伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

あれから5年

2011年04月30日 | エッセー

 このブログを始めてまもなく、以下の拙稿を載せた。
〓〓やはり、またしても一国挙げての袋だたきが始まった。異論を恐れず言おう。彼らを『糾弾』することで一件落着にしてはならない。いや、彼らの『犯罪』にすべてを収斂させて事足れりとしてはならない。時代と社会のうねりを見据えず、特異な出来事で終わらせてはならない。彼らは『ガリレオの望遠鏡』であり、平成の世は『盗賊プロクルステス』である、とは言うまい。しかし、なにかのスケープゴートにされようとしているのではないか。というより、アンシャンレジームの逆襲が始まったような気がしてならない。アナーキーな主張をしているのではない。もっとやわらかい眼がほしいのだ。なぜマスコミはいとも簡単に手のひらを返す。きのうの味方はきょうの敵か。角を矯めて牛を殺す愚は避けたい。アンシャンレジームといっても、特定の勢力ではない。人の世の潮目、風向きのようなものだ。彼らは巨力に弄ばれたドン・キホーテでしかなかったのか。
 この国はいま、もがいている。60年一回りしたこの国が二回り目に呻吟している。クレーターが見えたからといって教授たちを嗤うまい。鬼子といえども、わが胎(ハラ)を痛めた子である。寝台ではなく身の丈を切り揃える恐怖を忘れまい。見えても見ていないことは日常茶飯だ。〓〓(06年6月「望遠鏡と寝台」より)
 「望遠鏡を『投げ捨てた』」とは、ガリレオが行ったデモンストレーションでの学者たちの反応である。「寝台」は、「プロクルステスの寝台」である。文中の「彼ら」とは、堀江貴文と村上世彰を指す。
 そして今月、幕引きを迎えた。
〓〓堀江貴文・旧ライブドア元社長 敗訴確定
 旧ライブドアをめぐる粉飾決算事件で、最高裁第三小法廷(田原睦夫裁判長)は、証券取引法(現・金融商品取引法)違反の罪に問われた元社長・堀江貴文被告(38)の上告を棄却する決定をした。25日付。懲役2年6カ月の実刑とした一、二審判決が確定する。
 決定に対しては異議を申し立てられるが、認められることはほとんどなく、第三小法廷が棄却した時点で刑が確定し、収監される。
 一、二審判決によると、堀江元社長は、(1) 旧ライブドアの2004年9月期の連結決算で、計上が認められていない自社株の売却収入を売上高に含めるなどの手口で約53億円の粉飾をした(2)関連会社が04年10月に出版社の買収を発表した際に、虚偽の内容を公表し、関連会社の決算短信を黒字と偽った。
 旧ライブドアは企業買収などで急成長。04年にはプロ野球への参入を表明し、05年にはニッポン放送株を大量に取得するなどして話題を呼んだ。堀江元社長は、同年9月の衆院選に広島6区から立候補したが落選。06年1月に東京地検特捜部に逮捕された。〓〓(4月26日付朝日)

 同じ朝日は、5年前以下のような社説を掲げた。(抄録)
〓〓節度ある市場社会へ 墜落した「挑戦者」  
 社会に新風を吹き込んだはずの「時代の寵児」が相次いで墜落した。ライブドアの社長だった堀江貴文被告と、村上ファンドを率いた村上世彰容疑者である。
 多くの一般株主をだまし、証券市場の信頼性を台無しにした罪が問われているが、単なる経済犯罪にとどまらない重い意味を持つ。これからの日本社会が目指す方向をも左右しかねないからだ。
 2人を生んだ土壌には、「失われた10年」の経済沈滞からなんとか抜け出したいともがく国民の焦燥感があった。
 そのためには、新しい技術や経営で未来を切り開く起業家がほしい。米国で成功したIT(情報技術)革命と、企業価値を問い直して投資家に報いる株主資本主義は、救世主のようにも映った。
 学生ベンチャーとして起業し、インターネット事業を手始めに拡大路線を突っ走った堀江前社長は、Tシャツ姿の斬新さや旧世代に物おじしない言動で挑戦者の名をほしいままにした。
 「カネで買えないモノはない」。堀江被告はうそぶいた。市場原理は拝金主義に行き着くのか。そんな懐疑に国民がとらわれている。
 人々が自由な意思で利益を求め、競いあう。経済活動に活力を与え、豊かな社会へとつながる。そんな考え方に支えられた市場主義は本当に人を幸せにするのか――。日本でも資本主義の夜明けの時代に論争が戦わされていた。
 明治の思想家、福沢諭吉は、独立と自由を重んじる「市場社会」を理想とした。その考えは、共感の一方で「利己主義に陥る」「人を無情で冷淡にする」といった反論も浴びた。政治思想史学者の故坂本多加雄さんは著書の『市場・道徳・秩序』で、そう指摘している。〓〓(06年6月12日)
 同じ06年7月、内田 樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」(新潮新書)が発刊された。翌07年に、第6回小林秀雄賞を受けた作品である。受賞を知って読んだのは、ホリエモンが記憶から薄れかけていたころだ。

