伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

読んでから考えよう!

2013年06月27日 | エッセー

 30年前、確かに買ったのだがなくしてしまった。だれかにあげたのか、貸したままになったか。ともかく、消えた。
 法律というと六法全書しかない時代だ。そこに写真をふんだんに使い(中には家族の入浴シーンまで)、すべてルビが打ってある垢抜けした法書が登場した。82年(昭和57年)、小学館が世に問うた「日本国憲法」である。またたく間に92万部を売り上げた。随分、話題にもなった。その後も5千部前後を売り続けたロングセラーである。
 それが今回、復刻版を出した。コンビニ(セブンイレブン)にも置き、横書き版も出すそうだ。税抜き500円、「一家に一冊必備の『憲法』永久版です‼」がキャッチコピー、帯には「読んでから考えませんか?」とある。ここのところの改憲論議に乗って、売れているらしい。瓢箪から駒が出る。駒どころか、金の成る本を捻り出すのがこの大出版社の腕だ。
 一読した。とってもいい。すてきな条文がいっぱいある。「一家に一冊」、その通りだ。ワンコインを手に今すぐコンビニへと、一ツ橋の本屋さんに代わって申し上げたい。ともあれ「まず読んでから」だ。荊妻などはまったく読んだことがないと偉そうに言う。読まなくとも生きてはいけるが、それでは足元だけを照らしながら歩いているようなものだ。周りが見えずに危険極まりない(周りも危ない!)。盲蛇に怖じずは賢い人の振る舞いではない。日本に暮らす以上は本邦のルールぐらいは知らねばならない。野球のルールが解らねば野球の興趣は半減する。交通規則を弁えねば車をぶつける道理だ。
 さて、いくつかのすてきな条文を挙げてみよう。
〓・・・諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、・・・国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。・・・われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。・・・〓
 特にこの前文の翻訳臭さがたまらなくいい。「協和による成果」「自由のもたらす恵沢を確保し」「厳粛な信託によるものであつて」「公正と信義に信頼して」「保持しようと決意した」「無視してはならないのであつて」など、芬々たるものだ。他国から押し付けられたとする改憲論者はそれみたことかというだろうが、そうではない。それは短見というものだ。むしろ、戦争への深い反省と新生への初々しい謙虚さをこそ掬い取るべきではないか。日本語としての練度など考える暇(イトマ)もなく、先人たちは極限状況の中で必死に新しい国のかたちを弄った。その健気な辛苦にまっすぐに頭を垂れるべきであろう。

〓第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であり、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。〓
 多くは語るまい。司馬遼太郎がつとに論じるごとく、「象徴」こそが本来のあり方である。伝統を踏まえた見事な一文だ。

 第九条はスキップする。さんざん触れてきた。別けても、本条と自衛隊との関わりを論じた内田 樹氏の卓見はあらゆる九条論議を凌駕する。(昨年12月、本ブログ「新内閣への祝言」で紹介した)
                     
〓第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。・・・〓
 「不断の努力」を呼びかけている。「不断」は「普段」に通じる。 まさに「一家に一冊」ではないか。

〓第十三条 ・・・生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。〓
 自民党の改憲案は、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に替えられている。人権の制限要件として公益と公秩序が持ち出されてきた。公共と公益と、どう違うのか。対語を考えればいい。公と私を入れ替える。公益は「私益」となるが、「私共」は公共の反対概念であろうか。同じトポスである。近年盛んに論じられる「新しい公」「新しい公共」は、決して新しくはない。60数年も前に憲法は提示していた。実に進んだ規矩であったといえる。
 つまり、ベクトルが違うのだ。公益、私益は上下の位階差にあり、公益は上から下位の私益にレギュレーションを掛ける。公共は連帯のためにお互いが制限し合う。これは大変な違いだ。だから、平気で「及び公の秩序」と連なる。ヒエラルヒーとチームワークの違いともいえる。しかし区々たる言葉の仕訳ではなく、この政党の人権感覚、ぶっちゃけていえば上から目線が言葉をチョイスしていると考えた方が正解だろう。

〓第十四条・・・③栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。〓
 「いかなる特権も伴はない」とはすばらしい。レスペクトだけを受けて、ボーナスはまったくない。寡聞にして諸外国の例を知らぬが、実に清々しい規定だ。

〓第十五条・・・④すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。・・・〓
 出口調査で大丙に訊かれたことがある。カチンときたので、「きみは、憲法15条を知っているかい? たかがマスコミになぜ秘密を明かさなきゃならない」と大見得を切った。大人気なかったかもしれぬ。せめて「吉田松陰」とでも応えてあげればよかったのに。

〓第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。〓
 「良心の自由」とは何だろう。「信条の自由」ともいう。言葉の選択が難しいところだ。

