やおよろずの神々の棲む国でⅡ

〝世界に貢献する誇りある日本″の実現を願いつつ、生きること、ことば、子育て、政治・経済などについて考えつづけます。

【歴史教科書】19 中世:「元寇」 ~東書はひたすら“侵略の印象”を薄め,武士の奮戦を無視しようと…~

2013年03月19日 | 教育6 中学歴史教科書の比較(h24-27年度使用)

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東京書籍と育鵬社の中学歴史教科書を比べる
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~中世(1)~
■元寇 」(=支那大陸の覇権王朝)による日本侵略戦争のこと。


・結論…東書は、ひたすら《元:中国人と、高麗:朝鮮人による悪行》や《日本人武士の奮戦》の印象を薄めようとしている。

字は育鵬社、字は東書の引用(以後も同じ)。赤字は松永による強調
両社とも1ページ半を使用、分量は同じ。また、資料写真・図版もほぼ同じ。

【育鵬社】
p72・73 <19 元寇と鎌倉幕府のおとろえ>
・モンゴル帝国
 略~
・元の襲来

 日本を従わせようとしたフビライは、武力を背景に、高麗を使者としてわが国に属国となるよう求めました。朝廷と執権北条時宗はこれを拒否し、元の襲来に備え、九州の守りをかためました。
 高麗兵を含む約3万の元軍が。約900隻の軍船に乗り朝鮮半島を出港したのは1272(文永11)年でした。元軍は対馬、壱岐に攻め寄せ(注2)、それぞれの守護が率いる軍勢を打ち破ると、北九州に上陸しました。国難に対処しようと九州各地から集まった多くの御家人たちがこれをむかえうちました。御家人たちは、武器や戦法のちがいから苦戦を強いられましたが、勇敢に戦いました
 やがて、武器を消耗した元軍は、日本側の夜襲をおそれて軍船に引きあげ、撤退しました。このとき軍船は暴風雨に襲われ、元軍は大きな被害を受けました(文永の役)。

 1281(弘安4)年、元は14万の大軍でふたたび北九州に攻め寄せました。御家人たちは前回の経験から敵軍の上陸を許さない戦法をとり、約2ヶ月間、海岸沿いで上陸をくい止めました。これに対し元軍は、海上で態勢を立て直そうと兵を集結させましたが、ふたたび暴風雨によって壊滅的な打撃を受け、退却しました(弘安の役)。この2度にわたる元軍の襲来を元寇といいます。

【東京書籍】
p68・69 <2節 東アジア世界とのかかわりと社会の変動 1 モンゴルの襲来と日本>
・モンゴル帝国の拡大 
略~
・二度の襲来

 フビライは朝鮮半島の高麗を従え、さらに日本を従えようと、たびたび使者を送ってきました。これを執権の北条時宗が退けたため、元は高麗の軍勢も合わせて攻めてきました。1274(文永11)年には、対馬、壱岐をおそったのちに九州北部の博多湾岸(福岡市)に上陸し、集団戦法と優れた火器により、幕府軍をなやませましたが、内紛や暴風雨のためにひきあげました(文永の役)。

 さらには元は宋(南宋)をほろぼすと、1281(弘安4)年に、ふたたび日本に攻めてきました。しかし、御家人の活躍や、海岸に築かれた石塁などの防備もあり、元の大軍は上陸できないまま、ふたたび暴風雨にあって大損害を受け、引きあげました(弘安の役)。この2度の襲来(元寇)の後も、元は日本への遠征を計画しましたが、実際には行われませんでした。

 このように戦闘はありましたが、元と日本との交易は行われており、銅銭や綿織物、陶磁器など、さまざまな文物が日本に輸入され、大きな影響をあたえました

(1) 東京書籍本は、意図的に《中国人と朝鮮人による悪行》の印象を薄めようとしている。

・侵略の目的
 
育鵬社わが国に属国となるよう求め
 東書日本を従えようと
」 /資料3の提示:「フビライの国書」…高麗はわたしの東方の属国である。日本は高麗に近く、ときどき中国に使いを送ってきたが、わたしの時代になってからは一人の使いもない。…今後がたがいに訪問し友好を結ぼうではないか。…武力を使いたくはないのでよく考えてほしい。(部分要約)」

 ※こんな《外交上の嘘》に満ちた敵国の文書を、歴史については無知に近い中学生に解説もなく載せる意図は?・・・《「中国」は悪くない》という印象を持たせたいから、としか思えませんが…?

・侵略軍の規模・・・育鵬社「約3万/約900隻」「14万の大軍」⇔ 東書 記述なし ※ほんの数文字でいいのに!

・元+高麗軍が日本人住民にしたこと
 
育鵬社注2:元軍は住民に対して略奪や暴行を行った。」
 東書  記述なし!
 
 ※実際は育鵬社の記述でも生ぬるい。住民虐殺(支那人や朝鮮人が得意だったこと)が多発したのは歴史的事実。
 1例をあげる・・・私が平成7・8年に、玄界灘に浮かぶ馬渡島(佐賀県唐津市鎮西町)の小中併設校に単身赴任していたときに島の人から聞いた話。
 「元寇のとき、すぐそばの鷹島(長崎県北松浦郡)の島民が皆殺しにあったことがわかったので、馬渡の島民はすぐに島の西端にある大山(急傾斜)に逃げ上がった。元軍が上陸して大山のふもとまで来て登ってこようとしたが、家から運んできた石臼や、山の岩石などありとあらゆるものを投げ落として防戦したので助かった。」

 命に関わる大事件は必ず語り継がれているのですね。

(2) 東京書籍本は、意図的に《武士(日本軍)の奮戦》の印象を薄めようとしている。
 引用文を読めばすぐお分かりになったでしょう。

 ところで、東書の記述では、ほとんどの文の主語が、「元」「元軍」になっている》のですが、執筆者や編集部員は、本当に日本人なのですか?

 
~つづく~

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