衝撃を受けているのが民放各局だ。2020年度の決算は、全社とも売上高が前年を大きく割り込み、連結決算でみると、全社とも減益減収だった。こうなったのも、売り上げの大半を占める広告収入が、コロナ禍の直撃を受けて激減、軒並み2ケタの減収になったからだ。番組制作費の大幅削減などで、かろうじて赤字は免れたものの、かつてない厳しい事態に直面している。〉〈抄録〉
 加えると、ネットによるプル型の広告、連動するネットショッピングの急速な普及でTVの宣伝効果は著しく減殺されている。
 何度か指摘してきたように、Y本興業を筆頭にお笑い芸人をコストカットの切り札に使い安手の番組を粗製濫造してきた報いである。職業に貴賤はないが、立ち位置は弁えねばならぬ。プロ・アマ、専門・門外の垣根を踏み倒して芸人風情に闖入を許した付けが回ってきたのだ。
 観ていて苛立たしいのは、CMがやたら長いこと。刹那にメッセージを繰り返し送り潜在意識に働きかけるサブリミナルはご法度だが、こうも繰り返されるとほぼそれに近い。おまけに、ほとんどが同時であること。申し合わせたように寸時も違わず同時刻にCMを流す。稿者のようにしょっちゅうチャンネルを切り替えて複数の番組を同時並行で観ようとする者にとっては、まことに都合が悪い。同じ幕間がこちらの頭の都合とズレるからだ。
 そんな「CM天気図」の中でも、珠の快晴が広がったり鮮やかな虹も架かる。いくつかを挙げてみる。
▽大和ハウス、松坂桃李による自給自足への挑戦。──妻が妊娠、井戸を掘り、牛を飼い、稲を植え、石を削り、布を織った。秋、一掬(イッキク)の米を見詰めて力尽きる。……電気を自給自足する家、大和ハウス──これをイケメンがやる。このミスマッチがなんとも魅せる。
▽千鳥の大悟による「ホンマにオヤジかー?」。考え落ちのおもしろさ。6月本稿で取り上げた。
▽アイフルの大地真央「そこに愛はあるんか」シリーズ。大料亭の女将が様々にメタモルしていく。中でも、コロナ事情を象徴する“デリバリー女将”が目を引く。巧い! 
▽藤原竜也「金鳥蚊取り線香」。130年の歴史をもつが、今時特殊な野外作業以外使う人がいるのか? 確かに『蚊取りブタ』は夏の風物で、美空ひばりのCMも懐かしい。しかし郷愁とあの痛み、痒みとは相殺できまいl。藤原本人は大のファンらしいが、今ではこのCMそのものが夏の風物となっている。因みにわが家では『蚊刺されブタ』はいるが(住人2人の内、攻撃目標はすべてあちら。実に不思議!)、『蚊取りブタ』は姿を消して久しい。
▽サカイ引越センター「仕事きっちり」。長く脇役を続けてきた徳井 優の珍妙で絶妙できっちりとした踊りと関西弁のセリフ。是非とも「仕事きっちり」しない政権の要路に見せてやりたいCMだ。
▽日立グループ「この木なんの木」がなんといっても『気になる』。作詞の伊藤アキラ氏が今年5月15日亡くなり、作曲の小林亜星氏がわずか15日後の同月30日に亡くなった。なんという因縁! 両氏ともCMソングに果たした貢献は際立って大きい。これからもずーっと気になるにちがいない。
 といったところで私家版「CM天気図」、お粗末でした。 □


志麻さんに“あっぱれ”

