何度か愚慮を巡らしてきた「官僚支配」について、懲りずまたも蟷螂の斧を振るってみたい。
『外務省のラスプーチン』と呼ばれた佐藤優氏は官僚支配を糾弾する急先鋒だ。主張を要約すると ――
◆永田町・霞ヶ関・虎ノ門(=特殊法人)のトライアングルが存在する。
◆一番の問題は、官僚による不祥事より役所が国家の意思決定をしている実態であり、もはや「官僚主権」に等しい。
◆国家は抽象物ではない。官僚によって維持されるシステムだ。官僚は本質として暴力的で、支配を好むのである。官僚支配が強まると社会の力が弱くなる。その結果、国家も弱くなる。このスパイラルに現在の日本は入っている。
―― といったところか。
政官の癒着。官による意志決定。官僚支配は国家を弱める。宜なる哉、である。
そこで、その淵源を辿る。昨年4月26日付本ブログ「『四権』?国家」を、臆面もなく抄録してみる。
〓〓堺屋太一氏は96年に著した「日本を創った12人」(PHP新書)の中で、唯ひとり実在しなかった人物を取り上げている。光源氏だ。以下、要点を挙げると。
◆遣唐使が打ち切られ、鎖国状態の日本にあって、光源氏は外交問題はもちろん、産業発展にも財政問題にもほとんど関心を持つことがなかった。治安や財政などの現実的な重要問題に貴族政治家は直接タッチせず、荘園の現地管理人である地頭(=官僚)、後の武士階級に任せていた。
◆何もしなかった政治家・光源氏の影響は、現代日本にどう現れているのだろうか。まず第一は、日本的な貴族政治家の原型を創り出したことだ。実際、この国にはしばしば、「光源氏」型の政治家が現れる。つまり、一見上品で人柄はよさそうだが、現実の政治はほとんどやらず、やる気さえなく、行財政の細部と実務には知識も関心もない、というタイプの政治家である。その典型は近衛文麿であろう。
◆動乱期、例えば戦国時代や幕末維新となると強力な指導者が必要である。しかし、世の中が安定してくると、日本ではたちまちリーダーシップ拒否現象が現れ、集団主義的意志決定構造が生まれてくる。光源氏以来の上流人士は実務に携わらず、上品な人は他人と争うような指揮監督はしない、という伝統が蘇るからである。
つまり ――
① 政治家はリーダーシップを発揮することなく、実務は官僚に任せる宮廷文化人の祖型が光源氏。
② 動乱期には強いリーダーシップが必要とされるが、安定期には責任分散型の集団主義に戻る。 ――
民族に潜在する意識や底流する歴史に遡行してみれば、これはいっときの病ではなく宿痾であることが診えてくる。
切開、切除のオペは命取りになりかねない。では、上手に業病と付き合うか。移植は可能か。いずれにせよ難儀なことである。〓〓
新政権はどうやら、『移植』を始めたらしい。永田町から霞ヶ関への集団トラバーユである。副大臣をはじめ100人規模の与党政治家を送り込む。
先般の補正予算の削減では、官僚を退室させて副大臣・政務官だけで電卓を叩く姿が報じられていた。『光源氏』がねじり鉢巻きで帳簿と格闘する図に見えて、新鮮であるよりはある種の滑稽味を覚えてしまった。パフォーマンスではあろうが、「政治主導」とは役人に電卓を叩かせることのはずだ。養老孟司氏の言を借りれば、「不信にはコストが掛かる」。歳費を勘定すれば、高い電卓である。
堺屋氏が発掘した『日本を創った』DNAを、果たしてリメイクできるか、否か。上記②が逆転した結果が昭和の悲劇だった歴史は、充分すぎるほど重い。ならば、国家の行く末に係わる断じて忽(ユルガ)せにできない課題である。
さて、原理的な視点に移ろう。社会学者・宮台真司氏の論を援用する。
〓〓アメリカは大統領制です。三権分立による権力の相互牽制の概念は、実は米国大統領制に最もよく当て嵌まります。立法と行政がこれほど真剣にぶつかり合う制度は他国にないからです。
戦後の日本は、英国的な議院内閣制に倣ったとされます。英国的な議院内閣制は、実は三権分立でなく二権分立制です。司法権と立法権だけが対等に存在し、行政権は立法権に圧倒的に従属しています。
[国民が選出した各議員・が選んだ首相・が組織した各大臣・が選んだ指名職・の下で働くキャリア官僚・の下で働くノンキャリア官僚]という直線的な権力の流れが存在するということです。さて、日本にはこうした権力の流れが存在するでしょうか。
議院内閣制だと、国民による選出を正統性の源泉とする一本の権力の流れがあるのに対し、大統領制だと、同じく国民による選出を正統性の源泉とする権力の流れが、ホワイトハウス(行政)と議会(立法)との両方に、二本存在して、だから対等に衝突できる仕組になっているのです。
議院内閣制の場合、国民に端を発する流れが一本なので、国民という源泉に近いほど優位であるという枠組になります。だから行政(役人)は論理的に立法(政治家)の下に従属する存在である他ないのです。強いて三権分立と言える要素は、首相による解散権にあります。〓〓(幻冬舎新書「日本の難点」より)
鋭い論旨である。教科書的理解の死角だ。三権に非ず。行政権は立法権に内包され、原理的には二権に停まる。では、実態はどうか。
〓〓「官僚内閣制」というのは、国民が国会(議院)を通じて内閣を操縦する議院内閣制の本義が機能せず、官僚が国会(議院)を通じて内閣を操縦する形になっていることをいいます。内閣を操縦する国会が、国民によってではなく官僚によって操縦される。官僚が国民の役割を代替しているわけです。
