伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

『桑田佳祐の唄』

2010年07月29日 | エッセー

  〽長い旅が終わり 安らかに眠れよ
   お前の描いた詩(ウタ)は 奴ら【俺】を不良(ワル)くさせた
   人々は見ていた 浮世の物語
   河の流れを変えて 自分も呑み込まれ
   Searchin'for my life with you, boy.
   I wouldn't be the same as you, sir.

   時代(トキ)に流されず 迎合(アイ)もせず 語りかけた人よ
   涙の辛さも教えずに 一人男が死ぬ

   想い出が今でも 心に駆け巡る
   Oh 華やかなりし頃は そう長くは続かない

   Searchin'for my life with you, boy.
   I wouldn't be the same as you, however

   Oh, oh, oh.
   届かぬ思いに気もそぞろ
   あれはただの夢か
   唄えぬお前に誰が酔う やがて闇に消える

   Ah, 俺なら過去など語らない 男の気持ちで思う
   Oh, oh, oh. Feelingのボス 生まれ変われよ
   I don't care, I don't care. さよなら My hero I don't know, I don't know.

       悲しみよ Hello

   Searchin'for my life with you, boy.
   I wouldn't be the same as you, however

   後にも先にも誰もなく 何を残して去る?
   美徳のつもりが罪ばかり
   いつか逢える日まで

   Ah, 夜空の星くず見るたびに 裏切られた気持ちよ
   Oh, oh, oh. ロック【フォークソング】のカス 教えてくれよ
   I don't care, I don't care. さよなら My hero
   I don't know, I don't know. I wil l never forget you.

   長い旅が終わり 安らかに眠れよ
   お前の描いた詩(ウタ)は 奴ら【俺】を不良(ワル)くさせた〽

 題して、『桑田佳祐の唄』。【 】部分は原詞、結局3カ所、正味2カ所しか替えるところはなかった。(細かいことをいえば、英語部分は人称を変えた方がふさわしいであろうが)
 【俺を】は世代として「奴らを」となるし、【フォークソングのカス】は当然のこと「ロックのカス」とせざるをえない。
 『後継』がそれほどのプレゼンスに至ったということであろう。

●桑田佳祐さん初期の食道がん 全国ツアーをキャンセル
 サザンオールスターズのボーカル桑田佳祐さん(54)に初期の食道がんが見つかったと28日、所属事務所が発表した。「幸いにも早期発見により初期段階での治療で済む状態」という。
 8月中に入院し、手術する予定だ。療養のため、10月20日の新アルバム発売を延期し、10月28日から年内いっぱい予定されていた全国ツアーのスケジュールもすべてキャンセルする。新シングルは予定通り8月25日に発売する。
 桑田さんはファン向けのウェブサイトで「しばし治療と静養に充てるお時間をいただいて、また改めてみなさまにお会いできる機会を、心より楽しみにしたいと思っております。お楽しみは、あ・と・で」とコメントしている。 (朝日 7月29日)

 85年のことだから、四半世紀も前になる。拓郎の引退宣言を受けて、桑田が

   「吉田拓郎の唄」

と銘打ってメッセージを発した。前記の原曲である。(サザンのアルバム「KAMAKURA」に収録)リスペクトは桑田流の語彙と文法に翻訳されているが、最終句の、気の早い“l never forget you”に心情はこぼれるほど込められている。ちなみに、「カス」とは音楽界用語で『おいしいところ』を意味する。また、リリース前のタイトルは「死ね吉田拓郎」であったという。なんとも『桑田語』であることよ。(03年のツアーでは、歌詞を大幅に変えて唄っている。大病に伏せていた拓郎への見舞いであったろう)
 
 上記の2カ所の変更。どちらも事務的なものだ。本体にはなんらの関わりはない。
  〽俺を不良(ワル)くさせた〽
 も、
  〽Searchin'for my life with you, boy.
   I wouldn't be the same as you, sir.〽
  も、
  〽華やかなりし頃は そう長くは続かない〽
 も、
  〽裏切られた気持ちよ〽
 も、すべてそのまま符合する。病巣も双方、シンガーには致命的な部位だ。しかし、ひとりは先達となった。死魔を振り切って、いまなお「時代(トキ)に流されず 迎合(アイ)もせず 語りかけ」る。
 “I don't care, I don't care.”だ。“ さよなら My hero”などとは、言える訳がない。せいぜい、「あ・と・で」の「お楽しみ」を待つとしよう。 □


それでも待ってる 夏休み

2010年07月27日 | エッセー

「なんだか、年々暑くなってくようだ。温暖化のせいかな」
 と同輩が毎夏同じことをいう。
「そうじゃない。年々体力が落ちて、暑く感じるようになってきただけだ」
 と、わたしが毎年同じように応える。
 子どものころ暑かった記憶はあるが、決して暑っ苦しかった覚えはない。むしろ愉しかった。なにより、夏休みがあったからだ。

 「夏休み」 作詞/作曲:吉田 拓郎
   〽麦わら帽子は もう消えた
    たんぼの蛙は もう消えた
    それでも待ってる 夏休み

    姉さん先生 もういない
    きれいな先生 もういない
    それでも待ってる 夏休み

    絵日記つけてた 夏休み
    花火を買ってた 夏休み
    指おり待ってた 夏休み

    畑のとんぼは どこ行った
    あの時逃がして あげたのに
    ひとりで待ってた 夏休み

    西瓜を食べてた 夏休み
    水まきしたっけ 夏休み
    ひまわり 夕立 せみの声〽

 パチンコ台の“吉田拓郎の夏休みがいっぱい”が話題になってからもうずいぶん経つ。パチンコとは縁がないが、商魂に舌を巻いた。
 さて、「夏休み」だ。72年。ごく初期の作品である。9歳まで住んでいた鹿児島での幼い夏の日の情景を歌ったと、本人が語っている。フィーバーに轟くほどの代表作である。
 しかし漫才師の故・人生幸朗ばりの物言いになるが、わたしには1段目がどうにも合点がいかないできた。

 それは、
   〽麦わら帽子は もう消えた
    たんぼの蛙は もう消えた〽
     ―― つまり夏は終わったのに、なぜ
   〽それでも待ってる 夏休み〽
     ―― なのか。
 詩の読み方に枷はない。創り手にも軛はない。だから自由の風がこころを押し上げてくれる。しかしこれは、辻褄が合わない。
 一つには、「麦わら帽子や田の蛙、かつての夏の風物はいまはなくなった。だが少年には、いまも夏休みが待ち遠しい」と読んでみてはどうか。
 70年代初頭は、50年代から始まった四大公害病(熊本水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそく、いたいいたい病)が日本を大いに揺すった時期でもある。高度成長と引き換えにその残滓に苦悶したころだ。人びとの意識が変わり、環境汚染が叫ばれた。
 しかし約40年前に、たんぼの蛙が消えるほどの状況があったとは考えにくい。第一、麦わら帽子は環境汚染とは関わりがない。
 ならば、「田舎を出て大都市での暮らしをはじめた青年が、鄙での少年時代を懐かしんで詠った」ではどうだろう。これなら辻褄が合いそうだ。都会では「麦わら帽子も姿を消し、田の蛙もいなくなったけれど …… 」と。だが、待てよ。都会にはたんぼそのものが消えていたはずだ。(今ならウけるであろうが)当時、ビル街を麦わら帽子で歩く人も見かけなかったであろう。懐古の縁(ヨスガ)が都にはすでにない。 …… またも拍子が抜けた。
 この二つの読み方は、72年の都鄙双方で『夏の風物』が「消えた」としている。やはり、これではうまくいかない。それに、次の段との繋がりにも欠ける。つづいて唐突に特殊、個別の事情が出てくるからだ。となると、わたし流の受け方 ―― 風物ではなく、『夏(そのもの)は終わった』 ―― に戻ってしまう。と、話は振り出しだ。そこで、牽強付会を試みる。

 『消えた夏』は特別な夏だったのではないか。さらに、夏に仮託したなにかではなかったか。
 拓郎は9歳で生地を去った。父を残し、母とともに広島へ移住した。小学校3年生である。鹿児島を後にする。家庭には渦巻く事情があったであろう。友達とも、先生とも、学校も、山や河も、街も、近所のおじさん、おばさんとも永訣する。喘息持ちの病弱な少年には新天地への希望よりも、去り難き慕情が勝(マサ)ったにちがいない。
 だから、『消えた夏』は『鹿児島の夏』ではないか。いや、少年にとっての『鹿児島時代』なのではないか。「それでも待ってる 夏休み」とは、少年の望郷だ。叶わないから、「それでも」なのだ。叶うなら「それでも」待つ訳がない。
 なんとも切ない。少年は叶わないと知らず、「待ってる」。叶わないと知って待つのは大人だ。だから「待ってた」ではなく、「待ってる」。テンスを少年の日に戻した。このテンスは2段目までつづく。(この妙手は、「マークⅡ」にも使われた)