■パリ・コミューンの騒擾はコミューン派内部のユダヤ人とヴェルサイユ政府軍側のユダヤ人の共謀によるものであり、第三共和政は安全にユダヤ化されたブルジョア政体であり、金権主義的フランスでは「すべては証券取引所から出て、証券取引所に帰す。すべての行為は投機に還元される」。
 このドリュモンの近代社会批判は(悪いのはすべて「ユダヤ人の陰謀」という説明の部分を除くと)、今日、日本のマスメディアが垂れ流している社会批判の記事のスキームに酷似している(「ほとんど同じ」といっていいくらいだ)。そこで憎々しげに語られるのは、何よりもまず、ブルジョア的な拝金主義、成金趣味、出世主義、パリ万国博覧会に象徴される科学技術万能主義、軽佻浮薄な都市文明……に対する本能的な嫌悪と恐怖である。翻って、ドリュモンが情緒たっぷりに哀惜してみせるのは「老いも若きもが教会で一緒に祈ることによって知り合い、無数の伝統的な絆で結ばれ合い、支え合い、愛し合っていた社会」である。緑滴る田園、大地に根づいた農夫の暮らし、全員が慈しみ合い愛し合う村落共同体、教会を中心とする敬虔なカトリック信仰、「ノブレス・オブリージュ」の美徳を体言する王侯貴紳、愛国心溢れる勇猛なる兵士……などが表象する失われた古き良きフランス。■(上掲書より)

 朝日の社説との酷似に驚く。「すべては証券取引所から出て、証券取引所に帰す」とは、いかにも象徴的だ。
 「ブルジョア的な拝金主義」は、「『カネで買えないモノはない』。堀江被告はうそぶいた。市場原理は拝金主義に行き着くのか。」に対応する。「成金趣味」は、高級外車やグルメ三昧、芸能人とのゴシップ、競走馬など挙げれば切りがない。「出世主義」をプロ野球球団やニッポン放送の買収に看てもいいし、それは政界への挑戦に極まったといえなくもない。「パリ万国博覧会に象徴される科学技術万能主義」は、そのまま「米国で成功したIT(情報技術)革命」に乗った「インターネット事業」であった。「軽佻浮薄な都市文明」は、根城とした六本木ヒルズに表徴させてもいい。「失われた古き良きフランス」は、福沢が受けた「利己主義に陥る、人を無情で冷淡にするといった反論」の後景に擬えることができよう。
 ドリュモンは反近代主義ロマンティシズム、つまりは懐古趣味の反ユダヤ主義者である。もちろん、内田氏の念頭にホリエモン事件はなかった。ただ一般にホリエモンをユダヤ人に模して批判するレトリックがあることは、上記内田氏の論詰がドリュモンから1世紀を経た今でも適用され得る理路の確かさと、批判者の知的未熟さを端無くも顕してはいないか。

 判決の後、彼は「先を行くことはリスクを伴う」と語った。その言葉を信じたい。「見えても見ていないことは日常茶飯だ」からだ。さらに、「人生ゲームの駒が一つ進んだ感じ」とも語った。その言葉を預かりたい。「鬼子といえども、わが胎を痛めた子である」からだ。さばさばした表情が印象的だった。その顔で、帰ってきてほしい。□


大言論 Ⅱ

2011年04月24日 | エッセー

§「焼け石に水」について
 ふと考えた。「焼け石に水」をひっくり返せば、原発の原理になる。『水に焼け石』ではないか。焼石鍋の伝だ。蓄熱や遠赤外線の効果もあるらしい。ところが、こちらの焼け石は始末に困った。揚がった湯気で蓋は吹っ飛び、焼け過ぎてしまって石自体が溶けそうになっている。そのうち鍋底を突き破るのではないかと、気が気ではない。空焚きにならぬよう、とにかく冷やせと慌てて水を掛けてもいっかな埒が明かない。つまりは焼け石に水である。

■要するに先を考えない。そういうことで進めてきたのが近代文明だといっても、おそらくいい過ぎではないであろう。
  「死んだら本人に年金は不要だろ」、「石油はいずれなくなるだろ」というと、当たり前じゃないか、といわれる。でもその当たり前を本当に考えているのか、そこが疑わしい。というより、考えていないに決まっている。自分が死ぬことを考えている暇なんかない。そのときはそのとき、それが健康な考え方であろう。でもそういう健康な人ばかり集まると、なぜか戦争になったりする。病人が集まって戦争をしたという話は聞いたことがない。ヤケになっていいのは、死期を悟った病人のはずなのに。■(新潮社「養老孟司の大言論Ⅱ」より、以下同様)

