伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

『嘘みたいな本当の話』

2015年08月30日 | エッセー

 たった数行で『火花』が須臾の間に消える。それほどの快事である。
 ノーベル賞に最も近いとされる作家の一人、アメリカのポール・オースターが十数年前に仕掛けた企画がある。『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』だ。コピーにはこうある。

    オースターが全米から募り、精選した「普通の」人々の、ちょっと「普通でない」
    実話たち──。彼の小説のように不思議で、切なく、ときにほろっとさせられ、
    ときに笑いがこみ上げる。少女の日のできごと、戦時中の父の逸話、奇怪な夢
    と現実の符合……

 寄せられた四千通の中から厳選された三百を超える「ナショナル・ストーリー」が二巻に亘って出版され、センセーションを巻き起こした。
 その日本版を内田 樹氏が主導し、高橋源一郎氏とともに選者となって
    『嘘みたいな本当の話』
 と題して刊行したのが四年前であった。稿者は読みそびれた。文庫本が本年三月。奇しくも芥川賞『火花』と時を同じくする。今月初旬、やっと件の文庫本を手にした。仰けの「快事」とはそのことである。なぜ「快」なのか、忖度されたい。
 応募された千五百通から両巨頭が選りすぐった百四十九の逸品が並ぶ。精選の率は米版と同等であろう。一行二十二文字の超掌篇から字数制限の千文字一杯まで、十八のカテゴリーに別けられている。たとえば、

    戻ってくるはずがないのに、戻ってきたものの話
    犬と猫の話
    空に浮かんでいたものの話
    おばあさんの話
    そっくりな人の話

 などなど、本邦版も「不思議で、切なく、ときにほろっとさせられ、ときに笑いがこみ上げる」。
 企画の動機を内田氏はこう語る。
◇ある出来事を「嘘みたい」と思うか、「そんなのよくあることじゃないか」と思うかの識別の基準は客観的なものではありません。それはあくまで主観的なものです。「嘘みたい」と思うときに、その人の、余人を以ては代え難い、きわだった個性が露出する(ことがある)。たぶん、そうなんだと思います。常にそうなるとは限りませんけれど、そういうことが起こる確率が高いはずです。
 「その人にとってはあり得ないはずのこと」があり得たという事件を語る様々なアメリカ人の証言を通じて、ポール・オースターは「アメリカが物語るのを聞いた」のでした。同じようにして、僕たちも、「日本が物語るのを聞いてみたい」と思います。◇(上掲書より、以下同様)
 同類の名を冠したTV番組は散見する。だが、事の真偽ではない。そんな表層を相手になどしてはいない。「嘘」と捉える主観に個性が宿る。ならば、それらの総和は「日本が物語る」ことになるのではないか。気宇壮大な目論見である。
 狙いは当たった。米版とは際立った違いがあると、内田氏はいう。
◇得体の知れないものを見たとしても、「あれはきっとお化けだったんだと思う」というふうに定型に落とせば、とりあえずみんなホッとする(笑)。同じ経験をアメリカ人が書いたら、「お化けだった」という結論にはしないと思う。「こんな気持ち悪いことが起きた」「それは名付け得ない経験だった」「そしてそれはいまも続いている」、たぶんそんなふうに、生々しいまま提出すると思うんですよ。「よくある話」に回収されて、納得されちゃうことを生理的に拒むんじゃないかな。◇
 「日本人の語る物語には国民的定型がある」とし、「何を書かせても均質的になる」と判ずる。「語り口に階層差や出身地の差が現われない」ともいう。なぜか。氏は識字率の高さや「書き言葉」の優位、国語教育の偏りに解を求めていく。
 とまれ、案に違わず今年一推しの文庫である。世は、小説よりも奇なりで満ちている。火花なぞ一瞬で掻き消える。 □


