伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

わが青春の味

2009年10月30日 | エッセー

 わたしは人後に落ちぬ新しもの好きで、かつ人並み以上に食い意地が張っている。したがって、新食品にはすぐに飛びつく。
 カップ麺の時もそうだった。38年も前になる。発売日を待ち兼ねるようにして手に入れ、電気ポット一つきりの3畳一間の下宿で、胸の高鳴りを抑えつつ厳かに喰らいついた。湯を注ぐだけ。待つのは、たった3分。具材はすべて入っている。なんと便利な。今様の文明開化か、わが国における文化大革命か。はたまた宇宙飛行士にでもなったような、あの時の感動はいまでも鮮明だ。(やはり、食い意地のせいか?)

 日清カップヌードルは、わが青春の味だ!

 だれが、なんといおうと …… 。水団が戦争を体験した世代に特別な感慨を呼ぶように、それぞれの世代には、分かち難い味覚がある。買い物に出かけると、ついカップヌードルに目が行き手が出る。荊妻が怒(イカ)る。だが体にいいの悪いのとは、あまりにも無粋な非文化的決めつけではないか。こちらは単に食品を喰らうのではない。カップヌードルという名の文化を、ひたすら味わっているのだ。わが青春を、しみじみと噛みしめようというのだ。精神の栄養補給である。第一、車が恐くて街が歩けるか、防腐剤が怖くてコンビニの弁当が食えるか …… と、自らを励ます今日このごろである。
 
 10月29日、いつもはさっと読み飛ばす新聞の経済面で、小さな記事に目が止まった。「カップヌードル」の文字に引かれたのだ。(やはり、食い意地のせいか?)
〓〓改良カップヌードルなど好調、日清食品が増収増益 
 日清食品ホールディングスの09年9月中間連結決算は、「カップヌードル」など主力商品の刷新が販売増につながり、純利益は前年同期比82.2%増の104億円だった。売上高は同2.4%増の1785億円、本業のもうけを示す営業利益は同7.5%増の123億円だった。
 「カップヌードル」や「どん兵衛」の具材やめんを改良。退職給付費用の増加分を売り上げ増で吸収した。低価格志向には、オープン価格の商品や小売りとの共同開発品を拡充することで自社ブランド商品の値崩れを防いだ。〓〓(朝日新聞)
 インスタントラーメンの開発が、55年。それから16年経った71年にカップラーメンが登場。袋入りからカップ麺へと主流は代わったが、いまや「インスタントラーメン」という堂々たるカテゴリーを成すに至っている。また「地ラーメン」のカップ化や、限りない本物指向など進化は止まぬ。その中で、オールインワンのカップヌードルも日進月歩だ。
 忘れてならぬのはCMだ。各社のカップ麺はつねにCM界の先導役でありつづける。古い記憶は失せたが、近ごろでは日清カップヌードルの「Are you Hungry?」シリーズ。時代を逆撫でする機知に富んでいた。「宇宙船」シリーズもかつての名画と同じ曲をバックに流し、味な演出だった。最近では、キムタクの「コロ・チャーマーチ篇」「ダンス篇」があか抜けしていて、シャレが効いて、出色の出来だ。
 さらに、さらに、「カップスター」のCMソング。これを書き忘れては天罰を受ける。
                                              
  〽カップスター 
   食べたその日から
   味のとりこに とりこになりました
      サッポロ一番 カップスター〽

 何代目かは判らぬが、99年に拓郎もアレンジして歌った。ベースのイントロは非常に印象的だった。詞は古風だが、歌は耳朶に残って離れない。いわば、「オペラ歌手の鼻歌」だ。 ―― 誰だかは失念したが、三島由紀夫の「潮騒」をこのように評した文人がいた ―― 鼻歌ではあっても、力量が違う、格が違う。

 さて、記事について。「退職給付費用の増加分を売り上げ増で吸収」とは喜ばしい。日本の企業にはまだまだ知恵と工夫が残っている。捨てたもんじゃない。「進歩するわが青春の味」と括ればなお嬉しい。

 わたしの場合、青春の味はいたって即物的だ。呻吟の塩っ辛さも、やるせない甘味(アマミ)も、蹉跌のほろ苦さも、すべてあの掌(テノヒラ)大のカップに閉じ込められて日常の彼此(オチコチ)にある。呼び起こすには熱湯だけあればいい。 □


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道を外れない話

2009年10月27日 | エッセー

 当代押しも押されもせぬ碩学なのに、俯き加減にひとりでそぉーと入ってきた。自分は猫背だと話のなかで触れたので、うつむく理由(ワケ)は知れた。
 演台はない。演題はあったが(半分駄洒落、失礼)、話柄は軽やかに跳んで凡愚の手を摺り抜ける。追うのが骨折りだ。マイクを握り、ステージ上を取り留めもなく歩きつつ語る。時にポケットに手を入れ、豊かな白髪を撫で、背広のボタンを外しまた留め、また外す。決して忙(セワ)しないわけではない。話のテンポにマッチして、こちらもしゃちこ張らなくて済む。
 至極簡単なプロフィールの紹介があって、ボソボソと講演は始まった。 ……
 (≪≪  ≫≫部分は、欠片の独白)


 先日、都会の子どもを20人ほど山に連れて行って、虫取りをさせた。山で放しておけば勝手にやるだろうとそこを離れ、30分して戻ってみると20人みんな道路の上にいた。ひとりとして山に入っていない。これには驚いた。「近ごろの子どもは道を外れない」昔の子どもは放っておけばどこへ行くかわからなかったのに、今は放っておいたら道に外れない。本当に心配だ。
≪≪「道を外れない」 ツカミは上手い!≫≫
 
 10年来のわたしの主張は『平成の参勤交代』。田舎で一次産業をやる。『ダッシュ村』でTOKIOはやっている。喜んでやっている。ひと月なら12分の1、これならできる。12分の1、社員を増やすか、その分効率を上げる。
 人の移動が起これば、内需拡大になる。都会と田舎の交流があれば、大地震の時に役立つ。ライフラインが切れる。特に困るのはトイレ。田舎なら穴掘って済ませられるが、都会では穴を掘るところもない。大量の難民が発生する。その時に帰る田舎があると助かるではないか。
≪≪持論が唸る。真骨頂だ。節節に、べらんめー調が覗く。≫≫ 

 身体は勝手に何でもやってるから自然。心臓は勝手に動いている。呼吸だってそうだ。それをダイエットだの、サプリメントだの、なんとかセラピーだのと頭でコントロールしようとしている。またわれわれの身体に住み着いている生きものは、ばい菌を始め一億もいる。身体自体が生態系である。だから、火葬は「一億玉砕」だ。
≪≪だんだん調子が上がってきた。≫≫ 

 人間は自分は周囲から切り離された一個の別物だと思っているが、脳を壊すとこの考え方自体が壊れる。方向定位連合野が壊れると、自分と周囲との境目がなくなってしまう。たとえば杖をついている人にとっては杖の先が身体の先端になる。が、世界の中での自分の位置づけを行う方向定位が壊れると、「自分が水のようになった」と言った学者がいる。水だから形がなくなって、宇宙と一体化する。それは頭の壊れた患者だけではなく、昔からよく宗教家はそれを言った。宗教体験とは、壊れてないのに壊れている状況が解ることである。方向定位が働かない状況を作ることができる。だからそういう状況をつくるのに、滝に打たれたり、断食したりするのだ。
 また、芸術家が屡々それをやる。ピカソのキュービズムの絵も部分部分はしっかりとした描写だが、描く方向が別々のものがくっついている。あれは方向定位の壊れている患者の描く絵とそっくりだ。ピカソは方向定位が壊れてなくても描けたから天才といわれた。知人の学者が、「モナリザの微笑」もピカソと同じだと言っていた。笑っているのではなく、別々の方向から描かれた絵をひとつにしたから笑っているように見えるのだと。
≪≪脳の働きが自然との一体感を切っている。実に興味深い!≫≫ 

 意識が作るものを人工と、わたしは呼んでいる。都市化がそれだ。人間はすべてのことを予想できて、すべてのことに責任が取れるという考え自体がいかに無責任か。そういう人には自分の命日を背中に貼って歩けと言いたい。予想してものをやっていくことは、究極の我が儘という。ところが、自然を相手に農業や漁業をしていると、自分の意のままにはいかないことだらけだ。冷害も来る。誰のせいにもできない。それを、仕方ないと言った。だが、今の人は絶対に仕方ないとは言わない。
≪≪「脳化社会」である。佳境に入ってきた。命日を云々とは、 肝腎要が意識では判らない。意識なんてそんなもの、と言いたいらしい。≫≫ 

 「ああすればこうなる、こうすればああなる」である。環境を環境問題という形で議論すると、すぐ「ああすればこうなる」式になる。実はそこが問題だ。自然は解らないから面白い。ところが、こういう考え方は現代では人気がない。わたしが教師だったら、お母さん方に追い出されるだろう。子どもが道の上にいる、道を外れないと言って怒っているのだから。
≪≪モンスターペアレントに御用心! 命を狙われかねませんぞ。≫≫ 