 後段は皮肉が利き過ぎて、目眩がするほどだ。「当たり前を本当に考えてい」なかったツケがフクシマであろう。原子炉の中では至極「当たり前」の事態が進行しているのに。
 壁は、「想定外」である。都知事選に立候補したそのまんま東クンは「想定外を想定するのが行政」と、愚にもつかないトートロジーを得意気に語っていた。「想定外を想定する」のは占い師の仕事だ。行政は想定する仕事しかできない。してはいけない。なぜならリヴァイアサンは「想定外」にはみ出さないよう、法の軛を嵌められているのだから。
 行政は万能ではない。人為の一部でしかない。そこはきちんと見極めておくべきであろう。問われているのは、「近代文明」である。ぶっちゃけていえば、今を生きる一人ひとりのありようだ。「そのときはそのとき」という「健康な考え方」である。それが、『水に焼け石』を生んだ。
 「病人」と原子力を重ねると、黒澤映画「生きものの記録」がどうしても連想される。ビキニ環礁での水爆実験に想を得た作品である。核兵器の脅威に精神を病んだ老人がわが家に火をつけ、ついに病院に入れられる。ラストシーン、病室の鉄格子から見える夕陽に向かい、「ああ、地球が燃えている」と叫ぶ。興行的には失敗に終わったが、中身は黒澤作品の中でも特筆に値する重みがある。モノクロなのだが、あの夕陽は鮮やかな赤色で記憶に残っている。

■石油がなくなった後の世界を考えると、私は逆に、人々がいまより幸福になるという確信がある。地産地消で適当な密度で人々は全国に散らばる。エネルギーがもったいないから、むやみに車で動かない。たかだか七十、八十キロの人体を運搬するのに、トンという重さの重機械を動かしている現状は、正気の沙汰ではない。冷房をやめれば、都市を涼しくなるように設計するしかない。マフィアに殺された人間じゃあるまいし、コンクリート詰めはいい加減にしてくれ。機械のかわりに身体を動かせば、糖尿も痛風も減る。それをイヤだと思っているのは、やったことがないからに過ぎない。■

 「たかだか七十、八十キロの人体を運搬するのに、トンという重さの重機械を動かしている現状は、正気の沙汰ではない」とは、返す言葉がない。正気でないなら、かの老人のようにやはり医者の沙汰を俟つしかないか。


§「異体同心」について
■感覚は「違う」という機能であり、内的意識は「同じ」という機能だ。
 白馬と馬は、どこが違うんだ。感覚で捉えれば、両者は違うに決まっている。しかし、概念上では議論になりうる。中国哲学では事実議論になった。
 個人を支えるのは、よかれ悪しかれ、まず身体である。それを忘れた社会は、なくなってしまうはずである。存立の基盤が消えるからである。その身体を、意識が思うようにしようとする。それが現代人、都会人の根本の問題であろう。意識より身体のほうが広い。寝ている間も、身体は存在するが、意識は存在しない。それだけ考えたって、わかるはずである。■

 養老思想の核心は唯脳論、脳化社会、と括ることができよう。著作といわず、講演といわず、随所に出てくる。──感覚は「違う」という機能であり、内的意識は「同じ」という機能──身体は異なり、心は同(ドウ)じようとする。要するにそれは古来の言葉でいえば、「異体同心」ではないか。今にしてひらめいた。
 漱石は、「吾輩は猫である」で使っている。
「異体同心とか言って、目には夫婦二人に見えるが、内実は一人前なんだからね。」
 空似言葉(類形異義語)といえなくもないが、古人の智慧が意識と身体の原理を明晰に弁えていたのは確かだ。寡聞にしてこの熟語の起源
を知らぬが、千年に及ぶほどに古かろう。
 とすると、「現代人、都会人の根本の問題」は『同体異心』にあるといえる。『同体』も『異心』も、どだい端っから無理な話なのだ。

■なぜ人間がそこまで厄介かというなら、多細胞生物として発生してから五億年以上も経った生きものだからである。それが単純なわけがないでしょうが。それを対象にして「意識的に考える」ヒトの脳ミソの歴史といったら、たかだか五万年ていどであろう。五万年と五億年じゃあ、始めから勝負にならないと私は思うが、現代人は無意識的唯脳論だから、そうは思わないのであろう。ちゃんと考えたら、ちゃんと答えが出るはずだと信じているらしい。それなら自分の命日がわかるかと、私はいつも反論するのだが。■

 すげぇーカウンターパンチだ。養老節、炸裂である。


§「白いブランコ」について
 かつて嫌いだったものは、不思議にも今でも嫌いだ。なんだかのCMに、年老いて干涸らびたビリーバンバンが出てきてこの唄を歌っている。鳥肌が立っている間に、さらに鳥肌が立つ出来事があった。4月18日栃木県鹿沼市の国道で集団登校中の小学生の列にクレーン車が突っ込み、児童6人が死亡した事故だ。

