大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

029 法隆寺山内・1・・・風鐸を揺らして風の月明かり

2010-11-17 08:19:29 | 斑鳩

法隆寺夏季大学で宿舎として私に割り当てられたのは、塔頭の宝珠院だった。西院伽藍の西側にあって、回廊を挟んで五重塔がそそり立っている。早朝、同室のおじいさんらに起こされると、廊下では蝉が、殻を抜け出したばかりの緑青色の姿を震わせていた。玄関の大鉢には蓮が1輪延びて、いまにもポンと弾けそうである。寺の中での生活体験は、あらゆることが新鮮で面白かった。あれからすでに、40年が過ぎてしまった。

大学の一日は午前6時、聖徳院での勤行で始まる。これは参加自由ということで、私はまじめに出席しなかったが、ある日、勤行に参加しない若者5、6人で、自然発生的に朝食前の散歩に出掛けることになった。東大門の先に、いまでは斑鳩古道といった標識が出ている小道を抜けていったように思う。そのとき初めて寺の裏の里を歩くことになったわけで、路傍の夏草には朝露が光り、暑くなる前の爽やかなひとときだったと記憶している。

この散歩の案内をしてくれたのが、法隆寺の高田行信さんだった。説明は歯切れ良く、颯爽とした若い僧侶だった。高田さんは私より5歳ほど年上で、その後、法隆寺に関する本を何冊も出し、テレビでもよく見かけるようになった。しだいに寺の要職に就いていき、最高位にまで上り詰めたようだった。あの若い日の颯爽とした印象から、私にはそれが当然のことだと思われた。

その高田さんが、何やらスキャンダルにまみれるような形で法隆寺のトップを降りた。週刊誌で読んだ程度だから真実はどこにあるのか知る由もないが、目立ちすぎたのかな、といった思いになった。寺院といっても大きな人間組織である。こんなことだってあるだろう。

それにしても夏季大学は、私に多くの記憶を残した。古寺に泊まる体験自体、なかなか貴重である。月明かりの中、境内の散歩に出た夜があった。塔の風鐸(ふうたく)が、微かに音を響かすほどの風があった。中門の前で月明かりを頼りに、髭もじゃの青年が仁王像を写生していた。昼、参道の築地塀をスケッチしていた画家の卵のような印象で、私よりやや年長のようだった。

どういう具合に会話が始まったかは覚えていないけれど、そこへ青々と頭を剃ったばかりの若いお坊さんも加わった。醍醐寺に入門したばかりで、この夏季大学に勉強のため派遣されたといったことを自己紹介した。石段に座り、月を眺め語り合い、飽きることがなかった。

絵が好きな私が、画家に向かって生意気にも「このタッチ、好きだなあ」と言うと、彼は「築地塀は大地から生え上がっているようでなければだめなんだ。まだまだだ」と吐き捨てるように言った。身体の具合が悪くなり、美術の勉強を中断して家に帰って来ているというようなことも語った。「僕だけが俗っぽい人生になりそうだなあ」と私が言うと、「そういう人がいてくれなければ、世の中は成り立たないのだから」と励まされてしまった。
    
「尋牛(じんぎゅう)だね」と言ったのはお坊さん見習いだった。牛の行方を探すことから始まる禅の10段階の修行過程でいえば、入口に立ったばかりの3人のことを言ったらしかった。禅の修行は見跡(けんせき)、見牛(けんぎゅう)、得牛(とくぎゅう)と進み、「さとり」に近づいて行く。あの2人に会いたい。「牛」は見つかったか語り明かしたい。(旅・1970.7.25-28)(記・2010.9.27)

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