 ラオスはアジアの最貧国だと規定しているのは国連だ。国連は霞ヶ関の上を行く官僚組織だ。わたしは一切信用しません。遠くなればなるほど抽象的になる。だから、具体的なことを言ってくる時は無茶苦茶なことを言うに決まっている。たとえばベトナムの少数民族の住む山にポプラの植樹を指導している。国連職員も『参勤交代』をして、現地で働いたらどうか。
≪≪「遠くなるほど抽象的」さすがに鋭い! この辺りは独壇場だ。≫≫ 

 選挙に行って紙に鉛筆で名前を書いて箱に入れて、世の中が代わるんだったら、こんな楽なことはない。そんなこと、わたしはまったく信じていません。世の中がよくなるのは、一人一人がよくなるような行動をした結果だ。選挙はおまじないだ。まじないは、訳の分からないことをして良い方に動くことを期待すれば祝詞で、悪いことを願うのが呪いだ。どちらも言葉だ。いじめの言葉で子どもが死んでいくこともある。あれが呪いだ。
 皆さんは近代人だから、呪いなんて効く訳がないと思っているだろうが、そういう人が一番危ない。戦時中は「本土決戦」「一億玉砕」と言って、若い人が死に、原爆が落ちた。言葉で動く世界にまたなってきたなという気がする。昭和20年、終戦以前と以後では新聞がまるっきり変わった。私が一次産業やたんぼで働くことを勧めるのは、その種のウソがないからだ。自然は中立、人間の都合なんか考えていない。人間が自然の都合をうまく利用するしかない。しかし、人間は言葉で簡単に騙される。オレオレ詐欺はいい例だ。あれは言葉だけだ。言葉ではなく、やることを見れば判る。それを昔の人は「人を見る目」と言った。
≪≪これはかなり高次な話だ。言葉の問題、それに時代認識。啓発される。掴んでは投げ捨てるような選挙の話は、この先生独特の身も蓋も無い物言いだ。おまけに取り付く島もない。だが、戦争体験と物事を究めた深みから発する炯眼の光と信ずる。「言葉で動く世界」とは、アジテーションに弱い社会か。現実離れした抽象や観念に引きずられた戦前の歩みか。脳化社会、都市化の進行か。熟考を要す。≫≫ 

  環境問題の根本はそれぞれの人がどう考えるかだ。さらに、どう行動するかだ。いきなり動けと言っても無理だから、まず考え方を変えねばならない。考え方を変えるには身体を動かすしかない。自然の中で身体を動かせば、環境問題を理解できる。なぜなら、自分の身体は環境であり、自然と繋がっていることが即座に解るからだ。
 時間が来ました。後はご自分でお考えください。
≪≪話は道を外れず、まとめに至った。しかも簡易に。≫≫


 最後の捨て台詞、いや置き台詞がいい。投げやりでも、お座なりでもない。ボールをこちらに渡し、余韻を残す。この大きさが、たまらなくいい。
 養老孟司講演会は閉じた。先生、お疲れさまでした。またのお越しをお待ちしております。ドアの向こうに消える背中に、そう呟いた。 □



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秋の色

2009年10月24日 | エッセー

 秋は色づき、赤く染まる。            

 赤は、紅も朱もある。だが違いは措いて、ここでは等し並に「赤」としよう。
 無粋な物言いだが、赤は可視光線の中で最も波長が長い。閾(シキイ)を越えると、赤外線だ。逆は紫外線。紫は波長が最も短い。緑は中間。波長の違いが色となる。
 世界が豊かに隈取られる。

 赤は、火炎と血潮の色だ。だから、常ならざる色合いだ。ある時は熱情を、活気を、熱暑を体現し、ある時は注意を、さらに警告を、制止を呼びかける。
 暦の休日は赤い文字、ちょっと弾む。消防車の赤には怖気(オゾケ)立ち、赤いポストには少し和む。トリアージの赤には動転し、赤点、赤字には肩を落とす。
 赤貧や真っ赤な嘘、赤恥とくれば、言葉がきつい。
 こちらも常ならざる意味合いだ。

 半世紀の前、地球をはじめて外見(ソトミ)したガガーリンは「地球は青かった」と伝えた。ISSからの俯瞰も、月からの遠望も、青い地球だ。
 だからこの天体では、赤は常ならざる彩りなのかもしれない。

 
さて、秋だ。紅葉(コウヨウ)である。山々が化粧を直す。もみじに装われて美しくない山はない。
 聞きかじりをひけらかすと、なぜ紅葉するのか、まだなぞだ。葉の老化ともいえるが、それは近因だ。害虫に対する威嚇であるとの進化論的見方もある。免疫力を誇示してパラサイトの無効をアピールするそうだ。これはおもしろい。
 やはりこの星は、生きている。

 この季節、天は高く空の色が清く「明」らかとなる。そして収穫は「飽き」満ちる。
 だから「秋」となった。

 見晴るかす色彩の妙、錦秋。中国の故事に倣って、白虎ゆく白秋。素は白ゆえに、素秋。木犀の咲く、桂秋。澄み渡る空は高く、高秋。肌に心地よい、涼秋 冬の予感、凜秋。
 呼び名も撓(タワ)わだ。
 
 季候の深まりとともに草木(クサキ)は赤ばみ、黄ばむ。「紅葉つ」「黄葉つ」と記し、「もみつ」と読み、古人は愛でた。やがて、「もみじ」となる。山野を染め上げる巧みなる画師だ。 
 日本列島が長大なる屏風絵となる。

 この天体の自然(ジネン)の色が青だとすると、赤は稀なる彩色(サイシキ)だ。だから興趣が増す。人の世にあるも、一色(ヒトイロ)ではあるまい。青春の紺碧は「紅葉つ」色に、緩やかに塗り変わる。気がつけば、秋。

 秋は色づき、赤く染まる。

 稀なる彩色は高みの色だ。
 人生の秋も、かくありたい。 □



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番度、蟷螂の斧

2009年10月21日 | エッセー

 何度か愚慮を巡らしてきた「官僚支配」について、懲りずまたも蟷螂の斧を振るってみたい。

 『外務省のラスプーチン』と呼ばれた佐藤優氏は官僚支配を糾弾する急先鋒だ。主張を要約すると ――
◆永田町・霞ヶ関・虎ノ門(=特殊法人)のトライアングルが存在する。
◆一番の問題は、官僚による不祥事より役所が国家の意思決定をしている実態であり、もはや「官僚主権」に等しい。
◆国家は抽象物ではない。官僚によって維持されるシステムだ。官僚は本質として暴力的で、支配を好むのである。官僚支配が強まると社会の力が弱くなる。その結果、国家も弱くなる。このスパイラルに現在の日本は入っている。
 ―― といったところか。
 政官の癒着。官による意志決定。官僚支配は国家を弱める。宜なる哉、である。

 そこで、その淵源を辿る。昨年4月26日付本ブログ「『四権』?国家」を、臆面もなく抄録してみる。
〓〓堺屋太一氏は96年に著した「日本を創った12人」(PHP新書)の中で、唯ひとり実在しなかった人物を取り上げている。光源氏だ。以下、要点を挙げると。
◆遣唐使が打ち切られ、鎖国状態の日本にあって、光源氏は外交問題はもちろん、産業発展にも財政問題にもほとんど関心を持つことがなかった。治安や財政などの現実的な重要問題に貴族政治家は直接タッチせず、荘園の現地管理人である地頭(=官僚)、後の武士階級に任せていた。
◆何もしなかった政治家・光源氏の影響は、現代日本にどう現れているのだろうか。まず第一は、日本的な貴族政治家の原型を創り出したことだ。実際、この国にはしばしば、「光源氏」型の政治家が現れる。つまり、一見上品で人柄はよさそうだが、現実の政治はほとんどやらず、やる気さえなく、行財政の細部と実務には知識も関心もない、というタイプの政治家である。その典型は近衛文麿であろう。
◆動乱期、例えば戦国時代や幕末維新となると強力な指導者が必要である。しかし、世の中が安定してくると、日本ではたちまちリーダーシップ拒否現象が現れ、集団主義的意志決定構造が生まれてくる。光源氏以来の上流人士は実務に携わらず、上品な人は他人と争うような指揮監督はしない、という伝統が蘇るからである。
つまり ――
① 政治家はリーダーシップを発揮することなく、実務は官僚に任せる宮廷文化人の祖型が光源氏。
② 動乱期には強いリーダーシップが必要とされるが、安定期には責任分散型の集団主義に戻る。 ――
 民族に潜在する意識や底流する歴史に遡行してみれば、これはいっときの病ではなく宿痾であることが診えてくる。
 切開、切除のオペは命取りになりかねない。では、上手に業病と付き合うか。移植は可能か。いずれにせよ難儀なことである。〓〓