   〽姉さん先生 もういない
    きれいな先生 もういない
    それでも待ってる 夏休み〽
 結婚か、転勤か。夏休みを前に、若くてきれいな先生がどこかへ行った。もう教室に戻ってくることはない。でも2学期になれば、また会えるかもしれない。「姉さん先生」へのあこがれ。それはお母さんとは違うなにか。そのなにかをこっそりしまって夏休みが終わるのを「待ってる」。テンスの妙は、照れ隠しでもある。
 
 3・5段は、至極ありきたりの、どこにでもある夏休みの寸景がつづく。曲全体のみごとな書割ともいえる。出色なのは4段だ。

   〽畑のとんぼは どこ行った
    あの時逃がして あげたのに
       ひとりで待ってた 夏休み〽
 これは生半な詩ではない。「逃がして あげたのに」、帰って来ない。それは遥けき少年の日々かもしれない。やがて仲間は、それぞれ家路に。膝を抱え、「ひとりで待ってた」夏休みの夕べ。振り返る来し方は、「あの時」と同じ。自分の世界で、ずっと、とんぼという夢を紡いできた。

 冗話はこのくらいにしておこう。痴人説夢と、打遣ってほしい。それにしても、少年と夏休み、なにやら蠱惑なつながりではある。 □


欠片の主張 その9

2010年07月24日 | エッセー

 忘れかけていた「欠片の主張」をしてみたい。
 かねがね、世を二分、または世を一色にするテーマについて、開かれた論争の場がないことに不満と不安を抱いていた。特に後者に対してはオブジェクションを呈する機会も閉ざされている。敢えていえばネットや出版となろうが、ネットはマスとはいかず、出版も売れねばそれまでだ。複雑系の社会で代議制は機能不全に陥りがちで、消費税論議にしたところでポピュリズムを払拭した正味のそれは期待できない。新聞、放送のいわゆるマスメディアもオピニオン・リードに軸足がおかれ、まったくのオブジェクションに紙面や番組を割く度量はなさそうだ。
 民衆は賢なり、との前提に立って、
 欠片の主張 ―― テーマごとに見解や主張を戦わせる公開討論・論争の場 ―― をつくれないものか。つまりは政治に預ける前に、判断の材料を十全に提供するということだ。
 夫婦別姓にしても、メリット、デメリットがオープンな形で論議されたとは言い難い。NHKはこれに限らず、時々それらしい番組を流すが、限られた時間の寸法の中では未消化、消化不良で終わってしまう。特に〇か×かの二者択一に構成が傾きがちで、△やグレーゾーンが捨象される。民放では「朝生」や「そこまで言って委員会」などあるが、灰汁と毒気が強すぎてそのままでは使い物にならない。
 筆者のイメージは、市民は参加せず、識者やジャーナリスト、アナリスト、オーソリティー(場合によっては、双方の利害関係者)が参加しての公聴会に近いものだ。当然、政治家と官僚には敷居も跨がせない。生臭くなって、元も子もなくなる。永田町と霞ヶ関に話がいく前に、世論を練るためだ。メディアのミスリードを防ぐのが主目的だ。問題の所在と捉え方、解法を、ぎりぎりバイアスを除いて提示する。そのためだ。選択はこちらに預かる。なぜなら、民衆は賢であるから。
 例えば、二酸化炭素温暖化説へのオブジェクション。賛否いずれにせよ、以下のような秀逸な論考が、紙媒体だけでは埋もれてしまう。ごく一部を抄録してみる。

〓〓 「二酸化炭素温暖化説の崩壊」  広瀬 隆  集英社新書(今月発刊)
◆09年11月17日、イギリスのイーストアングリア大学にある気候研究ユニット(CRU)のサーバーから、交信メール1073件と、文書3800点がアメリカの複数のブログサイトに流出し、世界中が驚愕する「気温データの捏造」という世紀のスキャンダルが発覚した。欧米のメディアは、IPCCがおこなってきた悪質な気温データの捏造を次々と暴き出した。CO2温暖化説を広めてきたIPCCの理論とデータが、巨大な科学的「嘘」によって作られていたことが明らかになったのだ。それで、「クライメートゲート」と呼ばれるようになった。
◆重要なことは、「氷河は実際に融けていない」、「気温の予測は外れて、しかもデータは証拠不十分なものばかり」、「ここ10年気温は上がっていない」、「コンピューター・モデルは自分の好きなように予測データを強調している」という山のような事実があったにもかかわらず、「メディアはこうした批判を長い間にわたって無視してきた」ということである。ところが、日本のメディアは、北海道新聞を除けば、はるか後方にあって、追いかける気配さえない。
◆毎年毎年の気象が大きく変化するからといって、それは昔からあることなので、温暖化説や寒冷化説を、安易に信じないほうがよい、ということである。実際、気温が平年値である年はまったくないのに、四季豊かな島国に住む日本人は「今年は暑い」、「今年は寒い」と大騒ぎするのだ。
◆学者・研究者の資料は、本人が調べている専門分野の指標データだけを中心に分析して、それに基づいて将来を予測する傾向が強く、ほかの気候変動要因を無視した結論が多い。致し方ないとは思うが、地球の気候変動要因は、少なくとも十次元の解析ができなければ解明できないはずである。IPCCのごとく自説に拘泥して全人類をたぶらかし、将来を予測することなどあってはならない。
◆地球の気温を変化させる要因として、ミランコビッチ・サイクル、太陽活動、黒点の増減、宇宙線、地磁気、エルニーニョ、ラニーニャ、偏西風、太平洋振動、ダイポールモード現象、水蒸気、火山の噴火、エアロゾル、太陽光線を反射するアルベド効果など数々ある。なぜ「人為的なCO2が主因と見るのが自然」なのか。結論を、いきなり「都合のよい話」にジャンプさせてはいけない。
◆複雑きわまりない大気圏の計算をおこなうまでの水準に、人類は永遠に到達できない。それを認識することこそ、科学する者の態度である。人間の知り得る科学では複雑すぎて計算できないことを、強引にコンピューターで計算してみせたが、矛盾だらけだったということにつきる。
◆IPCCは政府間の組織で、参加している研究者はいわばボランティアであって、学術研究連合や国際学会とは性格が全く異なる。また独自の調査研究は実施せず、既存の研究成果に基づいて合意を形成し、政策立案者向けに作成された報告書にすぎず、学術論文のように厳密な審査を経たものではない。日本では、ともするとIPCC報告書は世界のトップレベルの研究者の意見の一致として受け取られる傾向にあるが、大きな間違いだ。つまり、科学と関係のない政治的集団だ。
◆今後の地球の気温が上昇するか下降するかは、それを左右する要素があまりにも多く、複雑なので、まったく予測がつかない。そのどちらになっても、わずかな変化に心を惑わされる必要はない。学者が100パーセント確実でないことを予言して人心を惑わすことには問題がある。
◆地球規模で論じられてきた気温変化とは、正しくはヒートアイランドの物語だった。
◆日本を加熱するのは、大都市だけではない。原発がその最たるものである。
◆原子炉で生まれた熱エネルギーの3分の1しか電気にならないのである。70%のエネルギーを捨てている。最もエネルギー効率の悪い発電所である。
◆原子力がなくても、発電所はあり余っている。原発がないと停電する、と考えることがそもそもナンセンスなのだ。〓〓

 かつてある識者が「月に人類を送る科学をもってしても、ビルの屋上から落とした紙片がどこに落ちるか予測はできない」と語った。科学する者の態度とはそのような謙虚を忘れないことではないか。それにしても、「クライメートゲート」には呆れる。かつ日本の報道がいかに偏向しているか、悍(オゾ)ましい限りだ。
 温暖化以外にも、テーマは山積している。しかも年々増殖する。今回の主張である「公開論争」は、やはりテレビメディア(それもNHK)が最適かもしれない。地デジになれば、活用の幅も広がろう。新聞にも脱皮を求めたい。主張は主張として、オブジェクションにも同量の紙面を提供し討論の充実を願いたい。
 世論がどこにもミスリードされないために、至難ではあっても衆知を集めるべきだ。民衆は賢なり。愚民などいるはずはない。要は判断の材料を取り揃え、過不足なく提供できるかどうかだ。
 抑揚頓挫。生煮えの話になってしまったが、意のあるところをお酌み取りいただければ得たり賢しである。 □


尻軽男の反省?