■ブランコで事故が起こるから、学校からブランコを撤去したという。ブランコすら撤去するんだから、虫採りなんて、とんでもないであろう。子どもが犠牲になる事件が増えている。もちろん痛ましいことなのだが、そういう状況で、子どもが「逃げられない」のが、私には信じられないのである。クモの子を散らすというではないか。子どもは弱いもので、危機に臨んでできることは、逃げることだけである。■

 個々の事情はもちろん違うであろうが、大括りの状況は同じだろう。素速い身動きのとれない集団登下校自体にも問題がある、という専門家の意見もある。宜なる哉である。
 
■不安であることを悪であると見なす世の中が、べつにマトモだとも思えない。不安は動物に作りつけられた性質で、それがなければ動物は安全には生きられない。ゆえに、不安は消すのが当然だという反応をするのは、じつは理性的ではない。しかし近代合理主義は、あらゆる不安を消すことをモットーとしているのである。核家族は老人を排除し、いまでは子どもすら排除する。そろそろ同居しなければならないものを、もう一度、生活に戻したらどうか。不安を排除し、奇跡を排除し、タバコを排除する。黴菌を排除し、ゴキブリを排除し、最後に人間を排除するのは、時間の問題であろう。■

 「白いブランコ」はノーサンキューだが、ブランコは要る。このさい白でもいいから、校庭の片隅に置いておくべきだ。

  養老孟司の大言論 Ⅱ
  嫌いなことから、人は学ぶ
  新潮社 3月発刊。

 Ⅰ にも増して内容は深い。すべてを紹介することは能を超え、分を逸する。際立って印象に残った3点だけをピックアップした。
 副題は小憎いほどに気が利いている。これでは読まざるを得ないではないか。だから、「白いブランコ」にも触れてみた。だがしかし、
  〽君はおぼえているかしら
   あの白いブランコ
   風に吹かれて二人でゆれた
   あの白いブランコ〽
 とは、いかにも臭い。それに、ブランコの使用目的から大いに外れる。揺れるんじゃなく、しっかりこげよと、今もなお言ってやりたい。

■人生は、予定ではない。私の人世は、予定しなかった事件の想い出に満ちている。職業の選択も結婚も、いわば「不慮のできごと」だったというしかない。自分の命日すら知らないのが、人間ではないか。現代の「まともな」人々は、予定された世界に住む。予定をするのは意識で、意識と言葉はしっかり結びついている。人生をすべて言葉にすることができるのだろうか。■

 「不慮のできごと」と言い放つ精神は、まちがいなく大きい。だから、今度も「大言論」だ。□


春の名残

2011年04月19日 | エッセー

 四月も下旬に向かうある朝。運転席に座ってふと見ると、微かに紅(ベニ)を残した桜がひとひら、窓ガラスに貼りついていた。
 健気という言葉が、ふと滲む。散ってなお、なにかをうったえようとするかのようだ。
 散り際がこの華の粋(スイ)だという。なのに、無粋を承知でどれだけの距離を飛び来ったのか。
 もちろん、偶然に過ぎない。だが、偶(タマ)さかの些事に意味を塗るのがひとの営みでもある。その営みを畢生にまで引き延ばせば、

   「おもしろき こともなき世を おもしろく」

 となる。そう晋作は詠んだ。

 ことしの春は、殊更に重い。それでも咲いて散るこの華に、
   その万朶の照り映えに、
   春の風に巻かれる花びらの群舞に、
 ひとはいつもとは違うなにかを受け取り、かつ預けたにちがいない。
                     
   人為を超える常(トコ)しなえの自然。   
      その悠久のしじまに誘(イザナ)われ還っていった
   幾千幾万の友垣へのレクイエムか。
   突然の理不尽。宿命の不条理。
   怨嗟を深く蔵(シマ)い込んで
   能う限りの微笑みで送る別れの舞か。
   打ち拉がれた背中を音もなく摩る
      慈愛の、無数の掌(タナゴコロ)か。
   それとも、
   人為の限りを尽くし
   なおも自然の悠久に伍さんとする生者への喝采か。
      さらには、
      桜木が厳冬を超え、春を演ずるがごとく
   「おもしろく」生きようとする健気への賛辞か。

 走りだした車に煽られ、花片は消えた。春の名残というには、あまりにあっけない。□


ああ、ブロークン・ジャパニーズ

2011年04月18日 | エッセー

 慌ただしい朝めしどきにこんな爆笑物は止めてほしい。4月15日、NHK朝のニュース。福山哲郎官房副長官が出てきて、原発避難についてインタビューに応える。
「福島原発からの避難区域には、たくさんの牛もいらっしゃいますので……」
 噴き出しそうになって、あわてて口を塞いだ。文字通りの噴飯ものだ。上司であるコダマ長官(前々稿、SONさんのコメントを参照されたい)から伝染したのか、バカ丁寧な言葉遣いにもほどがある。それを言うなら文法上、「たくさんのお牛さまもいらっしゃいますので」でなくてはいけない。でなければ、「いらっしゃいます」に対応しないではないか!? 
 おそらく下手な物言いで突っ込まれてはいけない、不用意に言質を取られてはならないという強迫観念が、見境のない過剰な丁寧表現を生んでいるのだろう。