 新政権はどうやら、『移植』を始めたらしい。永田町から霞ヶ関への集団トラバーユである。副大臣をはじめ100人規模の与党政治家を送り込む。
 先般の補正予算の削減では、官僚を退室させて副大臣・政務官だけで電卓を叩く姿が報じられていた。『光源氏』がねじり鉢巻きで帳簿と格闘する図に見えて、新鮮であるよりはある種の滑稽味を覚えてしまった。パフォーマンスではあろうが、「政治主導」とは役人に電卓を叩かせることのはずだ。養老孟司氏の言を借りれば、「不信にはコストが掛かる」。歳費を勘定すれば、高い電卓である。
 堺屋氏が発掘した『日本を創った』DNAを、果たしてリメイクできるか、否か。上記②が逆転した結果が昭和の悲劇だった歴史は、充分すぎるほど重い。ならば、国家の行く末に係わる断じて忽(ユルガ)せにできない課題である。

 さて、原理的な視点に移ろう。社会学者・宮台真司氏の論を援用する。
〓〓アメリカは大統領制です。三権分立による権力の相互牽制の概念は、実は米国大統領制に最もよく当て嵌まります。立法と行政がこれほど真剣にぶつかり合う制度は他国にないからです。
 戦後の日本は、英国的な議院内閣制に倣ったとされます。英国的な議院内閣制は、実は三権分立でなく二権分立制です。司法権と立法権だけが対等に存在し、行政権は立法権に圧倒的に従属しています。
 [国民が選出した各議員・が選んだ首相・が組織した各大臣・が選んだ指名職・の下で働くキャリア官僚・の下で働くノンキャリア官僚]という直線的な権力の流れが存在するということです。さて、日本にはこうした権力の流れが存在するでしょうか。
 議院内閣制だと、国民による選出を正統性の源泉とする一本の権力の流れがあるのに対し、大統領制だと、同じく国民による選出を正統性の源泉とする権力の流れが、ホワイトハウス(行政)と議会(立法)との両方に、二本存在して、だから対等に衝突できる仕組になっているのです。
 議院内閣制の場合、国民に端を発する流れが一本なので、国民という源泉に近いほど優位であるという枠組になります。だから行政(役人)は論理的に立法(政治家)の下に従属する存在である他ないのです。強いて三権分立と言える要素は、首相による解散権にあります。〓〓(幻冬舎新書「日本の難点」より)
 鋭い論旨である。教科書的理解の死角だ。三権に非ず。行政権は立法権に内包され、原理的には二権に停まる。では、実態はどうか。

〓〓「官僚内閣制」というのは、国民が国会(議院)を通じて内閣を操縦する議院内閣制の本義が機能せず、官僚が国会(議院)を通じて内閣を操縦する形になっていることをいいます。内閣を操縦する国会が、国民によってではなく官僚によって操縦される。官僚が国民の役割を代替しているわけです。
 憲法(=明治憲法)は立憲君主制を規定している,君主を輔弼する臣下らを国民が憲法(国民意思の覚書)によって操縦するのが本義である。しかし国民はいまだ未成熟。従っていま暫くは天皇が、将来あり得べき「理想の国民」を体現した「国民の天皇」として振る舞うしかない……。
 問題はむしろ「統帥権の独立」という意味での天皇制が否定された ―― 「国民の意思」を「天皇の意思」が代理できなくなった ―― 敗戦後です。しかし国民は未成熟なまま、つまり統治権力(国家)を操縦する力はありません。だから「理想の国民」に代わって、霞が関官僚が議院を通じて内閣を操縦する……。
 与党の党本部もまた議院を操縦する、別言すれば、官僚による議院操縦を党本部機能が制御してきたのです。〓〓(上掲書より)
 原理的な瑕疵、もしくは不足を補うため、戦前は「理想の国民」を天皇が体現し、戦後は官僚が代替する ―― これは意表を衝く論考だ。肯(ガエ)んじた上で、歩(ホ)を進める。残るは「理想の国民」であり、国民の熟・未熟である。誰が、もしくはどこが、どう判断するのだろう。憲法前文の「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」に照らせば、国際的評価であろうか。それでは漠として取り留めもない。「脱官僚」が俎上に載ること自体が『熟』への入域と捉えることもできよう。しかし、制度疲労の露出と不祥事に乗じたマスメディアの世論誘導はないか。
 また、「官僚による議院操縦を党本部機能が制御」する機能。つまり、<党・官僚・議員>から成る擬制の三権分立があった。官僚へのチェック・アンド・アランスを与党が果たしてきた。いわゆる族議員である。ある意味で国民に最も近い存在である。

  『 国民 ⇒ 与党 ⇒ 官僚 ⇒ 議院 ⇒ 内閣 』

という操縦・制御・意思の流れが存在してきた。これが米国流の二筋による権力の流れを代替し、英国流の一筋の流れを補完する伏流としてあった。だが「ある意味で」といったのは、この『国民 ⇒』とは有り体には利害関係者である。ここに病巣が潜む。ノイジー・マイノリティーが、サイレント・マジョリティーを凌ぐ場合も多い。

 新政権の目論見はまず『官僚 ⇒ 議院』を遮断しようとする。手初めに国会での答弁から官僚の排除を狙い、その法制化を強行しようとしている。角を矯めて牛を殺す典型だ。下手をすれば逆に、霞ヶ関は巨大なブロックボックスになりかねない。見たいものが見えなくなりはしないか。加えて、カンちがい君は両者の接触を禁ずる法案を懐中しているらしい。英国仕込みらしいが、歴史と風土の違いを考えねば逆効果になりかねない。     
 さらに『与党 ⇒ 官僚』に代えて、『内閣 ⇒ 官僚』をねじ込んだ。先述の『集団トラバーユ』である。では元の『与党 ⇒ 官僚』は? 新与党の中にも、今のところ利権の絡まない族議員はいる。分野別の政策通だ。このまま『与党 ⇒ 官僚』が閉塞すると、ここが患ってしまう。そこで、省庁別「政策会議」なるお為めごかしを拵(コサエ)えた。傍目にはガス抜きとしか見えない。案の定、どの省庁でもガス抜きどころか、ひところの株主総会よろしくシャンシャン大会だそうだ。御大コザワ君は、政策は内閣、その他の議員は起立要員たる役割と次の選挙の備えに挺身せよと、にべもない。だから、自ら代表質問にも立たないそうだ。
 これで前記の「操縦・制御・意思の流れ」は変わるのか。いずれにせよ、朝三暮四とならぬよう願いたい。国民は猿ではない。『朝四暮三』に騙されはしない。
 蛇足だが、オオイズミ君の試みも「抵抗勢力」の名のもとに『与党 ⇒ 官僚』の抹消を狙ったものだった。今や余話でしかないのが、なんとも切ない。
 マスコミのミスリードか日本人の習性か、世論は一極に振(ブ)れがちだ。佐藤氏の「国家は抽象物ではない。官僚によって維持されるシステムだ。」との洞察は重い。何度も述べてきたが、官僚は悪ではない。不善は、その「支配」にある。日本のそれは優秀であり、功績も大きい。敗戦後、「理想の国民」の登場まで、未熟な国民に代わり「統治権力を操縦」してきた。敢えて分を越えてきたともいえよう。この視点が抜けると、世の不如意のスケープゴートとして、『みのもんたレベル』の「官僚叩き」に堕してしまう。官僚によらざる国家運営は画餅にもならない。

 流れを変えても、河清が成されねば意味はない。新政権の取り組みが弥縫だとまではいわぬが、流れの急激な変化は想定外の不具合を生みかねない。功名に駆られた先陣争い、手っ取り早い成果主義は拙速に陥る。事が事だ。巧遅は拙速に如かず、とはいかない。巧遅ではなく、むしろ漸進こそが理想だ。

 やはり、熟考、改変を要するのは『国民 ⇒ 与党』ではないか。とば口の部分だ。大統領制やその亜流である首相公選制など、「国のかたち」を変える憲法改正を棚に上げて思案すれば、ここしかない。ここが画竜点睛ではないか。とどのつまりは選挙制度である。「理想の国民」へのわれわれ自身の不断の成長は論を俟たぬが、その正確な反映こそ緊要ではないか。とば口が歪であれば、話は振り出しに戻る。                                 
  …… 抑揚頓挫、またしても蟷螂の斧となってしまった。いな、斧は砕け、前足の欠けた面妖な蟷螂かもしれない。 □



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筋書き、無効

2009年10月18日 | エッセー

 犯行の発生と刑の執行が同時である犯罪。それは自殺である。それは歴とした殺人である。殺人の「人」が他人ではなく自らであるだけだ。人殺しに変わりはない。
 究極の尊属殺でもある。中国の律令では皇帝への反逆罪と同類とされ、日本でも95年に刑法から削除されるまで重罪とされてきた。当然、裁きは厳科だ。ただ死が二度ない以上、『犯人』を極刑に処せられないだけだ。
  …… 口惜しさに駆られたか、そんな思念が渦巻いた。

 「伽草子」を借名する以上、拓郎と因縁深きこの人物の訃報を聞き置くわけにはいかない。さらに、団塊の世代の長兄にも当たる。
 本ブログでは正確を期すため事件、事故については新聞記事を引いてきたが、本稿では止める。この時点で、動機も未だ報じられてはいない。知ったところで、『帰って来』る訳ではない。それにしても、生前のライフスタイルからして最も遠い死に方ではある。どんな深い闇があったにせよ、「死魔」に魅入られ、そして餌食にされたことだけは確かだ。

