大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

033 雄嶽・・・したしたと雫音するふたかみの

2010-11-21 09:40:29 | 葛城

大津の墓は実はもっと麓に近い古墳だという説もあるが、せっかくここまで登ってきたのだからとりあえずそうしたことは脇に置いて、陵をぐるっと回ってみる。二上山は、大和盆地のどこからも望める。ということは、その山頂は格好の展望台だということである。北に生駒、東に大和盆地、東は河内が一望できる。墓の背後は崖になって平野が広がっている。そこを近鉄電車が小さな虫のように這って行く。墓は西を向いているのだ。

墓の裏は、いっそう死を生々しく見せつけるものだ。そうでなくてもこの山は、日が沈んでいく峰として「死」を連想させる。釋迢空の『死者の書』を思い浮かべる。

《彼(か)の人の眠りは、徐(しづ)かに覚(さ)めて行った。まつ黒い夜の中に、更に冷え壓するものの澱(よど)んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである》《した した した。耳に傳ふやうに来るのは、水の垂れる音か。ただ凍(こほ)りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫(まつげ)と睫とが離れて来る》

山頂では二百円を徴収された。途中、「これより境内につき、美化協力金をいただきます。支払いたくない方は引き返してください。葛木坐二上神社」と看板にあった通りだ。いささか強圧的な方式ではあったが、地元のボランティアたちが、こうやってこのたたずまいを守っているのだろう。こんな仕組みも必要かもしれない。南側の葛城の山並みを南北に見通すアングルが興味深い。

南側へ降りて雌嶽へ行ってみた。そこは全くの展望台として整備されており、二つの峰のあいだになる「馬の背」は、大和と河内を結ぶ峠であった。五木寛之氏の小説に『風の王国』という作品がある。この二上山を舞台に、被差別民の集団と見られる一団が、風のような速度で大和、河内、伊豆を移動する荒唐無稽なストーリーで、「あやしや たれか ふたかみの山」という呪文が全編をおどろおどろしく繋いでいくあたりはうまい。

《やがて突然、空が開けた。身体を起こすと、馬の背と呼ばれる鞍部に彼は立っていた。奈良県と大阪府の県境に達したのだ。文字通り馬の背のような丸みを帯びた場所だった。・・・ビニール栽培の白い区画が、いたるところに点在している。南に葛城・金剛の山系が波のように折り重なってつづいていた。左手下方に工事中の竹内街道のバイパスも見えた》(『風の王国』より)。作者もここに登ったのだろう。スケッチがリアルである。

大和側へ降りる。ここも岩まじりの急な山道で、おばさんが一人登ってきた。「まだ大分あるでしょうか」というから、正直に「ええ」というと、ため息をついて登って行った。こんな夕暮れ近くに登り始めて大丈夫なのだろうか。私よりも無謀なおばさんだ。下りはじめたころは、清水がチョロチョロと流れていただけだった沢は、しだいに谷を削っていっぱしの渓流になった。

途中、荒れた感じの寺があった。地図にある祐泉寺だろうか。ヤマツツジが薄紫の花を付ける道をさらに下っていくと、溜め池が二つ現れてようやく里に出た。柱一本で重そうな瓦屋根を支えた、「傘堂」という風変わりな建築物がぽつんと建っていた。江戸時代の建造らしい。
            
振り返ると、暮れなずむ空に二つの峰がそびえ、天地を威圧していた。下界から遠望するいつもの穏やかな容姿とは様相が大いに異なっていた。雌嶽の山頂に立つ人の姿が識別できた。(旅・1991.5.6)(記・2010.11.1)

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