憲法(=明治憲法)は立憲君主制を規定している,君主を輔弼する臣下らを国民が憲法(国民意思の覚書)によって操縦するのが本義である。しかし国民はいまだ未成熟。従っていま暫くは天皇が、将来あり得べき「理想の国民」を体現した「国民の天皇」として振る舞うしかない……。
問題はむしろ「統帥権の独立」という意味での天皇制が否定された ―― 「国民の意思」を「天皇の意思」が代理できなくなった ―― 敗戦後です。しかし国民は未成熟なまま、つまり統治権力(国家)を操縦する力はありません。だから「理想の国民」に代わって、霞が関官僚が議院を通じて内閣を操縦する……。
与党の党本部もまた議院を操縦する、別言すれば、官僚による議院操縦を党本部機能が制御してきたのです。〓〓(上掲書より)
原理的な瑕疵、もしくは不足を補うため、戦前は「理想の国民」を天皇が体現し、戦後は官僚が代替する ―― これは意表を衝く論考だ。肯(ガエ)んじた上で、歩(ホ)を進める。残るは「理想の国民」であり、国民の熟・未熟である。誰が、もしくはどこが、どう判断するのだろう。憲法前文の「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」に照らせば、国際的評価であろうか。それでは漠として取り留めもない。「脱官僚」が俎上に載ること自体が『熟』への入域と捉えることもできよう。しかし、制度疲労の露出と不祥事に乗じたマスメディアの世論誘導はないか。
また、「官僚による議院操縦を党本部機能が制御」する機能。つまり、<党・官僚・議員>から成る擬制の三権分立があった。官僚へのチェック・アンド・アランスを与党が果たしてきた。いわゆる族議員である。ある意味で国民に最も近い存在である。
『 国民 ⇒ 与党 ⇒ 官僚 ⇒ 議院 ⇒ 内閣 』
という操縦・制御・意思の流れが存在してきた。これが米国流の二筋による権力の流れを代替し、英国流の一筋の流れを補完する伏流としてあった。だが「ある意味で」といったのは、この『国民 ⇒』とは有り体には利害関係者である。ここに病巣が潜む。ノイジー・マイノリティーが、サイレント・マジョリティーを凌ぐ場合も多い。
新政権の目論見はまず『官僚 ⇒ 議院』を遮断しようとする。手初めに国会での答弁から官僚の排除を狙い、その法制化を強行しようとしている。角を矯めて牛を殺す典型だ。下手をすれば逆に、霞ヶ関は巨大なブロックボックスになりかねない。見たいものが見えなくなりはしないか。加えて、カンちがい君は両者の接触を禁ずる法案を懐中しているらしい。英国仕込みらしいが、歴史と風土の違いを考えねば逆効果になりかねない。
さらに『与党 ⇒ 官僚』に代えて、『内閣 ⇒ 官僚』をねじ込んだ。先述の『集団トラバーユ』である。では元の『与党 ⇒ 官僚』は? 新与党の中にも、今のところ利権の絡まない族議員はいる。分野別の政策通だ。このまま『与党 ⇒ 官僚』が閉塞すると、ここが患ってしまう。そこで、省庁別「政策会議」なるお為めごかしを拵(コサエ)えた。傍目にはガス抜きとしか見えない。案の定、どの省庁でもガス抜きどころか、ひところの株主総会よろしくシャンシャン大会だそうだ。御大コザワ君は、政策は内閣、その他の議員は起立要員たる役割と次の選挙の備えに挺身せよと、にべもない。だから、自ら代表質問にも立たないそうだ。
これで前記の「操縦・制御・意思の流れ」は変わるのか。いずれにせよ、朝三暮四とならぬよう願いたい。国民は猿ではない。『朝四暮三』に騙されはしない。
蛇足だが、オオイズミ君の試みも「抵抗勢力」の名のもとに『与党 ⇒ 官僚』の抹消を狙ったものだった。今や余話でしかないのが、なんとも切ない。
マスコミのミスリードか日本人の習性か、世論は一極に振(ブ)れがちだ。佐藤氏の「国家は抽象物ではない。官僚によって維持されるシステムだ。」との洞察は重い。何度も述べてきたが、官僚は悪ではない。不善は、その「支配」にある。日本のそれは優秀であり、功績も大きい。敗戦後、「理想の国民」の登場まで、未熟な国民に代わり「統治権力を操縦」してきた。敢えて分を越えてきたともいえよう。この視点が抜けると、世の不如意のスケープゴートとして、『みのもんたレベル』の「官僚叩き」に堕してしまう。官僚によらざる国家運営は画餅にもならない。
流れを変えても、河清が成されねば意味はない。新政権の取り組みが弥縫だとまではいわぬが、流れの急激な変化は想定外の不具合を生みかねない。功名に駆られた先陣争い、手っ取り早い成果主義は拙速に陥る。事が事だ。巧遅は拙速に如かず、とはいかない。巧遅ではなく、むしろ漸進こそが理想だ。
やはり、熟考、改変を要するのは『国民 ⇒ 与党』ではないか。とば口の部分だ。大統領制やその亜流である首相公選制など、「国のかたち」を変える憲法改正を棚に上げて思案すれば、ここしかない。ここが画竜点睛ではないか。とどのつまりは選挙制度である。「理想の国民」へのわれわれ自身の不断の成長は論を俟たぬが、その正確な反映こそ緊要ではないか。とば口が歪であれば、話は振り出しに戻る。
…… 抑揚頓挫、またしても蟷螂の斧となってしまった。いな、斧は砕け、前足の欠けた面妖な蟷螂かもしれない。 □
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