2010年07月22日 | エッセー

 前稿「ああ、換骨奪胎」を上げたその翌日(7月21日)、まさか狙い定めた訳ではあるまいが、朝日新聞にカウンターパンチのようなコラムが載った。編集委員・外岡秀俊氏の筆になる「『ザ・コラム』 デジタル化 ―― スピードと便利さのわな」である。
 以下そのカウンターパンチを6発、反省への痛打を受けてみたい。筆者、人後に落ちぬ新し物好きの尻軽男である。連続パンチで横死するかもしれぬが。(〓〓部分は朝日からの引用)

〓〓「奔流(註・電子図書への)は避けられそうにない。下手をすると出版社も書店も倒れかねない。限られたパイを分けるのでなく、パイを大きくする発想への転換が必要だ。デジタル化によって、仮想の裏社会が、現実の表社会になっていくようだ」そういうのは「近代書史」などの著作で知られる書家の石川九楊氏だ。「いま起きていることの本質は通信の異様な発達。文化を創造するという生産行為には、何のかかわりもない」〓〓
 「仮想の裏社会が、現実の表社会になっていく」は、やや因業ではないか。ネットの世界を「裏」と見る気配に独尊を感じる。衆愚と紙一重ではあるが、氏のいう「表」を支えてきたのは億万に及ぶ市井の民だ。表も裏もなく繚乱の花が一つ舞台を飾る。大いに諒とすべきではないか。現代の「万葉集」だ。
 「本質は通信の異様な発達。文化を創造するという生産行為には、何のかかわりもない」は、その通りだ。前稿で、 ―― 「洛陽の紙価を高からしめる」も、死語は免れまい。意味は残っても、媒体が紙から離れる以上成句は抜け殻となろう。ただ、「不刊の書」は残る。これは中身の問題であり、媒体とは無関係だ。 ―― と述べたのは外れてはいない。

〓〓書物は、書き手が無意識の領域から、必死で新しい言葉を汲み上げてきた歴史の累積だ、と石川氏はいう。過去に公にされた意見や論を一つ一つ全部つぶし、ではその上で何をいうか。抜き身で向き合う勝負の気迫が、かつての書物にはあった。「チャットはおしゃべり。ツィッターはつぶやき。言葉を生む行為を軽視し、通信だけが異常に特化した結果だ。電子書籍は個人でも出版できるが、編集や校閲という自制もなく、私的な言葉を垂れ流すだけだ」〓〓
 本ブログのように駄文を書き殴る手合いにはきつい一撃だ。しかし、「過去に公にされた意見や論を一つ一つ全部つぶ」そうにも、アナログでは物理的限界がある。かつ、常に堆積される。ネットと検索を知的ツールとして活用するに若(シ)くはなかろう。問題は「抜き身で向き合う勝負の気迫」だ。玉石混淆ではあるが、等し並みに「私的な言葉を垂れ流すだけ」と断ずるのはどうだろうか。つい筆が滑ったのならいいが。
  ―― 「坐して百城を擁す」は誇張でもなんでもなく実感を伴って活きてくる。書籍のデジタル化が主流となれば文字通り「坐して」であり、さらに「百城」どころか無尽の城主となる。しかも、「検索」は最強の武器だ。知の『横断・縦断』が自在となる。こればかりは先代にないデジタルの独壇場である。百千の武具に鎧われた知の巨城だ。 ―― 前稿のこの論も的を外してはいない。
 包丁だって武器になる。物事すべて使い方であるというレベルで括れるとしたら、この段はやや壮語の嫌いを免れまい。
 チャットは横の繋がり、ツィッターは縦の繋がりに収斂しつつあるとの見方もある。友達同士のおしゃべりと、セレブリティーとの楽屋話といったところか。それなりの棲み分けが始まっている。

〓〓石川氏はさらにいう。「言葉は本の手触りや質感に根差し、色やにおいを引き連れて立ち上がる。ツルツルの触感しかない端末では、情報は伝わっても、言葉は立ち上がるまい」〓〓
 ―― 「汗牛充棟」は、そのうち死語となる。書物の元祖は岩であり石であった。ロゼッタストーン然りだ。移動は思慮の外であったろう。後、パピルス・羊皮紙となり、中国では木簡・竹簡となって紙へと至る。
 「葦編三度絶つ」。孔子の苦労も、竹簡ならばこそだ。その竹簡も棟木まで届く量ともなれば、いかな牛でも運ぶには汗を滴らせて難渋する。(竹簡ではなく、紙製の書物を指すとの異説もある) iPadで約700g。片手で持てる。死語となる由縁だ。 ―― 出版関係者にとっては、まことに身も蓋もない物言いであった。わが無神経をお詫びせねばなるまい。
 しかしこの前稿に付け加えるとすれば、やがて紙状のディスプレーが登場すると聞く。極薄で巻いたり畳んだりして持ち運べる。お望みなら、「本の手触りや質感」も自在だ。
 これは、文化と文明の鬩ぎ合いといえなくもない。「ツルツルの触感しかない端末では、情報は伝わっても、言葉は立ち上がるまい」などという柔では、羊皮紙か竹簡にでも先祖返りするしかないのではあるまいか。

〓〓便利で無料。個人が多様な意見を発信すれば、「衆知」が瞬時に形成され、ウェブ上に民主主義が実現する。デジタル化は、そんな「夢」をもたらした。「ネットには、無料で人々にサービスを提供し、衆知を結集して社会に役立たせるという理想主義もあった。だが現実にはそうなっていない」
 「ウェブ民主主義」の内実 ―― グーグルでは、人気サイトからより多くリンクされているサイトほど検索上位にあがる。より多くの人の目にふれ、影響力も増していく。「強者はますます強く、弱者はますます弱くなる」仕組みだという。これでは少数意見を排除し、むしろ同調を強いることにもなりかねない。「ネットの民意といっても、それは刻々と変わる最大瞬間風速にすぎない。人々はいつも主体的に選択しているわけではなく、流れに巻き込まれる。それを『民主主義』と標榜するのは、危うい」〓〓
 これにはまったく異論がない。まことに人の一寸、我が一尺。要注意だ。次元は違うが、「恐竜の尻尾」ということもある(06年4月15日付本ブログ「恐竜の尾っぽはながーい!」で触れた)。過剰な期待は禁物だが、将来性がないわけではない。
 
〓〓このところ、内閣支持率などの世論調査によって政治の評価が定まり、影響を与える傾向が強まっている。「人気投票」で政治が動くなら、「ポピュリズム」に限りなく近づく。〓〓
も、鞭打ちになるほど首肯したい。今回流れたネット選挙の解禁も、慎重を要するだろう。

〓〓私たちは「スピード」と「便利さ」のわなに落ち、何かを失ってはいないか。デジタル化の巨大なうねりにのみ込まれる前に、たまにはパソコンの電源を切って、しばし考えてみたい。〓〓
 この締めはいただけない。パソコンは「スピード」と「便利さ」の象徴ではあっても、そのものではない。まあ、レトリックではあろうが、「パソコンの電源を切って」も「デジタル化の巨大なうねり」の外に居つづけることはできない。
 
 …… と、反省のつもりが大半反論となってしまった。ああ、御しがたき尻軽男よ。 □


ああ、換骨奪胎

2010年07月20日 | エッセー

●蔵書をバラしてPDFに 「自力で電子書籍」派、増える
 本やコミックの背表紙を切り落とし、全ページをスキャナーで読み込んで自家製の電子書籍を作る人が増えている。新型情報端末iPad(アイパッド)など、電子書籍を読める機器の登場が追い風になり、裁断機やスキャナーの売り上げも伸びている。
 大阪府豊中市の会社員の男性(24)は6月から、持っている本や雑誌の「電子化」を始めた。背表紙を大型の裁断機で切り、バラバラになった本をスキャナーにセット。1冊数分で自動読み取りが完了し、PDF形式で保存する。「作業は予想以上に簡単」という。
 蔵書は増え続け、部屋を占拠してしまうのは時間の問題だった。裁断機とスキャナーで7万円近くかかったが、「出張時に何冊分もの本を持ち歩けるし、パソコンで処理すれば全文を検索でき、知りたいことが書かれているページにすぐたどり着ける」とメリットを挙げる。
 東京都の公認会計士磯崎哲也さん(48)も、自前の電子書籍をiPadに収めて持ち歩く。「実際に作業してみると楽で驚いた」。作り方をブログで紹介し、反響があったという。
 日本でも電子書籍端末は普及しつつあるが、出版社の電子書籍ビジネスへの本格的な進出は始まったばかり。電子化は著作権法上の「複製」にあたるが、個人的な読書など「私的使用」のためであれば問題ない。マンガ本などを電子化する人は前からいたが、端末の登場でより多くの人が興味を持ったとみられる。
 「自作に最適」と紹介されたスキャナーは、今春の販売数が前年同時期に比べて3割以上伸び、発売以来累計で100万台を売るヒット商品に。定価で5万円以上する裁断機も好調で、取り扱う文房具メーカーのプラス(本社・東京)は、「元々業務用だったが、電子書籍が注目され、個人の需要が増えた」。
 問題も出てきた。東京の業者が4月に1冊100円で裁断、スキャンを代行するサービスを開始。別の複数の業者も代行業に参入した。
 代行の可否はネット上で論争になったが、「著作権法は私的使用する者自身が複製することを求めており、業者が営利目的でスキャンを代行することは違法」(神戸大大学院の島並良教授)といった見解が主流。日本書籍出版協会(東京都)は、「このまま営業を続けるならば何らかの対応を検討せざるを得ない」との立場だ。
 樋口清一事務局長は、自作の電子書籍について、「私的な利用なら仕方がない」としつつも、「コミックなどは電子化されれば、ネット上で違法に流通する恐れも出てくる」と心配する。(朝日 7月18日)