〓第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。〓
 これは困る。相当困る。「両性」を複数の性、つまり女性と女性、男性と男性と解釈すればクリアできるとの意見がある。自衛隊は戦力ではないという見解といい勝負だ。解釈改憲、極まれりだ。まあ、人が死ぬわけではなく平和的ではあるが。その伝でいけば、多夫(婦)多婦(夫)制もいけるのではないか。それは悪くない。

〓第二十六条・・・②すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。・・・〓
 教育の義務は誰が負うのか。子供ではない、親だ。知らない親が多すぎる。ボタンの掛け違いはそこから始まる。

〓第三十二条  何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。〓
 裁判員制度については何度も触れてきた。問題はこの「裁判を受ける権利」の中身だ。第六章の「司法」の規定には、まったく裁判員は登場しない。当たり前だ。陪審も参審も現行憲法は想定していなかったからだ。定めにないものを勝手に付け加えていいのか。憲法に反しないか。大きな疑義がある。

〓第三十三条  何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。〓
 かつての拙稿「囚人の記 2」(08年2月)が蘇る。屁理屈と駄文の極み。恥ずかしくもあり、懐かしくもある。
 
〓第三十八条  何人も、自己に不利益な供述を強要されない。〓
 60数年も経ってやっと「取り調べの可視化」が論議され始めた。四の五のいう前に、とっとと決めよ。元々、当たり前なのだから。

〓第四十九条  両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。〓
 「0増5減」論議でも触れたが(本年4月、本ブログ「それは逆だろ」)、「相当額の歳費」と高らかに謳われている。「相当」とは「応分の」との謂であろう。まさか「応分の」働きをしていないから歳費の減額や定数削減を言挙げするのではあるまい。「応分の」仕事をしますからどうぞお任せくださいと、公言し堂々と受け取ればいい。おそらく等価値である「5増0減」でまったくかまわない。何を上杉鷹山を気取っているのか。どっこい、国民は太っ腹だ。見くびってもらっては困る。

〓第五十九条・・・④参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。〓
 「みなし否決」を巡る諍いが今国会の終盤で見られたドタバタである。野党の対応はどだい幼稚園並だ。ために、電力関連をはじめ重要な法案が流れてしまった。攻守替われば同じことをやりかねないが、やっぱり歳費は下げたほうがいいかもしれない。

〓第六十八条 ②内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。 〓
 帝国憲法との大きな違いだ。旧憲法には「内閣」という文言すらなく、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ」とあり並列的関係にあった。さらに総理に他大臣の罷免権がなく、行政府は常に脆弱だった。構造的に政争の芽を孕んでいたといえる。

〓第七十六条・・・②特別裁判所は、これを設置することができない。・・・〓
 これは明らかにアメリカの差し金だ。デパート法式と専門店の違いか。ドイツは拒んだが、日本は受け入れた。軍法会議が適例であろう。だが、当のアメリカもグアンタナモ米軍基地内の軍事法廷が有名になったようにいまだ捨て切れていない。

〓第九十六条  この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。〓
 要中の要である。『憲法館』の玄関の鍵だ。5月の本ブログ「錠ごと替える?」で述べた。本条の改変は叛逆ともいえる蛮行である。この理路が掴めないのは、余程頭の巡りが悪いにちがいない。

〓第九十九条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。〓
  そもそも憲法の名宛人は誰か。ここが押さえられていないと、話はてんでに拡散する。リバイアサンを持ち出すまでもなく、国家権力への軛が憲法だ。猛獣を放し飼いにするわけにはいかない。永い歴史の試行錯誤の果て、人類の英知が蓄積され凝結した結晶こそわが日本国憲法だ。押し付けられたとするなら、その人類史的課題を与えられたと解すべきではないか。自虐というなら、世界史の先端的使命を放擲することこそ自虐だ。

 さあて、お立会い。角は一流デパート赤木屋、黒木屋、白木屋さんで紅白粉つけたお姉ちゃんから下さい頂戴で頂きますと五千円や六千円は下らない品物だが今日はそれだけ下さいとは申しません! はい、たったの五シャク円だ。一家に一冊、読みやすい。版元さんも言ってなさる。「まず読んでから考えよう」ってね。さあ、買った、買った。 □