扇子がいい

2015年08月26日 | エッセー

〓かっこいい! 扇をモチーフにした自主制作の東京五輪エンブレムに絶賛の嵐
 「かっこいい」「日本をイメージしやすい」と、Twitter上で好評を博しています。
 縁起がよい末広がりの形状で、昔から応援の道具として使われている扇をモチーフにしたデザイン。制作したのは、スペイン在住のデザイナー、かんかんさん。
 昔から応援に使用されている、日本をイメージしやすい、開いたまま相手に手渡すと末広がりの形になるなどの理由から、扇を題材に採用。扇面を日の丸が集合したようなデザインにすることで、「多くの人によって支えられる日本」を表現しているんだとか。できの良さに、「公式に採用してほしい」という声も。〓(8/21 Yahoo!ニュース から抄録)    

 新国立競技場といいエンブレムといい、よくケチのつく五輪だ。“TOKYO 2020”への賛否は措く(措こうが措くまいが後の祭り、イヌの遠吠えではあるが)。個人的な感覚では、断然こちらがいい。盗作云々は措いて、あの薄暗い象形文字より明るいのがいい。扇子にセンスが光る(失礼)。なにより分かりやすい。しゃにむに“ニッポン”を押し出そうとする健気さに快哉を叫びたい。
 内田 樹氏の達識を徴したい。
◇人々は自分たちのナショナル・アイデンティティを立ち上げるときに、必ず「……にとって私たちは何者なのか?」という「他者の視線」を措定する。私たちは端的な仕方で「私たち」であることはできない。
 記号とは「それが何であるか」を言うものではなく、もっぱら「それが何でないか」を言うものである。私たちのナショナル・アイデンティティもまたそれと同じように、私たちが「何でないか」という記号的な「引き算」によって成立している。◇(「街場のアメリカ論」より抄録)
 してみると、“かんかんエンブレム”は目一杯「『他者の視線』を措定」しているし(スペイン在住の日本人?という1回転半がなんとも絶妙だ)、見事な「記号的な『引き算』」によって「私たちが『何でないか』」を高らかに呼号している。
 ならばアンバイ君の琴線に大いに触れるはずだ。筋違いではあるが(でも彼は天性それが好みらしい)、ここはお得意の“トップの決断”で変更してみてはいかがか。とは、言わない。「自主制作」には『自主使用』で応えたい。お上のオーソライズなど要らない。IOCは儲からないが、エンブレムぐらい勝手に作って勝手に使わせろ! といいたい。「平和の祭典」で金勘定なぞするからおかしくなる。第一、平和と鳥目は相性がよくない。IOCはそろそろ銅臭を拭うべきだ。
 あっちもこっちも、あいつもこいつも、みんな挙って“かんかんエンブレム”を使いまくれば、それこそ民主主義の勝利だ。
 「けち」とは怪しき事、「けじ」(怪事)」から転じたそうだ。なんだか最近は取り分け怪事が多いのではないか。はやく「けじ」めをつけなくては(またまた失礼)。 □


晩夏、処暑

2015年08月22日 | エッセー

 開会式には49校が勢揃いして盛大だったが、閉会式にはわずか2校。当たり前でいつもの光景だが、なんとなく物悲しくもある。熱闘が終わり、そして大阪には秋風が吹く。
 猛り狂った炎暑もどうやら落ち着き、角の取れた朝の光や瘧が落ちた宵の風に晩夏の訪(オトナ)いを諾うころとなった。初夏、盛夏とつづき、晩夏。とはいっても、いきなり初秋にカットインするわけではない。盛夏の揺り戻しがあり、台風が闖入し、秋風が出しゃばり、やはり晩夏の気配が巻き返す。夏と秋の間(アワイ)が晩夏ではなかろう。むしろ双方が重なり綯い交ぜになる移ろいを、そう呼ぶのではないか。
    あかあかと日は難面もあきの風
 「難面も」が佳味だ。「も」に芭蕉は移ろいを含意したのではないか。四季が育んだ先達の感性が凝っているといえなくもない。
 四季は截然と別たれるものではない。だからこそ杳として知れぬその連なりに敢えて印したメルクマールが二十四節気だ。となれば8月23日、明日は「処暑」だ。「処」とは留まる。暑が留まるの謂である。残暑、晩夏だ。
 だが自儘に換骨奪胎するならば、暑に処するではなく、暑を処するではないか。対処ではなく処置である。暑をどう迎えるかではなく、過ぎゆくそれをどう始末するかだ。二十四節気中、「処」の文字を冠するのは処暑のみである。今風にいえば、モードの切り替えだ。聞くところによれば、この時季生徒や学生の自死が最も多くなるそうだ。処暑の不手際か。したたかに難面(つれなく)、御し難い移ろいといえる。どうして先人の知恵は棄てがたい。
 興醒めを承知で、括りにひと言。
 永田町の処暑も不手際があってはなるまい。夏の盛りも過ぎましたね、で済む話ではない。 □


