大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

037 竹内・・・古き道芭蕉が歩き吾も行く

2010-11-25 16:15:51 | 葛城
長尾の集落を西に抜けると、程なく「竹内」である。道は緩やかに、しかし確実に登って行く。片側の側溝を、澄んだ流れが勢いよく下っている。両側に、黒い瓦屋根の民家が軒を並べ始め、土塀越しに手入れの行き届いた庭木が枝を延ばしている。司馬遼太郎氏が「もし文化庁にその気があって、道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾―竹内間のほんの数丁の間は、日本で唯一の国宝に指定されるべき道であろう」と書いた道である。 . . . 本文を読む

036 長尾・・・在りし日の国の十字路眺めつつ

2010-11-24 15:59:29 | 葛城
神話の世界をさ迷い歩いて来たけれど、《葛城》にはもう一つ、欠かせない道がある。「竹内道」である。大和の、その中心であった飛鳥付近をまっすぐ西に向かい、峠を越えて難波の津に通じる街道である。すなわち、海に達してそのまま外界につながる道であった。「古代の官道」などと呼ばれるから、神話の道・葛城古道に対し、政治経済の道と呼んだらいいのかもしれない。正月の寒風に曝されながら、私はその道を歩きにやって来た . . . 本文を読む

035 当麻・・・当麻路は浮き世の狭間陽が落ちる

2010-11-23 09:17:00 | 葛城
ここは二上山の山懐である。「西陽の落ちるあたりに、中世の浄土信仰の一淵叢であった当麻寺があり、ありはするが、その堂塔は露骨ではなく、樹叢にうもれてかすかにうかがえる。大和で、この角度からみた景色がいちばん美しい」と司馬遼太郎氏が珍しく断定するあたりに私はいる。そして当麻寺に立ち寄る。どうしたことか、私はこれほどまで大和路を歩き回っているというのに、この名高い寺をまだ訪問していなかったのだ。 大 . . . 本文を読む

034 染野・・・二上の美貌の姫は寒牡丹

2010-11-22 10:37:13 | 葛城
大和路を歩いていると、「中将姫」に出会うことがままある。天平年間(8世紀)に実在した藤原豊成の娘で、幼いころから美貌と才能が光り輝き、天皇から「中将」の位をいただいたと伝えられる。幼くして母を失い、父親が政変に連座し、継母によって命まで危うくされるというあたりは、悲劇のヒロインとして語り継がれるに十分であるが、そのうえ仏に深く帰依し、当麻寺の曼荼羅を織り上げたとあっては、民衆の中生き続けるはずだ . . . 本文を読む

033 雄嶽・・・したしたと雫音するふたかみの

2010-11-21 09:40:29 | 葛城
大津の墓は実はもっと麓に近い古墳だという説もあるが、せっかくここまで登ってきたのだからとりあえずそうしたことは脇に置いて、陵をぐるっと回ってみる。二上山は、大和盆地のどこからも望める。ということは、その山頂は格好の展望台だということである。北に生駒、東に大和盆地、東は河内が一望できる。墓の背後は崖になって平野が広がっている。そこを近鉄電車が小さな虫のように這って行く。墓は西を向いているのだ。 . . . 本文を読む

032 二上・・・うつそみの峰はいつしかまぼろしに

2010-11-20 10:27:38 | 葛城
その日私は、ほとんど衝動的に二上山に登りはじめた。大阪に単身赴任している私のもとへ、東京から家族4人がやってきて、万博公園などで遊んで帰っていった。新大阪12時32分発の新幹線を見送った私は、そのまま誰もいなくなった部屋には帰りたくなく、天王寺に出て近鉄電車に乗った。二上山に登ろうと思い立ったのである。大和盆地の西縁を区切る葛城山系の北縁にあって、国中のいたるところからその稜線が望まれる、あの峰 . . . 本文を読む

031 金剛山・・・金剛の頂きに立ちクシャミする

2010-11-19 08:06:56 | 葛城
葛城古道を歩いている間、西側は常に金剛山の巨大な山塊に守られている。そこに一度だけ登ったことがある。平坦な道を歩くことにはかなり長距離でも自信を持っている私だが、わずかな傾斜が加わるととたんにだらしなくなる。だから大和と河内を隔てる最高峰に登るには、ロープウエーを利用するしかない。そうやってとにかく、山頂に立つには立ったのである。春のお彼岸、標高1125㍍の頂は寒く、杉の葉に霧氷が . . . 本文を読む

030 法隆寺山内・2・・・よくもまあ立ち続けはる五重塔

2010-11-18 08:09:30 | 斑鳩
私も観たことがあるのかもしれないが、法隆寺薬師如来像の光背には「我大御病太平欲坐故、将造寺薬師像作仕奉詔」と刻まれているそうだ。ということはこの寺は、聖徳太子によって586年に発願され、601年の斑鳩宮造営、法隆学問寺の創建へと歩んで行ったのだろう。しかし太子没後21年の643年、入鹿に襲われた太子一族は斑鳩寺とともに滅び、670年4月30日には「夜半之後、災法隆寺。一屋無余。大雨雷震」(紀)と . . . 本文を読む