丸刈り復活

2013年06月23日 | エッセー

 新政府軍5千、旧幕府軍1万5千が激突したのが鳥羽・伏見の戦いであった。激戦が展開される中、圧倒的な軍勢を誇る旧幕府軍が突如総崩れとなる。 
 錦旗が登場したのだ。 
 前線にいた幕軍の兵士たちはこのままでは朝敵になると恐懼し青ざめて退却した。2ヶ月前から、岩倉具視を中心に薩摩の大久保利通と長州の品川弥二郎が密かに作ってきたものだ。威力は絶大であった。旗という一つの目印がこれほどまでに戦局を決定づけた例は外にあるまい。
 内田 樹氏が「街場のアメリカ論」で、次のように述べている。
◇記号学が教えるように、意味は差異のうちに棲まっている。記号とは「それが何であるか」を言うものではなく、もっぱら「それが何でないか」を言うものである。私たちのナショナル・アイデンティティもまたそれと同じように、私たちが「何でないか」という記号的な「引き算」によって成立している。
 その場合でも、「自分と違うもの」はあくまで自分と同一のカテゴリーに属していなければならない。そのほかのほとんどの条件で酷似していながら、なお似ていない点があるという事実がアイデンティティを担保するのであって、どの点をとってもまったく比較考量を絶するようなものによっては私たちのアイデンティティは基礎づけられない。
 アメリカ独立のときのニューイングランドの植民地人は宗主国の市民と、人種も言語も文化的背景も同一であり、ただ統治システムについての考え方だけが違っていた。そのとき、イギリス人とほとんどの点で同一であることはアメリカ人のナショナル・アイデンティティの成立を少しも妨げなかった。逆に、その他の点でほとんど同一であるにもかかわらず一点だけ決定的な違いがあるという確信が独立戦争のために必要な戦意を備給したのである。◇(上掲書より抄録、以下同様)
 「『それが何でないか』を言う」、「ほとんどの条件で酷似していながら、なお似ていない点があるという事実がアイデンティティを担保する」の適例として錦の御旗を挙げた。東軍の兵たちは、「記号的な『引き算』」により自分たちのアイデンティティが根源的に崩れ去ることを知った。「一点だけ決定的な違いがあるという確信」が西軍に「必要な戦意を備給」し、「確信」を失った東軍から急速に戦意を沮喪させたのだ。
 同書の後半で、内田氏は斬新な論及を試みる。
◇アメリカ人の肥満にはもうひとつ切ない事情があります。それは、肥満が社会的な記号の一種として現に機能しているということです。アメリカでは、ジャンク・フードによる肥満者が白人低所得階層やヒスパニック、黒人に偏り、スレンダーなナイス・バディの人々が上流階層に偏っているという、「体型の二極分化」が進行しています。低所得層には伝統的な食文化もないし、栄養学的知識もないし、スポーツする環境もないし、治安が悪いので家に引きこもってTVばかり見ているので、カウチポテトでぶくぶく太る。一方、ハイソサエティのみなさんは……ということです。
 どうして低所得層の人々は「ジャンクをやめて自然食のニンジンを齧る」とか「TVを止めて本を読む」とかのオルタナティヴを提示できないのかというと、それは、差別され、社会的リソースの公平な配分に与っていないという彼らの怒りを社会に向けて発信しようと望むなら、彼らはその階級的な怒りを誰にでもわかる仕方で表象することを余儀なくされるからです。そこがアメリカのつらいところで、彼の地では「わかりやすい記号表現」を使わないと、メッセージが相手に届かないのです。ある種の社会的意見を表明するためには、「社会的意見の表明方法」としてあらかじめ登録済みのものを使用することしかできない。
 「記号としての肥満」「階級的異議申し立てとしての肥満」。そういうふうに解釈しない限り、ある種のアメリカ人のあの異常な肥満ぶりを説明することは困難だろうと思います。でも、それはメディアが言うように、彼らに自己管理能力が欠けているからではありません。むしろ、彼らは決然たる自己決定に従って、身体を記号的に使用しているのであり、その勤勉さにおいては鋼のような腹筋を作るためにワークアウトに励んでいる人々とほとんど変わらないのではないかと私は思います。◇
 先日、朝日が面白い記事を載せていた。以下、抄録。
〓丸刈り野球部、8割に増加 高野連加盟校アンケート
 日本高校野球連盟と朝日新聞社は20日、全国の加盟4032校を対象に、4~5月に行った実態調査の結果を発表した。その中で、部員の頭髪について、1998年に約3割にまで減った「丸刈り」の校数が約8割に増えたことがわかった。
 高校野球の象徴ともいえる丸刈りだが、その割合が少ない時期もあった。93年に丸刈りの学校は51%あったが、98年は31%に減少。94年夏の全国選手権では、出場49校のうち15校が丸刈り以外を容認していた。93年にJリーグが開幕し、自由な髪形でプレーする姿に憧れる風潮もあった。
 それが2000年代に入ると、03年=46%、08年=69%と盛り返してきた。高校生にも人気のファッション雑誌「smart」(宝島社)の太田智之編集長は「若い男子のヘアスタイルへの関心が高まり、ボウズ=おしゃれな髪形というイメージもできた」とみる。
 近年はイチロー選手(ヤンキース)や中田翔選手(日本ハム)らプロにも見られる丸刈り。横浜高の長谷川寛之主将は「長い髪で帽子をかぶると跡がついて逆に格好悪い。長くしたいとは思いません」。〓
 丸刈りはかつて男子中高生の「社会的な記号」であった。わたしなぞはそれが嫌で嫌で堪らず、中1の1学期間敢え無い抵抗を試みた。ついに夏休み終わりに、頭を刈った。丸刈りどころか、丸裸にされたようで鬱してしまった。まあ、ナイーヴといおうか、今では頭上そのものがすっかりナイーヴになっちまったが。
 丸刈り復活の理由が興味をひく。ファッション化している。オプションの一つになっている。団塊の世代にとってみれば、夢のような話だ。記号であることを止めて、ファッションになった。逆にハーケンクロイツはファッション性を纏いつつ復活し、今やネオナチの記号となった。こちらは忽せにできない。丸刈りも同じ道を進まぬよう、要注意だ。なにを大仰なという向きもあるかもしれぬ。しかし世には、どれほど過敏でも過敏すぎない予兆もある。
 本邦の旭日旗はつとに自衛隊の記号である。だとしても、「それが何でないか」を常に鋭く自問せねばなるまい。他国のそれと「一点だけ決定的な違い」が憲法9条にあることを夢寐にも忘れてはなるまい。 □