女だけの参拝

2015年08月18日 | エッセー

 驚いた。今年の8.15に靖国神社を参拝した閣僚は3人、それも女性ばかりだ。以下、報道から。
〓高市早苗総務相、山谷えり子国家公安委員長、有村治子女性活躍相の3閣僚は終戦記念日の15日、東京・九段北の靖国神社を相次いで参拝した。
 いずれも私費で玉串料を納めた。高市氏は参拝後、「国策に殉じてかけがえのない命をささげられた方々に尊崇の念をもって感謝の誠をささげた」と記者団に語った。〓(読売)
 靖国神社のHPによれば、
・・・国家防衛のために亡くなられた方々の神霊が祀られており、その数は246万6千余柱に及びます。靖国神社に祀られているのは軍人ばかりでなく、戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡くなられた学徒など、軍属・文官・民間の方々も数多く含まれており・・・
 とある。女性の神霊は5万7千余柱だそうだ。戊辰の役での女軍夫を筆頭に、ひめゆり学徒隊、樺太で自決した電話交換手などが含まれる。
 山谷、有村両氏がどうコメントしたか(またはしていないか)は報じられていないが、この高市女史をはじめ女性議員で女性の神霊に触れたコメントを寡聞にして知らない。「かけがえのない命をささげられた方々」には女性の神霊も含意されるといえばそれまでだが、女性閣僚としてなんらかの言及があってもおかしくはない。いや、すべきではないか。男性閣僚と同じ感性であるなら、女性を起用した意味はなかろう。女性閣僚として、とりわけ女性の御霊にこそ「尊崇の念」や「感謝の誠」を捧げたと広言すべきではないか。ましてや有村女史は「女性活躍担当大臣」である。ましてや神霊とはならず、銃後に哭いた万余の母たちの存在を知らぬはずはなかろう。その声ならぬ愁嘆が耳朶を響もさぬとしたら、「女性」を冠する役務に就く適正はすでにない。
 とまれ、「国家防衛のために亡くなられた方々」にしか関心がないとみえる。「侵略」の定義は定まっていないそうだから、あくまで「防衛」の犠牲者である。そのような思念を抱く女性閣僚だけが、よりによって8.15にトリプル参拝する。まさか某政権の「女性が輝く日本!」とはこのことだったのか。胸が悪くなる冗談か。なんだか出来の悪いカリカチュアを見せられているようでもある。真夏の白昼夢か。
 かつて何度か触れたが、高市女史は「第二次大戦の時私は生まれていないので、私には戦争責任はまったくない」と高言した人物である。「子や孫、その先の世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」とした首相談話と同等の趣旨である。ひょっとしたら国民の内「第二次大戦の時私は生まれていない」8割の、その過半の意識ではないか。
 彼らは言う、「いつまで謝ればいいのか?」。答は簡単だ。相手が赦すまでだ。そんなことは子供の喧嘩だって同じではないか。相手が赦すと言うまで、何世代掛かろうともだ。個人は共同体を撰べずに出生する。この個人と共同体の不可視な深い絆を「宿命」と呼ばずしてどうする。親子が選択の埒外にある関係、つまりは宿命を有するからだ。「背負わせてはならない」というなら、まず今まで「宿命」を清算できなかった自らの不徳を恥ずべきではないか。己の不行跡を棚に上げて、後継への責務を言挙げするとは片腹痛い。
 「責任はまったくない」とは相続放棄に変わりなかろう。親が遺した負の遺産、債務を相続しないことだ。民法第939条の規定によれば、家庭裁判所に相続放棄の申述をすると債務は相続しなくて済む。ただし、これは正負含めての相続放棄である。相続者たる資格を棄てれば、当然先代の正の遺産も受け継ぐ権利は失せる。極めて平明なロジックである。となれば相続を放棄した者に「国策に殉じてかけがえのない命をささげられた方々」を語り、慰霊する権能があるのだろうか。それは自己撞着ではないか。
 内田 樹氏は「街場の戦争論」で、以下のように述べる。
◇(引用者註・靖国の)祭神である死者たちに深い結びつきを感じているつもりなら、死者たちに負わされた「責任」の残務をこそ進んでわがこととして引き受けるはずです。それによって死者たちとのつながりを国際社会に認知させようとするはずです。死者の負債の引き継ぎを拒否する主体に「喪主」の資格はありません。当然のことです。「死者の作った負債なんかオレは知らんよ」と言いたい人は言えばいい。けれども、そういう人間は葬送の儀礼にふつう招かれません。
 下関戦争の賠償金支払いを明治政府が幕府から引き継いだのは「負債の残り」を前任者から引き継いだものだけが正統な後継者として認知されるという国際法的な常識をわきまえていたからです。この「負債の引き継ぎ」という発想が現代の政治家たちにほとんど構造的に抜け落ちていることにもっと驚いてよいのではないでしょうか。◇
 300万ドル、現時450億円の賠償を支払った誕生間もない明治政府の健気に比して、現政権のなんと居丈高なことか。今突きつけられている残債は金では贖えない負の遺産だ。
 8.15は終戦の日ではない。未だに清算されぬ敗戦のままの日だ。 □