2021年08月23日 | エッセー

 「伝説の家政婦」タサン志麻。フランスで修業し、シェフから転身して今フリーランスの家政婦として八面六臂の活躍をしている。依頼先の家庭に出向き、そこにある食材で家族構成に合わせた料理を作る。3時間で1週間分の作り置きを仕上げる。すべて逸品。家政婦というよりは料理人だ。いや、料理家ともいえる。トマトぶっちゅのルミさんを遙かに上回る。TVで取り上げられ、ここ3、4年で瞬く間に「伝説」となった。今年の第13回ベストマザー賞を受賞。同賞は一般社団法人「日本マザーズ協会」が贈るもので、「ママたちの憧れや目標となるベストマザー」を子を持つ母親の投票によって選ぶ。
 ケータリングではない。普通はメニューを決めて、食材を用意し、レシピに沿って調理する。これが志麻さんの場合は逆だ。依頼宅の有り物の食材で、レシピを考え、調理し、料理が完成する。【メニュー → 食材】ではなく【食材 → メニュー】である。プロセスが逆さまなのだ。ここが違う。かつ、それをクッキングの歴とした一形態として確立した。“あっぱれ”ではないか。いわば、ブリコラージュの妙である。寄せ集めの材料で自ら作ることをブリコラージュという。これが超早業で手際よく、複数の調理が同時に進行していく。料理には無縁の当方には、まるでマジックを見ているようだ。おそらく頭の中は恐るべき高速回転をしているにちがいない。そもそも、料理人は頭がよくなければ務まらない。経験はもとより潤沢な知識、豊かな発想、瞬時の判断と不断の挑戦、それに遊び心。おまけに供する先方への嗜好や好悪の情報。凡愚に為せる業(ワザ)ではない。
 家政婦進出の理由は日本にあるフランス料理とフランス本国の家庭料理との離隔だったという。フランス現地で食卓に並ぶ料理の庶民性と日本のフレンチレストランで供されるフランス料理の貴族性。両者の葛藤の中で志麻さんが賭けたのは前者であった。その選択が彼女をレジェンドたらしめた。卓越したポテンシャルを手挟んで、厳かなシャトーから一気に巷のキッチンへ乗り込んだのだ。なんとも“あっぱれ”だ。
 ブリコラージュについて、思想家内田 樹氏はこう語る。
〈論理的に思考する、というのは簡単に言ってしまえば、今の自分の考え方を「かっこに入れ」て、機能を停止させる、ということである。論理的に思考できる人というのは、「手持ちのペーパーナイフは使えない」ということが分かったあと、すぐに頭を切り替えて、手に入るすべての道具を試してみることのできる人である。金ダワシでウロコを剥ぎ落とし、柳刃で身を削ぎ、とげ抜きで小骨を取る。
 「理屈っぽい人」は一つの包丁でぜんぶ料理をすませようとする人のことである。「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである(レヴィ・ストロースはこれを「ブリコラージュ」と称した)。〉(「こどもは判ってくれない」から)
 ここにいう料理は思考の態様を譬えている。「理屈っぽい」とは包丁が一つ。単一の思念ですべてを裁断しようとする狭窄した思考のありようだ。「論理的」とは知が開かれてあること。「これって、あれだ」と別々のものを容易に繋ぐオルタナティブな知的流儀である。志麻さんの流儀とはこれだ。志麻さん“あっぱれ”の源泉はここにある。
 どこかの政権の迷走とフリーズはブリコラージュ不能の惨めな結末だ。包丁が一つ、しかも錆びきっている。これじゃあ、大根一つ切れない。今こそブリコラージュが緊要の課題である。志麻さんの流儀を学ぶべきではないか。 □