 「汗牛充棟」は、そのうち死語となる。書物の元祖は岩であり石であった。ロゼッタストーン然りだ。移動は思慮の外であったろう。後、パピルス・羊皮紙となり、中国では木簡・竹簡となって紙へと至る。
 「葦編三度絶つ」。孔子の苦労も、竹簡ならばこそだ。その竹簡も棟木まで届く量ともなれば、いかな牛でも運ぶには汗を滴らせて難渋する。(竹簡ではなく、紙製の書物を指すとの異説もある) iPadで約700g。片手で持てる。死語となる由縁だ。
 碩学の言を挟もう。
 ―― 中国文明の特色の一つは、言語の文章表現が殷代という早い時期にはじまり、紙以前の木簡・竹簡時代に完成しきったことである。木簡・竹簡時代は、うかつに冗漫に書けば、荷車にでも積んで牛に曳かせねばならなくなってしまう。漢文が極端に簡潔であるのは、一つには木簡・竹簡時代に文章語として完成してしまったからに相違なく、さらには、紙の時代になってもこの基本的性格はかわることがなかった。 ―― (司馬遼太郎著 「街道をゆく」21巻)
 前述の熟語とは逆に、「坐して百城を擁す」は誇張でもなんでもなく実感を伴って活きてくる。記事が伝える動きは電子書籍が本格普及するまでのつなぎであろうが、書籍のデジタル化が主流となれば文字通り「坐して」であり、さらに「百城」どころか無尽の城主となる。しかも、「検索」は最強の武器だ。知の『横断・縦断』が自在となる。こればかりは先代にないデジタルの独壇場である。百千の武具に鎧われた知の巨城だ。
 「洛陽の紙価を高からしめる」も、死語は免れまい。意味は残っても、媒体が紙から離れる以上成句は抜け殻となろう。ただ、「不刊の書」は残る。これは中身の問題であり、媒体とは無関係だ。
 
 「背表紙を大型の裁断機で切り、バラバラになった本をスキャナーにセット。1冊数分で自動読み取りが完了し、PDF形式で保存する。」には仰天した。部分的にスキャンしてPDFにすることはよくあるにせよ、背表紙を切り落として本そのものを解体するという発想はまったくなかった。馬齢を重ねると、身体どころかアタマまで硬くなってしまうかと悄然とする。
 しかし、これがほんとの「解体新書」か(失礼!)。杉田玄白も顔色なかろう。生来の吝嗇ゆえか、筆者の場合、どうしてももったいないが先に立つ。
 ともあれこれは、まさに「換骨奪胎」そのものではないか。 ―― 蛇足ながら、この熟語には焼き直す(いわゆる、パクリ)という悪意は含まれない。骨を取り換え、胎児を奪い取る意で、人の詩や文章などの着想・形式などを借用し、新味を加えて独自の作品にすることをいう。 ―― 「本やコミックの背表紙を切り落とし、」とは「換骨」であり、「スキャナーで読み込んで自家製の電子書籍を作る」とは「奪胎」である。今にピッタリではないか。
 難儀なのは、またしても「著作権」だ。ニッチ・ビジネスでもあり、法の隙間でもある。私的使用と代行。んー、ニッチもさっちもいかない。(失礼!)
 
 便利にはなっても、麦を漂わす愚は避けたい。酒は飲んでも飲まれるな! 本は読んでも読まれるな! ただ、双方、とてもむつかしい。 □


慎んで憫笑を捧ぐ

2010年07月19日 | エッセー

●「その動き太極拳かと尋ねられ」痔川柳、珠玉の入賞作
 痔や便秘の薬を製造・販売しているムネ製薬(兵庫県淡路市尾崎)が、3~5月に募集した「痔」をテーマにした川柳の入賞作品を発表した。優秀賞は福井県小浜市の女性(57)の作品。「その動き 太極拳かと 尋ねられ」。痔を患った人のぎこちない動きを表した句で、同社の担当者は「経験者でないと詠めない秀句」と絶賛する。
 同社は5年前から、痔と便秘をテーマに年1~2回、全国から川柳を募集している。今回は3341句の応募があった。広告会社のコピーライターが審査した結果、優秀賞のほかに入選作品10句を選んだ。
 千葉県松戸市の男性(34)の「すべりだい ごめんなパパは 上までや」といった哀愁を誘う句のほか、埼玉県杉戸町の男性(58)の作品「すぐ切れる 俺はお尻で 子は頭」、神奈川県横須賀市の女性(51)の作品「肛門(こうもん)科 みんなともだち おしりあい」などが入選した。
 担当するムネ製薬の西岡一輝・営業本部長(63)は「痔と語感が似ている地デジのCMがテレビで頻繁に流れているせいか、今回は地デジをダジャレ風に詠み込んだ作品が目立つ」という。愛知県江南市在住の男性(52)は「地デヂとは どんなヂなのと 医者に聞き」と詠んだ。 (朝日 7月18日)

 超有名ミュージシャンのTYさんは痔主である。何痔であるか、それほどのシリ合いではない。しかし手術まで耐えたジ久力をお持ちの方だ。年季は充分であろう。
 超有名作家のJAさんも痔主である。「A田痔郎」などとは畏れ多くて書けない。(でも、筆が滑ってしまった)御本人は「小痔主」だと謙遜なさるが、痔主でなければ所与の苦しみは分からぬと、孤高をジしていらっしゃる。
 筆者は、ちがう。しがない
小作人である。知力も財産も持たぬが、それも持たない。だから他人事(ヒトゴト)として、大いに笑う。
 といって、嘲笑ではない。ジ慢ではないが、痔以外なら何かと持ち合わせには困らない。だから『異』病相憐れむで、憫笑である。
 それにしても、可笑しい。以下、同社のHPからその他の入選作品を並べてみる。

  寺の字が 妙に不安を かきたてる

  「死んでるの?」 トイレのむこうで 妻が呼ぶ

  私の彼 長男なのに ぢなんです

  いつだって トイレタイムは サスペンス

  響きだけ セレブ気分な 大痔主
  
  「今なんじ?」 思わず答える 「今きれ痔!」

 優秀賞は別格として、 ―― 「死んでるの?」 トイレのむこうで 妻が呼ぶ ―― が妙にいい。細君のあけすけなカマシが痛快だ。ジんとくるではないか。

 まあ、なんにしても笑い飛ばすだけの、洒落のめすだけの気力があれば、完治は遠くとも寛解はきっとすぐだ。ただ薬は売れなくなるかも知れぬ。なんともジレンマである。
 サラリーマン川柳もいいが、悲哀が先に立つ。こちらは、その痛苦が身に迫って笑ってしまう。いや、ジ病をお持ちの方には無礼千万ではあるが。

 さて前稿からの行き掛かり上、先述の痔主作家先生について触れねばならぬ。小学館発刊(07年)になる「つばさよつばさ」というエッセー集に、「黄門伝説」なる『笑』撃的逸品がある。よほど心して読まねば、笑い死んでしまう。特に、病院の待合室や静寂なる図書館、または赤の他人と乗り合わせた電車、バスの中での黙読(音読は絶対にいけない! まかり間違えば、人間的尊厳も社会的地位も失いかねない)は要注意だ。
 …… 近所にある「多摩肛門科」という大看板から筆は起こされる。ふと、あらぬ妄想が湧く。茨城県の県庁所在地には「水戸肛門科」があるのではないか、と。かくて、笑い死にを覚悟の探索が始まった …… 。
 先の川柳を超える迫力で笑いが押し寄せる。この手のネタは当代随一である。独壇場である。先生、笑いに泣き呉れながら、泪と鼻水を原稿用紙に滴らせつつペンを走らせているのが手に取るように分かる。あるいはひょっとして、胡座の基底部より(先生は文机にてペンもて執筆される。腰掛けでキーボードを叩くなどという非文化的な慣習はおもちにならない)襲い来る激痛に悲痛な雄叫びを上げながら、脂汗を原稿用紙に滴らせつつ一ジ(字)一ジを刻されているのかも知れない。ならば、ゆめゆめ粗相にはできぬ作品ではないか。ジ儘に読んではならぬ。小作であるなら痔主に作料を払う心構えで同書を求め、また痔主であるならその大小に依らずわが身をジ戒しつつ、謹んで拝読の栄に浴すべきであろう。
 
 ともあれ、一病息災である。ジっと我慢で今に見ろ。希望を捨てるな、夜明けは近い。ムネ製薬は弱きを助け強きをくジく正義の味方。 …… と、これではあまりにイー痔ーか。 □


炎陽の一書

2010年07月18日 | エッセー

 上巻の半分に至るまで「『帰らざる』夏」と勘違いしていた。生来の吝嗇で、汚さぬようにとカバーを掛けて本を読む。それが徒となった。どちらが先かは判らぬが、物語も『帰らざる』を予感させる展開だった。ために、先入主を赦されて読み進んでしまった。 
 振り返ると、やはり『終わらざる』以外ではない。客観として「終わっていない」のではなく、主体として「終わらせてはならない」という意味においてだ。「終わらない」では意は通っても、ひどく蓮っ葉になる。だから、「終わらざる」だ。「夏」とは無論昭和二十年の夏だが、大東亜戦争の謂でもある。