最後のその後

2013年06月20日 | エッセー

 江戸城は慶応四年四月十一日に明け渡された。接収に当たったのは官軍先鋒の尾張徳川家、御三家の一つだ。片や、最後の城主として迎えたのは田安徳川家、こちらは御三卿の一つだ。両家には深い血縁関係があり、家来衆も誼みを通じていた。ためにこの極めてセンシティヴでリスキーな業務は、なにひとつ争うことなく粛々と執り行われた。
 実に巧い差配だ。このあたりは、まさに日本人の良質な智慧が発揮された場面といえよう。ここで実質的な徳川時代は終幕となった。しかし徳川家が潰えたわけではない。公爵に叙せられた徳川慶喜家を筆頭に、徳川八家は華族に列せられた。朝敵が一転してセレブへと転身する。これもまた、如上の智慧か。
 家名が残るだけではなく、この“家”は多彩な人材がさまざまな分野で名を残した。田安徳川家第十一代当主である徳川宗英氏の著作「徳川某重大事件」(PHP新書、本年5月刊)から、いくつか例を挙げよう。
 ぎりぎりで辞退したものの首相の大命が下った徳川家達。明治を経て、大正に訪れた政権奪取の好機だったともいえよう。宗家を相続した第十六代である。貴族院議長を長く務め、ワシントン会議の全権として軍縮へと舵を切った。留学で仕込んだ英語の力と国際感覚で多彩な外交を展開し、「十六代さん」と呼ばれた。
 明治四十三年十二月十九日、高度七十メートル、距離三キロ、四分間のフライトに成功したのは清水徳川家八代当主の徳川好敏であった。日本のパイロット第一号である。トリビアリズムと侮るなかれ。なににせよ、嚆矢となるは生半なものではない。ましてや、開闢以来はじめて本邦上空を日本人が天翔たのだ。それも殿様だ。それも並ではない。歴史に留むべき快挙ではないか。
 尾張徳川家十九代当主の徳川義親は、狩猟好きが高じてマレーまで出張って虎を射止めた。家康は鷹狩りを死ぬ直前までしていたそうだから、その血を受け継いだものらしい。翌日義親は虎の肉をステーキにして喰らい、「黙っていれば牛肉と言っても通るだろう」と豪語した。話題を呼び、「虎狩りの殿様」として当時の教科書にも取り上げられた。後、日本理容師協会の名誉会長となる。「トラ刈りの殿様」の洒落だ。なにか、人となりが彷彿とする。
 紀州徳川家には、すげぇーのがいた。十五代当主の頼倫だ。宗家後継の家達には異母弟に当たる。さすが御三家、紀伊五十五万石の末裔だ。相続した財産は今の額面で千五百億円。ところが殿、乱心か。クラシック音楽に憂き身を窶し超の付く贅沢と散財を繰り返して、すべて使い果たした。そのくせ、戦後第一回の参議院選挙でトップ当選したり、各種の国際協力団体の会長を務めたりと意外な面もある。志村けんの“バカ殿”だって、こうはいかない。なんだか小さくみえる。こちらはばかなのか偉いのか、規格外のお殿様だ。
 正真正銘の賢人はなんといっても松平春嶽であろう。田安徳川家の出身で、越前松平家の第十六代藩主である。坂本龍馬との親交はつとに有名だ。幕末四賢侯の一人でもあるが、新しい時代を実質的にサポートしたのは春嶽ただ一人である。朝廷と幕府を繋ぎ、特に徳川への処遇を軸とする維新後の青写真を描いた。『易経』から選りすぐり「明治」の元号を提案したのも彼だ。新政府にはさまざまに助言し、政権の移行にも尽力した。そして橋渡しを終えると、政界の御意見番には勝海舟を据えさっと身を引いた。鮮やかな進退だ。一藩を超え、一国を明白に視野に入れ、かつ身の程を弁える。徳川が二百七十年を掛けて磨き上げた最良の逸材であろう。
 『日本のいちばん長い日』、その前夜から「玉音放送」のレコード盤を命懸けで護り抜いた侍従たち。その中に幕末の尾張藩主・徳川慶勝の孫、徳川義寛がいた。同藩は、言わずと知れた御三家筆頭である。彼は後、侍従長となり昭和天皇に最後まで尽くし抜く。
 一命を賭して、敗戦の宣言を世に知らしめる。かつて徳川から朝廷へ移った一国の主座が、今また朝廷を去る。その歴史の大舞台を回した黒衣が徳川の後胤であった。なんとも因果な。
 