秋刀魚をたらふく食う

2021年08月22日 | エッセー

 以下、「FNNプライムオンライン(フジTV系ニュースサイト)」から。
〈サンマ初水揚げ“記録的高値” 漁協直売店で1匹3500円
 北海道文化放送  2021年8月19日 午後5:04
 記録的不漁が続くサンマ、値段も記録的高値となった。
 北海道の厚岸町の港では18日午前2時ごろ、太平洋の公海で漁をした小型サンマ漁船1隻が戻り、およそ1750匹、152㎏のサンマを初水揚げした。
 午前7時半から始まった初競りでは、1㎏2万8000円と、2020年の1万1880円の倍以上の記録的高値となった。落札者「これからおいしい時期になるので、期待してほしい。きょうのサンマは、刺し身にするとおいしい」
 サンマは早速、漁協の直売店に並び、高いもので1匹3500円ほどの値段がついた。〉
 原因は深刻な不漁。海流の変化で漁場が遠洋に移り、小型船では採算が取れない。加えて、ロシア・中国による公海での管理強化。別けてもロシア水域での締め付けだ。
 よって、遂にサンマは本マグロ以上の超・超高級魚になったという次第だ。
 ついでにいうと、水揚げされた魚は『匹』、高級魚は『尾』、干物は『枚』、目刺し類は『連(レン)』、鰹節は『本』、串刺しの鰻は『串』、刺身は『切れ』、イカ、蛸、蟹は、「杯」と数える(小学館の数え方辞典から)。面倒くさいが、魚介食文化の豊かさを裏書きしている。
 12年前の旧稿を引きたい。
〈落語に「目黒の秋刀魚」という噺がある。黒焦げの秋刀魚を目黒で食し、いたく気に入った殿様。ある時招かれた先でも秋刀魚を所望する。先方はそのような下衆魚など用意してはいない。急いで日本橋の魚河岸から取り寄せはしたものの、脂が多くては身体に毒だと蒸してしまう。おまけに喉に刺さってはと小骨まですべて抜いて、バラバラになった身を椀に入れて食膳に。大いに期待が外れ、殿は一言。
「秋刀魚は目黒にかぎる」
 お馴染みの下げである。
 濛々たる秋刀魚の煙。これは日本の極めて豪快な食風景である。決して副次的現象などではなく、あの魁偉な炊烟を含めての「秋刀魚」なのである。この十数年わが家では猫の額ほどの庭で秋刀魚を焼くことにしている。かつ七輪を使う。とってもレトロである。一尾百円前後とはいえ、これは相当な贅沢だとひとり悦に入(イ)っている。たとえ東京は帝国ホテルであろうとも、このような贅は尽くせまい。生憎今もって、雑魚の魚交じりの機会に恵まれぬが、これ見よがしで見かけ倒しの御仕着せ西洋料理を楚々と喰らうのが関の山だ。などと嘯いた所で、物言えば唇寒し秋の風ではあるが …… 。
 世のブランド志向のためか、「大黒さんま」なる高級ブランドサンマが人気だそうだ。道東の厚岸(アッケシ)に産する。一尾 約900円、『ふつうの』秋刀魚の十倍近い。脂の乗った大型の秋刀魚だ。食したことがあるという友達は「秋刀魚を超える秋刀魚だね」と自慢した。と、別の友人が「それは、もうすでに秋刀魚ではないだろう」と応じた。なるほど、その通りだ。出世魚でないかぎり、秋刀魚が秋刀魚を超えてしまってはマグロにでもなるしかあるまい。道東ゆえに送賃も掛かるだろうが、秋刀魚はやはり庶民のさかなであってほしい。〉(09年9月「秋刀魚は煙にかぎる」から抄録)
 今や、「大黒さんま」の約4倍、件(クダン)の殿様でさえなかなか食するわけにはいくまい。もちろん報道された3500円は初値だから話題づくりであろうし、冷凍物が放出されるからいきなり4桁の値がつくわけではない。だが、庶民にとっては遙けき高嶺の花に違いはない。
 そこで、妙案が浮かんだ。サンマをたらふく喰らう秘策である。教えたくはないのだが、儘よ、語るに落ちる。
 六日の菖蒲十日の菊、証文の出し遅れをしてはなるまい。19日夜、押っ取り刀でスーパーに急行した。「さんま蒲焼き“缶詰”」である。だいたい1個150円。これでも値上がりはしているのだが、手は届く。これなら、たらふく食える。抱(イダ)き込むようにして20個をレジへ。
 まさか、1シーズンで20個も食えない。まあ、4缶くらいか。残りはお歳暮に使う。3500円相当の貴重な贈答品だ。お殿様でもなかなかありつけない「大黒さんま」を超える豪勢な高級魚である。「1尾、2尾」ではなく、「1個、2個」で勘定するのは悔しいが、中身は一緒だ。形はそのままだから、殿のお椀に盛られたバラバラのフレークとは見栄えが断然違う。食した後、「秋刀魚は缶詰に限る」とでも嘯くか。生憎「魁偉な炊烟」は出ないが、缶詰で煙(ケム)に巻くのだからケムリ繋がりにはなる。
 セコいと嗤うなかれ。民草が絞り出した市井の知恵だ。 □