   終わらざる夏   

 浅田次郎著、本年7月5日、集英社より刊行された。
 帯広告は謳う。

  着想から30年。浅田次郎が満を持して挑む、北の孤島の「知られざる戦い」。
  1945年8月15日 ―― 戦争が、始まる。

 映画の予告編めくが、巧いコピーだ。「30年」は戸惑うが、「満を持して」はその通りであろう。巨細に亘る蘊蓄は、物語に十全な存在感を与えている。「戦争が、始まる。」、ここがにくい。実に悪(ニク)い。ネットの編集サイトには、以下のようなコメントが載せられていた。
〓〓第二次世界大戦はいつ終わったのでしょう? こう質問されたら、ほとんどの日本人は「1945年8月15日」と答えると思います。そうです、日本の敗戦が、玉音放送で全国に伝えられました。ところが、その玉音放送後に、始まった戦闘があったのです。北のさいはての島で、日本軍の超精鋭部隊とソ連軍が、壮絶な戦車戦を繰り広げていた。恥ずかしながら、編集Nもこのことを知りませんでした。〓〓
 著者は、「止めようとして止められなかった戦争と、終わってから始まった戦争とでは、天と地の開きがある」と語る。さらに、「戦後65年、いまが小説を書いて世に出すギリギリのタイミングではないか」とも続けた。
 時を遣り過ごせば、あの戦争が「歴史」になってしまう。赤紙に翻弄された群像が父であり母であり、祖父母であったうちに、つまりは戦争と血の繋がりがあるうちに書き留めておかねばならぬ。起こる筈のなかった終戦後の戦争を不問のまま「終わらせてはならない」のだ。「挑む」のは、そのためだ。

 昨年、前作「ハッピー・リタイアメント」について遼東の豕を献じた。(12月26日付本ブログ「この冬一番のプレゼント」)
〓〓登場人物はなべて新味に欠ける。「天切り松 闇がたり」や「きんぴか」のようなインパクトがない。はっきり言おう。この作品、造りがイージーなのだ。コクを肉体が欲しなくなった分、精神がほしがるようになってきたおじさんクラスには、なんとも薄味なのだ。なによりも、「壬生義士伝」で味わった『してやられた感』がない。読む者をしてしばし唸らせるストーリーテラーの冴えがない。〓〓
 『おじさんクラス』に託(カコツ)けて悪態をついた。今度ばかりはじっくりと煮込まれた濃厚な味だ。コクはたっぷりだ。かつ、あそびがなくタイトで芳醇なことばの連なりが撓わな物語を糾っていく。おじさんクラスには極上の美味だ。
  『してやられた感』は大団円で堪能できる。ストーリーテラーの冴えは申し分ない。さらに、著者お得意のゴーストも装いを新たに登場する。これも見物(ミモノ)だ。なにより軍隊・軍事についてはマエストロである。筆は軽やかに奔(ハシ)る。ただ、不可欠である戦闘場面を通途の方法を避けて予想外の描き方をしている。これにも『してやられた』。カタルシスだった。
「私は、人間を書くのが小説だと思っています。だから今回も、戦争を書いたのではなく、戦争に参加した人間たちを書いたのです」
 と、著者は語る。作中民草とともに身悶えながら、生半な反戦論を凌駕する一つの「史書」が綴られたといえる。この一書を読まずして、ことしの夏は終わらない。

 

 ―― 戦争とは、命と死との、ありうべからざる親和だった。ただ生きるか死ぬかではなく、本来は死と対峙しなければならぬ生が、あろうことか握手を交わしてしまう異常な事態が戦争というものだった。 ―― (第三章 より) □


参院選 総括

2010年07月15日 | エッセー

 「総括」ということばは、団塊の世代にとって一際懐かしい。60年代末から70年代を通じて、「総括」が乱れ飛んだ。学生運動から発したのだが、なんでもかんでも「総括」だった。なにかが終われば総括。反省会を総括と言い、物事の締めはすべて総括。打ち上げ慰労会まで総括だった。それが高じて、人が集まって打ち合わせることは、事前事後を問わず一緒くたに「総括」と呼ばれた。中には連合赤軍の悍(オゾ)ましい「総括」もあった。今は「確認」流行(バヤリ)で、問い訊ねることさえ確認と言う。なんだか似たり寄ったりのようで、気恥ずかしい。
 さて、参議院選挙の「総括」である。先達て(7月5日付本ブログ「時事の欠片 ―― 消費税選挙」)述べたように、「図に乗ったお調子者」が定石通りに鉄槌を喰らったようだ。しかしだれも責任をとらず、居座り続けるらしい。開票直後の記者会見で、「消費税での事前の説明不足が大きな要因だった」などと、事もあろうに当人が引かれ者の小唄を唸るようでは何をか言わんやである。
 そんなことは知れきった事だ。敗因は仕掛けの稚拙さにあった。ハトも同じくだった。約(ツヅ)めていえば、人格的にも政治的にも練度も力量も致命的に不足していたということだ。古いギャグだが、「反省ザル」にも劣る厚顔ぶりだ。政策は薄っぺらでも、面の皮は二重三重にできているのかしらん。
 付け加えると、「増税しても使い方を間違わなければ景気は良くなる」という何とかの一つ憶えの「第三の道」。どこかの誰かの受け売りに違いないが、なんのことはない、形を変えた「トリクルダウン理論」だ。川そのものがないのに、どうやって流すのか。大いに眉唾物である。新しそうに見せて、実は遅れて来たケイジアンともいえる。ああ、桑原。
 一丁前に学生運動の旗を振ったというカンくんなら、「総括」を知らぬはずはあるまい。なのに、まともな総括ができないところをみると、やはりこの政党には真っ当なガバナンスがないらしい。あるのは『バカなんす!』か。
 「みんなの党」の躍進は『小山』が動いたのか。案外、『砂山』だったのかもしれない。砂だけに溢れた水をよく吸い取ったのだが、砂上に拵(コサ)えた城はもちろん脆い。
 「新党改革」は1。舛添氏はドン・キホーテを気取るならいいが、これでは単なる賑ヤカシだ。閣僚時代は健闘を大いに認めたが、ストラテジーの才覚は無きに等しい証明となった。
 自民党は浮かれないほうがいい。比例区では民主に400万の差をつけられている。決して小さい数字ではない。勝ちはしても、敵失によるそれだ。勝利の大功労者たるハトとカンには足を向けて寝ないよう心されたい。
 朝日は次のように言う。
〓〓今回の選挙区での最大格差は、神奈川県と鳥取県の間の5・01倍だった。
 民主党は2270万票で28議席を得た。一方、39議席を獲得した自民党は約1950万票にすぎなかった。
 民主党は「軽い一票」の都市部での得票が多く、自民党は人口が少なくて「重い一票」の1人区で議席を積み上げた。票数と議席数の関係のゆがみは一票の格差の弊害そのものだ。
 選挙区でも比例区でも民主党を下回る票しか集められなかった自民党は、果たして本当に勝者と言えるのか。そんな疑問すら抱かせる結果である。〓〓(7月15日付社説)
 「選挙区」が都道府県別を基礎とする以上、歪みは残る。地方自治の仕組みがそうである限り、軽々には動かせない。参院の独自性の問題もある。何度も触れてきたが、選挙制度こそが核心的課題だ。地域性をまったく抜いた「年代別」選択の試案もある。一考の価値ありだ。ともあれ、衆知を集めねばならない。これこそ最優先の「総括」ではないか。

 次の報道に注目願いたい。 
〓〓国民新の長谷川憲正氏は40万6587票を集めて8位だったが、落選。社民の福島瑞穂党首はこれより少ない38万1554票で当選を果たした。〓〓
 手前勝手に『非拘束名簿式の怪』と名付けよう。他党の候補より得票数が少ないのに当選するケースだ。
 参院選の比例代表選挙は最初、「拘束名簿式」だった。しかし自民党の中で、名簿の上位に名を列ねるよう工作し、選挙活動に手を抜く不心得者が現れた。そこで01年から非拘束式に変更されたのだ。政党名も個人名もその政党の得票として合算されるが、当選は個人名得票の上位者から決まるようになった。今回、政党、個人名双方で国民新党は100万票、社民党は224万票。したがって、『怪』現象が生まれた。
 話はそれだけだが、おもしろいのは「非拘束」の意味するところだ。勿論、順位を拘束しない、つまり順位を付けない名簿との意味でネーミングしたのだろうが ――
                     
 非『拘束 → 名簿』=名簿「を」拘束しない。
 字面ではそうだが、実態的には
 非『拘束 ← 名簿』=名簿「が」拘束しない。

 ―― となる。拘束の対象は何か。当選者である。
 いつもの癖でどうでもいいことに文字通り「拘」るようだが、ありていには「名簿に乗っかっていても安心しなさんな」という戒めである。それにしても、「拘束」とは大仰なことばだ。力づくで縛る。英語名“closed list”の意訳もしくは誤訳であろうか。“restricted”ならば、「拘束」であろうが。
 『怪』はむしろ、この命名こそ怪しいの謂といえる。当選者を決める手立てだ。もっと晴れがましい名前はないものか。「個人得票順当選」なんてのはどうか。「名前の多い者順」では、厳かでないか。