 これはどうだろう。
 「新婚さんいらっしゃい!」を久方ぶりに見て、仰天した。紋切り型は聞いたことがあるが、尻切れ型には度肝を抜かれた。
 語尾に「です」「ます」が付かない。「言った」「笑った」「……した」「……だった」と、がさつこの上もない。新婚という限りは、少なくとも16は越えているはずだ。ああ、もはや末期症状かと天を仰いだ。
 トーク番組での、この異様さ。どうもスクリプトがあるらしく、素人ゆえに流れを掴むのがやっと。その結果が、まったく敬語の切片もない『トンデモ会話』になったらしい。この番組特有だというが、ためらいもなくそれができるのは真っ当な感覚とはいい難い。まるで幼児が話しているようだ。
 前記とは逆の現象だが、どちらもブロークンにはちがいない。丁寧と粗雑。保身と顕示。両極のようでいて、どこか通底してないか。どちらも言葉に気遣いがない。自分に気を遣う分だけ、言葉から注意力が抜けている。押っ取り刀で掴んだつもりが箒だったというところか。
 前者は限りなく慇懃無礼に近く、後者はそのままにして礼を失する。言葉尻をとらえるなといわれそうだが、言葉尻にこそ問題があるのだ。それでも後者はご愛敬で済みもしようが、前者は仮にも一国のスポークスマンだ。ブロークン・ジャパニーズもたいがいにしてほしい。こんな手合に任せておけば、そのうちブロークン・ジャパンになってしまう。桑原、桑原。

 先日の報道から。
〓〓東京で著述生活へ ドナルド・キーン教授、4月末に退職
 日本文学研究で知られるドナルド・キーン米コロンビア大名誉教授(88)が4月末で教壇を去ることになった。今後は住まいを東京に定め、念願だった著述専心の生活を始める。
 3月の震災後、かつて何度も訪ねた中尊寺や松島など東北の名勝がどうなったか気が気でないという。「56年前に『奥の細道』をたどる旅をしてから東北には格別の思いを抱いてきました。東北大学で半年ほど講義をし、中尊寺の僧職の方々とも親交がある。心配でなりません」
 「人知をもってすれば天災も抑えこむことができる」という欧米流の科学的確信には疑いを覚える。「私は日本文化に洗脳された人間。自然の持つ力には逆らえないという諦観に心ひかれます」
 「ふりかえれば私が日本を選んだのではなく、日本に私が選ばれたというのがわが人生の実感。退職後は日本に永住して、日本国籍を申請したい。日本語に浸りながら、本を読み、本を書く暮らしに徹したい」〓〓(4月6日付朝日から)
 ドナルド・キーン氏といえば、『リアル・ジャパニーズ』の守護神だ。文化勲章の受章者でもある。『昭和のラフカディオ ハーン』といって、過不足はない。その氏が日本を終の栖にするという。大震災に心打たれ、碩学が自らの老骨を駆って舞い戻る。その意気やよし、ではないか。日本人以上の日本人といえなくもない。氏と交友の深かった三島由紀夫はきっと涙している。
 地震であろうとも壊れぬもの、壊されてはならぬもの。……それを、考える。□


フクシマは御免だ!

2011年04月12日 | エッセー

 「本当にずしりと重い」論考である。「ヒロシマ・ナガサキ」が、『ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ』になろうとしている。
 4月10日付朝日新聞の「ザ・コラム」に、「ヒロシマ・フクシマ 原発が放射能兵器になる時」と題する小論が載った。少し長いが、以下要約する。

〓〓広島原爆の語り部である松島圭次郎さん(82)は、「日本に、三発目の原爆が落とされたような思いがする。でも今度は、日本自身の手によるものです」と語った。
 原発事故の痛手から核軍縮に突き動かされた大国のリーダーがいた。チェルノブイリ原発事故の時、ソ連指導者だったミハイル・ゴルバチョフ氏だ。氏はこの事故で核戦争を疑似体験した。「最も小さな核弾頭の爆発でも、放射能の強さでは、三つのチェルノブイリ原発事故に相当する。蓄積した核弾頭のほんの一部の爆発でも破局につながる」と演説し、核軍拡競争を止める決意を示した。事故から20カ月後、歴史上初めて核弾頭を減らす米ソ条約が調印された。
 多くの専門家は、今回の事故で「原発テロ」への警戒心が強まったと口をそろえる。「9・11」と「3・11」の、悪夢のような合体だ。たとえば、冷却用の水が失われると、核燃料損傷による放射能漏れの危険がある。テロリストがプールを破壊しても、同じ危険に直面する。原発を堅牢にするだけでは太刀打ちできない、サイバーテロを危惧する。コンピューターに侵入し、主電源や予備電源などを一気に停止させて、放射能放出をもたらすテロだ。ある国がたくさんの原発を運転中だとする。ミサイルなどで原発が次々と攻撃され、放射能汚染が広がれば国じゅうが大混乱になる。いわば、原発の放射能兵器化だ。
 かといって、危険性への関心の高まりはマイナスばかりではない。むしろ逆手にとって、核拡散防止に生かせないか。ほころびが目立つ核不拡散体制をこのままにして原子力利用国が増えていっても大丈夫なのか。ならばいっそのこと、安全議論を深めることで原子力利用拡大の速度をゆるめ、その間に核不拡散体制の強化をはかってはどうか。
 海外ではフクシマはヒロシマ、ナガサキの後を追うように、共通語になっている。人間と核エネルギーは共存できるのか。できるとすれば、条件は何か。それは今の人間の力で達成可能なのか。「想定外」ではすまされないことが起きうる。フクシマでのこの教訓は、核時代にずしりと、本当にずしりと重い。(吉田 文彦 論説委員)〓〓
 