ウイルス・キャリー

2021年08月21日 | エッセー

 ド素人の酢豆腐である。鼻で嗤い、耳で聞き流していただきたい。
〈日本で接種が行われている新型コロナワクチンは、いずれも、新型コロナウイルス感染症の発症を予防する高い効果があり、また、重症化を予防する効果が期待されています。効果の持続期間や、感染を予防する効果についても、時間の経過や接種者数の増加に伴い、研究が進んでいます。〉
 厚労省のHPにはこうある。注意深く読むと、「感染予防」研究は進んでいるものの、「発症・重症化を予防する効果」とある。ウイルスを死滅させるとは書かれていない。今日までに人類が死滅させたウイルスは天然痘ウイルスのみである。最古の記録は紀元前1350年、爾来3327年を経てソマリアでの患者を最後に天然痘は地球上から消えた。1977年、WHOはそう発表した。とてもじゃないが、コロナウイルスを死滅させるなどとは絵空事である。
 では、なぜワクチンなのか? 話は振り出しに戻って、「発症・重症化を予防」するためである。決して死滅させるためではない。残念ながら……。
 さて、ここからが似ぬ京物語である。
 死滅しない以上、感染はする。ウイルスが消えるわけではない。発症は免れるが、人体にパラサイトはする。ということは、保菌者、“保ウイルス”状態、つまりキャリア(carrier)にはなり得る。個人差はあるが、体内での残存は7~28日間とされる。その間、発症せずともコロナウイルスと起居を共にしている。ぶっちゃけて言うと、キャリアであると同時に運び屋、キャリー(carry)である。自覚なきウイルス・キャリー(稿者の造語)だ。空港でそれとは知らずおクスリを預かって事件に、というあれだ。
  抗体カクテル療法とて同じだ。昨年10月にトランプが感染した折り、これを使った。入院・死亡のリスクを7割軽減できても、ウイルス・キャリーを免れるわけではない。
 だから、「何よりもワクチンという武器があります。一進一退があっても、必ず先には明かりが見えてきます」との首相発言(4月の記者会見)は眉唾だ。
 総務省自治行政局住民制度課が発表した令和3年1月1日現在の外国人を含む日本居住者1億2665万4244人が一人残らずワクチンを接種し、かつ完全に海外と遮断できた場合を除いて「必ず先には明かり」とは言えない。ウイルス・キャリーは増え続ける。ここが盲点だ。そこを外してウイルス万能説を能天気に振りまくのは百害あって一利なし、非常に危険だ。
 ウイルスにもサバイバルする権利がある。手を替え品を替えて奴らにとっては“防御”を、こちとらには“攻撃”を繰り返す。だって、奴らにとっては人類は新参者ではないか。なにを偉そうに大きな顔をしやがって、と声なき声を発しているにちがいない。
 日本政府は戦略性皆無のくだらないアホ宣言とケチでチンケな休養保障、というより無策の繰り返し。ここに来て、やっと集団感染の真似事ともいえるトリアージに舵を切りつつある。重症者だけを入院させるとは即ちコロナ・トリアージだ。他の人はごめんなさい、自分でなんとかして、である。列車事故で大量の負傷者、トリアージして病院へ。だが、運べる病院があっての話だ。お手上げの白旗同然、思考停止、態(テイ)のいいフリーズである。
 本当に万策尽きたのか? まだ諦めるのは早い。自衛隊の総動員だ。当面外国勢力の侵略は予測しがたいのだから、この際自衛隊を総動員して野戦病院を開設してはどうか。小出しではない、総動員だ。自衛隊には医官が1200人、自衛隊看護師が1000人いる。おまけに自衛官は健常者ばかりである(多分)。リソースは充分だ。自衛隊法第83条災害派遣の適用である。あるいは乱暴だが、緊急事態なのだから自衛隊法第3条(自衛隊の任務)「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため」を根拠とすることもできる。大きなお節介のPKOより頭の上の蝿を追うべきだろう。
 その器にあらざる本邦首相はウイルス・パラノイアに罹っている。どたいウイルス・キャリーにまでは思考が及ぶまい。国民の安全ではなくわが身の安全しかアタマにはない。妄想の“権力キャリー”か。しかし、支持率が3割を切って安全であるはずがない。はずはないが、ウイルスどもは7割の絶大なる支持を寄せている勘定だ。……変な政権! □


張本発言はそんなに悪いか?

2021年08月20日 | エッセー

「女性でも殴り合い好きな人がいるんだね。どうするのかな、嫁入り前のお嬢ちゃんが顔を殴り合って、こんな競技好きな人がいるんだ。それにしても金(キン)だから、“あっぱれ”をあげてください」
 「女性でも」と「こんな競技」がいけない。SNSは炎上し、日本ボクシング連盟は女性及び競技への蔑視であるとして抗議文を出した。
 発言の主は張本勲氏、今月8日、「サンデーモーニング」でのことであった。稿者も見ていた。蔑視よりもむしろ賞賛と受け取った。だって、“あっぱれ”進呈だったのだから。それに前の森五輪組織委会長のようなマウンティングの異臭はなかったし、いつも通りの真面目な口振りだった。
 内田 樹氏はこう言う。
〈ハラスメント的発言をする「加害者」の側は、これは例外なくコミュニケーション能力が低い人たちでした。なにしろ自分の言葉が相手にどう受け止められて、どう解釈されるかについてほとんど想像力を働かせないんですから。でも、同時にハラスメント「被害者」もしばしばコミュニケーション能力に問題を抱えている人がいます。自分に向けられた言葉に複数の解釈可能性があるときに、「自分にとって一番不愉快な解釈可能性」をなぜか自動的に選択する。どうしてわざわざそういうことをするのか、「侮辱に対する感受性が高い」ということを社会的な意識の高さであり、一種の能力だと思っているのかも知れません。〉(「日本の覚醒のために」から抄録)
 「『自分にとって一番不愉快な解釈可能性』をなぜか自動的に選択する」場合が稿者にもある。それを常とする人もいる。内田氏は「『侮辱に対する感受性が高い』ということを社会的な意識の高さであり、一種の能力だと思っている」と推するが、そのものズバリであろう。
 一時代前までは受け手の「虫の居所」で済んだ話だ。オリンピックのゴタゴタで羮に懲りて膾を吹いたのか。張本氏といえば、日本プロ野球初の3000安打達成をはじめとする数々の大記録保持者すなわち球界の勲(イサオシ)である。だが、今や齢81の爺さん。開けて通してやればいいではないか。稿者なぞ市井の民草にとってはそれこそが「一種の能力」だと心得ている。
 ついでに言うと、実姉の小林愛子さんは名うての反核運動家であり被爆者語り部。核兵器廃絶を求める「ヒバクシャ国際署名」に取り組み、たった一人で3481名の署名を集めた。弟の3085本の安打最多記録を目標に取り組んだ結果だそうだ。両人ともヒバクシャ。今、弟も語り始めた。
「赤いんだよ。赤かったのを覚えている」
 ガラスが突き刺さった母の背から滲む血の色をそのニオイを片時も忘れない。そんな氏が人権に無頓着なはずはないではないか。にわか意識高い系は姉弟の爪の垢を煎じて飲んでみてはいかがか。 □