 拓郎がデビューまもないコンサートで、「このギターは、加藤和彦大先生にもらったんだ」と誇らしげに語ったことがある。爾来、わたしは加藤氏が年上だと信じてきた。実は逆に拓郎が一つ上だったと、いま初めて知った。67年に「帰って来たヨッパライ」が280万枚の超弩級ヒットを放ち、すでに大御所、先輩格であったのだろう。当時からギターの収集は有名で、「加藤コレクション」と呼ばれた。だから「大先生」は、拓郎一流の敬愛が込められた物言いであったにちがいない。しきりにそれが思い出される。

 かつて本ブログで取り上げた「純情」は、阿久悠 作詞、加藤和彦 作曲である。歌が拓郎と二人。硬軟絶妙の取り合わせで、天下無双のデュエットだった。

   〽おとなしく いい子では
    死んだ 気になる
    かき立てて かき立てて
    熱く 迫って
    ここまで来たなら 一生しごとさ
    
    おれたちの とんだ失敗は
    純情だけ
    Only you やはり Only you
    もういいだろ
    Only you さらに Only you
    まだ足りない まだ足りない
    まだ心が軽い
    Only you Only you
    Only you Only you〽

 いま、しきりに耳朶に甦る。
 その時、阿久悠氏に事寄せて次のように記した。
〓〓男の胸には「ガキが 住んで」いる。とすると、この曲は現代版「男の純情」といったところか。さらに、作者の自画像が裏打ちされているのかもしれない。
 「もういいだろ」の問いかけに返す。「まだ足りない まだ足りない まだ心が軽い」。ここが、いい。なぜ「まだ足りない」のか。「まだ心が軽い」からだと……。歌意を貶めることを懼れるが、邪推を逞しくしてみる。
 男の目方は何で計るのだろう。「心の軽さ」で決まるのだ。「不器用」でも、「不細工」でもいい。「おとなしく いい子では 死んだ 気になる」のが男だ。「心が軽い」うちは、まだ行ける。まだまだ行ける。「まだ『生き』足りない」のだ。〓〓(07年8月2日付:「純情」 ―― レクイエムではなく)
 「もういいだろ」ではなく、「まだ足りない」のではなかったか。「おとなしく いい子」にでもなっのだろうか。「一生しごと」は片付いたのか。能事畢るとでも言うのか。「心が軽」くなくなって、死霊に誘(イザナ)われてしまったのか。 …… 応えの返らぬ、空しい問いをしきりに繰り返す。

 『ヨッパライ』は天国の神様に「なーおまえ 天国ちゅうとこは そんな甘いもんやおまへんや もっとまじめにやれー」と追放され、『帰って来た』。この筋書きはもはや、無効だ。  合掌。 □



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五輪 断簡

2009年10月16日 | エッセー

 ニュースを聞いて、ほっとした。16年オリンピック、東京敗退、リオ決定の報に、である。
 はじめから、東京には必然性がないと信じていた。利便性や資金の問題ではない。「やらねばならない」理屈がないのである。ほかに立候補地がないのなら話は別だ。しかしそうではない。同一都市での二度目の開催も大いに疑問だった。確かに例はある。アテネは別格として、パリ、ロス、そして今度のロンドンと4都市ある。『前の原っぱ』君ではないが、ハブ空港を持たない東京では格が低くはないか。なにより、辞めてはいるだろうが(多分)、『イシッパラ』君の花道を拵(コシラ)えるのは癪だ。『都営銀行』失政の目眩しに使われるのは、なお癪だ。一人勝ちの東京が、いまさら景気浮揚もないだろう。 
 『イシッパラ』君の落選の弁。「結果としてこういった形で終わったというのは無念ですな。残念です。非常にいいチームで戦った。久しぶりにね、私もヨットやったりサッカーやったりしていまして、とてもいいチームプレーができたな、と。それは本当に気持ちよかったですね。何か、敗れはしたけれども、勝敗は兵家(へいか)の常ですけれども、結果は無念でしたけれども、とてもいい仕事をしたし、いい試合をしたなという清涼感というのかな。久しぶりに味わいました」
 要領のいい負け惜しみにしか聞こえない。「兵家の常」とは大仰な。このじいさんはいつも自分を高みに置かないと気が済まないらしい。「兵家」とは片腹痛い。「ヨットやったりサッカーやったり」とは、戦争成り金の小伜が金に飽かした『趣味』でしかあるまいに。なんだか、ひどい勘違いだ。メンバーが善戦したというなら、長たる者、なにはともあれ自らの器量不足を詫びるべきではないか。他人事(ヒトゴト)のような発言は、意に反してこの人物のなんたるかをくっきりと浮き彫りにしている。

 そこで、ふと記憶が甦る。先の衆院選での話だ。某政党の幹事長が小選挙区、比例区ともに落ちた。深夜、娘の参議院議員が出てきて敗戦の弁に臨んだ。開口一番、「〇〇県の方は、よほど今の政治を変えたくないんでしょうね」ときた。目の前にいたら飛び蹴りの二三発は喰らわして、「耳の穴から手ぇ入れて、奥歯ガタガタ言わしたろか!」である。(いや古い、藤田『まこと』に古い)まずは社交辞令であっても、「私どもの力及ばず …… 」と言うところではないか。それを何を血迷ったか、上から目線で選挙民を小ばかにした物言い。テメーの親が落っこちたのは、〇〇県民のせいだとでも宣(ノタマ)うのか。〇〇県は後進性の塊でアホの集まりだとでも言いたいのか。正統な手続きを経て示された民意を肯んじないのであれば、民主主義国家の国会議員を名乗る資格なぞない。いろはのいの字も知らぬ幼児の対応だ。呆れけーって、二の句が継げない。よそ事とはいえ、ムラムラと義憤に駆られた。親の顔は今更見るまでもなくとっくに見飽きたが、よくぞ育てたものよ。こんなボロむすめを。その教育法を是非とも学びたいものだ。もちろん、反面教師としてだが。

 ちょっと寄り道した。話柄を戻す。五輪だ。五大陸である。これこそオリンピックの竜骨ではないか。だから、リオ以外にはない。BRICsの一角にも伍する。堂々たるものだ。かつ『お祭り』の本場中の本場とくれば、文句のつけようはない。ほかの3都市、3大陸が辞退しなかったのが不思議なくらいだ。これであとは、アフリカ大陸のみとなった。来年、南アフリカがサッカー・ワールドカップを迎える。ちょうどよいリハになる。次の次か、その次か。早く五つの輪が繋がってほしいものだ。付け加えれば、ブラジルは他民族国家、人種の坩堝だ。それでいて人種差別問題はほとんど聞かない。地球家族の一典型でもある。
 前段を水平的拡大とすれば、垂直的拡大もある。理念の深化とでもいおうか。―― 「人類の祭典」の「人類」を、「祭典」の中でいかに究めるか。
 にわかに浮上した「広島・長崎」2020年共催案である。都市単位の開催という前提(つまり複数都市による共同開催は規程外)、経済規模の弱小さ、当然ながら設備の不足など、難題は山ほどある。山はしたたかに高い。しかし、挑戦する値打ちはある。大いにある。
 IOCは「ヒロシマ」「ナガサキ」を掲げて通じない唐変木ではなかろう。政治利用だという批判は上がるだろうが、「反核」は政治以前の人類の生存の問題だ。まさに「人類」的課題だ。共催がだめだというなら、広島県と長崎県が統合し、両市を合併すればいかがか。論外だと蹴るなら、開催地は広島だが開閉式を軸にコンテンツを協同すればどうか。その逆でもいい。これならギリギリ論『内』ではないか。
 ええい、元をただせば落としたアメリカが悪い。だから、「共催じゃないと、わが国は出ません!」とアメリカに駄々をこねさせたらどうだ。オカダ君、君ががんばればできる(かもしれない)。石部金吉の君がニカッと愛想笑いの一つでもして、腰を低くく大統領にお願いするのだ。ノーベル平和賞が一段と光を増すこと請け合いです、かなんか言って。よほどのことがない限り、オバマは現役のはずだ。君は判らんが …… 。

 山雀利根と嗤うなかれ。ゴルフまで競技種目に採り入れ、益々商業化するオリンピック。もしも『ヒロ・ナガ』五輪が叶うなら、大きく軌道修正を掛けるチャンスかもしれない。
 要路の先生方の御賢察と熟考を希(コイネガ)って、筆を置く。□


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無い物ねだり

2009年10月14日 | エッセー

「勇気をもって平和を追求してきたこれまでの受賞者の列に加わる値打ちは、私にはないと思う」授章決定を受けてのオバマ大統領の言葉だ。さすがに彼らしい謙虚で、抑制された発言だ。
 ならば辞退したらと、掛け値なしにそう願った。「謙譲の美徳」である。

