大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

059 飛鳥大仏・・・痛々し1400年の傷深し

2010-12-28 11:32:30 | 飛鳥
飛鳥に足を踏み入れながら、まだ大仏様にご挨拶をしていなかった。「飛鳥の辻」を南に折れてすぐ、真神原の北のはずれにあたる位置に「飛鳥大仏」と彫った大きな石碑が置かれている。いまそこは、安居院(あんごいん)という小さな庵のような寺になっている。訪れるたびに周辺の整備が進んで、かつての《野辺の大仏》といった風情は消えた。よく知られた大仏様のおわす所としては、殺風景な観光スポットになってしまった。 . . . 本文を読む

058 真神原・・・アスカとは何かと問えばマカミハラ

2010-12-27 11:14:03 | 飛鳥
《飛鳥学》なるものを提唱する研究者グループがある。飛鳥を総合的に捉えようとする試みで、とりあえずその助けを借りて、「飛鳥」という地名について考えておきたい。「あすか」はもともと、朝鮮語の「安宿=アンスク」からきているという説がある。半島からこの列島に渡来した人々が、定住の地として選んだからというあたりが根拠の説だ。私も韓国を旅行した折り、日本の飛鳥と見まごう風景に出会ってびっくりしたことがある。 . . . 本文を読む

057 真神原・・・今はただ国の肇を風が吹く

2010-12-26 14:00:52 | 飛鳥
さて、私とあなた、つまり筆者である私と読者であるあなたは今、ともに「入鹿の首塚」(前々項の写真参照)の脇に立っているとしよう。まず西を向いていただきたい。さっき登った甘樫丘が東麓の緑の壁を見せている。振り向くと、すぐそこは飛鳥大仏が鎮座する安居院。飛鳥寺(法興寺)の跡である。北は明日香村飛鳥の集落が軒を連ねる。そして南は、一面の水田が広がっている。その原を「真神原(まがみのはら)」という。 田 . . . 本文を読む

056 入鹿谷・・・大君は神にしませば日も翳り

2010-12-21 08:05:40 | 飛鳥
「飛鳥辻」で引用したように、坂口安吾は「蝦夷入鹿が自ら天皇を称したのではなく、一時ハッキリ天皇であり、民衆がそれを認めたのだ」と書いている。なるほど当時の最高の公文書であっただろう「天皇記」「国記」(本当にそうした書があったとしたなら)が、なぜ蝦夷邸に保管されていたのか。蘇我の当主こそが「大王(当時はまだ天皇という呼称は生まれておらず、大王というべきだろう)」だったからと考えるとつじつまが合う。 . . . 本文を読む

055 入鹿谷・・・恐ろしき入鹿の霊がさまよえり

2010-12-20 09:28:47 | 飛鳥
「甘樫丘」といえばもう一つ、日本書紀にこういう記述がある。「冬十一月、蘇我大臣蝦夷、児入鹿臣、双起家於甘樫岡。呼大臣家、日上宮門。入鹿家、日谷宮門」(皇極記・644年)。強権をほしいままにして「盗賊も恐れをなし、道の落し物さえ拾わなかった」という蘇我本家の蝦夷、入鹿親子が、それぞれ甘樫丘に家を建てた、というのだ。大臣の家は「上の宮門(みかど)」入鹿は「谷(はざま)の宮門」。まるで宮殿を思わせる。 . . . 本文を読む

054 甘樫丘・・・盟神探湯の釜はどこかと采女問い

2010-12-19 08:21:46 | 飛鳥
古代史の舞台となった飛鳥は、大和平野の南端、平坦部のどん詰まりのようなところに位置する。大和平野を一つの部屋に例えるなら、飛鳥は東南の隅にあって、甘樫の丘陵はそのわずかな隅の部分を隠す、衝立の役をして横たわっている。それはまるで、この秘所で展開された「くにうみ」を目隠ししているようでもある。歴史に関心がなければ、この三六〇度の展望は単なる農村風景に過ぎない。風光明媚などという言葉とも無縁である。 . . . 本文を読む

053 甘樫丘・・・月面はアポロに任せ丘に立つ

2010-12-18 14:06:08 | 飛鳥
多武峰を越えた私が小原の里を抜け、初めて飛鳥の土を踏んだ日、遥か天空の月面では、米国・アポロ11号の宇宙飛行士たちが、人類史上初めての月面散歩を楽しんでいた。だからだろうか、私も「初めての飛鳥」に遊泳しているような興奮を覚えていたのである。「飛鳥年表」を頭に叩き込み、歩き始めることにする。飛鳥坐神社からまっすぐ西へ、飛鳥の集落を抜けて飛鳥川を越えると小丘が道を塞いで盛り上がっている。甘樫丘だ。 . . . 本文を読む