 上掲書ではさらりとしか触れられていないが、もう一人いる。最後の将軍・徳川慶喜だ。司馬遼太郎はいう。
◇もし徳川慶喜が恭順せず、その領地も新政府にわたさず、箱根をもって第一防御線とし、関東・奥羽・北越の諸藩をひきいて新政府軍と決戦したとすれば、日本史はべつの運命をたどったはずである。むろん、いずれが勝つにせよ、アメリカの南北戦争と同様、日本の東西の感情の亀裂は深刻なものになったにちがいない。この点、統一日本の成立の最大の功績者は、徳川慶喜であるというほかない。慶喜は、みずから舞台を降りた。◇(「街道をゆく33」より)
 小説「最後の将軍」は、「人の生涯は、ときに小説に似ている。主題がある。」という印象的な一文から始まる。その主題とは自らの手で自家に引導を渡すことだった。そのようなライフワークはそれだけで類稀だ。汚名を覚悟で撤退するという玉砕から最も遠い決断は、並な人間にできることではあるまい。しかも短期的な勝算があったにもかかわらず、大きな潮目を捉えてのそれであった。同作品に、象徴的な場面がある。

「御前はおそれながら、ときどきお目が遠くおなりあそばしまするようで」
 遠望しすぎる、というのである。

 司馬の上手さに唸るところだ。間違っても、歴史学者が口の端に掛けないフレーズだ。痺れるような感動に襲われる司馬文学の肝だ。「お目が遠く」なったために、“潮目”が見えたにちがいない。
 明治維新を国家的規模のリタイアだとすれば、徳川家にとっては大いなるハッピーリタイアメントであったといえる。当家は始終ともに人物に恵まれた。まことに果報な一家である。 □


変化球

2013年06月15日 | エッセー

 “0.4134”と聞いて、何の数字かお解りだろうか。プロ野球の統一球に適用される「反発係数」である。11年に導入された時、“0.4134から0.4374”までと規定され、統一球は下限の“0.4134”を目標とした。「反発」だから、低いほど飛びにくい。ところが今季は一転、“0.415~0.416”を目標に定めた。しかも、内緒で。コミッショナーは知らぬ存ぜぬと白を切っている。暖簾に腕押し。こちらの反発係数はゼロにちがいない。
 わずか“0.02”の違いだが、約40センチ飛距離が伸びるという。打撃に軸足を移したわけだ。知らされなかったバッターの中には、前季の成績では今季は打てないと諦めて引退した者までいる。まことに罪作りなことである。
 左や右に曲がったり、落ちたり、揺れたりが変化球とばかり料簡していたが、球そのものを変える新手が出ようとは、“大リーグボール1号・2号”も真っ青ではないか。事は成績に直結する。特にピッチャー、スラッガーには深刻だ。ゲームのルールを変える以前の問題である。いわば『メタ・ルール』の改変である。
 そこでとても興味深い言説を引いてみよう。ボールは呪具である、ということだ。
 内田 樹氏が「街中のアメリカ論」<あとがき>(文春文庫)で、野球を一度も見たことがない人にどう説明するかという問いを立てている。
「球場のサイズやバットやグローブの材質や変化球の種類などということを言いだしたら、まず何十時間を要しても、その本質を知らない人に伝えることはできない」 しかし、「野球がゲームである限り、そこにはあらゆる人間社会に共通する『ゲームの本質』があるはずであり、それを適切に指摘しさえすれば」了解に導くことができるのではないか、という。そこで、
「あらゆるボールゲームは『呪具=ボールに最後に触れたのは敵か味方か』『呪具は<今生きている>(イン=穢れのない状態)か<死んでいる>(アウト=穢れた状態)か』という二つの二項対立に基づいている」
 と説明することで本質的理解は得られるとする。
 呪具には最後に触れた者の呪いが籠もる。野球やサッカー、バレーボール、すべてこの二項が問題となる。ピッチャー(味方)が投げたボールにはピッチャーの呪いが籠められ、バッターが打ち返せば、敵の呪いが籠もったボールとなって飛んでいく。野手が捕球すれば味方の呪具となる。つまり、呪具の所有権がまず問われる。これが一つ目の二項対立。
 二つ目が穢れの有無。投球がストライクゾーンという穢れのない状態を通過したか否か。打球の落下がインフィールドか否か。所有する呪具の死活が問われる。この二項対立だ。
 所有権と死活。この二つの二項対立が絡み合ってゲームが進行する。それが「あらゆるボールゲーム」の枝葉を取り払った本質である。
 では、なぜ呪具なのか。ボールは決して幸運を運ぶものではないからだ。“招福のボール”なら、決して「二つの二項対立」なぞ起こらない。敵に幸福を運ぶバカはいない。そうだとすれば、デッドボールはピッチャーの得点となり、サッカーはオウンゴールだらけになる。バレーボールは相手コートに返さなくなる。このネガティヴな構造性にフォーカスしたところが、さすがの炯眼である。
 統一球には発案者であるコミッショナーのサインが入っているそうだ。わざわざ御丁寧にも呪具に呪者の名を記しているといえなくもない。いかなる呪詛が籠められているのか。ともかく、そんな忌まわしい道具は早々に取り替えるに如くはない。DJポリス風にいえば、「コミッショナーさんは0番目の選手です。日本代表はルールとマナーを守ることで知られています。コミッショナーさんもゲームのルールを守りましょう」とでもなろうか。 □


