春の甲子園がたけなわだ。今回で80回。昨年の春には特待生問題があり、とんだ蹉跌をきたした。だが年の末に新しい基準が決まり、来年から試行される。曲折は続くだろうが、それにもまして一途に白球を追う外連味のなさは捨てがたい。ただ一点を除いて……。
あれは、わたしにとって「いただけない絵面(エヅラ)」である。見るだにぞっとする。春も夏も同じなのだが、つまりはあの入場行進である。どうしても「学徒出陣」を連想してしまう。「ガクト」と聞けば、大河ドラマ『風林火山』で上杉謙信を演じた『Gackt』の出陣シーンのことかと勘違いする向きもあるかもしれぬ。だが、そうではない。もはや死語であろう『学徒』である。
高々と手を振り腿を上げて、前後左右一糸乱れぬ行進。東条英機が指揮台に立ち、檄を飛ばす。昭和18年10月21日、東京・明治神宮外苑競技場で行われた第1回学徒出陣壮行会。その記録映画の一齣一齣が重なるのである。
大戦末期、兵力不足を補うためついに学生が徴兵される。軍事政権が禁じ手に触手を伸ばした際(キワ)であった。戦局は雪崩を打つように傾(カシ)いでいく。陰鬱な歴史である。「奇想、天外より来たる」に類するかもしれぬが、どうにもそれが浮かんでくるのだ。
もちろん、原体験はない。「団塊の世代」といっても、それほど古くはない。しかしほぼ背中合わせの出来事である。そのおぞましい記憶がどこかに残留しているのであろうか。先達からのなにごとかの継承なのであろうか。あるいは個人的な性癖に属することなのであろうか。杯中蛇影の一種か。ともかくも、「いただけない絵面」なのだ。
勝利チームの校旗掲揚の際のアナウンスは相当に変わった。「○○校の栄誉を称え、校歌斉唱裏に校旗の掲揚を行います」などという堅苦しい調子ではなく、「校歌を斉唱して、校旗の掲揚を行います」といったふうに。選手宣誓も随分とくだけた言い回しになっている。なのに、行進だけは相変わらずだ。せめてオリンピック並のスタイルではいけないものか。主催者には毎日、朝日という大新聞が名を連ねている。世の木鐸があの大時代な軍隊式の行進を見てなにも感じないのであろうか。異を唱えないのであろうか。あるいは、とうに過ぎた論議なのであろうか。杳として知れぬ。戦後の民主主義教育という大海原に、ぽつねんと残された青錆びた機雷のようでもある。
ところがである。近ごろ件(クダン)の行進に変化が見られる。きっちりと観察・分析をしたわけではない。瞥見した印象である。 ―― ぎこちないのだ。様になっていない。野球の格段の進歩に引き比べ、てんで下手なのだ。かつ、不揃いである。中には掛け声で合わせようとするチームもあるが、一糸乱れぬとはいかない。新兵でももっとましな行進をしたはずだ。これはどうしたことか。
思案してみるに、教育現場であのような身動き、行進スタイルがなくなってきたからではないか。右利きが急に左で字を書くようなものだ。いかに運動神経に優れる野球選手でも、慣れないことは俄仕込みではうまくいかない。
と、ここまで按じたところで気がついた。 ―― あのぎこちなさは平和の象徴ではないか。「陰鬱な歴史」が遠ざかっていく程に、ぎこちなさは度を増すのではないか。だとすれば、まんざら捨てたものではない。まさかそこまで慮(オモンポカ)って大新聞は打棄(ウッチャ)っておいたのではあるまいが、瓢箪から駒だ。いただけないことながら認めざるを得ない本当の事柄を「不都合な真実」と呼ぶならば、あの行進もそうといえなくもない。
都合の悪いことを隠すのが「不都合な真実」ではない。アル・ゴア氏のその映画では南極の温暖化がセンセーショナルに持ち出される。しかし南極大陸の98パーセントがここ三十数年にわたって寒冷化していることは伏せられたままだ。これは一例。自らの主張に「不都合な真実」にはいくつも蓋をして作られたのがあの映画だ。まことに皮肉な題名というほかない。 ―― と、これは前稿の余勢を駆った道寄りである。
桜とともに甲子園が沸く。80回の歴史には戦乱に散った球児たちの無念が刻まれているにちがいない。スポーツは平和の華であってこそ美しい。桜木もまたそうであるように。□