「究極の選択」

2015年08月14日 | エッセー

 2010年はマイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱教室」が話題を呼んだ。本ブログでも幾度も触れた。その内、最も有名な質問が『暴走する路面電車』である。
── ブレーキの効かなくなった路面電車が工事をしている5人の所へ突進しようとしている。知らせる方法はまったくない。だが、手前に別の引き込み線がある。そこに入ることはできる。しかし、そこでも1人が工事をしている。君が運転手だとしたら、どちらにハンドルを切る? ──
 3年の間(アワイ)を措いて続けたのが以下の拙稿である。

◇よく聞かれるんです。「危機的状況を乗り越えるために正しい選択をするにはどういう能力がいるんでしょう?」とか。でも実は、そんな問いをしている時点でもう手遅れなんですよ。AかBのどちらかを選んだら生き残る、どちらかを選んだら死ぬ、というような切羽詰まった「究極の選択」状況に立ち至った人は、そこにたどり着く前にさまざまな分岐点でことごとく間違った選択をし続けてきた人なんだから。それまで無数のシグナルが「こっちに行かないほうがいいよ」というメッセージを送っていたのに、それを全部読み落とした人だけが究極の選択にたどり着く。「前門の虎、後門の狼」という前にも進めず、後ろにも下がれずという状況に自分自身を追い込んだのは誰でもない本人なんだよ。
 正しい決断を下さないとおしまい、というような状況に追い込まれた人間はすでにたっぷり負けが込んでいるの。サンデル教授に「こっちを選ぶと五人死んで、こっちを選ぶと一人死ぬ、さあ、どちらを選びますか?」っていう問題があったけれど、そういう決断をするように追い込まれるってことは「間違った決断」を連続的に下し続けてきたことの結果なんだよ。それは「問題」じゃなくて、「答え」なの。そんな決断しかねる窮地に直面するはるか手前で、そういう羽目に陥らないようにするために、何をしたらいいのかを考えなくちゃ。「いざ有事のときにあなたはどう適切にふるまいますか?」という問題と、「有事が起こらないようにするためにはどうしますか?」という問題は、次元の違う話なんです。◇(岡田斗司夫×内田 樹「評価と贈与の経済学」から)  
 さすが、というべきか。決してナショナリスティックな意味合いではなく、なんだか一種の爽快感を覚える。やっぱり内田先生のモンだ。合気道の間接技のような決まり具合だ。
──実は、そんな問いをしている時点でもう手遅れ
  「究極の選択」に立ち至った人は、間違った選択をし続けてきた人
  それは「問題」じゃなくて、「答え」
  次元の違う話──
 どうだろう、この切れ味は。問題ではなくてそれが答えだ、には快哉を叫びたくなる。もちろんサンデル教授の意図は、「究極の選択」を迫ることで哲学的思索に誘(イザナ)うことだ。その手法は斬新で高い評価に値する。しかし「次元の違う話」なのだ。
 どう「違う」のか。内田氏は危機への対処と予防の違いを言っているのだが、穿てばもう一つ違う。想像するに、前記の教授の意図を踏まえると、内田氏のオブジェクションを筋違いあるいは横紙破り、もしくは茶化しだと感じる向きがあるかもしれない。実は、そこだ。
 サンデル教授の主題は「正義」であり、内田氏のそれは「勝負」なのだ。氏の言説に「生き残り」という語句が頻出するのは、何よりの証憑である。少し飛躍すれば、仏典に登場する「毒矢の喩え」(毒の成分を知ることより、先ず矢を抜け!)にも通底する。
 教授になくて内田氏にあるもの、それは武道家の感覚、勝負感ではないか。なにより合気道は敵をつくらず、敵を無力化することを目的に掲げる。となれば、教授の設問に対する最も率直で最もふさわしい解は内田氏の言ではないか。 (13年3月「やっと掻けた!」から抄録)