「兵諫」

2021年08月19日 | エッセー

 19世紀末葉から約半世紀の中国史を編む。抜きん出た膂力でなければ叶わぬ壮大な試みだ。
 浅田次郎著『蒼穹の昴シリーズ』
  第1部 「蒼穹の昴」 清朝末期、西太后、戊戌の変法 2巻
  第2部 「珍妃の井戸」 義和団事件
  第3部 「中原の虹」 辛亥革命、張作霖 3巻
  第4部 「マンチュリアン・レポート」 張作霖爆殺 1巻
  第5部 「天子蒙塵」 満州事変から満州国建国  4巻
 単行本で11巻。なんとも長大な物語である。1996年の初刊から四半世紀を迎える今夏、12巻目となる第6部「兵諫(ヘイカン)」が加わった。描かれるのは「西安事件」、なぞの多いこの事変に作者は独自の史観から縦横に斬り込んでいく。まさに縦横、重厚かつ鮮やかなドラマツルギーである。当然、日本も絡む。前後の昭和史を略記する。

1931 昭和 6年   柳条湖事件から満州事変へ
1932 昭和 7年      満州国建国/5・15(犬養首相殺害)
1933 昭和 8年   関東軍、熱河作戦開始
1934 昭和 9年   溥儀が満州国皇帝に即位
1935 昭和10年   統制派永田鉄山暗殺
1936 昭和11年   2・26(高橋是清大蔵大臣、内大臣斎藤実ら暗殺)
             西安事件(12月)
1937 昭和12年   盧溝橋事件から日中戦争へ/第2次国共合作/南京占領

   日本近現代史が専門の東京大学教授加藤陽子氏は、昭和8年をターニングポイントにして「昭和のファシズム化」が急進したとみる。沸点は 2・26 。第一章は「死刑囚の沈黙」。死刑囚村中孝次元陸軍歩兵太尉と、面会人志津邦陽陸軍歩兵太尉上海派遣軍司令部付との死刑執行を目前にした面会が綴られていく。12頁に亘る面会記録の字面が読み手をして一気にドラマの渦中に引き連れていく。作者の“いつもの手”なのだが、これが心憎いほど効いている。
 西安事件は兵諫であった。作者は今作の画竜点睛を志津に語らせる。
〈志津はいかにも軍人らしく、彼の考えを手短に、要領よく口にした。
「蒋介石はあくまでも安内攘外策を譲らない。そこで学良を更迭し、東北軍と中央軍を交代させてでも政策を貫徹しようと西安に乗り込んだ。学良はついにその身柄を拘束して方針の変更を迫った。つまり、クーデターではなく、兵諌だ」
「脅迫じゃないのか」
 志津が答えた。
「張学良は命を捨てている。よってクーデターではない。兵諌だ」〉(一部割愛、引用者註・安内攘外とは共産軍の掃討を優先させ、後、抗日戦に移る戦略)
 蔣介石拉致監禁事件。兵諫は成り、第2次国共合作が結実する。なぞは周恩来の動きだ。なにが語り合われたのか。張学良の最側近護衛官を影の主役としつつ核心が繙かれていく。見事な筆致だ。
 そして、兵諫にはもう一つの深層があった。中華皇帝が抱(イダ)くとされる世を統べる統治者たるの証、龍玉だ。ここで『蒼穹の昴シリーズ』はなんらの飛躍なく首尾一貫する。
〈蒋は欲する。張は譲らぬ。そして、天は物言わぬ。
 業を煮やした蒋介石は、中央軍を後方にとどめ、わずかな親衛隊に護られて洛陽に入った。華清池において張学良との密議に臨むために。
 そして、虜になった。張学良にとって、彼はけっして龍玉を持つべき人間ではない。しかしそれでも国家の指導者は、彼しかいないと信じている。よって、兵諌の挙に出た。〉 肇国の神話、その具体が龍玉である。これこそ冒頭で述べた「独自の史観」の具体である。
 「事件の決行者の役割を照射することで、見えざる大戦前夜の構図が浮き彫りになってくる」と保阪正康氏は評した。
 76年目の8・15に熟読玩味すべき高々とした神品である。 □