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あれは、わたしにとって「いただけない絵面(エヅラ)」である。見るだにぞっとする。春も夏も同じなのだが、つまりはあの入場行進である。どうしても「学徒出陣」を連想してしまう。「ガクト」と聞けば、大河ドラマ『風林火山』で上杉謙信を演じた『Gackt』の出陣シーンのことかと勘違いする向きもあるかもしれぬ。だが、そうではない。もはや死語であろう『学徒』である。
高々と手を振り腿を上げて、前後左右一糸乱れぬ行進。東条英機が指揮台に立ち、檄を飛ばす。昭和18年10月21日、東京・明治神宮外苑競技場で行われた第1回学徒出陣壮行会。その記録映画の一齣一齣が重なるのである。
大戦末期、兵力不足を補うためついに学生が徴兵される。軍事政権が禁じ手に触手を伸ばした際(キワ)であった。戦局は雪崩を打つように傾(カシ)いでいく。陰鬱な歴史である。「奇想、天外より来たる」に類するかもしれぬが、どうにもそれが浮かんでくるのだ。
もちろん、原体験はない。「団塊の世代」といっても、それほど古くはない。しかしほぼ背中合わせの出来事である。そのおぞましい記憶がどこかに残留しているのであろうか。先達からのなにごとかの継承なのであろうか。あるいは個人的な性癖に属することなのであろうか。杯中蛇影の一種か。ともかくも、「いただけない絵面」なのだ。
勝利チームの校旗掲揚の際のアナウンスは相当に変わった。「○○校の栄誉を称え、校歌斉唱裏に校旗の掲揚を行います」などという堅苦しい調子ではなく、「校歌を斉唱して、校旗の掲揚を行います」といったふうに。選手宣誓も随分とくだけた言い回しになっている。なのに、行進だけは相変わらずだ。せめてオリンピック並のスタイルではいけないものか。主催者には毎日、朝日という大新聞が名を連ねている。世の木鐸があの大時代な軍隊式の行進を見てなにも感じないのであろうか。異を唱えないのであろうか。あるいは、とうに過ぎた論議なのであろうか。杳として知れぬ。戦後の民主主義教育という大海原に、ぽつねんと残された青錆びた機雷のようでもある。
ところがである。近ごろ件(クダン)の行進に変化が見られる。きっちりと観察・分析をしたわけではない。瞥見した印象である。 ―― ぎこちないのだ。様になっていない。野球の格段の進歩に引き比べ、てんで下手なのだ。かつ、不揃いである。中には掛け声で合わせようとするチームもあるが、一糸乱れぬとはいかない。新兵でももっとましな行進をしたはずだ。これはどうしたことか。
思案してみるに、教育現場であのような身動き、行進スタイルがなくなってきたからではないか。右利きが急に左で字を書くようなものだ。いかに運動神経に優れる野球選手でも、慣れないことは俄仕込みではうまくいかない。
と、ここまで按じたところで気がついた。 ―― あのぎこちなさは平和の象徴ではないか。「陰鬱な歴史」が遠ざかっていく程に、ぎこちなさは度を増すのではないか。だとすれば、まんざら捨てたものではない。まさかそこまで慮(オモンポカ)って大新聞は打棄(ウッチャ)っておいたのではあるまいが、瓢箪から駒だ。いただけないことながら認めざるを得ない本当の事柄を「不都合な真実」と呼ぶならば、あの行進もそうといえなくもない。
都合の悪いことを隠すのが「不都合な真実」ではない。アル・ゴア氏のその映画では南極の温暖化がセンセーショナルに持ち出される。しかし南極大陸の98パーセントがここ三十数年にわたって寒冷化していることは伏せられたままだ。これは一例。自らの主張に「不都合な真実」にはいくつも蓋をして作られたのがあの映画だ。まことに皮肉な題名というほかない。 ―― と、これは前稿の余勢を駆った道寄りである。
桜とともに甲子園が沸く。80回の歴史には戦乱に散った球児たちの無念が刻まれているにちがいない。スポーツは平和の華であってこそ美しい。桜木もまたそうであるように。□
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