 現政権の思惑を一言に約(ツヅ)めれば、「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」というローマ帝国伝来のアフォリズムになろう。平和を欲する前提に安全環境の変化があるという。
 なぜそれが解らない。目の前の現実ではないか。われわれは国の舵取りを任されている。理想を語り夢を喰って、脳天気でいるわけにはいかない。現実を直視するなら、「戦への備え」が要るのだ。だが、憲法がある。今すぐ改憲はできない。だから、現行許されるギリギリの範囲で複雑な連立方程式を解いた。責任のない連中は違憲だという。しかしアクロバティックなロジックを駆使してまでも、なんとか合憲に収めたわれわれの努力の結晶をなぜ分かろうとしない。「戦争法案」と罵る君たちこそ原則論の呪縛に絡め取られ国家の大計を過つものだ。
 つまりは政権はそういうのであろう。『存立危機事態』こそ現実的責任に裏打ちされた知恵の結晶である、と。
 政権が唱える環境変化の『現実』がいかに空論であるかは本ブログで種々語ってきた。だがもしそうだとして『存立危機事態』という「究極の選択」に立ち至った時点で、
──実は、そんな問いをしている時点でもう手遅れ
  「究極の選択」に立ち至った人は、間違った選択をし続けてきた人
  それは「問題」じゃなくて、「答え」
  次元の違う話──
 なのである。
 「戦への備え」が「平和を欲」する代償となった時代は過ぎた。今や『安全保障のジレンマ』は、ど壺と化した。負のスパイラルと連鎖は確実に滅びを招来する。アフォリズムは「汝平和を欲さば、平和への備えをせよ」と書き直されねばならぬだろう。「究極の選択」はすでに敗れている。敗北から逆算して、一体何を導出するというのか。
 
 今夕、「戦後70年談話」なるものが恭しく発表された。なんのことはない。中学生レベルの歴史知識と高校生の弁論大会レベルのお話であった。というのは正確ではない。とても中高生にはできない極めて狡知に長けた“お話”であった。
──わが国は先の大戦における行いについて、繰り返し痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンをはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。こうした歴代内閣の立場は、今後もゆるぎないものであります。──
 ここだ。「歴代内閣の立場」は「ゆるぎないもの」なら、なぜ当代の首相として「痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明」しないのか。コンテクストを注視すれば判る。「わが国は」の一節は鉤括弧で括ってある。言わば伝聞である。自らは単なるパッサーでしかない。「反省」し「お詫び」しているのは歴代内閣であって、第97代内閣総理大臣安倍晋三の肉声はない。
 これはズルい。悪知恵だ。トリッキーで、狡猾、老獪この上ない。そこまでしてこの言葉を避けるトラウマとはなにか。父祖伝来の価値観、歴史観か。とまれ前提を欠損した未来志向なぞ戯言に過ぎぬ。この程度の人物に「究極の選択」を、断じて預けたくはない。 □


これは革命だ!