8・15 敗戦の日

2021年08月14日 | エッセー

 76年目の8・15が来る。世に言う「終戦の日」である。三国同盟の内、伊は4・25を「解放記念日」、独は5・8を「解放の日」と言う。「終戦」と「解放」、なぜ違う?
 解放と言うからには何から解放されたのか。ドイツはナチスから、イタリアは国家ファシスト党からリリースされた。だから、「敗戦」は解放なのだ。敗れたのはナチであり、ファシストである。国家的畸形児により一国が不法占拠された。その歴史的異胎を駆逐することによって祖国を取り戻した──“そういう話”になった。
 日本はどうか? “そういう話”にするために本質的に欠落したものがあった。司馬遼太郎が名指した大本営という鬼胎は排除したものの、代替し得る反抗勢力がなかった。ドイツには反ナチ勢力が軍部にもいたし、イタリアには武装パルチザンが烈しい戦いを繰り拡げてきた。実際彼らが祖国を継承したかどうかは別にして、国家を引き継ぐ正当性を主張できる勢力がいた。しかし、日本には降伏まで組織として抵抗を貫いた反戦勢力は存在しなかった。解放して救い出すべき囚人(メシウド)がいない。悲しいことに、国民は鬼胎と共犯関係にあった。したがって、解放と公言できる根拠がないのだ。ではなぜ敗戦と言わない? 敗戦を終戦と言い換えることによって敗戦に蓋をするためだ。詰まるところ、臭い物には蓋は日本の宿痾である。
 加うるに、論理的には戦争責任は大元帥にまで至る。そうではあっても、大元帥を敗軍の将にはできない。敗戦と即時にこのゴルディオスの結び目を一刀両断するわけにはいかない。中核的権威を抜き去られた国家は瓦解するほかないからだ。権力は瞬時に差し替えられるが、権威をすげ替えるには歴史的時間を要する。
 国際法上は1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約発行により戦争は終結した。それで、同日を「主権回復の日」や「サンフランシスコ条約発効記念日」と呼んでいた。この前日までは「降伏記念日」や「敗戦記念日」と呼んだ新聞もあった。だが、1957年「引揚者給付金等支給法」の中で8月15日を終戦の基準と定めた。以降、「終戦」が定着した。
 敗戦国は多くの場合、自らの敗戦を否認する。敗戦に対する自虐史観との論難と他責的な牽強付会は国家の心理であり生理であろう。しかし、なにかが隠される。日本の場合、敗戦を否認することで敗戦が永続するというパラドックスが生まれた。
〈1945年以来、われわれはずっと、「敗戦」状態にある。『永続敗戦』──それは戦後日本のレジームの核心的本質であり「敗戦の拒否」を意味する。国内およびアジアに対しては敗北を否認することによって「神州不滅」の神話を維持しながら、自らを容認し支えてくれる米国に対しては盲従を続ける。敗戦を否認するがゆえに敗北が際限なく続く──それが「永続敗戦」という概念の指し示す構造である。〉
 白井 聡氏は『永続敗戦論』でそう喝破した。“そういう話”が作れないまま戦後の日本は経済的絶頂を迎え、そして今、免れ難い閉塞の中にある。その只中で、かつての「神話」への郷愁を強めつつあるように見える。改憲パラノイアは永続敗戦の顕著な病症だ。その病識と病因を忘失すれば「いつか来た道」は刹那に再現される。
 今年の8・15もまた敗戦の否認のまま迎える。310万超の死者はそれで報われるであろうか。 □