 上を下への大騒ぎは終わった。上も下も「総括」なしには、また蹴つまずく。 □


魁・EU

2010年07月13日 | エッセー

 かつて、以下のように述べたことがある。
●アイルランドが欧州連合(EU)新基本条約否決
 EUの政治統合を進める「リスボン条約」の批准を国民投票で否決(13日)
  ―― EUは人類史を画す壮大な挑戦である。一区切りついた経済統合から政治統合へ踏み込もうとした矢先の蹉跌である。
 意思決定を迅速・簡素化し、大統領職を置き、外務大臣ポストを設ける。その他、行政機構のスリム化を図って機構を改革する。そのような目論見は一端潰えた。EU5億の人口のうち、1%にも満たない小国のオブジェクションであった。
 国家を超える枠組みでどう民意を汲み上げるか。「民主主義の赤字」の端的な表出であろう。ともあれ、産みの苦しみだ。陰ながら、そのどちらにもエールを送りたい。(「2008年6月の出来事から」)

 そのEUが今年はギリシャ危機に見舞われた。

●欧州連合(EU)を支えてきた国々でいま、欧州統合に懐疑的な政党が次々と台頭している。ギリシャの財政危機を引き金に、単一通貨ユーロヘの信用不安が拡大。有権者のくらしへの不安が、経済危機を前にたじろぐ各国政府への不満となって噴き出す。
 オランダの総選挙では、イスラム教徒の移民排斥を唱え、反EU色を鮮明にする極右・自由党が第3党に躍進。ウィルダース党首は「EUに渡した権限をオランダに取り戻す」と訴え、「(イスラム教国の)トルコがEUに加盟したら、オランダはEUを出ていく」とまで言った。ユーロ圏の他国と協調し、国際通貨基金(工MF)とともにEUがギリシャヘ巨額の融資をする政策を支えたそれまでの与党・キリスト教民主勢力は惨敗した。(朝日 7月11日)  
                             
 オランダはベルギー、ルクセンブルクと共にEUの元祖となった「ベネルクス関税同盟」の一角である。以来62年、EUの由緒ある老舗だ。その国での、オブジェクションの動きだ。大変な「産みの苦しみ」である。「人類史を画す壮大な挑戦」であってみれば、やむを得ないともいえる。アポロの月面着陸以上、火星有人探査に等しい難度だ。いや、それをも超えるかもしれない。
 国家の主権に関わる通貨発行を委ねることは、脱国家の大きな一歩だった。今回ギリシャに対してECB(欧州中央銀行)がどうヘゲモニーを振るったのか疑問ではあるが、どの加盟国も少なくとも自国通貨がなくなった以上手前勝手な戦費調達は不可能となった。この意味は大きい。交戦権という国家の核心部分に軛を嵌めることにつながる。(軍事については、すでにNATOという別の枠組みが架かっている)ともかくも十全な経済統合を「月着陸」とすれば、月面を巡る周回軌道に入ったEU号を無事に降ろしたい。ひとりEUのためだけではない。人類の未来図を描くためだ。
 「人類史」は国のかたちの変遷史ともいえる。おそらくEUはリージョナリズムの最終的形態であろう。「国家を超える」国のかたちである。人類未到のフロンティアだ。その彼方にはイマニエル・カントの希(コイネガ)った世界連邦があるのだろうが、行き着くには更に数世紀を跨がねばならぬ。いずれにせよ、EUは「人類史を画す壮大な挑戦」であることに変わりはない。ただヨーロッパには祖型がある。かのローマ帝国だ。中身のアナロジーも然(サ)ることながら、なによりユリウス・カエサルが画した版図がヨーロッパとなったのだから。

 日本も寄り寄り国のかたちを変えてきた。四捨五入すると、律令制、幕藩体制、そして明治維新を経て国民国家が誕生した。
 碩学の言を借りよう。 ――   

 
 国民国家はナポレオンが発明したことになっています。たしかに世界に流行らせたのはナポレオンかもしれませんが、実は元祖はオランダだと私は思っています。
 国民国家というのは、国民一人ひとりが国家を代表していることを言います。家にいても外国に行っていても、自分が国家を代表していると思い込んでいる人々で構成されている国家を言うのです。
 カッテンディーケ(註・オランダの海軍軍人。長崎海軍伝習所の教官となり、幕臣に近代海軍教育を行った)がいたころの日本は封建国家です。これを一階級の国にしなくてはならないという話が、カッテンディーケと勝の間に出ただろうと思います。勝はカッテンディーケに対し、オランダという国の本質とは何かと尋ねたにちがいない。
 まもなく勝は徳川幕府の“葬儀委員長”になります。江戸城を無血開城し、将軍の持っていた権限、権威のすべてを捨てさせます。重要なのは、そのことについて、生涯後ろめたさを感じていなかったという点です。封建的なモラルからすると、主家を売った形となるのですが、勝は意に介しませんでした。むしろ国民国家をつくったのだという意識を持ち続けました。(「司馬遼太郎 全講演」朝日文庫 から)


 ―― 「元祖はオランダ」とは、17世紀に自分の国は市民である自分で守るという意識が成熟し市民階級の自警団がつくられ、世界で最も早く市民・国民社会が成立した史実を挙げている。なにやら因縁めくが、既述のようにこの国はEUの魁ともなった。国土の大半が干拓地で4分の1が海面下にある国土の成り立ちからして、人工と人知に支えられた国といえる。そのオランダが鎖国中も細々と日本と繋がり、切所で重要な示唆を与えた。これもまた大いなる因縁といえる。
 欧米列強の蚕食を免れるには権力奪取だけでは足りない。国のかたちを変えねばならない。このことが解っていたのはほんの一握り、数人でしかなかった。「主家を売った形となるのですが、勝は意に介しませんでした。」という精神的居住いはそこに由来する。これほどの巨人が維新史に登場した。日本の誇りといえよう。

 現今の世界が抱える問題群は、「国家」の手には余る。国家を超える新しい「かたち」を創らねば、地球は蚕食されるばかりだ。EUは人類史的使命を負った魁である。
 舳(ミヨシ)である以上、波濤は容赦ない。押し返す激浪に逆らって進めと、切に祈る。 □


「紅白」も中止!

2010年07月09日 | エッセー

●表彰式も味気なく=異例ずくめの名古屋場所――大相撲賭博
 天皇賜杯、優勝旗、内閣総理大臣杯…。千秋楽の土俵上で行われる表彰式は、優勝力士のインタビューを挟んで延々と続く。場所を締めくくる華やかな舞台だが、今年の名古屋場所では、外部からの表彰がすべてなくなり、味気ないものになりそうだ。
 それぞれの時代を反映して、さまざまな表彰が行われてきた。印象的だったのは、1953年夏場所から91年夏場所まで続いたパンアメリカン航空賞。約30年間、優勝力士にトロフィーを手渡したデービッド・ジョーンズさんは、つたない日本語での祝福の言葉が受けて館内を沸かせた千秋楽の名物だった。
 昨年の名古屋場所では外部から20以上の表彰があった。アラブ首長国連邦友好杯の副賞はガソリン1年分。宮崎県知事賞では宮崎牛1頭分、野菜や果実1トンなどが贈られている。
 野球賭博問題に揺れる中、ようやく開催にこぎつけた名古屋場所は、多くの人気力士が出場できず、NHKの中継もない。簡素な表彰式で幕を閉じる異例ずくめの場所を迎える。(朝日 7月7日) 

 なにも判官贔屓でいうのではない。叩き甲斐のある体躯ではあろうが、これでは寄ってたかっての袋叩きではないか。ついつい肩入れでもしたくなる。といって、何の力もない。ないから、月夜の蟹が提灯をぶら下げてみる。