悪妻? 

2013年06月11日 | エッセー

 これは看板に偽りありだ。釣りタイトルではないにせよ、中身が相当に違う。

 「悪妻の日本史」 清水 昇(歴史作家)著、実業之日本社“じっぴコンパクト新書”、先月刊。

 “期待”して読んだのに、ほとんどが悪妻どころか良妻たちであった。確かにサブタイトルには──偉人を育てた幕末・明治・大正・昭和の「悪い」女房たち──とある。「悪い」は浮世の評判で、実は大変な良妻であった、ということらしい。
  1.坂本龍馬の妻 おりょう
  2.高杉晋作の妻 雅子
  3,木戸孝允の妻 松子
  4.勝海舟の妻 民
  5.伊藤博文の妻 梅
  6.森有礼の妻 常
  7.黒田清隆の妻 清
  8.井上馨の妻 武子
  9.大山巌の妻 捨松
 10.乃木希典の妻 静子
 11,新島裏の妻 八重
 12,夏目漱石の妻 鏡子
 13,川上音二郎の妻 貞奴
 14.森鴎外の妻 志げ
 15.与謝野寛(鉄幹)の妻 晶子
 16.宮崎龍介の妻 柳原白蓮
 17.小泉八雲の妻 セツ
 18.竹久夢二の妻 たまき
 19.北原武夫の妻 宇野千代
 20.三浦政太郎の妻 環
 21.野口英世の妻 メリー
 以上が取り上げられた人物である。左側は錚々たるメンバーである。右側も 1.  15.  19. あたりは高名だが、他は馴染みが薄い。ただ今年の「大河ドラマ」で、11,は名をあげた(ただし、視聴率は史上最低だそうだが)。
 冒頭に著者はこう述べる。
◇哲学者ソクラテスの妻クサンティッペ、音楽家モーツァルトの妻コンスタンツェ、作家トルストイの妻ソフィアを、世界の三大悪妻というそうだ。ほかに物理学者アインシュタインの妻エルザも、名にし負う悪妻だったという。ソクラテスは妻に怒鳴られ頭から水を浴びせられた。すると「雷のあとに雨はつきもの」と平然としていた。そして「結婚しなさい。よい奥さんだったら幸せになれる、悪妻だったら哲学者になれる」と言ったという。◇(◇部分は上掲書より引用、以下同様)
 ソクラテスの箴言は有名だ。凡人には未到の境地とはいえ、なんとも含蓄の深い言葉だ。
 21人中、亭主の浮気にヒステリックに応対した者は僅かだ。ほとんどが『寛容』であった。時代だといえば身も蓋も無いが、ひたすら往時が偲ばれるのはわたしだけではあるまい。特に、勝海舟はすごい。
◇海舟は『氷川清話』のなかで、「色欲を無理に抑えようとしたって、おさえつけられるものではない」と語っている。だからといって妾子を引き取り、その面倒を民に押し付けるなど、もってのほかだが、彼女たちの処遇は女中と同じで、朝晩には民の居間の前廊下に出向き、三つ指をついてきちんと挨拶させていた。民は実子と異腹の子どもを区別することなく接して過ごした。◇
 断っておくが、一人二人ではない。英雄の名にふさわしい人数である。さらに、
◇民は明治38年5月、84歳で没する。死に臨んだ民は、「海舟のそばに埋めてくださるな。小鹿(嫡男・引用者註)のそばがよい」と遺言した。女道楽に苦しめられ、妻妾同居を押しつけられた民の、これが本音だった。民は遺言どおり、当初小鹿の眠る青山墓地に葬られた。しかし、民の墓はのちに移設され、現在、海舟夫妻の墓は仲良く並んで東京大田区の洗足池のほとりにある。◇
 と、著者は結んでいる。名にし負う糟糠の妻である。民が悪妻であろうはずは一点もない。つい百年ほど前に、まったく異人種と見紛うほどの女性がこの同じ大地に生きていた。その事実に驚嘆する。権妻にはけじめを付けるが、庶子には別け隔てしない。かつ、今際の際に鮮やかな啖呵を切る。男尊女卑などという苔生した規矩を超えて、振るえるほどにすばらしいではないか。
 高杉晋作の妻・雅子、木戸孝允の妻・松子、それに伊藤博文の妻・梅も大同である。政治家には多いパターンかもしれないが、市井に至るまで同工異曲であったろう。従っているように見せかけて、実は掌で遊ばせる。並な芸当ではない。この至芸の因って来たるところを、碩学の卓説に学びたい。再度の引用になるが、抄録してみる。
 