 ケネディーの英邁は核兵器をダモクレスの剣だと憂いた。チェルノブイリにダモクレスの剣の鞘鳴りを聴き取ったのは、ゴルバチョフ氏の叡知であった。二人とも、その両肩に人類を背負っているという濃密な自覚があったにちがいない。さて今われわれは、フクシマになにを掴み取るのか。戦いは、まだつづいている。
 小学校高学年のころだった。親戚が贈ってくれた一冊の本。表紙に、賽子壷を伏せたような風変わりな煙突の写真が載っていた。夢のエネルギー、原子力発電所の写真だ。子ども向けの科学啓蒙書だったろうか。分かりやすい図入りの説明が全編に溢れていた。微かに覚えているのは未来技術に対する奮えるような興奮と、原子爆弾が発電所になることへの微かな違和感である。遥かな星霜を経て、あの時の齟齬が極大化し目前に突きつけられている。
 レベルは“7”になったそうだ(自己申告だから、「なった」ではなく「した」か)。福島原発は、吉田氏のいう「放射能兵器」に近似する域に達したといえる。松島翁の言う「三発目の原爆」だ。
 小論中の「原発の放射能兵器化」は、重すぎて担えないほどの指摘だ。踵を接して、「原発テロ」へのサタンの蠱惑。全国55基の原発は、一糸だに鎧わず弾雨の中に佇立する兵士か。無法の街で、飢えた男どもに裸身を晒すうら若き処女の群れか。なんとも気の鬱する話だが、それが現(ウツツ)だ。否が応でも向き合わねばならぬ。ただ、この危機が人間の側に根を持つことが、か細くはあるが唯一の救いだ。自然は操れなくとも、人なら御せる。
 
 世界史上、大地震の2割は日本で起こっている。稀に見る地震国だ。ハンディーは精神が病まなければ、アドバンテージたり得る。未踏への歩みは方角を過たねば、魁たり得る。もはや、そこに賭けるしかあるまい。
 福島は「福島」のままでいい。「フクシマ」は御免だ。□