2015年08月09日 | エッセー

 人並み以上に食い意地の張っているわたしには、おにぎりはさほど好きな食い物ではない。なにせ中心部に秘蔵された具に到達するまで白飯ばかりを喰らいつづけねばならぬ。つづけるといっても二口三口だが、飯ばかりを咀嚼するのは味気ない。それに結構時間も掛かる。具を捕らえ口腔にていざ飯と攪拌するに及んで、今度は飯の大半が喉元を過ぎておりほぼ“口腔権”は具が握るに至る。味覚と食感が具に偏る。慌てて周りの白飯を投入するも口腔が膨れあがるばかりとなり、がっついているようで(事実そうだが)どうにも見てくれが悪い。そんなこんなで、おにぎりのプライオリティーは決して高くはない。
 だから、これは革命だ。
〓「本気」だから人気の具がひとくちめから楽しめます。
 おにぎりで、いちばんうれしい瞬間。それは、かぶりついたごはんから、おいしそうな具が顔をのぞかせたとき。新しい「てっぺん盛り」は具、ごはん、海苔が三位一体となった、おいしさにひとくちめから出会えます。具は、定番の「熟成生たらこ」と人気の「直火焼豚トロ」の2種類。てっぺん部分と海苔に巻かれた内側とで、具の味や形も変えました。食べた人だけがわかる、「てっぺん盛り」。ぜひ、ご賞味ください。価格:熟成生たらこ 175円(税込)/直火焼豚トロ 185 円(税込)〓(LAWSON HPから)
 テレビでは柳葉敏郎の「本気のグー!」という気の抜けた工夫のないCMが流れている。だが、品物の工夫はすばらしい。わたしにとってはイノベーションというよりリヴォリューションと呼ぶにふさわしい。なにせ一口目から核心に到達できるのだ。大袈裟ではない。食は命。その食を革めるを革命と呼んでなんら不思議はなかろう。世の食い意地に福音をもたらす一大革命である。ローソンは偉い! 
 ローソンは「おにぎり」だが、セブンイレブンは「おむすび」(一部「おにぎり」)と呼ぶ。東京、神奈川を除く関東、東海道は後者らしい。では、何と何を「結ぶ」のか。神と人とを結ぶのである。古来、山岳信仰では山そのものを御神体とする。三角おむすび、つまり山型は神を象り神力を授かろうというわけだ。一方、「鬼切り」が転訛して「おにぎり」になったという一説もある。邪鬼を払うとは、こちらも神がかりだ。利便、簡便はもとよりだが、出自に宗教性を纏っているといえる。だから、おむすびが「母の味」に直結するのかもしれない。母性は宗教性の枢要な資質である。災害時の炊き出しはおむすび。これも被災者と神ならぬ支援者を結ぶ。神々しい食物だ。
 弥生後期の遺跡からおにぎりの原型が発見されている。古墳時代の遺跡からは明確におにぎりと判る米の塊が出土している。となると、この食い物はざっと2千3百年の歴史があるといえる。本邦以外の稲作地域に同類がないことを考え合わせれば、これぞ日本食の総名代、和食のメインキャストではないか。取り澄ました懐石料理などといわず、「ユネスコ無形文化遺産」の筆頭格でなければならない。全国のコンビニで販売される個数は日に1千2百万。10人に1人が喰っている勘定になる。ラーメンを凌ぐ、堂々たる国民食といえる。
 さて、浜の真砂は尽きるとも世になんとかの種は尽きまじである。昨秋あたりから話題になっている『おにぎらず』だ。
 大きめの海苔に飯を敷き広げ、具をのせて挟むように包む。いわば米飯サンドウィッチである。講談社の『モーニング』に連載されている『クッキングパパ』というマンガが事の起こりらしい。手軽で見た目が華やか、かつ美味しいと大人気である。専用の海苔も売られ、レシピ本も多数出ている。要は握らない、だから『おにぎらず』だ。しかし、待たれよ。握らないから握らずとはなにか。駄洒落もええ加減にせよ。日本開闢以来の由緒ある米飯をもって、トランプ狂の英国貴族の猿真似をしようなぞとは本邦文化を虚仮にする、いや弓引く反文化的所業である。少なくとも、「おにぎり」という尊貴なる呼称を元ダネとするようなネーミングは避けるべきだ。最低限、そのような文化的礼節は弁えるべきだ。なによりも「おむすび」が生得する宗教性を放擲している。山は三角形と決まっている。四角な山は地球上には存在しない。そんなものに神が宿るわけがない。ありがたかろうはずがない。
 確かに、「具がひとくちめから楽しめます」ではある。しかし、これはおむすびでもおにぎりでもない。似て非なるものだ。そんなものがいかに「手軽で見た目が華やか、かつ美味し」かろうと、知ったことではない。革命ではなく、謀反である(おにぎりへの)。
 あぁー、つい激してしまった。腹が立つと腹が減る。もちろん、ローソンへ直行だ。 □