 いままで何度か述べたが、この世界に倫理性を過剰に求めるべきではない。ましてや年端も行かぬうちから蛸壷のような境遇に閉じ込められてきた連中である。箸の上げ下ろしから教えてやらねば、善悪の見境などつくはずはなかろう。
 三十路を境に薹が立って、引退。親方といっても30後半から40代、ほぼ若い衆と大同小異である。社会的成熟度がいかほどのものか、疑問符がつく。
 ましてや蛸壷の中での『フォアグラ』暮らし。誘われれば、博奕の一つや二つは打ってみたくもなるのが人情だ。有り体にいえば、世間知らずに付け入られた彼らは被害者ともいえる。本当の悪人は別にいる。もちろん、司直もそれを狙っているにちがいない。
 これも繰り返しになるが、国技だの伝統だのと言い募る前に、相撲はスポーツであるよりもエンターテイメントであった歴史を忘れてはなるまい。参考までに江戸研究家、故杉浦日向子氏の「一日江戸人」(小学館文庫)から抜き書きしてみよう。
〓〓現代の相撲界みたいに難しいことはひとつも言わない。力士の髪も千差万別。江戸の相撲はショー的楽しさでいっぱいでした。江戸時代のイイ男は、与力に、火消しに、力士。吉原や歌舞伎に行くのは軟派者。男の中の男は断然大相撲。青天白日の下、女子供抜き。爽快と言うか殺ばつと言うか、相撲は歌舞伎・遊廓と並んで江戸の大娯楽のひとつでした。
 その熱気たるや、想像以上だったようです。なにせ、雷電などは土俵上で相手を投げ殺してしまったり、土俵外でも、芝居で有名な「め組の喧嘩」みたいな素人衆と死傷者の出るような大乱闘をやってしまう。土俵入りの型の名で知られる不知火光右衛門などは、上方から江戸へ来る途中馬子とケンカをして、馬子を踏みつけ首に手をかけてエイヤッと引っこ抜いてしまった。
 江戸では、ケンカどころか、相撲あるところに血の雨が降るような風潮があり、そして庶民もまた、それをあおっていました。しかし、こんな乱痴気騒ぎは、いくらなんでもお上がだまっちゃいません。ですから、相撲にはたびたび禁令が出ています。〓〓
 なんとも血腥(チ
ナマグサ)い見世物であった。『江戸版プロレス』、いやそれ以上であった。それがトラディショナルな彩色とスポーツ仕立てにメタモルするのは、近近(キンキン)、明治以来である。伝統というにには接ぎ木が目立ち、国技というには外国人が目立つ。それが実態だ。俄に古来の伝統、神聖なる相撲道などと言挙げする方がどうかしている。
 千秋楽で宮崎牛を贈らないのは解るとして、外部表彰はすべて姿を消し、テレビ中継もない。呼び出しの背中に染め抜かれた広告まで消えるという。マスコミは、やれ理事長のお辞儀が浅いだの短いだの、言いたい放題。こんな手のひらを返した対応は、「伝統」という割りには情に欠ける。なんだか、世の不如意を一緒くたにして大相撲にぶつけているような気がする。平成日本の人身御供にでもするつもりであろうか。
 協会が断ったのかどうかは定かでないが、どこか一社でも表彰するところはないのか。あれば、その会社こそ金星どころか逆転優勝まちがいなしだ。そういえば最近、お茶漬けさえ不味くなった。永谷園は男も味も下げたものだ。
 ちかごろ、世の中は挙げて滅菌・無菌指向である。医療・理容器具、食品、プール、公衆浴場、温泉、台所・調理用品、建築物、農業、工業、果てはクリーンベンチに至るまで滅菌・無菌だらけである。ついには病膏肓、社会そのものを無菌室にでもしようと企む向きもある。しかし、水清ければ魚棲まずだ。曲がらねば世が渡られぬ、ではないか。無菌室には入りようがない雑菌の塊である筆者など、無菌などとは滅相もない。清浄無垢の空蝉など身の毛のよだつ地獄でしかない。
 前記したエンターテイメントの関連でいえば、芸能界と裏世界との繋がりはつとに既成の事実だ。演歌唄いの『南島四郎』などは、かつてそれとの濃密な関係が報道され紅白を辞退したこともあった。それがあってか、いまや彼とその舎弟どもが「一家」そのものの体(テイ)をなしているが。
 ともあれ、芸能界の『汚染』は相撲界の比ではないだろう。無菌を求めるなら、この際だ、マスコミには総立ちしてほしい。臑(スネ)に傷、叩けば埃、とてもテレビは番組が成り立つまい。そうなれば当然、NHKも「紅白」は中止だ。
 
●大揺れの相撲界 モンゴルでは「朝青龍が呪いかけた?」
 日本の相撲界を揺るがす野球賭博問題は、大相撲が国民的な人気を持つモンゴルでも、強い関心を持って受け止められている。
 市民の間には、今年初めの元横綱、朝青龍関の引退を巡っての日本相撲協会の対応に対する反発が今も根強い。相次いで不祥事が明らかになる事態を受け、地元メディアの報道の中には「大相撲は朝青龍に呪いをかけられたのだろうか」といった、同協会を揶揄するようなものさえ出てきている。(朝日 6月30日)

 相撲の粗型を喚起させてくれたと、かつて彼を称賛した。(09年1月26日付本ブログ「悪童が帰ってきた!」) 忘れていたが、加うるにエンターテイナーの才も一頭地を抜いている。『サッカー』や『御乱行』だけではない。ついに『呪詛』まで演じるようになったのか。だとすると、相撲界が生んだ最強のパフォーマーといえる。パフォーマンスはエンターテイメントに不可欠の要素だ。それにつけても、逃がした魚は大きい。□


時事の欠片 ―― 消費税選挙

2010年07月05日 | エッセー

●党首が消費税などで論戦
 NHKの番組「参議院選挙特集」で、民主党代表の菅総理大臣は、消費税を含む税制の抜本改革に向けた超党派の協議を重ねて呼びかけたのに対し、自民党の谷垣総裁は、民主党が去年の衆議院選挙で示した政権公約を撤回すべきだという考えを示しました。
 この中で、民主党代表の菅総理大臣は「私は、強い経済、強い財政、強い社会保障を一体的に実現することを具体的な中身も含めて提案し、その中の一つとして、消費税を超党派で議論しようと申し上げた。自民党が消費税を当面10%にと言われたので、一つの参考にさせていただきたいと申し上げたが、そのことは、まったくぶれてもいないし、まったく後退もしていない」と述べました。
 自民党の谷垣総裁は「民主党は、去年のマニフェストで予算の組み替えで財源が出てくるとしていたが、結局できず、マニフェストの基本構造をどう考えているのか。むだの削除や歳出の構造を改善しなければ、消費税は、バラマキの尻ぬぐいになる。民主党政権は、子ども手当など家計にカネを入れているが、それで経済が成長できるのか。家計も大事だが、企業も伸びなければダメで、内需と外需や家計と企業のバランスを取るという基本認識がなければ、経済成長の絵は描けない」と述べました。
 公明党の山口代表は「社会保障をどのようにあるべき姿にするかを議論し、どのような負担が望ましいか、消費税だけではなく、保険料も税も含めて全体で議論することが重要だ。財政再建は、経済成長による税収増と、思い切った歳出削減が車の両輪で、今のデフレの状況の中で消費税を上げても、景気は腰折れしてしまう」と述べました。
 共産党の志位委員長は「菅総理大臣は、消費税率の引き上げは福祉や財政再建のためだと言っている。しかし、消費税増税と大企業の法人税率引き下げをセットで打ち出しており、増税分は大企業の減税分に消えるため、社会保障の財源にも財政再建にもならず、反対だ」と述べました。
 社民党の福島党首は「今の日本の最大の問題が格差であり、貧困であることを考えると、消費税率の引き上げは妥当ではない。重要なのは、企業や国が強くなることを最重要課題にするのではなく、労働者派遣法の改正を実現し、雇用を確保するなど生活再建の議論をすることだ」と述べました。
 国民新党の亀井代表は「国民は、消費税についての議論を求めていない。菅総理大臣も、次の衆議院選挙で信を問わないかぎり、税率は上げないと言っている。それよりも『デフレスパイラル』からどう脱し、どう力強い経済成長をするかといった視点で、現実的な議論をすべきだ」と述べました。
 みんなの党の渡辺代表は「菅総理大臣は、増税しても景気がよくなるという『おまじない』を唱えているが、消費税率を10%にしたらマイナスの効果が残る。へそくりを吐き出し、使っていない資産を売却し、国会議員や役人の給料をカットするところから始めないといけない」と述べました。
 たちあがれ日本の平沼代表は「消費税率を引き上げるには、景気の安定を図ることが先決で、そのうえで2012年度には3%程度引き上げる。2段階論の前提が許されれば、与野党の話し合いにも参画していきたい」と述べました。
 新党改革の舛添代表は「経済成長が前提であり、最初から消費税を上げると言ったら消費は冷え込む。負担だけでなく、年金や医療などの給付について、国民的な議論が必要だ」と述べました。(NHKニュース 7月4日)
 