朝飯前と冷飯食い

2011年04月08日 | エッセー

 
 見つづけると、なんだか身につまされる。ひょっとしてオレもか、などという気になるから怖い。家族にはたいがい対象となる女性がいるから無視はできぬが、本来は日本人の半分には関係ない。いや、人類の半分といってもいい。はっきり言えば、オスピーも、はるな愛も絶対に無関係だ! 
 ACジャパンの子宮頸ガン検診CMのことである。大震災以来、しっかりと刷り込まれてしまった。出演者はノーギャラだったそうだが、そんなことは視聴者の(この場合、全員の)知ったことではない。あまりの繰り返しに抗議殺到で(仁科親娘こそ、とんだとばっちりだが)、最近は引っ込めたらしい。CM再開の第一弾がこれだったのは、人生の出発地点から再度チェックを入れようとの意図か。そうとでもしないと、辻褄が合わない。
 ここにきて、トータス松本やSMAPなどが登場するようになった。応援メッセージ風の内容に変わりつつある。そこで、作り手に注意を促したい。たかが芸人風情に、上から目線で語らせてはならない。「この苦労がほかの者に分かってたまるか!」これが阪神・淡路で被災した人たち大半の心情だったそうだ。気安く頑張れなどと言ってほしくはないということだ。だからこそ、寄り添うのだ。先日引用した「歩こうね」は、そういう歌だ。メッセージCMの製作側も、「一緒に!」というスタンスを外してはいけない。余計な演出はせず、お悔やみとお見舞いだけで十分だ。芸人は芸を見せるのが本分である。地デジのキャンペーンとは訳がちがう。芸そのもので励ましを贈ればいい。職分を超えた能書きは、雑魚の魚父(トト)交じりを描(カ)いた戯画でしかない。
 けれども、官邸の魚父がいっかないけない。前稿の繰り返しになるが、こころが空ろで、空々しい発信しかできない。だから、頼りになるのはAC路線という次第か。
 一案がある。──当初、東工大出身のこの首相は「僕はものすごく原子力には強いんだ」と宣(ノタモ)うたそうだ。なのに、後日関係者に「臨界とはなんだ?」と質問したらしい。ということはつまり、原発に関する知識ではなく、放射能に強い体質だと誇りたかったのではないか(そんなものがあるのか?)。ならば、福島県産はもとより被災地の野菜や魚を馬食してはどうか。茹でた山盛りのホウレン草に喰らいつき、コウナゴを天こ盛りにした銀しゃりを頬張る。なにせ、カイワレで実績がある。こんなことは朝飯前のはずだ。ついでに一蓮托生である舌の短い官房長官には、牛乳を(便宜をはかって)ストローで文字通り牛飲していただく。理屈は解らぬが、ビールでこれをやるとすぐに酔いが回る。牛乳もただちに身体のすみずみにまで行き届くにちがいない。牛ほどに飲めば、舌が伸びるかもしれない。この牛飲馬食は毎日、毎朝(朝食前に限る)、ACがテレビで実況中継する。NHKも乗る(かつて共同製作をしたことがある)。録画を繰り返し流す。
 んー、これはいける。つまらない会見よりも、よっぽどみなさんの安心につながる。訳の解らないシーベルトを振り回すよりは、はるかに解りやすい(向かいのおじさんは、何度教えても、「〇〇シューベルト」といって利かない。そのくせ、歌うのは演歌ばかりだが……)。
 朝飯前といえば、「飯」つながりで冷飯食いだ。残杯冷炙は時として精神を歪める。屈辱はルサンチマンを生みやすい。たまさか満杯の美酒と焼きたての霜降り牛にありつくと、我を忘れてむしゃぶりつく。マナーは欠片もない。悲しいかな、教わったことがない。顰蹙を買っても、怨念を晴らすのが先だ。そして二度と席を立とうとはしない。
 戦後、見舞われた2回の大震災。阪神・淡路も今回も、時の首相は長らく野党で冷飯を喰ってきたメンバーである。これは大いなる不幸にちがいない(もちろん、わが国にとって)。論より証拠、双方ともに対処は悲しいほどに稚拙極まりない。これでは不幸の上塗りだ。弱り目に祟り目。踏んだり蹴ったりだ。やはり奇しくも自ら嘯いたように(前稿で触れた)、改元か政権交代しかあるまい。元号法の定めにより前者はない。ならば、選択は後者しかない。件(クダン)のCMとは違い、こちらはまちがいなく日本人全員に関わりのあることである。とっ魚父(とと)実行だ。□


こころが空ろだ

2011年04月02日 | エッセー

 以下は、3月31日付朝日新聞の「記者有論」というコラムの一部である。同紙の編集委員が筆を執る。 
〓〓言葉の力に日々驚き励まされる。
 たとえば選抜高校野球、創志学園の野山慎介主将の選手宣誓。
 「がんばろう、日本。生かされている命に感謝し全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います」
 あるいは天皇陛下のメッセージ。
 「これからも皆が相携え、いたわりあって、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています」
 誓いであり、祈りである。短くて平易であたたかくて強い言葉が心にしみてくる。
 だがまだ、政治家にそれがない。菅直人首相の記者会見。(註・3月13日夜)
 「果たしてこの危機を私たち日本人が乗り越えていくことができるかどうか、それが一人一人、すべての日本人に問われていると、このように思います」
 誓いでも祈りでもないこれは、問いかけなのか? 何かの問題設定なのか? ちっともわからない。〓〓
 まったくその通りだ。
「果たしてこの危機を私たち日本人が乗り越えていくことができるかどうか、世界が注目しています。皆さん、一緒にがんばりましょう」
 これなら解る。問題はない。ところが、
「それが一人一人、すべての日本人に問われている。」
 とくるから、問題なのだ。
 いったい、だれから問われているのだろうか? キミもその「一人一人」の「一人」、別けても枢要な位置にいる「一人」のはずだが、この物言いだとキミは「一人一人」には入っていないように聞こえる。百歩も千歩も譲るとして、キミはワン・オブ・ゼムとでも言いたいのであろうか? どっちにしても、他人事(ヒトゴト)にしか聞こえない。政治主導と大口を叩くのだから、官僚の作文とは言わせない。
 「問われている」とは、はて、なんだろう。この上から目線の言葉には虫酸が走る。走らない人は、一度自らの言語感覚を疑ったほうがいい。「問われている」のは、キミのリーダーシップではないのか! 申し訳ないが、このリーダーと運命を共にしようという奇特な日本人はしごく僅少でしかない。それが、支持率20パーセントの意味だ。
 文末の「思います」は顔に似て、いかにも貧相だ。今や、個人的感想を述べる段階ではない。こんな評論家然とした言葉遣いは責任逃れにちがいなかろう。圧倒的事実を前にして自らが矢面に立つ誓いを披瀝すれば、それで事足りるのではないか。創志学園の野山君が放った「生かされている命に感謝し」──この言葉の輝きに比して、キミが繰り出す片言の羅列がなんと貧しいことか。永田町に人材が払底して、この程度の人間しか担げない現実に足が竦む。胸が閊(ツカ)える。
 こころの内を響かして声に託すのがことばだ。そのことばを知れば、こころの内が判る。空疎なことばは、すなわち、こころの内が空ろである証左ではないか。
 ヘリコプターで原発を覗いたり、東電に乗り込んで恫喝をしたり、野党に無理心中を迫ったり、見当違いなパフォーマンスに血道を上げるしか能がないのか。そんな暇があるなら、被災者の前にひれ伏し、手を握りしめ、自らの非力を詫びてともに泣いたらどうだ。宮城まで行かずともよい。指呼の間にある武道館には、福島県いわき市などから避難した約300人がいる。