花火、寸景

2015年08月04日 | エッセー

 渋滞で車はいっかな動かない。時間はだんだん迫る。まだ一キロもある。意を決して運転を荊妻と替わり、車を降りて倅を背に負う。気が急いて走るように歩く。4歳ぐらいであったろうか、もう背負いの帯はない。首にしがみつかせるが、こちらの腕を廻して支えてやらねばならない。次第に重みが増す。汗水漬くの行進だ。
 やっと会場に歩み込んだ刹那だった。ドーンと一発上がった。途端に倅が喚くように泣き出した。肩車をして見せてやっても、余計に泣く。なんてこった。とんだ骨折り損だ。これじゃ草臥れ儲けではないか。
 子供は現金なものだ。わが身に危険がないと覚ると、嘘のように泣き止んだ。今度は、大いにはしゃぎはじめる。もっと高くして、よく見せろと言う。終わりかけたころ、山妻と娘が辿り着いた。娘は遠景から見つつ近づいたせいか、大玉の炸裂を眼前にしても動じない。この時の両人の差は、今に色濃く尾を引いているような気もする。
 それからは夜店をさんざん経巡って、帰り着いたのは深更だった。もちろんご両人は熟睡。再び抱きかかえて寝床へ。こうして家族打ち揃ってのはじめての花火見物は終わった。もう三十年近くも前の話だ。
 
 先日のこと、同じ花火大会に出かけた。もう、一キロ早足の体力はない。代わりに暇はある。四時間も前に会場内の駐車場に乗っ込んでかぶり付きに場所取りはしたものの、間が開きすぎた。おまけに暑い。とびきり暑い。花火が上がる前に息が上がる。近くのレストランや喫茶店を梯子する破目に。
 やがて夜の帳が下りたころ、甲高い派手なMCとともに大会は始まった。近ごろは皆こうなのだろうか。ずいぶんショーアップされている。花火自体も星形、楕円、四角と形も様々で、閃光のように鋭いものから長く残光を残すもの、色合いもさまざまで実にバリエーションに富んでいる。おまけに歌入りの曲に合わせてビジュアライザーのように種々の花火が強弱抑揚を伴って夜空に舞う。当然、プログラムしてあるので音と尺は寸分違わぬ。中には、音を早めに仕舞ってミュートで余韻を残す小憎い演出まである。MCの過剰な前説には食傷したが、花火は確実に“進化”している。絢爛たるものだ。
 しかし、なぜか見応えは薄い。慣れたせいなのだろうか。それとも、演出過剰の故か。機械仕掛けでシステマナイズされた楽屋裏が透けて見えるからなのか。
 往古の間延びした打ち上げが、むしろ懐かしい。いつ終わったのかも定かならず、仕掛け花火や人混みの動きでやっとそれと判る、そんなのどかな非日常が忘れがたい。形容矛盾のようだが、花火の晴はのどかな褻に象嵌されてこそ輝いた。なのに今や世は毎日が晴だ。遮二無二つくり上げられた殊更な晴で満ちている。
 もう一つ、個人的事情があるやもしれぬ。倅がわが子を抱(イダ)き肩車した絵面(エヅラ)が見られないもどかしさだ。汗みどろで人波を掻き分け漸進する姿。頭の上にはもうひとつ小さな頭が載っている。それを後ろから見る……。ひょっとしたら、インパクトの弱さの真因はこれではなかったか。
 今年も夏の夢が花火とともに漆黒の夜空に咲いて、須臾の間消えた。見果てぬ夢のように。 □