〓男女の違いは性染色体によります。男性は女性をわざわざホルモンの作用でいじって作り上げたものです。元になっているのは女性型なのです。これが非常に重要な点です。実は人は放っておけば女になるという表現もできます。Y染色体が余計なことをしなければ女になると言っていい。本来は女のままで十分やっていけるところにY染色体を投じて邪魔をしている。乱暴な言い方をすると、無理をしている。だから、男のほうが「出来損ない」が多いのです。それは統計的にはっきりしています。「出来損ない」というのは、偏った人、極端な人が出来ると言ってもいいでしょう。いろいろなデータをとると、両極端の数字のところには常に男が位置しています。身長、体重、病気のかかりやすさ、何でもそうです。たとえば畸形児のような形で出産直後に死んでしまう子も男の方が多い。一方で女性のほうがまとまる性質にある。まとまるというのは、安定した形になる、バランスがいいということです。身体の特徴に限らず、さまざまな極端な社会的行動も男が多い。異常犯罪の類の犯人は男のほうが多いし、暴力犯罪にしても男が女の十倍です。
 生物学的にいうと女のほうが強い。強いということは、より現実に適応しているということです。それが一番歴然とあらわれるのは平均寿命です。身体が屈強なはずの男よりも女の方が長持ちします。現実に適応しているからです。 
 現実に適応しているということは、無駄なことを好まないということです。女性で虫を集めている人はほとんどいません。虫好きの世界は男専科です。虫に限らず、コレクターというのはそもそも基本的に男の世界です。マッチの箱とか、ラベルとか、切手とか、余計なものを集めるのは男が圧倒的に多い。女性は集めるにしても実用品中心です。女性の頑固さというのは生物学的なこの安定性に基づいているのではないでしょうか。システム的な安定性を持っていると言ってもいい。
 体が安定していることは頭のことにもつながる。だから、口論になって男のほうがあれこれ理屈を言っても女のほうは内部的な安定性をはっきり持ってしまっているからびくともしない。「どんなに言われても、私はこうなのよ」と自信がある。それが頑固さにつながっているのです。私はむしろ女性の安定性を高く評価すべきだと思っています。もちろんこの安定性には欠点もあります。安定しているのはあくまでも自分です。ということは他人から見れば自分勝手だということにもなる。社会性が低いとも思われる。あくまでも個体としての安定性を持っているわけですから、そういう人とはつき合いづらいと思われるでしょう。そういう一対一の対人関係の場面では、勘弁してくれよというふうに男側が思うことも多いでしょう。
 でも、もっと大きなスケールで考えると、人間の常識の分布の中のいい線に女の人がいて真ん中におさまっていると言ってもいいでしょう。〓(養老孟司著「超バカの壁」より)

 「出来損ない」をして一角の仕事をさせる。それには『御者』がぶれてはならない。「生物学的」「内部的な安定性」が必要となる。ただそれは「頑固」と裏表である。「あくまでも個体としての安定性」だから、「社会性が低い」と見られがちだ。それが『悪妻』との評に繋がったか。なににせよ、「女の人がいて真ん中におさまっている」のが実相である。ただただ、養老先生の洞見に恐れ入るばかりだ。
 世のパペット諸氏よ、男と生まれた不運を呪うまい。「男性は女性をわざわざホルモンの作用でいじって作り上げたものです。元になっているのは女性型」である以上、われわれは元々闖入者なのだ(ダジャレではないので、誤解のないように)。良妻、悪妻を問う前に、たまたま同じ『宿』に住まうことになった『六』でなしでないか否かを自問しよう。そして、呼ばわろう。バカヤロー! と。 