 ノーベル賞には、<物理学><化学><生理学・医学><文学><平和>の5部門がある。その中で、平和賞は際物だ。かつ、いつも生臭い。というのは、政治性が纏わり付くからだ。これは賞の性格上、不可避だ。だから二種類あって、くだけて言うと「頑張ったで『賞』」と、「頑張りま『賞』」である。前者は業績に対する御苦労様型であり、後者は今後への期待・後押し型といえる。特に後者は平和賞のみではなかろうか。もちろんオバマの場合、後者だ。
 早速、反対意見が沸いた。
「大統領が何を成し遂げたというのか」「何も実績がなく、受賞は不適当だ」
「アフガンでは戦闘が続いている。どう平和をもたらすのか」「受賞は期待を高めすぎるのではないか」 
「冷戦終結に道を開いたレーガン大統領は受賞していない」「ウィルソン大統領以降の受賞者はカーター元大統領、ゴア元副大統領と民主党員ばかりだ」
「大統領は受賞を辞退しろ」「ノーベル賞委員会は自らの権威を失墜させた」
「賞を返上するつもりはないのか」「賞金をどうするか議論したのか」
 ―― などなど。ただ言い添えておかねばならないのは、米国では他国ほどノーベル賞は高みにない。1776年以来、常にこの国は世界に屹立してきた。ナンバーワンは既定で、自明だからだろう。だから上記の発言は割り引かねばならないし、同時にそれほど政治性を帯びているともいえる。
 しかし足をすくわれかねないほどの難題が横たわっているのも事実だ。10%に近い失業率。医療保険制度改革は国論を二分する雲行きだ。アフガンは治安が悪化、「オバマのベトナム」と囁かれ始めている。当然、支持率は下降。それも歴代最速の下落だ。だから彼は受賞に関し、
「これは私が成し遂げたことに対してではなく、すべての国の人びとの希望を代表して米国の指導力に与えられたものと考えている」
「歴史を見ると、平和賞は特定の成果にではなく、目標達成への機運を高めるために贈られることもある。私は、この賞を21世紀の挑戦に立ち向かう行動への呼びかけとして受け入れる」
「この賞は正義と尊厳のため懸命に努力する人たちみんなで分け合わなければならない」
 ―― と、終始硬い表情で語った。まったく笑顔はなかった。「オバマ政権は全世界の人々の希望を体現している」と祝福するカーター元大統領ほどお気楽ではいられないのだ。
 先述した医療改革でもアフガンへの増派でも与野党の合意が不可欠だ。受賞が保守勢力を不用意に刺激し、両党の亀裂を広げかねない。もしも核不拡散で目ぼしい実績がなければ、失望は余計に大きくなる。彼自身にとっては過重な負担を背負(ショ)い込み、逆に足場を弱めるかもしれない。つまりハードルが上がったのだ。ぶっちゃけて言うと、有難迷惑な話だ。『大きな親切、大きなお世話』ではないか。
 そこで、冒頭の「謙譲の美徳」となる。これこそ、一刀両断の解決策ではないだろうか。前記のオブジェクションにある「受賞を辞退しろ」とは違う。それは限りなく拒否に近いものだ。そうではなく、 ―― 然るべき結果が出るまでは辞退する。結局は拝受できぬかもしれぬが、ともあれ暫時ノーベル財団にてお預かり願う。それが叶わぬなら、失礼を承知で今回は返上させていただく。 ―― こういう選択肢はないであろうか。
 おそらく、ない。否、きっとない。無い物ねだりにちがいない。謙譲はあっても、謙譲「の美徳」はないのは確かだ。文化的素地にそのような発想を生む土壌がないからだ。なぜか。これは深く、広いテーマだ。浅学非才の筆者を遥かに凌ぐ。「遺憾」と「REGRET」や「SORRY」との間に横たわる懸隔は判っても、因って来たる背景は掴めぬのに等しい。博覧強記の士に、教えを請いたい。
                                 
 ともあれ祝意を表するにやぶさかではないが、それ以上に就任1年を俟たずして剣が峰に立つ大統領に同情を禁じ得ない。万が一、件(クダン)の選択肢を採ったにせよ、悲しいかな「美徳」ではなくスタンドプレーにしか映るまい。まことに文化とは荷厄介なものだ。
 かくなるうえは、1万キロの彼方、太平洋の西端からホワイトハウスの撓(タワ)わな稔りを希(コイネガ)うのみだ。 □


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子の顔が見てみたい

2009年10月13日 | エッセー

 『いまる』というからイモリの新種かと早とちりしてしまった。なに、さんまの娘だそうだ。蛙の子は蛙、さんまの子はさんま、か。IMALU と書く。モデルデビューし、DJやラジオパーソナリティをしている。歌手も目指すらしい。
 調べてみると、芸能人二世(三世)がごまんといる。以下は代表、すべてはとても掴めない。

阪東妻三郎 ⇒ 田村高廣、田村正和、田村亮 / 堺駿二 ⇒ 堺正章
松本幸四郎 ⇒ 市川染五郎、松本紀保、松たか子 / 佐野周二 ⇒ 関口宏・西田佐知子 ⇒ 関口知宏
三國連太郎 ⇒ 佐藤浩市 / 高島忠夫・寿美花代 ⇒ 高嶋政宏、高嶋政伸
緒形拳 ⇒ 緒形幹太、緒形直人 / 佐田啓二 ⇒ 中井貴惠、中井貴一
藤山寛美 ⇒ 藤山直美 / 坂口征二 ⇒ 坂口憲二
石田武 ⇒ 石田純一 ⇒ いしだ壱成 / 石田純一・松原千明 ⇒ 松原すみれ
松田優作・松田美由紀 ⇒ 松田龍平、松田翔太 / ショー・コスギ ⇒ ケイン・コスギ、シェイン・コスギ
マイク真木・前田美波里 ⇒ 真木蔵人 / 神田正輝・松田聖子 ⇒ 神田沙也加(SAYAKA)
宇多田照實・藤圭子 ⇒ 宇多田ヒカル / 古谷一行 ⇒ 降谷建志
森山良子 ⇒ 森山直太朗 / 坂本龍一・矢野顕子 ⇒ 坂本美雨
出門英・ロザンナ(ヒデとロザンナ) ⇒ 加藤来門 / 関根勤 ⇒ 関根麻里
西郷輝彦・辺見マリ ⇒ 辺見えみり / 中川勝彦 ⇒ 中川翔子
山田美加子 ⇒ 山田優、山田親太朗 / 三船敏郎・北川美佳(喜多川美佳) ⇒ 三船美佳
長嶋茂雄 ⇒ 長嶋一茂、長嶋三奈 / 東八郎 ⇒ 東貴博、東朋宏
なべおさみ・笹るみ子 ⇒ なべやかん / 梅宮辰夫 ⇒ 梅宮アンナ
明石家さんま・大竹しのぶ ⇒ IMALU / 石橋貴明 ⇒ 穂のか
笑福亭鶴瓶 ⇒ 駿河太郎 / 清水アキラ ⇒ 清水良太郎
京本政樹 ⇒ 京本大我 / 布川敏和 ⇒ 布川隼汰
矢沢永吉 ⇒ yoko / 長渕剛・志穂美悦子 ⇒ 長渕文音
井上陽水 ⇒ 依布サラサ / 三浦友和・山口百恵 ⇒ ユウ
森進一・森昌子 ⇒ Taka / 大和田獏・岡江久美子 ⇒ 大和田美帆
松方弘樹・仁科亜季子 ⇒ 仁科仁美 / 坂口良子 ⇒ 坂口杏里
役所広司 ⇒ 橋本一郎 / 草刈正雄 ⇒ 草刈麻有

 驚くには当たらない。戦後64年、シャッフルなしで来るとこうなる。芸人ばかりではない。永田町にも二世、三世が跋扈している。「三バン」丸受けの彼らとは違い、芸人には「看板」ぐらいしか引き継げるものはない。看板といっても、親の七光りのうち、『三光り』程度が関の山だろう。だから己(オノレ)ひとりの実力勝負、永田町よりもよほど筋は通っている。
 たしかに、『親』を使った興業側(時には当人)の手練手管はあるはずだ。しかし人気商売である以上、大向うの喝采がなくなれば消えるほかない。まことに民主的である。やっかむ筋合いではない。たかが河原乞食の末裔である。こちらは上から目線で楽しめばいいだけだ。どれとはいわぬが、確かに噴飯ものもかなりある。

 そこで、楽しみ方である。
 「親の顔が見てみたい」の逆はどうだろう。つまり一世から二世への遺伝的継承を探るのである。または新たな付加価値や、突然変異に類するものを見つけるのである。親から丸ごと伝わったもの、親になかったなにごとか。高められ、あるいは低きへ至ったもの。藤山寛美のように、片親だけが芸人だった場合の異性の子への授受。容貌、個性、芸風など、なかなか楽しめそうではないか。
 上記の生物学的興趣以外にもある。「親の因果が子に報い」るのかどうか。親の生きざまが、はたして子に応報されるものか。具体例は差し控えるが、これもおもしろい。哲学的感興といえば、大袈裟か。
 こういえば、差別だの偏見だのと言われかねない。だが、早計は禁物。彼らは「お客様」を「一般人」と呼んで憚らない。自らを奇人変人、埒外の人間と心得ての物言いではない。己をセレブと慢心した、倒錯した優越感からだ。河原乞食の末裔を担う謙譲も矜持も、もはやそこにはない。「人気者」と引き換えに「見世物」になる覚悟は、すっかり忘れ去られている。
 子連れで見世物にされるのが嫌なら、タモリのごとく「家庭に仕事とセックスを持ち込まない」という鉄則を貫くしかあるまい。(当然のこと、タモリは子を成していない。家庭の外にも、 …… 多分) □