スケボーこそ原風景

2021年08月10日 | エッセー

 いやがおうにも見せられた中で、唯一膝を打った競技があった。スケートボードでの開 心那(ヒラキ ココナ)の活躍だ。女子パークで銀メダル。12歳、日本オリンピック史上最年少であった。
 ド素人の浅知恵でいうと、子どもの遊びである。大人の体躯ではあんな芸当はどだい無理だ。競技の舞台はパークにせよストリートにせよ、公園と街中をギリギリ単純化した構造である。
 ボードはサーフィンを街中に再現したことから発祥した。街の雑踏を滑走するサーフンだ。だから、子どもの遊びという。しかし、これがいい。これこそスポーツの原点ではないか。先月の拙稿『真夏の狂詩曲』で霊長類学者・山極寿一氏の高説を引いた通りである。繰り返すと、以下の3点。
① スポーツの起源は遊びである。
② 勝つことが目標ではなく仲間になること。
③ 一番の問題は国の威信をめぐる戦いの場と化していること。
 ① は前述のとおり。技が成功しても失敗しても選手みんなで讃え悔しがる。② の仲間意識だ。さらに、国なんぞまったく背負っていない。③ を軽くクリアしている。だから、膝を打ったのだ。
 振り返るに、スケボーに火をつけたのは『Back to the Future』だったかもしれない(多分、想像するに)。高校生のマーティ・マクフライが街中を縦横に乗り回していたのがスケボーであった。SFを壮大な知的お遊びだとすれば、あのスケボーは存在感のある小道具だったともいえよう。
 ともあれ、スケボーはスポーツとオリンピックの原風景を描き出してくれた。ブラボーだ。
 一方で、化けの皮が剥がれた痛恨事があった。開催期間に当たる8月6日「広島原爆の日」に黙祷を捧げるという広島市などの提案をIOCがにべも無く蹴ったことだ。バッハの広島平和公園訪問は一体何だったのか。チープな猿芝居か。本来ならJOCが、いや政府を挙げて提案すべきだった。競技を一斉に止めるのは難しい、核保有国が絡み政治性を持ち込むことになるなど小理屈を並べて取り上げなかった。「平和の祭典」がとんだ看板倒れである。政治性を理由に挙げること自体、政治性を補強している自己撞着になぜ気づかない! 
 政治性というなら、元々安倍晋三が己(オノレ)のレガシーづくりに「フクシマはアンダーコントロール」と大嘘をついて招致したイヴェントである。その先には国民の高揚感を掻き立てて憲法改定に直進しようとする野望があった。ところがコロナでそれは潰えた。善良な公務員を死に至らしめてもなお19年11月から昨年3月まで、国会で119回もウソをつきまくった御仁である。「本当なら首相も議員も辞める」が発端だった。語るに落ちる、だ。
 後継の菅義偉はコロナ対応での無反省と無策が祟って今や支持率は3割を切っている。オリンピック強行に活路を求めたものの、五輪支持は6割あっても内閣支持は完全にデッドゾーンに入った。緊急事態宣言のたびに繰り返される「安心安全」のストックフレーズ。こちらは失語症、『語らずに落ちる』だ。
 ともあれ、かくして『狂気の沙汰』(内田 樹氏)はデルタ型のパンデミックとともにフェーズを永田町に移す。さて。 □


「ラララ」から「い」へ

2021年08月07日 | エッセー

      〽人間なんて ラララ ラララララ
        人間なんて ラララ ラララララ

 50年前の今日、喉笛を掻き毟りながら、溢れる怒気を青年はぶつけ続けた。何かに向かって……。マイクは壊れている。青年の肉声に千人を超えるオーディエンスが和し、轟音は中津川の天地を領した。

   〽何かが欲しい オイラ
    それが何だかは わからない
    だけど 何かが たりないよ
    いまの 自分もおかしいよ

 繰り返され、畳み掛けられる叫び。2時間も、だ。グルーヴはやがて呪詛となり、極北のトランスへ。1973年8月7日、中津川フォークジャンボリーはそのようにして伝説となった。
 青年は、一体、なにに怒っていたのだろう。潰えたスチューデントパワーへの憤りだたのか。この年襲ったオイルショックに経済成長の躓き、浅ましき市井の狂奔を見たためか。ベトナムの戦火は終焉したものの、テロやハイジャックは激化していく。その不条理への嘆きか。ともあれ青年は仁王立ちになってギターを掻き毟り、身を捩りながら体内の毒を嘔吐し続けた。まるでサルトルのように。
 『人間なんて』は71年のリリース。2年後の73年には岡本おさみの作詞で『ひらひら』を発表。「見出し人間」がキーワードだった。

   〽喫茶店に行けば今日もまた
    見出し人間の群れが押し合いへし合い
    …………

 交わされる恋話は週刊誌の見出しで目にした赤の他人のゴシップ。

   〽ラッシュアワーをごらんよ今日もまた
    見出し人間の群れが押し合いへし合い
    …………

 交わされる儲け話はどこかで小耳に挟んだどこかの噂話。
 「ほんとの話」を語れ。近づきすぎるとマッチの火ですら火傷する。「そんな頼りないつき合いで

   〽おいらもひらひらお前もひらひら
    あいつもひらひら日本中ひらひら

 見出しで止まり内面には踏み込まない。ステロタイプな人間の群れが日毎の活計(タツキ)を繰り返す。突き放したシニシズム臭の強い作品であった。
 そして、『ひらひら』から30星霜。2003年、『人間の「い」』を世に問う。
   〽じれったい抱きしめたい
        うしろめたいいとおしい
        許せないいくじがない
    信じていたい心地よい
    …………

 ちょうど若者たちの間で「『い』抜き言葉」が濫用され始めたころではなかったか。「痛い」ではなく「痛ッ」、「うまい」ではなく「うま」に。言葉の省力化は自然の成り行きだが、感嘆符を代替する妙手として拡散していった。彼はその流れに「い」を40数個連ねることでアンチテーゼを突き付けたのであろうか。
 「い」で終わる言辞とイ形容詞の羅列だ。日常のほぼ全ての場面を切り取って人間を活写しようとした作品だ。結びはこうなった。
   〽いつだって「い」
        これからも「い」
    人間の「い」僕たちの「い」
    永遠の「い」命がけの「い」

 「ラララ ラララララ」は「ひらひら」を挟んで、人間の「い」に至った。青・壮・老と、人生のフェーズを大鉈で切り別けた半世紀だ。こじつけと嗤うなかれ。一意的解釈より切り口が多くあることは高々と屹立する秀作の条件である。 □


なぜ、「を」を入れたがる?