 若干手垢の付いたネタだが、04年10月、高知の台風と新潟県中越沖地震について彼はこう書いている。
〓〓昨日今日と愛媛、高知の台風被災地の視察。高知では堤防が波で破壊され、20トンを超えるコンクリートの塊が住宅に飛び込み、3名が亡くなった現場を見る。9月にお遍路で歩いたところだ。波というより鉄砲水のような力で堤防や家を破壊。
 それに加えて新潟で地震。あい続く天災をストップさせるには昔なら元号でも変えるところだが、今必要なのは政権交代ではないか。〓〓(自身のサイト「菅直人の今日の一言」から、当日の全文)
 改元と政権交代を同列に並べるのには驚かされる。いざ自分がその身になっても交代はする気がなさそうだから、さしずめ宮内庁と改元の相談でもするがいい。ついこないだ、冗談めかして言ったことだと撤回したらしいが、まったくおつむの程度が知れようというものだ。
 むこうが改元を持ち出すなら、こちらは疫病神を繰り出そう。昨年11月4日付本ブログ「疫病神」である。(以下、抄録)
〓〓この男がアタマをとって以来、碌なことがない。
 まずは口蹄疫が襲い、参院選で大敗し(他人事ながら)、円高で苦しみ、尖閣で揉め、北方で揺れる。特にあとの二つはワン・ツー、ダブルパンチだ。そのほか巨細漏らさねば、紙幅が追いつかない。
 もうそろそろ気づいてもおかしくはない。つまるところ、この男は疫病神にちがいないのだ。人気ほしさのパフォーマンスとはいえ、四国お遍路が一の得意。憑いた疫病神を落とそうとでもいうのだろうか。それにしてもしょぼい。可哀想なくらいしょぼい。
 もし国会で「君は疫病神か?」と糺せば、「論理的な、まともな質問をしてください。聞くに耐えない!」と抗うだろう。
 昨今の窮まった荊蕀(ケイキョク)は、論理の及ばないところに投げ込むしかないのだ。この状況、推移を括ろうとすれば、「疫病神」を持ち出すのが最も相応しい。逆に、なぜこうも災厄が続くのか、論理的な説明ができるものならしてほしい。
 比較するのもおこがましいが、秀吉の天下統一と時を同じくして日本中の山野から湧くように金銀が出た。これは吉事だが、論理的に説明がつくか。所詮は、人物の徳(その時期に巡り合わせた幸運も含めて)に帰するしかあるまい。
 疫病神が死神にランクアップするまでに、なんとかせねばならない。エクソシストにお出まし願おうにも、宗旨がちがうと効き目はなかろう。さて、いかに。〓〓
  「疫病神が死神にランクアップするまでに、なんとかせねばならない。」の一節が、われながら背筋が氷るほどに悍(オゾマ)しい。

 4月1日の記者会見は前回の不評に懲りたのか、嫌らしいほどの低姿勢であった。しかし、わたしはダマされない。だって、エイプリル・フールなのだから。
 蛇足ながら、総理以下大臣たちのあの服装は何なんだろう。現場の仕事着を、なぜ永田町で着用するのか。3.11当日の安藤優子が阿弥陀に被っていたヘルメットと大差ない。おまけに、履き物は運動靴であった。教えておくが、災害の現場では釘などの踏み抜きと落下物によるケガを防止するため靴は安全靴と決まっている。あれでは、見え透いたパフォーマンスそのものだ。事ほど然様に、この政権はパフォーマンスが抜けない。養老調でいうなら、「永田町の作業着は背広でしょうが」となるか。彼らは自分たちの仕事が何なのか、判ってないのではないか。それぞれの役割に、それぞれのユニフォームがあるのだ。裁判官が着流しで法廷に出てきた日には、審理はまちがいなくぶっ飛んでしまう。
 振り返ると、大震災の前日(3月10日)であった。「町の衆(シ)も悪い」と題するブログを載せたのは。これもまた薄気味の悪い符合といえなくもない。□