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耳を閉じる社会

2009年10月11日 | エッセー

 盲蛇に怖じず、斉東野語そのものではあるが、「天声人語」に卑懐を挟んで換骨奪胎を試みる。(10月9日付から引用。 ・・・・以下は欠片、筆)

▼〈眼は、いつでも思ったときにすぐ閉じることができるようにできている。しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。なぜだろう〉。寺田寅彦の断想だが、なかなか示唆に富んでいる
 ・・・・ 霊長類の進化は8500万年まで遡ることができるそうだ。ヒトの起源を400万年前だとすると、ヒト属以前が95%になる。ついこないだまで、ヒトではなかったのだ。サピエンスを獲得するまで、弱肉強食の畜生道をひたぶるに生き抜いてきた。フィジカルには虚弱である。ほかの小動物もそうであるように、活動は敵に発見されやすい昼を避けて夜となる。太古、人類は、いなわれらが太祖は夜行性であった。しかも圧倒的長期に亘って。                     
 漆黒の闇の中で有力なセンサーは耳だ。だから、耳に死活が掛かっていた。閉じよう謂れなどあるわけがない。
                                        
▼音をめぐるトラブルが、近年増えている。飛行機や工場といった従来の騒音ではなく、暮らしの中の音で摩擦が相次ぐ。先日はNHKテレビが、うるさいという苦情で子どもたちが公園で遊べない実態を紹介していた
 ・・・・ 実は筆者も観た。子どもの喚声は未来の感声のはずだ。暗澹とし、後日この「天声人語」に膝を打った。

▼東京の国分寺市は今月、生活音による隣人トラブルを防ぐための条例を作った。これは全国でも珍しい。部屋の足音、楽器、エアコンその他、いまや「お互い様」では収まらなくなっているのだという
 ・・・・ 誤解をさけるため、同市の条例を確かめる。
「都生活環境条例が定める住居区域や時間帯ごとの規制基準以下の音を生活音と定義。マンションなどでのエアコン作動音や階上の部屋の足音などを対象に、住居専用地域では40~50デシベル以下の平均的な音を出す人への抗議や嫌がらせなどを禁止する。禁止行為として①つきまとい行為 ②著しく粗野・乱暴な言動 ③ 連続した電話や電子メール送信 ④ 汚物などの送付などを明文化。市長は迷惑行為をやめるよう要請でき、トラブル解決の助言もできる。必要に応じて警察や裁判所などと連携して調整する」
 つまりこれ以上の音を出すなというのではなく、これ以下の音に文句を言うなというルールである。何度か触れてきたように『規矩準縄の二面性』はあるが、制定の趣旨には十分な善意が窺える。だが、病膏肓の感は否めない。

▼「煩音(はんおん)」という造語を、八戸工業大学大学院の橋本典久教授が使っている。騒音と違い、心理状態や人間関係によって煩わしく聞こえる音を言う。今のトラブルの多くは騒音ならぬ煩音問題らしい。人々のかかわりが希薄になり、社会が尖(とが)れば、この手の音は増殖する
 ・・・・ 「生活音」、生活雑音・騒音が『煩音』となる。ネーミングは巧みだが、その分哀しくなる。
 「社会が尖」るとは「都市化」であろう。となれば、養老孟司氏だ。
〓〓都市化ということは、根本的に子供を育てることに反するのです。子供は自然です。そして都市化するということは自然を排除するということです。脳で考えたものを具体的な形にしたのが都市です。自然はその反対に位置しています。つまり子供は都市から排除される存在なのです。〓〓(新潮新書「超バカの壁」)
 この辺りが「煩音問題」の在処(アリカ)か。事は子どもに限らない。「部屋の足音、楽器、エアコン」など生活音すべてが「煩音」と化す。「こうすればこうなる、ああすればああなる」という脳化社会の産物が都市化の極みで自然物にトポスをずらし始めた、とも視(ミ)える。浅ましき自縄自縛といえなくもない。

▼「音に限らず、煩わしさを受ける力が減退しているのでは」と橋本さんは見る。誰しも、耳を自在に閉じられぬ同士である。ここはいま一歩の気配りと、いま一歩の寛容で歩み寄るのが知恵だろう。それを教えようと、神は耳を、かく作り給(たも)うたのかも知れない。
 ・・・・ 「いま一歩の気配りと、いま一歩の寛容で歩み寄るのが知恵」とは、いささか能天気に過ぎるであろう。心掛けではなく、文明史が掛かっているからだ。文明といって大袈裟なら、社会の在り様(ヨウ)が問われているからだ。
 次の養老氏の言は重く示唆的だ。
〓〓生まれつき耳の聞こえない子供には不得意なことが二つある。その一つは論理・因果性、そしてもう一つは疑問文だ。耳と目のいちばん大きな違いは何かというと、耳は時間を追っていくということです。お喋りがそうで、必ず時間がかかるんですよ。ところが、目は一目でわかるんです。時間性がないでしょう。耳の場合は、「時間処理」です。一つの線のように時間内をずーっとたどっていく。因果というのは、原因があって結果がある。そこには時間性があるわけです。そういう意味で、生まれつき耳の聞こえない子供は因果関係が不得意ということになるわけです。
 同時に、疑問文が非常に把握しにくいんですね。因果と疑問というのは当然関わっていますよね。それでは、彼らに疑問文を教えるときにどうするかというと、穴埋め式にする。大事なことが抜けているようにして、そこには何が入るのかなという、そこから教えるわけです。穴埋めだと、何か抜けてるじゃないかっていうことが視覚でわかりますからね。逆に、生まれつき目が見えない人は、比較的、論理性が高い。数学者になったり、音楽をやる人も多い。音楽と数学は関係性が高いんです。〓〓(扶桑社 養老猛司&古館伊知郎「記憶がウソをつく!」)
 聾者の困難 ―― 因果と疑問。自ら遮二無二「耳を閉じ」、耳を塞ぐ『擬似聾社会』に待ち受ける陥穽である。論理の希薄化はすでに引き潮のように社会の浜辺を露わにしつつある。疑問の消失は思考の森の樹を薙ぎ倒し磽确をじりじりと拡げている。「煩わしさを受ける力が減退している」正体は、おそらくそれだ。
 太古「死活が掛かっていた」耳を塞いでは、8500万年の種としての連鎖になんらかの齟齬が生じないはずはなかろう。
 68年に金沢市が制定した「伝統環境保存条例」が日本最初の景観条例といわれる。それから41年、国分寺市が『生活音』条例に先鞭をつけた。目から耳へ。都市化はついに生物的本源に分け入ろうとしているのか。「煩」慮ではあっても、避けられない「煩」悩である。 □


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釣り合い人形

2009年10月08日 | エッセー

  幼いころ だれもが 作ったやじろべえ
   
  竹櫛を手足にし ドングリを三つ
  真ん中には大きいのを刺して 目鼻と口を書き入れる
    右と左が同じになるように
  小振りなのを 端に一つづつ 

    出来たら とんがった台に載せ
  恐るおそる手を離す
    あやうく揺れて すっくと立った
  成功だ! 

  やじろべえで 先生はなにを教えようとしたのだろう? 
    ものづくりの愉しみの向こうにあったものは 何だろう? 
  不思議を見つける楽しさか
    物の理(コトワリ) 科学のはじめのはじめ だったのか 

  秋になると 決まって浮かんでくる情景
  それは 夢中でやじろべえと格闘した 忘じがたき少年の日


  でも 今はちがう 
  作りはしないが あたまに描くやじろべえに
  その あえかな均衡に
  つい わが身の不確かな現身(ウツシミ)が重なる
    綱渡りの日々 霧中のあした   
    いまだに繰り返す 由なき喜怒哀楽
      すこーし覚えた 世渡りの堪忍 ……
  
    時には 気取って
    風の揺らぎにさえ 蹌踉(ヨロ)めき 
    気を揉ませ
    やっと取り戻す釣り合いに
  いまの世の 一時(イットキ)の安穏を 託してみる


  秋の夜長に ふと過(ヨギ)る

  振り分け荷物を肩に掛ける 弥次郎兵衛
    そんな粋でも いなせでもなかった わが道行き
    いつも 不釣り合いな荷が 肩を苛んできた

  人生の秋に やじろべえが語りかける
     もうそろそろ どっかり落ち着いてみたら
 
     釣り合い人形のくせして
     生意気な口を利くものだ
     おれなんざ 一生 お前のように
     ふらふら よろよろ 
     ちょっと触(サワ)れば ころげ落ちそうな
     釣り合っているようで いないような 
     やじろべえが似合いなんだよ
     玩具(オモチャ)じゃないだけ まだましさ
       でんと座るにゃ まだ早すぎらい! 
         百年は早い