2021年08月01日 | エッセー

 もう一度、今年2月の拙稿を引いてみる。

「を」入れの氾濫
 本稿でも引いた言語学者の野口恵子氏が敬語の過剰な多用が謙譲語の混乱を招いたと批判している。「○○様とお会いをいたしました」は「お会いいたしました」でいい。最近、この傾向が政治家や官僚に際立って多い。
 〈新型コロナウイルス感染症に関する菅内閣総理大臣記者会見
 緊急事態宣言の対象に7つの府県を追加すること『を』決定いたしました。〉(首相官邸HPから抜粋)
 「追加すること『に』決定いたしました」ではないか。
 〈閣議の概要について申し上げます。一般案件等80件、政令、人事が決定をされました。〉(昨年10月2日、官房長官会見)
 〈それほど大きな時短『を』協力していただいたわけではないのかなと思います〉(本年1月29日、西村内閣府特命担当大臣会見)
 これも『に』だろう。
 馬鹿っ丁寧が度を超して、付けなくていい「を」を付ける。安全運転のつもりが飛んだ墓穴だ。ビジネス言語が国政の場で濫用される。コマーシャルベースそのままだ。会社は潰れたって責任は有限。一国は潰すわけにも合併するわけにもいかない。責任は無限だ。背景にはなにより、政治が市場原理に呑み込まれ株式会社化しているという趨勢がある。昨年12月の愚案「ウソつきはアベシンゾウのはじまり」で呵した通りである。(『爺の毒舌』から)

 なぜ、繰り返したのか。それはTV界をも巻き込み始めたからだ。二束三文のコメンテーターからアナウンサーまでこれに染まりつつある。永田町発の言葉感染だ。病膏肓にいる、である。言葉狩りをしているのではない。てにをはを正確に使わないと、意図が正しく伝わらないからだ。
 店で商品を頼む。所望のものと違った場合、関東では「これではありません」と言う。関西では「これと違います」と言う。前者は全否定、稿者は選択の余地を残している。商人(アキンド)の町といってしまえばそれまでだが、さすがに言葉づかいが練られている。江戸は武士の町だったためか yes or No を際立たせたのかもしれない。当今のお笑いはその逆で、関西が「なんでやねん!!」と強い異議申し立てをし、関東は「いい加減にしろ」と頃合いで引き取ってしまう。関西の「めっちゃ」は「超」を抜いて、今や全国制覇した。「歌は世につれ」だがSNSの影響もあってか、「言葉は世につれ、世は言葉につれ」の様相を呈している。
 そこで、本題。「政治が市場原理に呑み込まれ株式会社化しているという趨勢」が「『を』入れ」を誘引している。心のありようを響かすものが言葉であってみれば、「を」入れにはどのような心象が凝っているのか。突飛に聞こえる結論を言うと、憲法の手柄だ。
 お願いベースを超えられないもどかしさが「馬鹿っ丁寧が度を超して、付けなくていい『を』」を付けさせているとみていい。有無を言わさぬ強権的手法が採れない。特措法自体が最高法規である憲法の諸規定に縛られる。──時短・外出自粛 VS.憲法22条「営業の自由」「移動の自由」、憲法29条第3項「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」 VS.支援・給付金の遅延、などなどだ──「もどかしさ」とはその不如意だ。ギリギリまで迫ってなお越えられない憲法の壁に直面した足掻き、焦り、ないしは悔いだ。ロックダウンなぞちらつかせようものなら、たちまち違憲論争が沸騰するにちがいない。内閣の雁首は一斉に須臾の間に飛ぶ。
 地団駄の代わりに言葉尻に「を」を差し込む。小さな腹いせ、大きな逆恨みだ。だから、憲法の手柄だという。さらに揣摩憶測すると、憲法改定の論議が俎上に載らないのは失策の連続で支持率が急減しているからだ。衆院選は目の前。自縄自縛である。
 先日の記者会見冒頭。
「東京都と沖縄県の緊急事態宣言を8月31日まで延長すること“を”決定いたしました」
 また「を」入れだ。地団駄踏んで、どじ踏んで。よたよた歩きでてめーの足まで踏んですってんころり、か。 □