*おかげさまで、愛機が退院しました。前より少し元気になったようです。設定もデータもそのままで、ゴキゲンです。ご報告まで。 □


三本の矢

2013年06月07日 | エッセー

  『乱』の冒頭シーンはつとに高名だ。猪狩りの、あの躍動感は黒澤映画の真骨頂である。場面が移って、陣中での「三本の矢」。あぁー、また観たくなった。
  当主の隠居とともに、件の訓戒は無残に破られる。まさに“乱世”が始まる……。どうも、あの「三子教訓状」が連想されてならぬ。外でもない、アベノミクスだ。

  最初の鏑矢は勢いよく放たれたかに見えたが、的中とはいいがたい。ここに来て、株価の乱高下。なにより低下を目論んだ金利が、上昇に転じたことだ。目論見と実態は説明がややこしい。とてもこの凡愚のおつむには適わぬが、受け売りをすると   
①日銀が国債を大量に買い入れる 
②市中に出回っている国債の量が減る 
③国債の価格が上がる 
④国債の利率は変わらないから国債の利回りが悪くなる 
⑤国債に連動して金利が下がる
 ──が目論見であった。判り辛いのは ④ だ。
  安いが確実に利息が付くのが国債である。ただし利率は変わらない。100円で買って10年後に110円になるものが、105円で買っても10年後にはやはり110円。
儲けは半分になる。銀行は国債頼みでは儲からなくなる。市中で借りてもらわねば儲からない。だから利息を下げる。借りやすくなる。市中にマネーが放出される。
  ところが、実際には──先読みした(④になるなら)金融機関と投資家が下がるもの
を抱えていてもしようがないと、売りに出た。だから、市中の国債の量が減らないので(②にならず)金利が上昇した    という次第である。つまり、②の段階でふんづまっ
てしまった。緩和は異次元でも、対応は極めて通途の次元であったといえる。
    デフレ対策におけるアナウンス効果  →
    円高修正で円安誘導・株価上昇  →
    輸出企業の利益増加  →
    雇用拡大・所得増加  →
    消費拡大  → 
    物価上昇(インフレ率2%へ)  →
    内需産業の利益増加  →
    本格的な景気回復
  がアベノミクスのシナリオであるが、「輸出企業の利益増加」まではなんとかたどり着いたようだ。がしかし、そこから先が五里霧中。ただいまだ「アナウンス効果」の段階で、これからが中身のフェーズだともいえる。
  「雇用拡大・所得増加」については、首相、財務相の肝煎りで一時金やボーナスを上げたところはあるが、ベアはごく一部に止(トド)まっている。しかも輸出企業が中心だ。トリクルダウンは果たして起こるか。極めて懐疑的だ。
  加うるに、円安による物価の上昇が始まった。「所得増加」と「物価上昇」が逆順になっている。タイムラグは認めるにしても、追っつくかどうか。この場合、兎はシエスタをしない。亀は走りだすことさえ厭う。世にも珍妙なレースだ。

  では、二の矢はいかがか。
  規模は小さいが、先例がある。東北大震災復興予算である。11年度は15兆円の大金を付けても執行は9兆円で6割。6兆円が未消化で残った。立案する役所も仕事の現場でも人材が足りないのだ。資機材も高騰、不足。不落札が相次ぎ、とどのつまりが、沖縄で法面工事をする羽目になった。
  政府が掲げるように財政政策は「機動的」でなければ、絵に描いた餅に終わる。赤っ恥をかいた前政権の不手際を他山の石とせねばなるまい。バブル以降で、産業構造は激変した。右肩上がりの時代と同じ発想では必ず頓挫する。公共事業の現場に若者はいない。乾いた砂は少ない。災害への備えもインフラのメンテも喫緊を要するが、冷静な認識と賢明な判断が欠かせない。復興予算のより大規模な『二の』舞いは避けねばならない。

  三の矢、これが一番難しい。蹉跌の可能性はここが最も高い。「成長戦略」とは聞こえはいいが、何のことはない、異次元の規制緩和だ。つまりは、既得権益にどう斬り込むか。実利の真っ只中での攻防である。
  5日第3弾を華々しく発表はしたが、実行は至難だ。信長ほどの強権がなければ「楽市・楽座」は叶わなかった。強権に替わる高い支持率を改憲などという火遊びに注(ツ)ぎ込んでいる暇はない。
 
  「三本」はひとつに束ねられた時、折れない。結束の妙である。「三子教訓状」とはそのことだ。アベノミクスが「三本の矢」と高言するなら、機を逃さず畳み掛けていかねばならぬ。鏑矢は一本ずつでは用をなさない。バラバラならば、待つのは“乱世”のみだ。針の穴ほどの成功の目は、一本と見紛うほどのスピード感だ。もう一度言おう。火遊びをしている暇はない。 


*本稿は、愛用のPCが入院加療中のため、急遽埃を被ったXPマシンを取り出してセッ
トアップし投稿したものです。愛機は心臓移植手術の後、近々寛解・退院の予定です。引き続き、御愛顧をお願いします。  □