029 法隆寺山内・1・・・風鐸を揺らして風の月明かり

2010-11-17 08:19:29 | 斑鳩
法隆寺夏季大学で宿舎として私に割り当てられたのは、塔頭の宝珠院だった。西院伽藍の西側にあって、回廊を挟んで五重塔がそそり立っている。早朝、同室のおじいさんらに起こされると、廊下では蝉が、殻を抜け出したばかりの緑青色の姿を震わせていた。玄関の大鉢には蓮が1輪延びて、いまにもポンと弾けそうである。寺の中での生活体験は、あらゆることが新鮮で面白かった。あれからすでに、40年が過ぎてしまった。 大学の . . . 本文を読む

028 法隆寺北・・・微笑みが匂い立つかや尼寺は

2010-11-16 10:49:00 | 斑鳩
尼寺は、優しそうな佇まいを見せながらなかなか手強い。その深閑とした塀の内で、女人だけが信仰の日々を送っていると考えただけで、無垢つけき男が立ち入るなど自粛すべきではないかと足が竦むのである。しかしそれでも例えば中宮寺の弥勒菩薩像、法華寺の十一面観音像と、麗しき仏たちに逢いたいという欲求は人間として自然な感情でもある。そして小振りの門を潜れば、大寺とは異なる清楚さに身を置く安らぎが尼寺にはある。 . . . 本文を読む

027 矢田・・・大和路を一抱えしてハイキング

2010-11-15 11:27:33 | 斑鳩
奈良盆地の北西を縁取って、生駒山系の内側を南北に延びる矢田丘陵は、標高300メートル程度の手軽なハイキングコースだ。疎林の続く尾根道は、平城京跡から飛鳥までを一望できる、格好の万葉展望台である。1991年5月14日、私はその贅沢を満喫しながら尾根を南から北へ歩いていた。この日が私の誕生日であることは社会的に何の意味もないことであったが、すでに近隣では《大変な一日》が始まっていたのである。 この . . . 本文を読む

026 小泉・・・借景を飲み干す椀は石州流

2010-11-14 11:00:55 | 斑鳩
1枚の写真に誘われて旅に出ることがある、といったことを立花隆氏が書いている。彼の場合はギリシャの奇岩に建つ修道院を遠望した1枚という、スケールの大きな話であったが、私も似た体験をしているとはいえ、それは奈良県大和郡山市小泉町の、慈光院山門に通じる商店街のスナップであった。日本の平凡な田舎町といったささやかな光景ではあったが、見た瞬間「この通りを歩きたい」と、切ないほどの思いが募って来たのである。 . . . 本文を読む

025 岡本・・・法の寺三つ歩けば飛鳥びと

2010-11-13 07:40:40 | 斑鳩
大和路の風景画の題材として、上の写真の構図をよく見かける。斑鳩町の北東部、岡本地区の田園の中に、三重塔がバランスよく埋もれる法起寺である。水田に囲まれて独立した樹叢と塔の甍が、遥かな時代を彷彿とさせるからだろうか。背景の矢田丘陵は穏やかに稜線を延ばし、その緑の中に松尾寺のカラフルな吹き流しが望まれたりする。私のような大和憧憬病患者は、この農道に立って飽くことを知らない。それにしても大和の夏は暑い . . . 本文を読む

024 三井・・・歳月に晒され白き三井の里

2010-11-12 08:51:35 | 斑鳩
古都の年末年始を体感したくて、大晦日に奈良町のホテルに宿泊したことがある。春日大社から東大寺へ初詣をハシゴして仮眠をとり、元日は法隆寺行きのバスに乗って斑鳩を目指した。元日の早朝でも、乗客は皆無ではなかった。法起寺前で降りる。道は昭和40年代半ばに「バイパス建設反対!」の立て看板がみられたあの道路なのだろうが、今では風景に融け込んでいるように見える。ダリアやコスモスが、干からびた花を残している。 . . . 本文を読む

023 雁多尾畑・・・山肌を紅葉に染めて雁が行く

2010-11-11 10:29:17 | 斑鳩
紅葉は、北の空から雁が渡って来て山を染めて行くのだと、いにしえの人々は考えた。大和盆地の場合、隊列を組んだ雁が大和高原の彼方からやって来て、難波の海へと渡って行く。その途上、生駒山系の南のはずれ・立田山あたりは、盆地の水が難波津へと流れ出る狭い筋となり、上空は雁の道となる。そうやって竜田山は「からくれない」に燃え上がるのである。雁多尾畑(かりんどうばた)の集落は、その尾根を越えたところにある。 . . . 本文を読む