  オヤジの顔して 睨んでやった  □


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2009年9月の出来事から

2009年10月06日 | エッセー

鳩山内閣発足 
 特別国会の首相指名選挙で第93代首相に民主党の鳩山代表を選出(16日)
鳩山首相、「25%削減」を国連で宣言
 温室効果ガスを90年代比で。世界に公約(22日)
 ―― 名付けるとすれば、『自信慢心内閣』でどうだろう。首相には幾分かの謙虚さが窺えるが、副大臣も併せて大臣連中はやたら自信に満ちている、ように見える。こちらの僻目、あちらの虚勢なら解るが、はじめてのポストにしては不釣り合いに自信満々だ。「満々」が「慢心」になり、夜郎自大に陥らぬよう願いたい。
 先日友人Y君との雑談の折、新閣僚の品藻に話が及んだ。彼の辛辣な人物評が至極印象に残ったので、一部を紹介したい。
◆鳩山 総理 …… 人様のものを盗(ト)るのがお上手なおぼっちゃんパフォーマー
 Y君によると、あの『飛んだ』嫁さんとは略奪婚だったいきさつを指しているそうだ。今度政権を『盗』られたアッソー君も大変なおぼっちゃん。なにせ最初に立候補した時、街頭演説で「下々のみなさーん!」とやったそうだ。案の定、落選したが。新総理は違いを際立たせるためか、やたら低姿勢だ。そのためか、「国民の皆さまの『お』暮らしを...」などという変な言葉遣いをする。薄気味悪い『お』話し方だ。『みぞうゆう』の方が、ずっと判りやすい。
◆菅 国家戦略担当大臣 …… 大好物はカイワレ、影のフィクサーを気取るカン違い男
◆原口 総務大臣 …… 出たがりテレビ人間、ポピュリズムのお先棒担ぎ
◆岡田 外務大臣 …… 面白くも何ともない石部金吉、スーパーの倅
◆藤井 財務大臣 …… 塩じいにはあった愛嬌がまるでない政策じじい
◆長妻 厚労大臣 …… ヘビの目をした『年金おタク』の元文屋
◆前原 国交大臣 …… 秀才気取りのスタンドプレー アンちゃん 
 Y君曰く、あの顔はどう見てもあんちゃんだ。およそ人格的香りがない。 
◆平野 官房長官 …… 口だけ達者、貧しい顔のよいしょ腰巾着  
 Y君の弁。生気はなかったが、前のK官房長官の方が助けてやりたくなるほどの同情を誘う人間らしさがあった。
◆亀井 金融・郵政担当大臣 …… 目立ちたがり屋の喰えない泥ガメ
◆福島 消費者・少子化担当相 …… いい歳こいて舌っ足らずのブリッ子オバさん
 などなど、なんとも毒舌のオンパレードであった。

 さて先日、朝日新聞の投書欄に武蔵野市に住む80歳の主婦から次のような意見が寄せられていた。
〓〓戦争連想する「国家戦略局」
 民主党の重要ポスト「国家戦略局」の名前の響きと文字から受ける感触は、戦争経験のある私たち世代にとって震えが来そうなほど嫌悪感がある。
 国家総動員法の下、男子は学徒出陣、女子は学徒動員、と学業も仕事もなげうって、有無を言わさず国家に協力させられた過去がよぎる。
 国家戦略局と聞くにつけ、見るにつけ、軍国時代の大本営発表が連想され、軍の参謀からの声を聞くようだ。
 心から平和を願い、良い日本に立ち直りたいと切望する日本人としては、たまらない。
 国民が鋭い視線で民主党を見つめているなか、政権交代の第一歩から、こんな名前を思いつく無神経さには驚かされる。
 平和国家であることを第一に、「たかが局名ひとつ」と思わず、大切に考えてもらいたい。〓〓
 「震えが来そうなほど嫌悪感がある」は、決して誇張ではないだろう。このようなネーミングひとつに、この政党の持つなにものかが表れてはいないか。
 臨調方式ではなく常設の機関として移入するなら、政治システムに拒絶反応や齟齬が生じるのではないか。『カン』がガンになるやも知れぬ危うさを感じるのはわたし一人か。

 『とりビー』ではないが、とりあえずさらに4点、新内閣の『カン違い』を挙げておく。
 1点目は、「少子化対策」である。少子化担当大臣は01年から設けられた特命相だが、「対策」とは何だろう。少子化社会対策基本法の前文には「少子化の進展に歯止めをかけることが、今、我らに、強く求められている」と謳う。少子化をくい止めることが「対策」だとしている。問題の立て方自体が間違っている。『カン違い』だ。稿を改めて述べるかもしれぬが、少子化は不可避だ。対策というなら、少子化を前提とした上での少子化「社会」への対処でなければならぬ。少子化は凶事ではない。断じて吉事だ。また、そうせねばならぬ。旧与党の夏炉冬扇の愚をいまだに繰り返すなら、この政権もあまり賢くはなさそうだ。
 2点目は、温室効果ガス「25%削減」の宣言だ。新参総理のとんでもない与太話、大風呂敷である。
 百歩も、二百歩も譲って宮台真司氏の言を引く。
〓〓最近「環境問題のウソ」を暴く本や言説がブームです。僕は爆笑します。「温暖化の主原因が二酸化炭素であるかどうか」はさして重要ではないからです。なぜなら、環境問題は政治問題だからです。そうである以上、「環境問題のウソ」を暴く本が今頃出てくるのでは、一五年遅すぎるのです。環境問題が政治問題(集合的決定に向けた動員の問題)だとは、最終的に出力される国際的決定が内容的に正しいか否かに関係なく、最終決定に関わる位置取りが国際社会での政治的影響力に直結するということであり、その意味で国益に直結するということです。そうした政治的なゲームでは、「何が真実か」ということより「何が真実だという話になったか」がはるかに重要です。社会学者のマックス・ウェーバーが喝破する結果責任の言葉通り、「何が真実だという話になったか」に有効な影響を与えられなかった以上、今頃何を言っても「負け犬の遠吠え」です。〓〓(幻冬舎新書「日本の難点」から)
 つまりぶっちゃけて言えば、多国間の駆け引きだ。だから、崇高な理念に身を捧げるがごとき『カン違い』をしてもらっては困る。我が物顔に温暖化ガスを噴き上げつづける米中も悪い。しかし省エネの超優等生である日本が、国民をスケープゴートにしてまで能天気な約束をぶち上げていいのか。むしろ今までの日本の貢献を高らかに掲げ(ついでに「乾いたぞうきん」を頭上に差し上げてもいい)、ここまでおいでとケツを叩くのが交渉ではないか。アホな手形で大変な負担増を国民は背負うハメになる。政権発足わずか5日程度で国民のコンセンサスは得られたのか。総選挙の結果はなにもかもの白紙委任ではないはずだ。日本をどこまで道化にするつもりか。世界に向けて隗より始めよのつもりだというのなら、『貝』になったほうがましだといいたい。
  3点目は、泥ガメ大臣のモラトリアム案である。債務元本を含めるか否かの違いはあるが、早い話、現代の「徳政令」だ。人気取りも極まれり。譲っていえば、弱きを助ける大きな大きな『カン違い』か。有り体は、大きく打ち上げて巧妙に『値切り』、落とし所に誘い込む高等戦術か。来年の参院選を睨んでの実績作りか、保険か。ともかくも泥ガメは食えない。それは忘れない方がいい。
 『カン違い』はこちら側もしてはならない。この案は、新政権が槍玉に上げる「天下り」どころではない。国家権力が剥き出しで、私的な契約関係に踏み込んでくることを意味する。共産主義国家でも成し得ない国権の発動を画策することだ。銀行業界からは3兆円の利益が消え、逆に貸し渋りに走るだろうと予測されるが、最大の問題は権力的発想にこそある。民主主義にとっての危機の芽だ、といってあながち針小棒大ではない。
 昨年来の未曾有の金融危機にさえ、米国政府の介入は抑制的だ。オバマが国民皆医療保険を進めようとすると、社会主義だとの批判が出る。異様にも見えるが、それは国家権力への立ち位置の違いだ。リヴァイアサンの恐怖を骨身に染みて国を創った歴史があるかないかの違いだ。受け狙いの『悪政令』は危険極まりない。
 4点目は二つある。郵政と高速道路である。郵政民営化を見直すとは、つまりもう一度国有に戻すことだ。高速道路の無料化も再度国有化しようということだ。ロハのニンジンをぶら下げて、国民を『カン違い』させようとする施策だ。高速道の建設・メンテ・運営費、30兆の債務も、郵政の赤字補填もすべて税金で賄うハメになる。さらに郵政と道路公団の職員は20万人、公務員が一挙に増える。「官から民へ」を再び「民から官へ」と逆流させるつもりであろうか。ならば、大笑いのアナクロニズムだ。

 事々然様にこの政権、党名の割には権力指向芬々だ。市『民』が『主』役が由来らしいが、自己撞着が心配だ。市『民』の『主(アルジ)』とも読めるぞー。

イチロー9年連続200本安打
 大リーグ記録をレンジャーズ戦の内野安打で達成(13日)
 ―― どう讃えてみても、讃辞は陳腐になる。築き上げられた事実の偉容に比して、言葉は貧弱にならざるをえない。だから、ただ頭を垂れるのみだ。