⇒増税します、と言って勝った選挙はない。それを敢えて打ち出すのは、よほどの御人好しか、世間知らずのバカか、図に乗ったお調子者でしかない。唯一可能性があるとすれば、次のケースだ。
「改革の総指揮を取る人は、マエストロ級の『人たらし』でないと務まらないのである。」(塩野七生著「日本人へ」文春新書)
 「マエストロ級の『人たらし』」とくれば、塩野先生の一推しは当然のごとくユリウス・カエサルだが、日本では豊臣秀吉と坂本龍馬であろう。この場合、「誑(タラ)す」とは人格的魅力、ないしは度量で相手の胸襟を抉(コ)じ開けることだ。物理的破壊力によらず、人間の力で押しまくったところが、なんとも痛快だ。秀吉の天下取りは武辺よりも人心の収攬が最大に奏効したのであるし、薩長の連合が成るのは双方が龍馬に誑されたからだ。
 今の宰相が両人の足元にも及ばないどころか、まず比較の対象にもならないのは明々白々だ。サルと人間を比べるに等しい。また女たらしではあっても、人を誑(タラ)すほどの人徳などあろうはずがない。第一、今の窮状は旧政権の失政であり自分たちはその尻拭いをしている、などとは一端(イッパシ)の大人なら口が裂けても言わない。つまるところ、旧政権を選んだ国民はバカだと喧嘩を売っているに等しい。真の覚悟がある人物からは、こんな繰言は出てこないはずだ。カン違いしてもらっては困る。後始末をなにもキミに頼んだ覚えはないのだから。
 「強い経済、強い財政、強い社会保障」などと大言しても、ひとつ肝心なものが抜けている。そう、「強いリーダーシップ」だ。悲しいかな、平成の『筒井順慶』には致命的に欠落している。人誑しは「少し静かにしておいてください」などと、ひとを決して追い遣ったりはしない。
 さらに、薬石の言を。
「国の政治は、権力や財力をもつ人々が彼らの利益のみを考えてやるもので、われわれ庶民には関係ない、と思っている人が多いのが、投票率の低さの要因かもしれない。しかし、それは思いちがいだ。国の政治くらいわれわれ庶民の生活に直結していることはない、とさえも言える。会社でも、破産でもすれば最も被害をこうむるのは、外資でもどこでも行き先に不足しない人ではなく、会社がつぶれようものなら行き場のない人々であろう。ならば、会社の経営状態に誰よりも関心をもち、その向上を誰よりも願うのは、幹部社員ではなくて一般社員であるはずだ。国家も、それと同じなのである。」(前掲書)
 各地の選管もこういうふうにアピールすれば、投票率向上の良薬となりツボ的中の鍼ともなることは請け合いだ。消費税と関わりなく暮らせる人はひとりもいないのだから。

●予想上回る税収
 財務省が29日発表した2009年度の一般会計の税収は38兆7331億円で、昨年の補正予算時の税収見通しを約1兆9千億円上回った。景気の持ち直しによる企業業績の回復で、年明け以降の法人税収が予想より増えた。税収増に伴い、09年度の新規国債の発行額を当初予定していた53兆5千億円から、1兆5千億円減らす。
 税収が40兆円を割り込むのは1985年度以来、24年ぶり。所得税は前年度比13・8%減の12兆9139億円。消費税は同1・6%減の9兆8075億円だった。法人税は6兆3564億円で税収見通しは上回ったが、前年度の6割強の水準にとどまった。(朝日 6月30日)

⇒これは経済面の片隅に載っていた記事だ。内容の割りに扱いが軽すぎはしないか。法人税の1兆9千億円増といえば、消費税の約1%に当たる。逆に、消費税の1・6%減。こちらはデフレ・スパイラルを表すか。極めて示唆に富む指標ではないか。
 財政危機の処方箋は、やはり経済成長に如くはないだろう。シュリンクだけは避けるべきだ。マインドを冷やしてもならない。当座は輸出産業を先頭に、製造業の回復だ。それも国内生産力を復元することに主力を注ぐべきだ。
 わが国の状況とギリシャ危機を同列に論ずる向きもあるが、事情は大いに違う。それを承知の上で、傍証に挙げるのなら相当に悪辣だ。玉石混淆、これだけは誑されてはなるまい。 □


カナしいカナ

2010年07月01日 | エッセー

●大山加奈、29日現役引退を発表
 栗原恵とともに全日本の主力として活躍した大山加奈(26)。引退後はバレーボールの普及や発展に尽力する。
 東京・成徳学園(現下北沢成徳)高で春高バレーなど高校3冠を成し遂げ、03年に東レへ入社。ライバルの栗原恵(25)=パイオニア=との「メグカナ」コンビで日本代表としても活躍し、アテネ五輪5位入賞に貢献した。
 その後はけがとの闘いだった。持病の腰痛が悪化し、08年8月には椎間板ヘルニアと脊柱管狭窄症の手術を受け、北京五輪出場を断念した。医師から「このけがから復帰したアスリートはいない」と告げられたが、懸命のリハビリで昨季のVプレミアリーグ開幕戦で先発出場を果たし、最後の意地をみせた。
 28日にメールで大山から引退を伝えられた、元全日本女子代表監督の柳本晶一氏(59)は、「夢を感じさせてくれた子」と評した。パワフル・カナが静かにコートを去っていった。(6月30日 SANSUPO.COM)

 07年10月2日、本ブログで「控えのカナ」と題して拙稿を綴った。
〓〓 ―― 大山加奈が控えにいる。哀切な目をしている。その表情はすばらしく魅せる。コート上の加奈にも増して、これがいい。控えの彼女を瞥見することは、私のひそかな愉しみでもある。 ――
 『控えのカナ』、あの「哀切な目」はいったい何だろう。コートへの意欲と哀願が糾(アザナ)われた視線だ。かつ、叶わぬ悲嘆を滲ませた哀しい眼差しだ。だから……、男の琴線に触れぬわけがなかろう。仄めく色香に酔わぬはずはなかろう。「控え」とは、アリーナ内陣に区切られた、哀切の結界だ。佳人でありながら薄命を背負えば、すでにそれでドラマだ。ドラマは涙腺を刺激する。ああ……。〓〓
 「控え」とは、出番待ちの場所ではない。約束されざるそれに備え、ひたすらにそれを『求める』エリアである。だから、「哀切の結界」なのだ。おじさんの「琴線」が高鳴らぬわけがない。

 07年に話題を呼んだ本に小学館の『求めない』があった。わたしは同書のキャッチコピーを一瞥して、購買意欲がとたんに萎えたのを憶えている。
 そのコピーに先日、偶会した。ローマ学の大御所、塩野七生先生の「日本人へ」(文春新書)である。以下、長い引用をする。 ――


 帰国中に眼に入った新聞広告に、一冊の本があった。書名は『求めない』で、著者は加島祥造、書物の広告としては大変に出来の良いものだった。こう、書いてある。

 ほんの3分でも求めないでいてごらん。不思議なことが起こるから。
 求めない ―― すると心が広くなる
 求めない ―― すると恐怖感が消えてゆく
 求めない ―― すると人との調和が起こる
 求めない ―― すると待つことを知るようになる
 迷った時、苦しくなった時、自分にささやいてみる。「求めない」と。
 信州伊那谷に暮らす詩人からあなたへ。全てが「求めない」ではじまる、心に響くことばの贈り物。
 
 フーンと私はうなったのである。これでは、三十六万部突破! 大増刷! も当り前だ、と。左はしには、まるで仙人のような著者の写真も載っていた。
 ところが私ときたら、昔からのヘソ曲がりときている。それで「求めない」とある箇所を紙でかくし、その上に「求める」と書いてみたのだった。
 求める ―― すると恐怖感が消えてゆく
 求める ―― すると人との調和が起こる
 求める ―― すると待つことを知るようになる
 迷った時、苦しくなった時、自分にささやいてみる。「求める」と。
 少なくとも私には、これでもけっこう妥当であったのだが。とはいえ、「求めない」と「求める」とでは、一つの点で完全にちがうように思う。「求める」の場合、「3分」ぐらいで足りるはずはない。何であれ強く求めるのだから、3分過ぎたらそれでおしまい、ということにはならないのだ。また、「求める」となればそれは欲望であり、この「欲」が良い方向に進めば向上心とか創造力とかに向うが、「求めない」となると、それらはなくなる。こうなると精神上の植物状態で、心は安まるかもしれないが、生きていることにはならないのではないだろうか。
 人間誰しもが「求めない」になってしまっては、歴史などは存在しなくなる。歴史とは、何であろうと求めてやまない、心が狭く、恐怖に駆られやすく人間関係も上手くいかず、落ちついて待つことさえも不得手な、哀れではあっても人間的ではある人々の、人間模様に過ぎないのだから。


 ―― いつものように、なんとも胸のすく袈裟懸けである。特に最後段の斬れ味はどうだろう。なにがまちがってるといって、この御仁が男でないことだ。
 それはともかく、「求めない」では「あの『哀切な目』」は生まれ得ない。小学校の時から、ず抜けた体躯と才能で金の卵と嘱望された。04年にはVリーグ新人賞、同年のアテネ・オリンピックを頂点としてその他さまざまな国際大会に出場。高橋みゆきが「ブンブン」と徒名した豪快なスパイクは世界屈指、まさに日本人離れしていた。
 05年あたりからだ。痼疾が容赦なく襲ってくる。当然、控えが多くなる。而うして、おじさんの極めて不埒でいけない「ひそかな愉しみ」が始まったのである。不徳を承知でいえば、コート以外で魅せるアスリートはざらにはいない。日本女子バレーの珠といって過不足はない。

 前掲ブログで、駄文を捏(コ)ねた。
「佳人でありながら薄命を背負えば、すでにそれでドラマだ。ドラマは涙腺を刺激する。ああ……。」と。
 いま、ドラマが現し身となった。まことに佳人薄命。あの艶容とは永の別れとなる。カナしいカナだ。しかし、おじさんは「求める」。求めつづける。「3分」どころか、何年でも。おじさんの琴線を掻き毟(ムシ)ってくれる新たなる「排球の佳人」を。(加奈のネクスト・ステージに幸多かれと祈りつつ、本稿を閉じる) □