052 飛鳥辻・・・幻の墓場でもよし飛鳥道

2010-12-16 15:05:43 | 飛鳥
飛鳥辻とは、飛鳥坐神社前の変則交差路に私が勝手に付けた名前で、そうした地名が飛鳥にあるわけではない。辻に立って、どの道から歩き始めようかと考えあぐねている。参考までに、飛鳥について書かれたもののいくつかを思い出してみよう。まとめると「げにいとふるし」飛鳥は、日本人を「遠い昔からここへ来た」ような思いにさせる「墓場」で、「すべての時間が幻」だが、「現実逃避の夢見る人の故郷」であってはならない、とな . . . 本文を読む

051 飛鳥年表・・・瓜二つ飛鳥と今は瓜二つ

2010-12-16 15:02:36 | 飛鳥
「飛鳥」は、盆地周縁部を「さまよい」ながら勢力を固めていった大和朝廷が、初めて安定的に都城の地として腰を落ち着けた地である。それは、7世紀のおよそ100年間に当たる――というのが私の大雑把な理解だ。ただしその時系列を思い浮かべようとすると、歴史的事件や登場人物たちが前後入り乱れて錯綜し、混乱しがちである。そこで、飛鳥時代を通年した自己流の「飛鳥年表」を作成してみたのが前項の一覧である。 敏達天 . . . 本文を読む

050 飛鳥年表・・・遥かなる飛鳥は案外似た時代

2010-12-15 08:06:10 | 飛鳥
《飛鳥》を歩くにあたって、その時間軸(歴史)を把握しやすいように、年表を作ってみた。飛鳥時代をどの範囲とするか、いくつかの考え方があるようだが、とりあえず私流年表では西暦593年の推古天皇即位を飛鳥元年とし、平城京遷都までを飛鳥の時代としてみた。同様に明治元年を基軸とした現代年表を対比させてみる。これにより平城遷都は、推古即位から117年目ということが分かる。 明治元年から平成元年までが121 . . . 本文を読む

049 飛鳥・・・辻に立ち見回す四方飛鳥なり

2010-12-13 11:22:55 | 飛鳥
小原の里を抜け、大伴夫人墓を過ぎたあたりから、道は緩い下りになる。木々は疎らで空が明るい。多武峰を「転がり落ちて」以来、私はひたすら北西に向かって歩いてきたことになる。独行する私の道連れであるかのように、だらだらと長い「舌」を延ばしていた左右の丘陵は、さすがに終焉を迎えたのだろう、急に視界が広がった。北側の丘陵を見上げると、暗い林の塊のふもとに鳥居が建っていた。飛鳥坐(あすかにます)神社である。 . . . 本文を読む

048 八釣・・・ゆるゆると飛鳥の里に降りて行く

2010-12-12 12:29:27 | 飛鳥
「それにしても」と私はその時、歩きながら考えていた。藤原(中臣)鎌足といえば、大化改新の中心人物として、国家形成の方向を作った大政治家ではないか。その人物はこんな素朴な地域で生まれ育ったのか、という驚き。そしてそれ以上に、私には小原の里の空気が、鎌足の当時とさほど変わらず今も漂っているのではないか、と感じられることなどについてである。私はいつものように古代幻想に浸り、眩暈を覚えていたようである。 . . . 本文を読む

047 小原・・・大原に大雪降らずこんにちは

2010-12-11 12:36:38 | 飛鳥
多武峰からの国見にも飽いて、展望台から「転がり落ちる」ようにして急斜面を駆け下った私は、のどかな里山の集落の中にいた。山ろくのゆるい傾斜地の陽だまりに、瓦屋根の民家や白壁の土蔵が点在している。水田が見えないせいか湿気と無縁で、どこか乾いた感じのたたずまいが心地よかった。林業や果樹園経営を正業とする、山間の集落なのかもしれなかった。そこが明日香村小原、つまり万葉集で言う「大原の里」だったのである。 . . . 本文を読む

046 冬野・・・国生まれ煙り立ち立つ曼珠沙華

2010-12-10 18:31:56 | 飛鳥
大和盆地の中央低地には、縄文や弥生時代の生活痕は発掘されないらしい。海面の後退に伴って海は干上がり、後に大和盆地(あるいは奈良盆地)と呼ばれる大湿原が出現した、というのだから、人の営みを遥かに超えた話である。しかしそうした時代、この地の湿原の周縁部の、手ごろな谷あいに人々の暮らしが始まり、やがて集落が生まれ、部族単位の集団が形成されていき、そのなかの有力集団が力を伸ばして周囲を統合して行った。 . . . 本文を読む

045 飛鳥・・・国見する空でトンビがピューヒュルル

2010-12-09 10:50:21 | 飛鳥
澄み切った空は眩しくて、深い藍色のように見える瞬間がある。その日もそんな空をトンビが一羽、ピューヒュルルと輪を画き飛んでいた。他に動くものの気配は微かな風のそよぎくらいだろうか。涼やかな空気の塊が足下から吹き上げて来て、私を包んで通り抜けて行く。初夏特有の白い雲が、手を伸ばせば届くような高さをのんびり漂っている。山の中腹のテラス状の台地に座って、私はずいぶんと長いこと「国見」を続けている。 私 . . . 本文を読む