朝青龍24度目V
 大相撲秋場所で4場所ぶり制覇。優勝回数は北の湖に並ぶ3位タイ(27日)
 ―― 相撲は格闘技であり江戸時代のプロレスだった、と何度もいってきた。俄仕込みの「伝統」「格式」などに逆規程されてはならない、とも述べてきた。それを地で行くのがこの相撲取りだ。
 出た! 優勝を決めた土俵上でのガッツポーズ。NHKのおバカアナウンサーがすぐにクレームを入れた。横審のUばあさん、あのすげー妖怪面(ヅラ)が途端に浮かんで吐き気を催した。

(朝日新聞に掲載される「<先>月の出来事」のうち、いくつかを取り上げた。すでに触れた話題、興味のないものは省いた。見出しとまとめはそのまま引用。 ―― 以下は欠片 筆)


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好著、一読

2009年10月01日 | エッセー

 過去に本ブログで野中広務氏を取り上げたことがあった。国旗・国歌法についてだった。抜粋してみる。
〓〓生臭い話をする。
 今から7年前の平成11年8月、国旗・国歌法が成立した。校長の自殺がきっかけだった。広島の山あいにある県立高校の校長だった。卒業式での君が代斉唱を巡り県教委と教職員とのはざまで悶死したのだ。すばやく動いたのは、当時の野中広務官房長官。悲憤慷慨であろうか。野中氏は校長の自死を犬死にには終わらせず、報いたことになる。
  同法は、「国旗は、日章旗とする」「国歌は、君が代とする」という二つの条文から成り、「別記」で、日章旗のサイズが記され、君が代の歌詞・楽譜を表記している。それだけの法律である。強制を色抜きした、まことに素っ気ない条文だ。だが案の定と言うべきか、この素っ気なさが仇となった。
  以下は、昨年後半の新聞の見出しから拾った。
  日の丸、君が代の実施めぐり、都教委で喧々囂々
  反対する教員は処分 都教委が通達 
  東京都 不適校長・教頭は降格 
 「暴走する石原『日の丸』教育」
 「国旗・国歌強制反対」に都教育庁はのらりくらり
 都教委通達(実施指針)で職務命令
  監視される都立高教師たち「日の丸・君が代」強制
  君が代伴奏拒否で処分 「適法」と訴え棄却 東京地裁 
 「まるで戦前」 都教委 君が代 日の丸指導強化
 学校に職員派遣、式進行監視 現場教師ら反発
  ―― いかがであろう。イシハラ君だから、では済まされない。規定と強制は毛筋の間隙もないのだ。下手をすると、泥棒に追銭となる。特定の政治的意図や恣意的な運用によって、推進はたやすく無理強いに化け、制限は苦もなく裏口を開けてしまう。法とはまことに厄介な代物だ。「法三章」など、夢のまた夢か。〓〓(06年5月28日付「恩が仇になる」から)
 政治家の気骨も法の二面性に搦め捕られる例として挙げた。03年の衆院選を機に政界を引退した氏は06年、時の宰相を「独裁者」と難じた。権力の側にありながら、その魔性を知っていた数少ない良質の保守政治家であった。残念ながら鬼籍に入ったが、後藤田正晴氏も忘れるべきではなかろう。自民党に晩秋の風が吹くはずだ。

 辛淑玉(シン スゴ) 在日3世、50歳。韓国籍でありながら、『在日朝鮮人』また『在日コリアン』を自称。モデルやDJを経て、83年に広告業で独立。その後、人材育成会社を設立し実業家に。同時に、民族差別撤廃・多文化共生を掲げる人権問題活動家、評論家、作家でもある。「強きを助け、弱きをくじく男たち!」「怒りの方法」は代表作。テレビではコメンテーターとして多数出演、知名度を上げた。
 東京生まれの、東京育ち。「ちゃきちゃきの江戸っ子」と言うだけあって、歯に衣を着せぬ鋭い舌鋒で捲くし立てる。ひとつは在日コリアンからの日本への容赦ない弾劾。さらに差別やジェンダーへの苛烈な糾弾。石原都知事の「三国人」発言には抗議の狼煙を上げた。もちろん批判もあり、反発も強い。しかし、たじろぐことはない。
 世に失言と報じられた問題発言を挙げると ――
自衛官は普通の仕事に就けなかった人たちなので、治安維持をまかせると危険。
(憲法集会」で)最近、あちこちで文句を言うと、『出てけ』とか『帰れ』と言われる。『ハイわかりました。朝鮮人はみんな帰ります。天皇つれて帰ります』と言ってやる。だけど、アイツ働かないからな(笑い)。
(テレビ番組で)私はワイドショーが嫌いです。
日本人が北朝鮮による拉致事件に政治的に飛びついたのは、長年、国家と一体となった加害者として糾弾されてきたことに疲れたからだと私は見ています。初めて堂々と「被害者になれる」チャンスがめぐってきたのがあの拉致事件でした。
  ―― 世が世なら打ち首、しかもいくつ首があっても足りない。とともに、日本国憲法で明らかに活きているのは第21条(言論の自由)だけではないかとも感じ入ってしまう。付言すると、石原某とワイドショー嫌いは筆者と共鳴する。大いに響き合う。

 権力の中枢にいた老練な政治家と、在野で異彩を放つ気鋭の女性活動家。異色の対談である。共通項はともに差別される側にあること。

 「差別と日本人」 野中広務 & 辛淑玉  角川 ONEテーマ21  09年6月発刊。
 ここ1、2ケ月、ベストセラー・ランキングで上位にありつづける。
 やはり、読み応えはあった。

〓〓辛 私が講演に訪れた会場で、妹を結婚差別で亡くされた男性からこんな話を伺ったことがある。その男性は、「妹が被差別出身だと判ると、嫁いだ先の家でものすごい差別に遭い、実家に戻らされました。それが原因ともなって、もともとその傾向があった実家の父親の酒乱がいっそうひどくなり、それに耐えかねて、妹はしばらくして納屋で自殺してしまったんです」と話してくれた。私は、「死ぬほど辛かったんですね」と月並みな言葉をかけるのが精一杯だった。すると、その男性はこう答えた。「いいえ、死ねるほど辛かったんです。本当は、妹は生きたかったのです」その男性のつぶやくような言葉が、いまも私の心に残っている。〓〓
 辛苦から逃れるために自棄としての死を選んだのではない。易々(イイ)として自死が選択できるほどに絶望は深かったのだ。言葉を失う言葉だ。
 差別とはなにか。

〓〓辛 差別は、古い制度が残っているからあるのではない。その時代の、今、そのときに差別する必要があるから、存在するのだ。差別の対象は、歴史性を背負っているから差別されるのではない。差別とは、富や資源の配分において格差をもうけることがその本質で、その格差を合理化する(自分がおいしい思いをする)ための理由は、実はなんでもいいのだ。だから、外国籍だから、朝鮮人だから、沖縄だから、女だから……。自分たちの利権を確保するために資源配分の不平等を合理化さえできれば、その理由などなんでもいい。〓〓
 「必要があるから、存在する」「格差をもうけることがその本質で」「理由は、実はなんでもいい」 ―― 本書の核心だ。人間が背負う闇の核心でもある。
 
〓〓辛 私は日本国籍の男性と事実婚だったのですが、彼は、人権問題もよくやって頑張ってたんだけど、やっぱり耐えられなくなって、しばらくすると「君がいけない」って言い始めたのね。「そんな些細なことで怒っても」って。「なんでもかんでも君が問題にするからいけない」って。「君が我慢してそんなの気にしなければいいんだ」ってずっと言われたのね。もうだんだん耐えられなくなっちゃって、そしたら私より先に向こうが参っちゃって。その時思ったのね、人権は好きだけど当事者と一緒に生きることはできないんだなって。人権は好きだけど当事者が嫌いな人はいっぱいいる。当事者と一緒に生きるっていうのはものすごい大変なこと。〓〓
 正直な吐露だ。世界平和を唱えつつ、隣人と諍(イサカ)いが絶えないのでは間の抜けた話だ。間は抜けているが、人間の抱えるアポリアでもある。「人権は好きだけど当事者が嫌い」は時として散見する哀しい戯画だ。

〓〓戦後民主主義のメイン・ストリームは、基本的には、日米合作による戦前の旧体制との連続性にあったと思う。その結果、戦後空間の裏側では、帝国意識のようなものが、常に、伏流水のように流れていたのではないでしょうか。そうした図式は、「在日」の視点に立てばよく見えてきます。沖縄や朝鮮半島をはじめとする旧植民地支配の検証と、被害者への賠償、さらに、それらに付随する差別意識の解消に、戦後民主主義は、どこまで積極的に取り組んできたのか。〓〓(集英社新書「姜尚中の政治学入門」から)

 人間を分断するものは悪だ。これ以上明晰な思想はない。「差別」を等閑視する時、すでに自らが「する側」にいることだけは銘じておきたい。上掲の姜尚中氏の指摘と同様、重いものを突きつける一書である。だが、息苦しくはない。立場も違い、親子ほどの年齢の差もありながら、同書からは二人の琴線が触れ合う涼やかな音が聞こえてくる。「戦い続ける人」の軽やかな足音とともに。 □


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